偽製Bloodborne.
真夜中ハ純潔:其ノ壹
 それは心臓のへりを探るような息遣いだった。
 いらっしゃいなさいな、狩人さま。
 と、十指が手をとり包む。
 思うとなしに視線をもちあげれば、頭ひとつ分は上にある横顔から、ごく薄い情が唇のはしに乗る面差しをかいま見られた。
 二輪の薔薇飾りをあしらうボンネット。高い襟に覆われたか細い首。薄く紅を引く色あいの唇。光の透ける銀をたたえた三つ編みが揺れる。相好を崩すことも知らない頬に、その他には何もないほど大切な面影の描かれた女が腕を引く、やんわりとした力にしたがった。午睡の波打ち際から、水銀のつやで無を照り返す水面へ、足は波紋をなさぬようそっと浸け、静々と瀬に行く。夢見る足つきのちぐはぐさをささえる手は、節に球体間接が際だった。硬質な膚触りで作り物なのだとおのずから告げて、それでも強いぬくもり、慈しみが伝ってきた。午睡の渡し守によるいざないがいつしか安堵をこごらせていた。
 人形は空洞なのだから、願望を委ねるのにこうもふさわしいものはない。無にひとしい奥底からくんだ影が、そこにはあった。
 狩人は微睡みの彼方此方(おちこち)へ行き来するものだ。往きて帰ってくるものだ。しかし、「血」という現 世(うつしよ)を夢と変える鍵はそれを許さない。眠りからいざなわれるのは、往々にして過去だった。落ちた花瞼(まぶた)を際限なき銀幕として、人であった遠くのいつかとすれ違う、みずからを狩人にしたてた女と出逢ったあの黄昏時が、見えかけていた。
 思い描く必要はない。
 過去はすぐそばにある――その日は、リツのなかで少しも薄れていない。
 とろけだしそうな琥珀色に停滞したクリミア戦争。記憶の樹液が綴じたセヴァストポリ。丘で築かれた陣地に座する砲術解析機関の煤煙、大砲どものくゆらす硝煙、砂塵のもつれあう戦 域 煤 煙(ウォー・スモッグ)の澱が、荒漠たる丘陵に低く流れ、装甲汽罐車(ガーニィ)の、角ばりが武骨を通り越して不恰好な残骸をかすませていた。ひしゃげた砲塔が焦げつく高音に、とじかけた眼をひどくしょぼつかされた。額に貼りつく赤毛の一本とて払う力もなく、現実を埋める粗い地獄のマチエールに、ただただ圧倒されていた。それは混沌(カオス)だ。修辞ではない。すべてが渾然一体となった実体としての無秩序(カオス)。敵陣地の壁は内面から割られ、尖兵の隊伍を構えてその奥へ突き進んだ包囲工兵隊も、同僚の傭兵も、死の嵐が通ったあとのそこかしこで命と肉をわかたれていた。投げだす手足は繰り糸が狂った人形劇の無造作をなす。虚ろな眼では濁りの膜に炎が照り、火の手が追いつき灰に帰すときを待っていた。死ねば物にすぎぬとは割りきれない思いが、余計に死のむごさを見出させた。
 遠雷のどよめきに似て、獣臭の濃い雄叫びがやってきた。帝国が運びいれた聖 杯(グレイル)は、彼方からの死病を招き、人ならぬ手段によって戦線を見る影もなく崩壊させた。ここは蒸気機関が人の手によらぬ開閉でその都度、異なる通廊をひらく自動生成の死地だった。生あるものは愚政を呪い、死者は墓もなく眠る。
 故郷のキングストンを去ったとき、リツはこうなることなど想像もしなかった。
 あの世へまじわる予感が首を絞め、家柄も何も関係のない、お雇いとして武をひさいだ果てに、不条理ひとつで屈する結末が泣き言を飲み干しかけていた。
