真夜中ハ純潔:其ノ後
無賃優雅ナル猫守リ騎士ノ生活

「われわれ人間は
夢と同じもので織りなされている」
――テンペスト/ウィリアム・シェイクスピア



 朱色の少女が()っていた
 人里から二マイル半も離れてしまうと、馬脚が蹄鉄を鳴らす音はおろか、旅を急ぐ足音だろうと聞こえることはそう多くなかった。なおのこと人跡にうといのが近隣の民をして、黒い窪地、と呼んでは忌避されるこの地だ。片隅では半人半神の巨像が胸までを土中深くに沈めていた。黒瑪瑙から削りだされた巧緻な造作は、触手を想起させる畝の垂れた人面で何かを胡乱に睨めつけ、腐った黒土、湿潤した苔、白んだ傷のくすみで廃れた異教を物語る。最後に拝まれたのははるかな往古のことだ。信仰が遺した野蛮な残骸がぞっとするほどの夕映えで染まるとなれば、より気味が悪く、好んで近寄るなど正気の沙汰ではなかった。
 その不吉な黄昏の入り口に、朱色の夜会服風情に身を包む少女が()っていた。雲の破れめから(はす)に落ちてくるぎらつきは眼を細めさせると、宵の予感にあらがいを深め、眼底にすり傷をつけるほど濃い琥珀色をこごらせ、古い記憶と似てざらつく光暈を世界にかける。それはまた、薄い胸の芯で搏つ赤に眼醒めを見いださせようとしていた。
「やれやれ。いつにも増して骨が折れる」
 と、右眼を眇め、
「大仰に構えなさるなと訴えて、聞きいれる耳目などはないものね。ああ、いいとも」
 三 角 帽(トリコーン)のつばを押しあげて悠々と独りごちる。
 手甲でつつむ手は異邦の薔薇を唇に寄せると、ひとひらを()んだ。心を委ねるふくよかな香りはしばしば大袈裟とも形容できるが、漂いでて鼻先に触れる魔の先触れ――硫黄くささをごまかすのにこれほどうってつけの種はなかった。
 少女の態度はさもありなん。宙を打つ数十の羽ばたきが臭気をしたがえ、夜の緞帳に嘆く空の嗚咽めかして、気だるく荒れた窪地を白けさせはじめていた。はるか頭上、曇天に崩れた円を描いて飛ぶものたちがその()の主だ。渡り鳥はおろか恐ろしき巨獣、シャンタク鳥とも結びつけがたく、まして猿人に翼をつぐ剥製細工のような姿形(なり)や朦朧として顔もない異様さは、生物とも認めがたい。呼びかたに戸惑い、怪異の一語に頼るほかない有翼種だ。あるいは異端へのそしりや教訓を残す古籍に連なる悪魔と似て、実際、群れが冥府の使者じみてやらかす攫い魔の領分を、少女はいくつとなく見てきた。叫ばれる曖昧な金切り声が徐々に音階をあげていた。声を得た抽象概念のせせら笑いとでもいえよう濁った奥行きに敵意、侮蔑を含み、いままさに少女を呪わんと歌っているのだ。
 狂乱のきわみを見据えながら、冷たい鋼の造作越しの指先が、妾でもなだめるような手つきで棘つきの大輪を外套(コート)の胸にさす。片 一 方(かたちんば)にさらす右の繊手は、紐結いの髪を背に払うと剣の柄に伏せ、椀型鍔(ガルト)裏のレバーへと拇指をかけて引き、仕掛けで退()いた搨キ(ろうた)けたる刃の背には銃口のいましめがとかれた。
 騎  銃  剣(レイテルパラシュ)に機構の噛みあう音で、狩りの権能を如実に語る。
 射殺すような眼差しの右眼は、澄んだ銀をたたえる前髪越しに影を探った。弓なりの長い睫毛にかげるその蒼は薄濁りに倦み、転じて左は眼帯に手厚く封じられていた。その造作にあしらわれた薔薇細工は、しなやかな肢体を夜会の貴公子然として仕立てる天鵞絨(ビロード)とのそろいで、なめらかに朱い。
 影の頭数は見る間に増えていき、逐一、制するまでの手数を少女の脳裡に引きなおさせはしたが、それっきりだ。態度はつんとさせたまま毛ほども変わりはしない。単騎でも一顧だにもしなかった。小作りな鼻を自負で鳴らし、とるのは刺突に絞った構えだ。細腕から重心をずらしかねない不ぞろいを枷ともせず柄を胸に招いて、深く、より深くと矯め、睥睨で貫き通す眦の奥、とくり、と「血」を()たす。
 しかける合図はそれだけで足りた。狂った犬のような黒いせせら笑いを鬨が染め、次から次へと舞いおりる飛膜が塵埃の波濤をたてた。透けるは気勢をそごうとの目論みだろうが、しかし木偶は木偶で、案じる賢しさは浅はかもはなはだしい。いかに吹きすさばせようと、帽子の天辺にそびやかす猫耳飾りを揺らすのがせいぜいだ。
「貴公ら、狩人を狩り殺せるとは、ゆめゆめ思ってはいけないよ」
 少女は毅然と告げた。
「ああ、暗夜の平穏にあざなうこともかなわぬ、愚かしいなり損ないものども――どうせなら退屈なきように、うまく踊ってくれたまえよ」
 決まり文句への返事は望むべくもない。だから、少女はただひとつ相通じる方法論の思し召しがままに、前衛のただ一点へ狙いを傾けた。
 たがのはずれたように、すべては動きだす。
 一身を鏃として肉薄した影へ剣尖がひるがえり、紙一重でかわそうとする意を見抜いて肩を裂く。羽根がごとき軽やかな刃渡りでゴム質の弾力を破り、すくむ首をはねれば、死の理に惑う震えは漆黒の粒子を散らし、昏れ色へほどけた。消し飛ぶのを横目に見たのもつかの間、少女は歩を転じた。ワルツ風情の歩法(テンポ・ディ・ヴァルセ)。重ねるはつめ寄る死神の劇しさ(モルテ・ヴィヴァーチェ)じみたリズム。すべる水銀の粒さながらに自在の足捌きでまろびでて、堂に入った致命傷狙いで、たちまち五つの影をえぐり抜き、かと思えば追随のいとまもあたえずに地を蹴った。翻弄する蛇行に生っぽさはない。むしろ地を打ちのめす稲妻の奔放な描線にも通じ、手数の枝分かれから筋書きを残さずつかんでいた。引っかきまわす爆発的な勢いは優美でさえあった。隻眼だろうと目端をよくきかせ、わずかな狭窄も許していない証拠だ。
 剣筋で魔の波を乗りこなすのに、こうも適した体つきはそうない。矮躯をもって足許を駈けずりまわると股をくぐった。袖を風でするどく鳴らした。背へ、脾腹へ、爪を恐れぬ刃さばきは絶え間なく、影に顔色があれば蒼白となったに違いない。
 とはいえ、保てるのはせいぜいあとふた息――見きわめが、全神経を奮わせた足どりをそろりとゆるめさせた。鉤爪はこの凪の訪れを待っていたのだろう。報いてやろうと風を切って届き、なのに響く音は痛ましさとほど遠い疳高さで、影はいきおい仰け反った。少女は流し眼をくれ、雪花石膏(アラバスター)のようにすべらかな頬へ不敵な笑みを引いた。なにを隠そう、腰を落として掲げた手甲に盾を演じさせたのだ。細くも強靭なる手指を守って、しなやかな曲線をついと伸ばし、幅と厚みを増していく造作は、傷だらけであれ強度においては申し分なかった。霊験が色濃い百戦錬磨の底光りに、朱の袖はひときわ華やいだ。