 と、小柄な影がそれらを覆して眼を奪う。古めかしい礼装風の赤で着飾る女が、装甲の亡骸にたち、凶々しい黄昏のなかでささやかな笑みを浮かべていた。好奇と値踏み。稠密な金糸とバッジをあしらう三 角 帽(トリコーン)に清らかな銀の毛筋をたたえ、風にはらはらと翻るやわらかな前髪のあいだから、凍てた蒼の双眸に見つめられた。繊手のうち、いかにも戦場と不似合いな紅薔薇の一輪が鮮やかだ。ほつれかけた花弁をひとひら、唇がそっとはみ、一層に赤い舌が引きこんだ。すると磁器の白さをまとう面差しに長い睫毛が伏せた。
「ああ、貴公」
 声は一直線にリツのもとまで届けられた。たったのひと言が諦念に染まっていた心臓を、大きく跳ねさせた。感電するような喜びと呼べるかもしれない。
 きれい、と場違いにも、恋する乙女の浅ましさで、リツはつぶやいていた。
 昏れに染まった闇の客 人(まろうど)だけがもつ引力。
 その眼に何が映るのかを知りたい、仕えてともに歩んでみたい、と思わされた。
 主従の糸を織るにあたいする導きを、リツは心の底から見出していた。魅了されたのだ。けだものが吐く卑しい蛮声を嘲笑う立ち姿に。剣閃もかくやとなびく三つ編みに。クラナッハの筆に描かれたユーディットめいてなめらかな頬の線に華やぐ、真実、怜悧がきわまった笑みに。それらすべてを律してやまない凛として鈴の音を連想させる呼び声に、だ。
「貴公は、まだ終焉に盲いていないようだね。それはとても素晴らしいことだよ」
「わたしは、わたしは」
 リツは死に乾びる咽喉(のど)を鳴らした。死にたくない、と云いたくても声がつづかない。
「多くを語るいとまはなさそうだ」
 女は短く遮ると飛び降り、
「どうだね。ここで無価値そのものとなる死に臥すことなく、不朽の牙を掲げ、この朱水銀のグスターフィアと歩む気はあるかい……」
 問いかけが殺戮の音を途切れさせた。
 たしかに時が凝固したのだ。リツはあのとき、どんなことばで誘い水を下したのかまでは憶えていなかった。棘が薄い柔膚に忍びこんで浮かす血の玉が、まだ生の色濃い茎を走り、訪れかけた死に乾くリツが差し伸ばす舌先へ、ぽたり、と落ちた。重くねばついた新しい精気が、肉を潤し、はじめて交わした口づけの甘やかさで、体幹より末梢まで痺れていくのだけがたしかだった。眼の濁りはじきに晴れた。
 煙を巻く視野に、犬狼風情の影が踊る。装甲汽罐車(ガーニィ)に優越するあまりにも巨大な影絵は、果たして人でなしの怪物であり、ほとほと冗談めいていた。自然科学に逆らう病に狂った人体。毛皮もどきに生えそろう菌糸は、ざわり、と風をはらみ、毒々しいかびの灰青色と瘴気を散らした。死した兵士の成れの果て。あの糜爛した異形に打ち勝てやしないと信じて疑わなかったのが嘘のように、恐れは失せていた。ひと欠片まで。恐怖はさまざまな形で心を打ちひしぐ。リツを諦めに染めかけた怖気は意気地もひれ伏す稲光に近く、本能の底からぐらつかせたが、それを本物の、聖別する雷がやすやすと消し飛ばしてしまったのだ。取って代わる理性は澄み渡っていた。異形を引き裂け、とあらたな鼓動が、憤りを赤く穏やかに帯電させた。差しだされた小さな掌を、リツは握り返した。
 仕えるべき本当の主がために、その日、人の生を捨てた。あやかしの血をみずからの意志で望み、魂の奥までくみいれたのだ。
澱血(よどみ)に一切を委ねてご覧よ。人ならぬすべを次の一歩が教える」
 告げる声を、リツはたしかに聞いた。
 それは肯定してくれた。いつか、転婆のいたりで退屈を召し抱く人生などは家ごと捨て、騎士道物語(ロオマンス)の気風を求めてしまった日から、今日までの歩みを。
 血族にかよう数千年を超えた古来よりの血。それは人なる生物種が所与のものとして、絶え間なく前進する生命の奏でに異を唱え、停滞をもたらす。かの神話の時代に神の呪詛を授けられたいにしえの罪人、血の神、敬慕を抱く声は偉大なるCと呼ぶ、血の長より連綿とつらなる氏族に列席したのだ。忌避される、名誉を喪った氏族に。
 小作りな礼装が許す限りの重みなのだろう。背と脇には武具をひとつずつさげていた。そのうちの脇に佩く騎士剣へと手がかけられた。高貴な権能を秘めて気安からず、柄で異彩を添える細身の銃爪からも、それは明らかな畸形のこしらえと判ぜられた。
「刃と眼をむけよ。けれど、野獣の眼をしてはいけない。狩人となるのだからね」
 と騎  銃  剣(レイテルパラシュ)の柄を差しむけ、
「赤きドレサージュといこう。来たまえ」
 剣をとれば、ぱちり、と一重の大きな右眼が瞬く。安心しろとなだめ、おずおずと薄氷でも踏むような思いのリツを羞じらわせる、強い意志があった。
 従僕が背に添うのを当然とする闊歩で押しかける死など覆し、戦線の切れはしは舞台に変わっていた。教授の抑揚は朗々として雄弁だ。異形に流れる穢れた血の危うさ、殺しの作法を手短に教え、敵愾心が睨めつけてくる間合いまできたときには、鋭刃でうがつに適した急所へ狙いを導かれていた。倫理(エチカ)なき闘争の書き換えを宣言する清らな声で、グスターフィアは云い放つ。さあ、その手で貫き学びたまえ、と。
 駈けだすリツの、ひび割れた眼鏡のむこう、乱視のを残す視野のふちに光暈の火花があふれた。夢を歩むような(はげ)しい色彩に勢いが先だつ。
 五感の驚くべき聡さにうながされ、襲い来る爪をくぐれた。背が粟だった。息を飲むごとに踏みこみ、ただの傭兵風情ならば意味がない薄さにまで削がれた瞬間のなか、殺意と理性をしたがえて、脆さの一点に突き進んだ。
 恐れ知らずと軽率さのはざまで勇壮を奏でる歩。
 花と戯れる蝶のような切り払いに次ぐ突き。
 仕掛けでさらした銃口に咲く烈火。
 さらには屈めた身を深く矯め、空を駈けおりる流星の閃きを借りて放つ切 尖(きっさき)
 脾腹を、みぞおちを、と貫けば肝を潰した短い咆哮が苦しげだ。嗜虐が愉悦をどくり、と()たせ、頬の古傷がうずいた。古びた騎士の濃彩をリツの双肩に負わせる騎  銃  剣(レイテルパラシュ)の構えは、のちに半世紀、狩りをともにすることとなった。しかし、独断で迫る一騎討ちは、リツの腕前ではまだ果たせなかった。
 わずかな油断から糸口を見失うと、グスターフィアが口笛で気をそらさせた。敵意がむいたとたん、疾駆した。水銀の粒じみて手負いの猛攻をすり抜けた。恐れ多くも矮躯というほかないその身にあまる、柄と円盤からなるいかにも長大な武具は、異形の刃並びを揺すり、器物と思いがたい喚きで虚空を舐めた。黒々とした殺意の、うなじをひりつかせる強引さたるや、なにものにも代えがたい。威は平然と振りかざされ、到達したのを認めるや、血の赤と胞子の灰青が爆ぜた。傷の噴く二色にさらされぬよう、屈して土を擦るほどに低い駈けずりがたくみにかわしていた。体格においてどれほど劣っていようと、狙いすます眼の色は、見下ろすときのそれだ。いっそ幼いとまで評せられる影が小回りで円を描く――と、面が、腹が、四肢が、またたく間に細切れとなっていった。