 怪異が迫るよりいち早く騎  銃  剣(レイテルパラシュ)の銃爪を招き寄せ、典雅なまでの細さに反する苛烈さで、ひらり、と夕闇を反転させた。狂い咲く菫色の死の花々。もとよりの用法でない魔道の装薬が化学反応で艶をはらんだ。その花吹雪の鮮やかさを破って、散弾の種子が情け容赦なく黒い膚を貫き、極彩色にさらされた怪異どもを馴致しがたい恐れでえぐった。
 ああ、おさえきれぬ恐怖よ。
 それは陥穽となって敗北にむけた鈍りをなそう。
 グスターフィアは、最前の一匹を見据えながら左腕を引いた。
 間髪入れず、がら空きの胸をめがけて猛烈な抜手が走った。砲弾をしのぐ勢いで射抜いた手甲の(さき)は、闇の精髄、脈打つ半球形を抜いた。
 そこには一体、何がかようやら。
 知りたくもないものだね、と少女はつぶやき、呆気なく握りつぶした。
 放り捨てるまでのわずかな静寂に、おののきは膚でも感ぜられた。その短い時間で息はととのう。躍りかかった次なる一匹に放つ刺突のなんと早く、精確なことか。切尖が舞ったかと思うと、ひと突きで身の丈が他の倍はあろう大柄な影を葬った。剣術はたゆまず、直剣のたぐいにも足らぬ刃を無限定の長さとしたように、はしっこく陣営を縫った。足つきは剣さばきについで基本のなかの基本。なれど究めれば値千金でもあった。その礎たる深々とした息を、三 角 帽(トリコーン)に連ねた缶バッジのひとつに記されたうねる十字、左回りの変態なる秘文字(ルーン)が裏づけ、その意は心身への施しで、内側から(すがた)へもたらす変容によってより多くの力、より多くの手数をもたらすものだ。
 猫の身振りを借りたようなステップで爪を紙一重に避けた。肩から飛びこむ前転でそばに潜りこんだ。そこから跳ねるひと振りずつが、手も足も八つに裂き、可憐な手指がくりだすとは信じがたく水際だった技量は、いずれも場当たりとはしなかった。
 たゆまぬ軌跡で十をなぞる。
 ひと筋の流れが艶めく剣戟で二十を裂く。
 息をついでうがちやっつけることその数、三十遍。
 すみやかで麗しい手数だった。
 どれもが楚々たる騎士にして血に濡れた狩人の倫理(エチカ)だ。抜かりのない華麗なる手にかかれば、凡庸な軌も非情な一撃に化けてえぐった。
 恐れ知らずな足踏みで駈ける原始的な足取りをめがけ、ひと息に感嘆符まで重ねあげた。腹への刺突。華麗に逆だつ切りあげ。頭頂までの両断を遂げて、致死の一閃がきらめく。
 これにて、敵陣は散った。
 寸前までのかまびすしさが嘘のように、余燼も残らず荒れ地はしんと静まり返っていた。いかに長く戦場ですごして仇をなすものを切り伏せてきたものか。それをことばもつくさず語るたくみさに幕を引くのに、これ以上に似つかわしい静けさは用意できなかろう。だが、ここにはにわかに咲く喝采も、ひと仕事の終りで胸に湧く安堵もなかった。
「よもや、増援なんてあるまいね……」
 と少女は、淋しげな風を裂いて剣尖を伏した。
 耳をすませても、独り言に応えるものはない。もっそりと落とす息にあわせて大きく上下する肩には、萎れた花の華奢さがほつれた。
よろしい(ビアン)
 ベルトへ吊る皮鞘に剣を落とし、唇を曲げるこわばりをほぐそうと、頬に揉んだ。もに、もに、もに、もに。四回揉めば、やる気が爪先から抜けた。黒馬を留めた岩陰へ戻る背はやさぐれて、鞍にあがってぽこり、と腹を蹴るさまも精細を欠いていた。
 うねる街道は、いかめしい馬体に革紐でさげる大型獣油ランタンが照らしてくれた。空気に触れると腹だたしいほどくさい獣油をたっぷりとじた官憲軍の供給品で、消えにくく作られた火の手が、硝子の乱反射で暗がりを切り刻む。行軍をうながす文明の利器らしい過剰さだ。道と光からはずれた草原は人跡にうとく、その後方、浅瀬の恍惚たる惑わし森(エンチェンテド・ウッド)と自由民の呼びならわす、鬱蒼としてどこまでもつづくような森林地帯が、夜目に怪物のようだ。見はるかす峻厳な山々は、残照に赤らむうろこ雲を王冠とし、まともに尺度の通じない異邦の斥力で、かの地に坐するという神の性状を予期させた。有象無象に伝いゆく夜の筆使い。どれが機関革命に人の眼が曇らず、闇もまたまつろわなかった旧き欧州をにおわせ、ともすれば古ぶるしい郷愁が透けた。まだヴィクトリーヌという名の持たざる小娘だった昔日を振り返ったのも一、二度できかない。過日との違いは野生のけものに険が色濃いことか。
 少女は眼を星空に転じ、気晴らしの口笛をこぼす。ドヴォルザークの交響曲第五番第二楽章。眠たげなホルンのまねは小  唄(シャンソン)につぐお気に入りで、伸びやかだ。鼻歌が好きだったのは昔のこと。いかんせん歌うほど愁いが唇をこする、と身をもって知った――と、めぐる考えが音色を途切れさせ、振る舞いに窮する睫毛が震えた。
 ともに歌う声なんて縁遠い。認めなおさせる寂しさで鳩尾の皮が浮き、そうと気づいたそばから、落ち着きない不安をたぽたぽと溜めはじめた。
 虚しさをため息とする前に街道から丘を越えられたのはせめてもの僥倖だ。遠目にかすんで大渦となる街灯りはあたたかく、気慰みになるのだから。割いた夢をちりばめたように安穏たる光は幻 夢 境(トロイムラント)の光にふさわしい。分厚い円を描いて密集したとんがり屋根と煙突のあいだ、多くの街路が、近々に控える祝祭の準備でいつになく輝きを強めていた。
 あの輝ける地が朱の少女、グスターフィアの仮宿りとなる拠点だった。
 やわらかきもこもこの郷。
 (よろず)の毛玉が棲まう街。
 うつつには猫望郷(フェレソピア)の異名を冠した地。
 古きよりの珍妙な市法にちなむ異称をよしとせず、スカイ河の彼方に座して掲げるがままの名前で呼ぶのなら、ウルタール・ニル・ハテグ連合市国。
 もしかすると、仮宿なんて云いまわしはもう期限切れかもしれない。はじめに考えていたより、滞在はあんまりにも長すぎた。去りゆく歳月のなかでさまざまな猫との出会いを、遊びを、別れを繰り返してきた。それはそれは楽しい日々。愛すべき毛玉や、その子らを通じて出会った人たちは格別に好ましく、午睡と似て心地よいぬくもりに頬がゆるんだ。でも、それに限りがあると思い知らされたのもまた事実で、語り分かち合う誰かがいなければ愉悦も長持ちしない。
 しくじったと認めたときから、長い孤独が横たわっていた。
 何人の旅人を、何組のキャラバンを、何度の夜を見送っただろう。グスターフィアはつきぬ悔いを振り落とそうと頭を振って、賑わいのなかへ帰っていく。


 夢の潮力は、手を引く十指の、作りものだと知れる硬質な手触りをはねのけた時点で引ききっていた。膚に寄り添うのはずっしりしたぬくもりにうずもれる心地だけ。
 年が明けてからこちら、ずっと盆の窪にすがる過分な眠りが、この日にいたって度を越していた。