 唖然とするリツなどお構いなしの、見知らぬ作法に富んだ壊しかた。
 断片が、ぼとり、ぼとりと転がっていった。
 それは一方的な屠殺だった。とめどない脅威となって英国軍の精鋭も、機知に富むカナダ傭兵も圧倒した異形が、泥塑を相手取る軽々しさで解体されていた。リツは畏れを憶え、理解もした。グスターフィアは轟きをもって人間としてのわが生、その残余をも切り刻んだのだ、と。生まれなおしたともいえよう。永き血をつなぐ子として、唯一の裔となった。
 何事もなかったように鋸を黙らせ、グスターフィアは武具の鼓動とともに戻ってきた。背後に、屍の残す空虚をしたがえて。
「殺しきれなかった」
 と、呆けるリツの赤毛にくすみを乗せた砂埃を、グスターフィアは払い落とし、
「貴公には、いささか無謀なきらいがあるらしい。よもや単騎(ソロ)で攻めこむとは――早合点だよ。二人で間隙を打つ心算(つもり)だったのだけど」
「面目ないです」
「なんの。はじめてにしては上出来だ」
 莞爾(にこり)と満足げに賞賛する笑みだった。
 リツは陶然として、腰が抜けて座りこみかねない高鳴りにくらくらとした。
 聖杯より借りる冥府の門をとじたのちの煙たい帰り道で、途方に暮れるリツは、ぐいと手を握られた。訊かれたのは名であり、生まれであり、心持ち。玲瓏たる見かけからは思いもよらぬ饒舌と微笑が、通じあおうと振る舞われ、そして最後に、いまこのときに生きる「リツ」の名を賜った。幼い身振りと淑女の笑みをたずさえた主人に見初められ、指を重ねながら探りあい、御業のすべてを宿していく日々がはじまった。爾来、どれだけの旅をともにして、旅先でふらりと姿を消して土産を抱え、ことによってはこっそりと収奪してくる宝物の荷物持ちをしたか。いくつの異形を、信仰され奉る怪異を狩りたてたか。いかに多くの夜に触れ、笑みを、手ほどきを、寵愛を享けたか。ただ二人だけ残された近親の膚には、ときとして姦通の香油を塗りこめた。みだりに頬を染めたが、子にして従者、妾なのだから拒む理由はない。繊細な指に触れられると、胸へ走っていく喜びの雷鳴で驚かされた。人ならぬものとしてすごす長い長い夜を、心がとろけるような悦楽に費やした。
 リツ、リツ、リツ。
 こちらをむいて、リツ。
 不思議なことに幾度も名を呼ばれ、一途に伸ばした手はリツの物憶えではとりこぼしてしまうほどたくさんの愛を受けとったのに、心に影がさし、何度ともなく問うた。わたしでよかったのですか、と。多くの優れたものたちを眼にしたし、ときには不足を嘆いた。裏切るのが、期待を損なって使いものにならないと思われるのが心底から怖かった。
 その都度、蒼い眼は奥深くをのぞきこみ、
「出逢わせたのは天の気まぐれがなすことなれど、貴公というきらめきを選びとったのは、この朱水銀のグスターフィアが意志。悔いなどないよ」
 わずかに顔を傾けた上眼遣い気味の眼差しを授かれば、見初められた日と変わることなくして焦がれた。頽廃などという愚にもつかない云いまわしはあらかじめ火にくべ、忠愛に胸を熱し、未来永劫、終わりなど来たりしないと信じられた。血族は命の器よりこぼれ落ちていく時のしずくをせき止めるのだから、涯に悶えるものなどそう多くない。
 血を分け与えた唯一の娘だ、と聞かされ、リツは心底から誇った。咲き誇るこの世の花園からただ一本、手折られたことを、誇らずにいられなかった。
 輝ける日々は、だが、前触れもなしにいともたやすく光に溶けた。
 にゃあと聞く声のいざないにほだされた不甲斐ない主を、どうか赦してほしい。手許に残るのはそうしてはじまる短い手紙だけだった。
 旅と狩りのなかでリツに云い聞かせたことばを、主はみずから神秘に触れることで体現したのだ。永劫を誓いながら、輝きに誘われた果てなき遊歩をとめることはかなわなかった。未知に夢を求めた主は消えて、孤独はリツを内側から焼け爛れさせた。居城には、グスターフィアに懐いてやってくる毛玉風情の巨大な猫もいたが、じき姿を見せなくなった。さほどの愛着はなくとも、生活をともにした一匹の不在に虚しさはいやました。
 涯が琥珀をひび割れさせ、眼醒めの潮に袖を引かれた。こぎゆく薇発条(ぜんまい)が切れて夢は行方をなくした。渡し守はもういない。血族の徒は赤いよどみに生きるものだ。故に、幻影への隠遁は許されず、別れへの手招きは無慈悲に、何度も、傷を手ひどく探る。


 眠りのレーテ河を渡り、現世の岸辺についたリツが眼を細めたのは、カーテンの切れめからさす()れ色のせいだ。伝承に血族を灼くとされる陽。そのきらめきも血にやすりがけされた知覚が鬱陶しいまでの鮮烈さでとらえるにすぎず、耳許で神の小言をささやくわずらわしさをほかとすれば息苦しさで難儀することもなかった。熱っぽく宿るわずかなうずきに誘われて、頬から唇まで這う赤黒い古傷を、拇指のふちで掻いた。
 給仕が入室時に誇っていたとおり暖房はよくきいていた。素膚にまとわるのは下着一枚だけながら、一桁に下る外気は悟らせない。その居心地のよさも考えもので、すっかり寝こんでしまい、壁掛け時計の鳴らす差し迫った針の響きが予定は間近と急かしていた。
 寝返りが撹拌する刺激的な香りの緒。
 エリクシル・ヴェジェタルの、シーツにこぼした残香に、午睡のふちで角砂糖へ落として舐めた酒精を強く思いだす。粘膜をなでる辛み。ざらつく砂糖。ともに舐める血の若さ。久しぶりの夢は、儀式めかした手つきが呼んだものか。

 あれからもう三年になるのに、思案のさなかにも、かたわらの体温を探し、手を巡らせていた。手癖に毒づき、リツは身を起こした。あくびは噛み殺して葡萄酒の馥郁たる赤が溶けたような髪に指を沈ませ、ぐらつく頭を押さえた。度が越えて広い枕許からとった眼鏡の丸ふちを介せば、陽が強くせっつき、カーテンをあけて高みに見渡せば現代のバベルで眼がくらむ。夕映えに伸びるのはゆがんだ極大尖塔建築(ウルトラ・ゴチック)。シミュレートのすべと工業が肥やした不規則な百塔に、バロックの凝集までしがみつく異貌のうねりで、空の形は錯乱し、霧と、蒸気機関の煙にぼやけ、そのよどみをして文明と名付ける物語がそびえていた。まるで人骨で築いた畸形の城だ。それは非ユークリッド幾何学というゆがみへ近づく、時代精神が望み、生まれるべくして生まれた悪趣味といえた。様式、様式、また様式。寄りあうそれは本来なら文脈を調えるべきものだった。記号を逸脱から守ってやり、そこに沿う建築様式に住まう魂を包むからこそ、歴史ある多くの都市は記憶装置ともなれた。
 その観点からいえば、ここは檻だった。守るどころか逃れられぬよう運命に枷をかけて支配する檻。景観のいただきをこすってゆるりと横切る硬殻飛行船(ツェッペリン)の航跡までも、自由からはほど遠い。
 金属と混凝土(ベトン)からなる摩天楼は、定義しがたく総毛だちそうな趣だけを押しつけ、愛着は抱かせようとしない。リツはその名を胸に唱えた。