 夢のない眠りのさなかでも、うたた寝には長すぎるとわかった。存分に剣を振るったあとにせよ、その深さはグスターフィア自身も呆れさせた。泥濘の底からぷかりと浮く勢いにぞわついて、醒めるにしたがい憂鬱が忍びこむ。これが常となったのはいつからだったか。思うそばから睡魔に噛まれ、()ちのいいストーブが火格子越しに穹窿の孤へかける影をぼうっと眺める、そぞろな一秒ずつにも意味は失した。
 柔らかい長椅子の寝心地も気を遠のかせた。付け根という付け根には倦んだ血がわだかまり、手足をぐいと伸ばして節を慣らしても一向に冴えやしない。
 倦怠感のおよそ半分は、腹上ですやと鼻息をたてる灰短毛の毛玉が占めていた。グスターフィアの身にあまる体躯の大猫。そいつが物を云うでもなしに香箱座りで占有権を主張するからたまらなかった。連合市国での成人の死因、そのじつに三割が、大小問わず寝た子は起こせぬ慎ましさで招く風土病、猫血栓だとの風聞もまんざら嘘でなかろう。とはいえよき友の習慣を責める気はなかった。好ましさは度しがたく、仮令(たとい)、暗い朱の別珍が抜け毛にまみれようと、しかたないの一語ですませられた。惰眠の底にある友を両脇ですくいあげた。柔らかな短毛が包む狭い額を鼻の先でぐりぐりしていると、安らかな日向の残り香が湧き、惜しみなくこぼれる熱に頬がほころんできた。
 陽射しは過敏な五官をうがてど、毛並みを介すればその心地よさたるやもう。思いはひと嗅ぎするごとに心のたがをゆるめた。じきに喜びが咽喉(のど)の奥で唸り、唇で薄い耳をつまめば熟寝(うまい)の妨げとなり、金の双眸が薄眼でちらと見やる。
「なぁう……」
 と問う低声(こごえ)は切なげに、ただ少しだけ迷惑そうでもあった。グスターフィアは細められた眼差しに微笑みかけ、背をゆったりとなでてやり、
「おやノ=ノ、起こしてしまったかい。ごめんね」
 おやも何もない、とノ=ノ氏は云いたげだ。
 二度めのぐりぐりに肉球で頬を揉んで返され、はたん、ほとん、と面倒くさそうに振られる尻尾がこそばゆい。不承不承ながらほったらかさないでくれるのだ。笑いをこらえてわきに降ろし、ふと窓際へ時見石の盤を睨めば、ほのかな明滅が指すのは心を宙吊りにする夜更けすぎ。手近の用事は胡乱な眠気に優った。では、と思いいたって引っ張る革眼帯で、義眼(いれめ)のふたとなる傷色の花瞼(まぶた)を叩いて、やっと半身を起こす。
 居間兼工房兼食堂兼寝室。寝起きに見る部屋が、いつものようにもろもろを兼ねすぎだと責めた。ほの灯りの版図の外ではいたるところに蒐集品(ガラクタ)や刀剣類が転がるし、埃もかぶり、整頓の観念といかに折りあいがつかないか丸わかりだ。さしもにそろそろ片づけなきゃ、とグスターフィアは曇った頭で思いつつ、そばのテーブルに手を伸ばした。
 散らばったいくつもの二枚綴りは今日が締切の請求書だ。
 影狩りに係るとみな大目に見てはくれるのだが、できれば守っておきたい、との面倒くささと同居した律儀さも本音ではあった。
 請求書の文頭(あたま)に記す怪  異  退  治(モンストルム・ベネティオネ)の字がすなわちグスターフィアの生業だった。退治。つまり、猫攫いの影への力押しで、血族の秘密外交と脈を同じくする。代償はこれまでに何度か払わされたが、腹立たしい悪事を退けるのはさほど難しくもなかった。それと引き換えに食事やらをほどこしてもくれるのだから、じつに度量が広く、独りものの住居(すまい)としては豪壮にすぎる邸もその一端だ。まあ魔除けの思惑もあろうかね、とグスターフィアはたまに案じるが、真実、否定しがたい。ここは過去に猫殺しの老夫婦が住んでいたがため忌み嫌われていた。荒屋を潰して普請をすれども、借り手がつかないどころか近づく人とてない一廓なのだ。老夫婦は悪行が祟り、愛猫を縊られた商隊の若い呪術師がけしかけた猫の牙で果たせるかな身罷ったというが、胸のすく結末を迎えていようとも忌避ばかりは拭えない。この件は古代埃 及(エジプト)の聖獣保護とも似た、というよりそれを越えて寵愛の深い、猫いじめをなによりも憎むウルタール市法の由となったそうで、法の遵守には敬虔さを垣間見せた。そこに猫守り貴族――自由民たちから贈られた誉れ高いとされる称号だ――が住み、猫への愛を効験として加味したら清めは盤石、と期待するむきがあった。
 勝手なものだね、とグスターフィアは筆を止めて、誰にともなく笑った。騎士冥利につきる生活にはじまりを探せば、必然と義憤にいきあたる。
 世の境いめを渡ってすぐ、まず古地図の読み損じで調子が狂い、日傘をさしさし正反対に行って二日を無駄にし、夜のともがらを嘲る陽とけものがうろつく月のもとたっぷり五日かけて歩いて、やっとこさ惑わし森を抜けてウルタールにやってきた日のことだ。寄りかかりあった家並みを覆う天蓋の下で大いににぎわう商店街までくると、グスターフィアは買い物客を呼びとめた。渉猟した文献はなるほどただしく、古羅甸(ラテン)語は通じた。しかし、訛りに難儀し、筆談を思いつくと今度は乱筆が災いして難儀したのもまた事実。スウィフト式の悲喜劇とはならずとも、親切な人垣のなかで眼を白黒させるうちに憔悴してしまった。宿場が聞いた頃には息切れ寸前。へたりこんだ拍子に、悲鳴が街角を貫いた。
 間近を横切った白昼らしからぬ闇の塊。
 ねじけた爪が気弱にすくむ茶色毛玉をつかんでいた。いかにも許されざる光景は、旅疲れで消えかける燠火に怒りを吹きこんだ。
 看過の余地はなかった。道ばたでつながれた馬に、持ち主の許しもなくまたがった。若々しい足並みをしたがえて丘を越え、街道を越え、隆起とくねりに隠れて薄暗い荒地で追いついた。黒檀祭壇の窪。そこは影どもが愚直な法則で猫を連れ去る先のひとつ。グスターフィアは、のちに騎士稼業で何度となく訪れることになった。
 痛ましい紫の帳に魔がふらついて、不吉な濃淡が、夕刻のあわいに下手な絵筆を引いていた。気に入らないな。吐き捨てたグスターフィアは馬を飛び降りて、黒土の汚れもいとわず手当たり次第に石を投げた。侮り。好奇。それらの抜けた一面は知らなかったが、兎角、功を奏して気は引けた。体躯のよさを優位と信ずる愚昧は初手でさらし、試合なら強みとなろうが、狩りとはそう単純でないことを知りもしない。
 騎  銃  剣(レイテルパラシュ)をとるのは久方ぶり。だが、柄をとらず、銃爪から遠ざかった時間がいかに長くとも、甲走れば頭の奥に騎士の瞳がひらいた。足つきと剣筋を描くあいだ、一度たりとも歯牙はかけさせていない。
 グスターフィアはあたかも深更をかき乱す嵐のように、影よりも濃く夜に潤ませた抜き身のうえへ、悪意を巻きこんだ。
 突きと発砲、切り払いは勇猛果敢を通り越して無慈悲だ。
 狙い澄ます夜族の膂力。
 またたく間に十の影を散らした。
 吃驚なる哉(サメトンヌ)