 鮮血流るる都(ブルートピア)ハインスベルク、と。
 血族がこの大陸に有する、おそらくは最大の自治区だ。栄華の底に不吉な病巣をともないながらにして、人の手より勝ちとった事実に変わりはない。
 異形の医療と普遍の正教が混じる教会との、偽りの蜜月が利権をあたえ、避暑地にもならない山あいの街を、いまや多くの血族と人が住まいとしていた。机上楼閣の一面もハインスベルクを肯定する。大英帝国(アルビオン)から追われし鋼の流浪民(ツィゴイナ)、かの原機械主義者(ハコーティスト)による空論とも似た計画の受けいれで、東欧の一角に輝点を生みだしたのだ。リツがこの街へ訪れたのは実に三十年ぶりながら、世紀をまたぐ前、革命の時代から一歩とて止まらないままきたかのようだ。他の機関と分別したがり、誰もが大蒸気頭脳と呼ぶ夢見る機械は、電線から海底ケーブルと大陸をつなぎ、街はいまなお解析処理で肥えていく。
 たぐいまれなる錯雑を享けた奇妙な繁栄の都が、今宵、狩りの場となるのだ。
 リツは、陽をとざすと準備にかかった。
 短く切りそろえた丸っこい赤毛に手櫛を通す。
 戦化粧は無用だ。一輪を添える唇は赤く、頬を流れるざらついた傷痕を除けば、膚は白粉を乗せたがごときなめらかさなのだから。
 トランクの固い留め金をはね、油紙でていねいにとじた整備ずみの拳銃を寝台に放った。引っ張りだした暗い紅染めシャツ、黒が深く慎ましやかな綿織りのリボンタイで豊かな胸は封じ、それだけなら風采は従者と大差ない。猟区におもむく狩人なら、最小限度なれど麗しくあるべきだ。リツも、異端なりにドレスコードへしたがおうと衣を重ねゆく。
 織りなすのは、やはり赤と黒。まず鮮やかな別珍の朱と、なめし革の漆黒で明暗のきわだつ長脚衣(スカート)に足を通した。左右非対称の裾はしなやかさを担う。鴉羽のように艶やかな黒色で鋭利な尾が垂れた燕尾外套(コート)を羽織れば、リツのため、型紙から起こされた仕立てが、肩肘にぴたりと馴染んだ。胴巻きの革 鞘(ホルスタ)は外套がたゆまぬようきつめに。手指は少しもさらさずに、病んだ血を寄せつけない銀に差しいれた。腕までしかと包む瀉血の手甲。甲冑から切りだされた艶の底光りは野蛮な歯牙より柔膚を守るが、その軽さは布に近い。氏族ごとに騎士長が継ぐ、かたちある栄誉だ。血族が銀に苦を見出すなどという説は、所詮、無知にすぎる民が、見えぬものを見た気となって口ずさむ下賤な噂話でしかなかった。銀がえにしをさだめるのは多神教の月神、ダイアナだ。暗い天頂へ昇る、はかなくも強い白光に相通じるきらめきが、どうして夜の種族に仇をなそうか。爪先は被甲長靴に委ねた。脛から膝当てのそばまで皮の上張りが鋼細工をひた隠しにする、堅牢な覆いをかぶせ、五対の穴にかける丸釦(ボタン)仕立ての掛金(ラッチ)の半回転で、左右それぞれに位置をさだめた。
 尖った指先で小ぶりなハットをつまむ。
 黒のシルクとちいさな羽根飾り。
 姿見にむかい、ほんの斜めで留め具(クリップ)を鳴らし、顔を左、右と傾ける。ひとかけの瀟洒は名誉に列する騎士と淑女のはざまで、夜闘の装いに似つかわしい。
 背と小脇に渡した吊り紐に武具の重みをさげた。水銀弾と火薬がグリスで封ぜられた後装式輪胴を拳銃にはめ、八角形の銃口は革 鞘(ホルスタ)へ叩きこむ。予備の輪胴はひとつとない。どの道、主立つ道具ではないのだ。
 しまいに、大振りな缶バッジを外套の襟に留めた。檻にとざされて黒ずむ心臓があしらわれた印章は主の手作りの品で、もう半世紀も前に受けとった氏族の狩人証だった。
 これで、夜に踏み入るそなえは万全となった。
 部屋をでしな、壁に埋まった読取機関(リーダー)へと鍵符(カード)を通す。磨きあげられた豪奢な金色の機構は客室からフロントまでをつなぐもので、帳簿に記録がつくと、重ったるい錠前が鳴った。音がよく響く。この宿、グラン・フレドリカ・パレスの高みは白っぽい静寂に満たされ、どこか医院の通廊と似ていた。ホスピタルとホテルはひとしく、巡礼者をもてなして癒す場が語源となり、その来歴が形式美に通底するのだろう。吹き抜けに寄れば、それもにわかに破られた。見下ろしたロビーで眼につくのは、せわしない逃げ腰がのぞいた客足ばかりだ。リツは昇降機から玄関とそこかしこで惑う宿泊客の群れを、足早にかきわけた。
 大回転扉の外では西陽が待ちかねたとばかりに棘っぽく射していたが、薄弱さから、それもじき退屈な残滓になると知れた。
 パレスの鋭角がそそりたつリンデマン・シュトラーセからクルスペ・シュトラーセへ、橋をひとつ、またひとつ、と渡った。欄干から見えるのは街の影くらいのものだ。そこからは真昼でも明かしきれない闇がのぞき返し、遠眼鏡でもうかがい知れぬどん底との高低差に、不慣れな人間なら足がすくむはずだ。無数にある橋はどれも、古い街の地層を下に押しやって、山岳の一角まで覆い隠す鋼とセメントの地平に渡されていた。区画単位(ブロック)からなるこの殻を多くの人々が定住の地とし、古びた地層に帰ることなどありえない。その代償となるのが白い紗幕だ。霧。煙。湯気。都市を生かす蒸気機関の有害な吐息はどんよりとした夜とまぐわい、刻一刻と濃さを増しながら、プラハの模造が入り組む路地を醜くかすませた。人為のへらとなった大建築は、残照を病葉のありさまで散らした。人眼につきにくい物陰で敷かれた鉄管の一本ずつにすら、充填された蒸気に欲するよすがと平穏を害そうと、凶兆のかげりがしがみつく始末だ。あちらとなし。こちらとなし。そうして夜は君臨し、まじなう。
 工場や算術団地が積み木状の層となったレツノーア小路(ガッセ)からは、光沢のない防毒面姿が次から次へと吐きだされていた。リツとすれ違うすべてが常人だ。いくら伝承通りの死とはならないにせよ、たいていの血族は陽を嫌い、日中の街路ではほとんど見かけない。人波は帰り道を急ぎつつもリツの襟で輝く証、背の仕掛け円盤に引きつけられた。古怪なペスト面の模造となるくちばし。死相色のゴム質。それら、瘴気説支持者(ミアズミスト)の呼吸器と精神衛生をナイチンゲール原則で守る面があろうと、不思議なことに、好奇は通り抜けてくるものだ。鈍くとも異状にはすぐ気づき、視線はさも奇っ怪だと云いたげにはずされた。氏族の証明はいかに狩人が多く住み、狩り道具を見る機会があろうと浮く、鬼子の小道具なのだ。たかが衆目、とリツは内心でいなして、誇らなければ伏せもしない。
 道は狭まって、人影は減っていく。
 警邏を怠らない徒歩警官も、今日ばかりは狩りに参じないものからわれ先と駆け去った。やがて、けたたましいサイレンが大気をおののかせた。尖塔から尖塔へ。辻から辻へ。人に適さぬ危うい時間を告げる警鐘どころか、悪意を呼び起こす響きまであった。家々は戸をとざして、人の世から潮が引いていた。