 と、グスターフィアに暗くつぶやかせたのは云わば因業のようなものだ。厚かましい暴れぶりの果て、死に際でもがく汚れた哀調はけもの憑き(リカントロピ)そっくりだった。
 帰路は怪我をした二匹を諸手に抱いて、元気な猫と馬は引き連れ、ぞろぞろと行進さながらだった。いきなりやってきた小娘が取り戻してくると思わなかったのだろう。猫印の救命団旗と槍をたて、おっとり刀で馬を駈る一行を魂消(たまげ)させた。
 いまとなってはそこはかとなくこそばゆい勇み足だが、これをして騎士と呼び奉られるようになったのを嬉しくない、とうそぶけば大嘘だ。素性も知れぬ娘を受け容れる度量にありがたみはつきない。市国ときたら、無類の猫好きと世話がこうじて世話好きまでも培った人ばかりだった。熱心に手を伸ばせば尻尾をたてて頭突きをしてくる子は数かぎりない。はしたない歓喜の(おこり)につかれて、何度も飛びあがった。あっちをむいて黒猫を、こっちでは白猫、虎柄に三毛に灰毛、八割れ、竈猫までと万 華 鏡 的(カレイドスコピック)な悦びがあった。
 聖杯潜りで貯めた金細工をあがないとして宿に寝泊まりし、ほうぼうの猫に構ってまわるうちに、市長や神官から表彰された。
 同時に、猫守り騎士の復活を求める声が叫ばれた。先代が怪我で有名無実となってから、うまく怪異に立ちむかえたものはいない。そう聞かされて黙っていられなかった。とんとん拍子でことは進み、仮住まいや血を条件として騎士の雅号を借りる盟約は結ばれた。市国の計らいで先代、銀面皮のヒナ=ニイブと会ったのは数日後、夕方のことだ。
 街はずれでの待ち合わせには出遅れた。迷いながら飛びこんだ人気のない広場では先方が待っており、その悠々たる長身は異様そのものだった。なにせ、黒別珍のドレスと細身ながら無骨さの釣りあわない具足に剣のひと振りを佩くどころか、白く輝く嘴風情に鋭利な猫耳飾りのたつ兜が面相を隠すのだから。具足の擦過音を鳴らし、奇矯な風体に優越する凛々しい一礼で居住まいをただして名告(なの)る、その女こそヒナ=ニイブだった。面 頬(バイザー)をあげてるとまた妙で、短髪が銀と黒で半分ずつ染めわけあった。よそものが猫守りとなるのは珍しいものでね、と云い手甲仕立ての右手が柄を引いた。そう、腕試しに招かれたのだ。
 いかなるかどでことを構えるつもりだい、とグスターフィアは訊き、日傘をたたんだ。いや、遅刻したのは申し訳ないけれど。
 なに、それは構わないさ。
 それはよかった。
 気ままなきみ、その一身に負った剣の精華は許しがたい影どもを誅戮せしめたと聞く、とヒナ=ニイブは面 頬(バイザー)で暗灰色の眼をとざした。一人でかの群れを切り裂きおおせた手練手管、この眼で見てみたいんだ。だから、お役人らに悪いが、ここで刃をむけさせてもらう。どうか、いとわずお手合わせ願いたい。
 耳馴染みよい発音でよどみなく挑まれた。声高な決闘の申しこみは、一世紀ほど前、夜会に参じたおり、華族の騎士から憎々しげに突きつけられて以来だ。唐突な話だが、わざわざ断るほど無粋でも礼を欠いてもいなかった。
 この朱水銀のグスターフィア、うけてたとう。そう云うや革鞘から騎  銃  剣(レイテルパラシュ)を引き、切れ味を片手で構えた。
 もっとよく構えを見せておくれ、とヒナ=ニイブは云った。生半可であれば、軽薄な構えで怪我をせぬよう、矜持にだけ刃を突きたててさしあげる。
 脇に引く下段(ネーベンフート)とした直剣へ添える左手の、別珍に萎えばんだ黒革の編みこまれたグローブが、ぎり、と獣性の歯ぎしりのように鳴った。膂力の片鱗は、グスターフィアに戦意の弦を引き絞らせた。
 それが先代の勤めとあらば、よくよくご覧あれ。
 本音を云えば味見をしたくてしかたがないというところなんだがね。
 剣呑ったらないな、と、グスターフィアは苦笑しいしい、決闘相手が証人を兼ねた勝負のなかへ踏みだした。その一歩を急激に速め、すばしっこい突きで先手をとった。相手の剣尖は、砥ぎの充分な艶を竜巻のようにうねらせる受け流し(パーリング )で迎え、剣の腹に絡めてすべらせ、グスターフィアが切りつけに転じても、三度、たてつづけに掃いて潰された。決定打はまだ先にあるとの宣告だ。窺い知れる技量は互角ながら、少ない歩での追随は油断ならない。そのまま巧緻な二十手が結んではほどけ、服の裾こそ裂いても傷とはせず拮抗した。華々しい応酬とならないのは次手をぼかす静けさで制しあうためだ。推し量って、剣戟のメカニズムが噛みあうときを求める。この手の損得勘定が運次第といってくれないのをグスターフィアは経験からよく知っていたし、空隙を、急所を用心深く探した。
 けものを狩り殺そうと血の沸く、酔いを含んだテンポでやっても構わなかろう。しかし、こうした決闘はより気高く、誉れある作法で、骨肉に剛柔をあつらえてこそ。闇雲に叩きのめすためだけのやりかたは美観が許さなかった。
 さらなる一手で刃をこすったのち、間合いを深く刻もうとするヒナ=ニイブの突進にかすかながら跛足(びっこ)がのぞき、文字通り、足を引っ張った。重心の小さなずれは剣を軽くした。それを見逃すようなものに剣の道なんて務まろうものか。グスターフィアは戦技の重みで切り流した(さき)に煉瓦敷きをうがたせ、刀身を踏みつけると、覆いのない首に刃で触れた。
 より深く踏みこめば致命傷ともなろう。
 勝敗を分けた不動の数秒に、二人は、不思議と爽やかな眼をかわした。
 やりかたは違えどまったき同類と判じたのだ。
 王手とみてよろしいね、とグスターフィアは剣を下ろした。もちろんだとも、噂どころではない腕っこきだ、とヒナ=ニイブは満足げに声を高めた。
 場所を移したのは、儀礼の門を抜けた証に握手をかわしたあとだ。蔦絡まる聖バースト神円塔の丘にほど近い、玉砂利を敷いた八割れ通りを裏通りと二股に分かつ長階段の、分岐に建つ三角茶屋。看板娘らしくエプロン状の飾りを巻いた白猫に愛想よく案内され、二人は奥まった席にかけた。無礼な決闘、うけてもらえて嬉しいよ。ヒナ=ニイブは云い、茶壺(ポット)から濃い一杯を注いでくれた。先ほども御覧にいれてしまったが、この膝、重打で膝をやられてしまってな。ぱぱん、と足を叩きながら白状するもろさに、たしかに騎士を辞してもしかたのない鈍さがあった。そこから湿っぽさを避けつつ語らう身の上は親近感に富み、グスターフィアはすっかり聞き入った。幼い時分は剣を好む荒事の神童で、よそで師事するどころか大人に稽古をつける始末。ごたぶんに洩れない猫への愛が、若くして四代目の猫守り騎士という道をゆかせた。かなり上等な狩りっぷりだった――が、しくじりは一度で前途を折る。影の群れに拉致された猫将軍、ウルタールの猫の古参兵を助けに行った先で、脚を潰され、それでも影を討たんと鞭打って暴れまわった結果、二度とは無理がきかない足となった。青臭い驕りがいけなんだ、と忸怩たる打ち明けだけは、苦い響きがあった。
 さらうさらわないの騒がしさは一世紀と少し前、黒貌神官と称したさまよえる僧が訪れたのをきっかけとし、鞘走らせたものにはいまも気を抜かせない。
 市長からも聞いていたが、技倆(うで)のたつ同業はいなかった。義勇騎士衆、と云えば聞こえはいいが、官憲軍と有志の寄せ集めが実態の素人救命団に、ヒナ=ニイブが気骨をもたす訓示を垂れてやり、剣技と魔の追いかたを骨身に叩きこむ程度だ。それも集団ならいざ知らず、一人で鉢あわせして動けるかは見こみ薄。しかもどた靴の群れとくれば締まらない。よくてもおっかなびっくりの狩り、悪ければ潰走気味の復讐だ。
 ヒナ=ニイブも不具なりに剣を抜いたという。しかし往時より重い足運びは影をもてあそぶどころか、大怪我を負わされ、決して多くは救えず、荷が勝り、甲冑の生々しい傷も物云わぬ証言となった。
 うちとけさせてくれた自己紹介への返礼に、グスターフィアも来歴を語った。血脈を口にしても嫌悪がないのには安堵した。共通項探しもそこそこにすませると、茶飲み話には重い狩りへも耳を傾けた。夜鬼と似て夜鬼に非ず。贋物の爪に腐りの咒 業(まじわざ)をかけたものもいる云々、と。狩りの軸となっている手甲は、このときにヒナ=ニイブの「抜け殻」から一部を渡され、使い慣れたのを見て譲られたものだ。
 それにしても貴公、いつもその鉄仮面をつけているのかい……。
 グスターフィアは云い、受け取った手甲の底光りへと腕を出し入れした。
 うなずきに鋼が眼許をとざした。
 そうさね、湯浴みと寝床をのぞけばたいてい、とヒナ=ニイブは面 頬(バイザー)をあげなおした。怪異に憶えられたうえ、恨み骨髄と見える。役立たずなのも構わず、猫攫いのついでに首を狙われたことがあってな。
 まだ貴公の剣を恐れているのだろうさ。しかし、まったく肩が凝りそうだね。
 実に凝る、こう見えて胸もそこそこでな。剣を振るに能うか否か、すんでのところだ。
 はぁあ。
 堂々と突っつきなさる。
 虚勢かな思ったけれど違うようだね。
 なんの虚勢か。
 このグスターフィア、見ての通り真っ平らだ。それに対する自慢というか、こう、そうとも、こちらまで甲冑なのかと。本当に大きい。大きいっ……。
 だからとはいえ、そんな感嘆符までつけてつつくことはあるまい。
 とんだ失敬を。ふふっ、わが従僕を思って少し舞いあがってしまったようだ。
 大変な主人をもったらしい。
 それほどでも。貴公も突いてよろしいよ。
 これは事実、平ったいな。
 あ、あ、揉むのはご遠慮を願いたいな……。
 もう二、三度突っつきあってから話は筋を戻した。グスターフィアは影を相手にした剣の運びを語って、何度もうなずくヒナ=ニイブは、聞き終わると居住まいをただして云った。先頃の影殺しにも納得がいこうものだ、同志グスターフィア殿、果敢な子も多くいるが、怪異の悪どさにはどうしても敵わない、どうかその腕前でよろしくお願い申しあげる、と。もはや生のありかたが猫守りらしさからかけ離れているにせよ、思いは変わっていないのだろう。頭を垂れる生真面目な勢いがカシャリンコ、と面 頬(バイザー)を落とす。グスターフィアは上下に気をとられながらも強く首肯した。
 正直、とても安心した、とヒナ=ニイブはうなだれ気味に云った。いくら慰めを用意されようとも、力不足で守る手管を取り落とし、いくつもの愛らしいものたちが遠のく。指をくわえてみているしかないのは、それは、あまりにもつらいもんさ。
 物悲しい安堵。うなずきかえすのもはばかられる停滞に、ヒナ=ニイブは焼き菓子を注文する一声で流れを変えた。湿っぽい話はいけないな、と。
 別れ際に、グスターフィアはひとつ問うた。
 貴公、いまはいかなる生業を……。
 花火職人だ、とわたしは思っている。自分で云うのもなんであるが、実にいい仕事をするぞ。火砲仕掛けもよく請ける。
 なるほど(ダコー)、とうなずきグスターフィアは得物をとった。そのうち、装薬を整えていただきたいものだ。怪異どもを射抜いたまではいいけど、一発と残らず撃ち切ってしまった。これではどうにも心許ない。
 よろしい。要する日がきたらわが家を訪ねてくれたまえ、三毛通りの左髭で工房を兼ねている。相談でも茶くらいはだしてさしあげよう。
 お気遣いに心から感謝を。
 縁は結ばれ、爾来、茶飲み友達として、ときどき家を行き来させるようになった。
 また、抱いた誓いは多くのささえで後押しされた。ウルタールを軸とした怪異殺しは数年をかけて、いかなる追随も許さなくなっていく。よい外圧が働いたのだ。
 斯様な日々の証明、市国側の作ってくれた構文を追う灯りはストーブで足りた。ただひとつの補いに丸っこい造作の単眼鏡(モノクル)をあてた。眼の衰えはいなめず、それは大方、相争って片眼をえぐった影の爪の咒 業(まじわざ)がにじんだもので、澱血(よどみ)なくしてはとうの昔に押しつけられていただろう老眼を思わせた。細かで正確なことこそ文化的、とでも云いたげな手書きの約款は矯めつ眇めつをしいた。気を抜けば文字が焦点のずれに溺れた。記入欄を間違わないように、じっくりと求めを書きつけていく。求めるのはショコラーデ代わりに生活を彩る金貨糖とノ=ノ氏の糧だ。筆先はまず、偃月堂、とお決まりの屋号を走らせた。
 署名、記入、署名、また記入、それから賜った猫守り貴族の紋章判を捺す。下手だった字も昔なら考えられないような上達ぶりだ。他人の手を借りず、面倒くさがらずにしたためてきた。何度、何日、何カ月、何年。思案が、いつもであれば忘れていられる導火線に火を点そうとしていた。
 欲しかったものは手に入って、見たかったものは見れたのか。
 自問自答はもちのろん(ビアン・シュー)、と答えられた。
 猫であふれる街の風聞を聞いたのはずいぶんと昔ではあるが、決定的なのは、おそらく聖杯深部での財宝拾いだろう。
 クリミアでの狩りから数年後。華族の暗がりに依頼された、単騎(ソロ)の聖杯探求行だった。
 神秘ばかりが満ちて人気もありやしない(イル・ニャ・パ・アン・シャ)死んだ街、Yの都に根をもつ旧きトゥメルの民が遺す品は、ねじくれた副葬品と儀式具が大半だが、宝物庫のかび臭い棚には魔導書も混じっていた。ザガンだ異片だと仰々しい題。あの大冊もそのたぐいだった。宝玉を漁って崩すなか、夢渡りをほのめかす頁は偶然にもひらかれた。行使を待つ智慧とは言語の絡繰りであり、仕掛けが動こうものなら人心の空白にはまって外せなくなる。グスターフィアは魅了された。何の気なしの眼配せただひとつで、だ。
 神性の技法はその後も絶えず頭についてまわり、そこから数十年を経て、憧れの実現にいたらしめた。由浅き風来魔。バースト神を嗤う不埒な二重顎。(あら)ざる緑魔渓谷に座する妖猫。いくつもの別名をもって語られ、(ひそみ)にならって敬い呼ぶならばニァンの語を末尾に足す奇怪な上位者、かのギィ=ニコタールォの触手を借りた。
 そうして得た恍惚だが、意図せず足がかりとした喪失はあまりあまって大きかった。グスターフィアの欲求の燈芯を焦がしてやまない忠愛の持ち主――恐る恐るさらけだした心奥を笑うどころか、真実、大事にしてくれた娘が、離別の彼方に遠のいている。
 何日も口をつぐんだり、呶鳴(どな)りあったりするしようもない仲たがいは、仲直りの前置きがあればこそ何度もした。夢幻の鋏はそんなのを忖度してくれない形ですべてを断ってしまった。しかも、怒りや嫌悪という一過性の毒物でさえない。帰還の儀式具を失くす。このごく莫迦らしくも取り返しのつかない迂闊さでへだたってしまった。日々の不変を信じる、ともすれば血族らしい心性の柱である傲慢の埒外で、グスターフィアをひどく動揺させた。渡ってすぐにギィ=ニコタールォの小碑へ腰かけて憩った報いだ、と明後日の方向に後悔した。呪術師の徒弟たちを頼って、夢の裂けめから手紙を投じたが、それもむしろ不安をのしかからせた。ふつつかで長ったらしい謝罪、野良猫氏の世話は欠かさぬようにとの一言、儀式の具と手助けがいる旨を順繰りに添えた。かの文通魔、無明の君とのやりとりで少しでも鍛えておけば、と強く悔いさせた乱文が、無事に届いたとの確証はないのだ。
 自身でも長きを費やして、まして細かい儀式録もないのだから気長に待つにかぎる。おのれに云い聞かせつづける歳月は、胸騒ぎが横溢しだすに足りる長さだった。
 と、丸っこい感触が落ちこみを阻んだ。
 ぐるなぁん、とノ=ノ氏が気遣わしげに云い、眼は背けながらも毛深い身を寄せくれたのだ。大丈夫さ、とグスターフィアは鷹揚に笑ってみたが、弱々しさをごまかしきれない。滅入って腰が抜けるのに任せて寝転がると、されるがままの両前足を借り、ぎゅうと塞ぐ両眼にのせた。ふこふこの感触。阿呆らしい寝姿。一方を楽しみ、もう一方を自覚してさえいれば、身も世もなく洩れたがるものもそのうち引っこんだ。
 最後にあの娘の名前を呼んだあの払暁のなかに戻りたかった。
 気難しげなしわを眉間に寄せて浸る浅い眠りを醒ましてしまわぬよう、傷の縫い痕までも好ましい頬へ、そっと接した朝に。
 しばし家をあけるけれど、待っていてくれたまえ。接吻(キス)にゆるむ口許へ、そう告げた。あの娘はわずかにしわを深めて薄く笑い、うなずいてくれた。
 あの日に懐いた不遜な心構えはもう残っていない。
 元気にしているかな、と考えごとはせわしなく着地した。いつもどおりの帰結だ。不貞腐れると無理をして危なっかしいが、もう一人、医療正教の遣わせる狩人がいるし、存外、達者にやれているかもしれない。睨みあっても馬はあう。古狩人らしく荒っぽい陽気さはよく 容 喙 (ちょっかい)をだし、鬱陶しげにはねのけようとする不機嫌顔を見て、いひひ、と楽しげに唇をゆがめたものだ。その皮肉っぽい調子は、宮仕えで威を借りる使者をことばで蹴転がし、あの娘まで一緒になっていじめることもままあった。手土産とする菓子も、グスターフィアよりもあの娘の趣味を心得て、仏頂面をゆるませるのにひと役買ってくれていた。それにときとして、狩りでは嫉妬しそうなくらいに息をあわせることも多かったのだ。あの狩人に老いが積もり、命の蝋燭と狩りに翳りがのぞこうと、関係は不変な気がした。万が一、三人がそろえば愉快な帰り途だろう、と願望じかけは都合よく想像させる。
 さあ女 爵(バロネス)殿、(けつ)に生えなすった根っこは残らずちょん切って早いとこ帰ろうや。友の物云いを想像し、胸先に反響(こだま)させた。気を鎮めて待つ作法だ。まぎらわせたあとの空白には、埋めあわせできない恋しさばかりが浮きたつ。
 ふつふつとするのは些細なことばかりだった。たとえば、人の髪を鄭重にとかすくせに、自分の赤々とした毛先は絡ませたままにしがちな不精娘だったこと。食事を頬ばって片づけるように食べる癖や、けものを追って湯浴みを欠かし、地べたの寝起きにも躊躇しない、傭兵時代の名残らしい様子もそうだ。粗野な振る舞いは感心しないよ、と云った数が十やそこらできかない傭兵の習い性を、慈しみをも憶えて見つめたものだ。そんなしたたかな仕種の奥、柔らかさを秘めた堅い掌も、赤い唇のこぼす愛おしい声も、瀉血の儀で触れる淫らな歯先も、おのれの価値を信じられない心持ちも、ただしく思いだせた。
 笑うのが下手で、引き攣るか、でなくとも笑っているのに不機嫌そうな半眼は、思いだすだけでこそばゆくなった。興味津々に観察していると、気づいたとたん赤らみ、眼を覗くと決まり悪そうに背く。ぐらつきやすい気性の天秤――値踏んで嘲る血族の薄笑いとは違う、正直すぎる可憐さに惹かれた。
 一度だけ聞かせてくれた身の上話が、グスターフィアの耳に蘇った。理想の女を育てたがる父の胸なんぞは蹴りつけた、と。母は貞淑や規範に背き騎士道物語(ロオマンス)を好んで読み聞かせ、男の後ろを行けとついぞ語りはしなかった。まだ見ぬ先行きへ投げかける望みに、騎士ローランの気風を重ねようとも。云い募る顔はいきおい自慢げで、憧れを想念の漆喰としたことに疑いなかった。やおら家を捨てて転婆のすぎる旅をし、身をやつした傭兵稼業で老いも若きも男を殴り伏せ、功をなし名を遂げた。揚句に、禍根の渦を巻くセヴァストポリで命を落としかけ、ついには戦 域 煤 煙(ウォー・スモッグ)の底で澱血(よどみ)をくみいれた。
 出逢ったあの日、エリザベス、という名を崩し、グスターフィアは血の名をあたえた。
 ずっとそばにいたあの娘。
 世界でただ一人の血の近親者。
 どこか野薔薇に似たあの娘だけは、何者にも代えがたい。大切な手触りの褪せない織り糸は、心臓にきつく巻きついて、痛みを澱血(よどみ)の一滴ずつに溶かした。口上に乗せがたい切実さだ。ただ触れあって、そばにいたくて、だから冴えないし眠れもしない夜は虚しいばかり。莫迦だ阿呆だ、と眼前で罵ってくれたらどれだけ楽だろう、と何度も思った。
 罪障はいかにも小さからず、いまだに贖罪は叶わない。
 詮ない嘆きを泳ぎきろうと絞った気力で最後の請求書に記し、筆を()く。ソファをたつと外套掛けから毛深い白の丸綿外套(ボン=ボン)をとった。毛玉状で見つけづらい袖に苦心して指を通していると、くるぶしに小さな額をこすりつけられた。垂れ気味で野生の茸を想起させるはしっこの欠けた耳を撫でてすぐ、ご相伴して進ぜようかね、とばかりの鳴き声があった。
「貴公のやさしさ、甘んじてうけよう」
「のぉぁあん」
 とっておきの気まぐれだぞ、と押しつけがましく鳴くのがノ=ノ氏ならではの気遣いだ。親切は手近なうちに受け取っておくに越したことはない。


 遠く山並みから流れる風は春先でも冷たく、綿毛豚の皮を丸ごとはいだ、断熱に優れる柔らかな毛を膝丈のこしらえにそろわせた丸綿外套(ボン=ボン)の恩恵は大きい。どれだけ寒くても手許をかすめるのがせいぜいだ。あくび混じりにゆく裏庭は、眠りこける下生えに異邦の月光が映えていた。丁字に木を打ちあわせたよっつの磔刑具に絡む、棘のするどい深紅だけが眼醒ましい。風にさざめく月 香 薔 薇(シャッテン・ロート)。またの名を紅架刑と冠する、生々しい濃さが夜を謳歌していた。もとは架刑に処された屍を慰撫し、月のもとで、血を栄養に腐臭を溶かす香気を得たそうだ。誰かから聞いた昔話を想起して見つめる血吸いの系譜は、紅に黒をくみ、グスターフィアの澱血(よどみ)へ添えるのにぴったりだ。
 如雨露を傾ければ、花弁を打って落ちる雫にほのかな香りが跳ねた。ちょっとした手入れは、下手に寝なかったら就寝前の儀式となるはずだった。これを狩りにともなわせはじめたのは、市国側からの大きな依頼をうけて以来だったか。影のもたらす硫黄臭。恥知らずな臭気への不機嫌にむくれていたら世話役の娘が胸にさしてくれた。
 甘みの強すぎるきらいはあるが嫌いではない。
 機嫌をただしてむかったあの依頼。あれは存外に長くつづく戦いの幕開けであり、猫を取り返す裏には上位者の思惑もうかがわせた。
 晩秋の夜明け前、猫攫い事件がつづけて起きた。住民たちは家々の窓を叩き割られる狼藉に逆らうどころか驚く暇もなく、連れ去って空の北方へ遠のく姿を睨み、涙を呑まされたのだ。どの猫も若く、一歳どころか生まれて半年に満たない子ばかり。市の遣い走りから聞いたのは早くに起こされた直後、と云っても午后(ごご)遅くだが、兎角、グスターフィアの不機嫌はきわまった。うち、行き先に心当たりがあるっす。この頃から世話役についていた娘、ミリイは伝法に云い、早口に語をつづけた。無名渓谷、と。かの地に老いぼれ二人の不審な出入りがあった。しかも片割れは襤褸の怪しげな祭祀者である。遠出してくる商人が、そのような噂をこぼしたのだという。
 名付けたそばから呼びこみそうな不運を拒み、名無しを名として矛盾をはらむ、かの険しい渓谷は噂に相応しかった。信心深く避けるのには数百年前の故事に由がある。市国の猫軍が悪しき呪術師一統やその祖霊と相争って呪詛溜まりとなったのだ。人身より咒 詛(まじない)を搾った枷や吊り篭(ジベット)は川に打ち捨てられ、ほころぶ錆で流れを濁し、それは土着の瘴気と混ざって屍の口がこぼす息吹ほども毒々しく、吸えば不快な苦さを残すといわれた。
 なに、グスターフィアには些細なこと。無理してそう胸をはるところに、のそのそと灰短毛が訪れた。勇ましい棘つき鎧と鉤爪を着つけた、大柄な雄猫だ。
 (いくさ)渡りのノ=ノ。
 と、猫の語を解する遣い走りが訳してくれた。その日は、ノ=ノ氏との馴れ初めでもあったのだ。ともに参じて小さな友を救いたい、との宣言に感銘をうけたグスターフィアは一礼をもって鞍へ招き、襲 歩(ギャロップ)で野を駈けた。
 北へ針路をとってたっぷり六時間。山地の傾斜を緩駈けにて越えた一人と二匹を、夜の湿りけでじっとりと濡れそぼつ岩肌が迎えた。そこは暗澹の底だ。毒虫でもないと棲まうに能わぬ土質に、枝をさらすは陰鬱な木々ばかりで、花といえば、流れのない水面にこごった瘴気への燐光をかざす大輪の死血花につきた。寒けの粟立つ硫黄臭。遠く鈍い羽音。それらへの怯懦もあらわに二の足を踏む馬を留めて奥地を探るうち、たしかに大気はいやな苦味をこもらせた。永世の終わりにレーテ河の水が腐ればそうなろう違和だ。その裏でしがみつく、腐りかけた血と没薬の唾棄すべき混交が儀式の痕跡を語った。
 なんと汚らわしい。グスターフィアは眉をひそめると、赤い花弁を鼻にあてた。見あげるノ=ノ氏にも嗅がせてあげた。
 ぷぇっちょいっ。
 と、弾けるくしゃみにはやたらと気が和んだ。
 やがて、青紫に苔むすねじれ岩の連なりに赤黒い瞳が記されはじめた。凝視しようものなら蟀 谷(こめかみ)に痛みが芽吹く紋様。神代の声を書きとめたカレル秘文字(ルーン)と似つつ決してそれと云いきれない、奇妙にゆがむ血の飾り文字が、ここは禁域、としめしていた。
 はざまを抜けて拓けた沼の青粉がはる岸辺に、異形の尖塔は見つかった。異教に破られた教会。血を吸った拷問具。パイプオルガン。みっつを抱きあわせ、何世紀にも渡って海に沈めていたような、百フィート以上にもなろう、あからさますぎる悪意が黒々とそそりたっていた。つやつやした金属の円筒、大がかりなクランク機構、神経質に密集した歯車が、塔の核であることを誇ってうごめく。にわか作りを燃え盛らせる篝火に、機能と体積をだらしなく増すことも恥じない構造――馴染みがあるそれは蒸気機関式機械だ。グスターフィアは、なんとなくボスの地獄絵を連想した。祭日の模造たるあのふざけた表徴と似て、だからこそ凶兆が濃い。猫がさらわれた事実と、このよろしくない(トポス)の地霊が呼び起こしたものかもしれない。ノ=ノ氏もまた威嚇とも畏怖ともつかず鳴いた。
 なぜここにこんなものが。
 グスターフィアが愕然としたのはほんの数秒だ。唇の前に食指をたてると、ノ=ノ氏に先んじて抜き足差し足を進めた。
 篝火を頼りに機械をいじくるみすぼらしい貫頭衣の男が眼についた。怪異がいないのを見てとり、グスターフィアは足音も高く柄に手をかけた。振りむく老醜の頬に、うねをなすしわと瘡蓋色の染みが屍を思わせた。ぼろ布もまた、面構えからつながるしなびた一枚つづりの膚のようで、薄気味悪さがたがい違いに引きたっていた。
 おおっと、お客さんとはな、珍しい、と虚ろな睥睨が濁った笑みをねじった。ええ、そうだろう……。そうか、この壮麗なるあつらえを一目見に来たというわけだな……。まったくニルト殿ときたら賓客があっても教えてくれやしないんだから。ほら、とくとご覧あれよ。不完全ながら美しかろう……。
 これが癇に障らないはずもなく、ふん(ボフ)ッ、とグスターフィアはさも不快げに云い捨てた。どこが美しいものかい。眼中に光あるうちの権利として云わせてもらおう、見るからに醜悪のきわみだ。
 おおぁあんぉなんおぉっ。
 と、ノ=ノ氏も内容こそわからないが不機嫌をあらわにし、一歩前にでた。老いた技師風情はさも心外と諸手を広げ、落ち着けと云いたげに伏せた。
 きみ、いいかね、よく聞いて、それからよくよく見たまえ。いいかね、ああ、猫とは時を渡り世を渡り、因果の筋をもてあそぶものだ。これはその特異なる才を結び、結んでは束ねてやり、境界の超越によるさらなる啓蒙の門をひらく、そうとも、文明の叡智による超克がための偉大な実験であるからして。
 なんと鼻持ちならない世迷言だろう。
 さあさあ、ご照覧あれよ。荘厳にして勇ましき、雷光と蒸気の胎動をいまここに。
 指揮でもとるように、制御卓へ枯れた指を振りおろす。鉤型の真鍮(ボタン)を打ったとたん、天をつく突端が擦過音をたて、奇妙に音のない稲光が黒く爆ぜた。狩人が四大元素の威を借りようと刃にこする特製ヤスリのような一閃。吸排気の膨らませる鳴動でピストンに命をこめて、また頂近くの、ねじ曲がった螺旋の鐘が落とす低さは、死に際に洩れる嗚咽を思わせた。最後に、いたるところで鎧戸があがった。
 ノ=ノ氏の唸りが洩れ、鋭利な歯牙も明らかに短毛がぶわりと逆だつ。
 それはいくつもの檻だった。
 鉄塊に寄り添うそれらのそなえた華奢ながらも鋭利な鉄柵は、攫った子猫たちを虜囚として、絶句するグスターフィアたちをよそに回転をはじめ、その速度を急激に増していった。つたない悲鳴。それどころか嘔吐(げー)までしているではないか。助けを求める苦しげな声に激情が走らないのなら、およそ狂人とみて間違いなかろう。天には怪異が舞台装置さながらに集い、自信もたっぷりに見返す悪意に応え、いまにも爪を急降下させんとしていた。
 グスターフィアは舌鋒もするどく宣告した。
 貴公らの蛮行、しかと見届けた。見逃そうものか。愛らしい毛玉を忌忌(ゆゆ)しき残酷に見舞う手管、許されると思ってはいけないよ、と。
 いや、それはいいように繕った記憶だ。いつかあの娘に冒険譚(おはなし)として話すときが来たら、そう云おうと考えておいた云い回しでしかない。事実はこうだ。
 貴公らぁっ、か、か、怪異がなぁっ、猫をなぁっ、許さぁんっ。
 激情に声は裏返り、いきおい頬を赤らめた。
 このどちゃ糞っ垂れえええ(ピュタン・ド・メルドオオオ)っ。
 心中でもはばかられる暴言を二百年以上ぶりに吐くと、月 香 薔 薇(シャッテン・ロート)のひとひらを()むつもりが怒りに任せて萼まで齧った。心頭はプンスカピン、とまるで火にかけた薬罐(ケトル)。平静をともなえたのは香りでなく、むしろ唇をつんといさめる棘があればこそだ。
 蒸気機関からの煤煙を吸いこんで熱量としたかのように、影どもはいきりたち、黒い疾風となった。螺旋鐘が鬱陶しく打つごとに勢いを増した。もっとも、狩人を止める手立てとなれようはずもないが。グスターフィアが切れ味を存分に振るう横で、ノ=ノ氏の鋭敏な得物も影の笑い声を上滑りさせ、追撃を絶やさすことなき、涼やかな翻弄が、一気呵成に敵陣を断ち切った。寄ってたかったところで他愛ない。一人と一匹のほとばしらせる憤怒の炎に、ただの一秒、そのわずかでも圧倒されたら敗北の一途だ。
 グスターフィアは狩りつくすと、老体の悲鳴に近い制止も聞かず制御卓を蹴りまくった。たいていの鋼は見かけより頑丈だ。下手にいじるより、よほど手っ取り早く停められる。さいわい、降ろした檻に縮こまる幼子らは無傷だ。ひと安心しながらも、ノ=ノ氏のいたわる鳴き声に胸がずきりとした。
 グスターフィアの怒りはふつふつと冷めやらない。逃げる老骨を蹴倒す勢いがあまって足をすべらせ、べたんと尻餅をばつく始末。
 自分の、した、ことが、いかに、非道か、わかっ、てるの、かいっ。
 素っ頓狂な叫びがはちきれんばかり。
 胸倉をひっつかんでの一語ずつコンマを打つような平手打ちで、呆けた顔は左、右と十回も叩けば気をとりなおしかけるが、舌で何事かもつれる前に、また叩いて黙らせた。
 はぐれ騎士風情の物云い――腐れまんこのひった糞ちんぽ野郎(サル・フィス・ド・ピュット)――までが飛びでたのは、かつてフライブルクで、溺殺刑(ゼッケン)なる凄惨を妨げて以来だ。人と犬と雄鶏と毒蛇、そして猫を袋につめる人でなしの刑と同じく、血をのぼらせてしかたがなかった。
 老いぼれを縄で馬にくくり、ウルタール官憲軍に引き渡せば留置とあいなった。特筆すべきは供述だ。元機関技師にして修道僧だったこの男は、名誉欲を叶えようと夢に聞き、導かれるまま、七〇に次ぐ七百の、眠りで世と霊を分かつ階段を越えたという。そして肩に触れた黒檀色の手。額に第三の眼をもって神官を自称する、水先案内人の男こそニルトだった。啓蒙を授かり、資材はダイラス=リィンで集めた。取調官は、黒檀色、と影にまつわる仇の代名詞を聞き咎めた。ウルタールで叡智を見守る神官、アタルをして上位者の一柱、化身と名指す相対者。もっともそのつづきは語られていない。またも尋問にかけられんとした月の赤い夜、いかなる手段によってか、牢より逃げおおせたのだから。
 ノ=ノ氏は幼子いじめがよほど不快だったらしい。また起こったら呼べとばかりに、捨て牢の(しるべ)草を残していった。軍猫の誓約であり、つんとした香りを辻にこすれば必ずや駆けつけるとの符牒をなす香草だ。もちろんそれはすぐに役だった。耄碌頭は以降も懲りないまめまめしさで機関を準備して、それを毎度、ともに打ち破りにむかったのだから。ああ、説明したがりのろくでなし。同じ説明を一からやりなおす老いぼれ。そのくせに二の轍は踏みもせず、猫攫いの怪異を頼って飛んで逃げることは憶えたが。
 グスターフィアとノ=ノ氏は妥協もなく暴れに暴れつくした。
 それとて遡ること二年前、ついぞ名も知らぬまま終わりを告げた。
 ノ=ノ氏が首を裂いて、黒ずんだ血溜まりに溺れさせたのが最後だ。壊れたチェス人形(ターク)のように手足で血をかきながら呆気なく死んだ。なんとなしにわかったのは仰々しく、ひたすらに迂遠な妄言を立証したがったことくらいだ。幼猫が未確定のままもつ渡渉力なるものを束ね、穏やかにして不変の、幻 夢 境(トロイムラント)の時の奔流に楯突き、欺き、あらざる緩急を呼ぶ。ことほど左様に尋常ならざる計画は、黒き神官の勘案にふさわしすぎた。あれは無秩序な悪心への手招きを楽しむというのだから。
 報復を遂げたノ=ノ氏は、一線を退くと家人そこのけに振る舞ってグスターフィアのそばに居着いた。求めるままに餌をくれる気前の良さが性にあったのだろう。いまではぷくぷくのでか猫だ。剣術の次に秀でる毛玉を肥えさせる才は、見事、報いていた。
 足許で大あくびがこぼされる。
 グスターフィアは、伸びをしてももったりとした丸みの愛くるしい姿へ眼配せした。
 すると顔をあげたノ=ノ氏が脛をあま噛みし、
「むなぁう、んうぅ……」
 他猫(ひと)さまの腹をじっと見なさるな、とかなんとか。
「難癖だ」とグスターフィアは云い、腹にかぎらずだよ、と内心でつぶやいた。
「ぬぁんぁんむぉっ」
「もう、愛らしいと思って見ていただけなのに」
 と云い訳をしてみるも、横眼は疑わしげだ。唇を尖らせているとひとまずは詫びるように肉球が脛をなでた。猫の洞察は案外、莫迦にできたものではない。
目次へ無賃優雅ナル猫守リ騎士ノ憂鬱へ