 あとに残るのは、並大抵の都市ならば一笑にふすような戒厳令の夜だ。家並みは油彩のような恐怖で黒ずんだ書き割りと化していた。なぜ夜への敵愾心を抱いてまで多くの人が住まうのか――問えば、簡素な答が返される。売血契約でそれ相応の生活をあがなえるためだ。非主流の経済体系。健やかなる人血を公営血液銀行に渡し、普段の働きも重ねさえすれば、心身ともにただれさせる貧しさとあっさり縁を切れた。選ばれし血の提供者と思わせ、そこそこに満足もあり、程度を低く見積もりはするが質実な世界観だ。
 混凝土(ベトン)の肉と鉄筋の骨子がなす無数の柱。人が売り捧いだ魂による柱。ふたつを背骨にしてこの街は建っている。
 そうして血のまわす社会はいつもなら日をまたごうとどこも賑やかだが、街路は感情をなくし、いたずらに黙りこむしかなかった。文字通りの不夜城が幼子のように眼を覆う光景は奇妙もいいところだ。夜は深瀬よりここへ這いあがる連中を隠す緞帳になりはて、霧の追従で密となり、湿気は亡霊がまとうドレスの生ぐささで、リツの頬を不吉にかすめた。区画をへだてて軌を一に闊歩する狩人の気配があった。今宵は狩りの夜。わがもの顔でやってこようとするけものを葬る夜だ。これは娯楽でも、まして捕食でもなかった。隠秘学の円環が描かれる土地で生存圏を存えようとするかぎり、終わることなく実行されつづける儀式だ。血族のなかの血族、華族と称する行政府が指定する恐るべき一夜には、いったい全体、何が起こるかわからなかった。市民は狩人衆に、聖職者に、血の騎士に、夜明けまでの空白を委ねるしかない。どうか無事、また安らかな明日を享受できるように、と。
 幅広な谷間に渡された大橋を越えると、そこは街はずれだ。リツは地図を引き、一路、水路が彼我をわかつ瀝青ヶ森の見えず途(ヒンターメンシュ)のふちへむかった。ハインスベルクのはじまりとなったあの谷底は、罪が流れ着く。未来を持たざる最下層の民。弔いなく流れ落ちた屍。穢らわしい虫。あるいは病に冒されながらも、都市を浄化しようと追う検疫の手より逃げ延びたもの。そして、斯様なものたちの堕した怪物。
 けもの。それが土壌を呪う風土病の罹患者に上書きされる名だ。血の医療でも克服はできず、どころか媒介としかねない症候は、古来より疫病とあわせて語られた澱血(よどみ)のふるまいと似ていた。人ならざる衝動と伝染性をもつのだ。しかし、血脈の継承を通した観念的な擬人化は通じない。医学的見地で測りきれぬ面はあるが、内実は伝染性の混沌だ。食い潰して満腹になるまでとめどなく、人間も血族も問わずにすり寄る、どこまでも無作為な病だった。明らかなのは手段を徹して駆逐すべきとの一点だけ。その由来は多くの場合、血の医療こそが生みだした、と陰謀論調で尾ひれをつけながら語られてきた。いわば都 市 伝 承(シュタットクンデ)のたぐいだが、翻って、忘れてはならない事実も含んではいた。ハインスベルクの始原細胞は、そも生の苦痛を退ける血の医療の町にして、神秘を拾う遺跡上の砦でもあり、それらの応用により国境なき医療従事者としての正 教 会(オーソドクス)は肥え太った、と。人が見つけやすいよう神は病の源泉に近づけて治療の法もおく。教義に云うそうした病の構図と逆転するが、どう考えるにせよ、二者は干乾びたへその緒でくくられていた。
 類型を求めれば、大英帝国で同じく旧き墳墓をいしずえとして、女王の威光が届かずに忘れ去られたYの都も、やはりそうした道にあった。また、神秘のたぐいも順を追って啓蒙の段に踏みあがらなければ病毒となり、ふつつかな眼配せがあった日には、対価どころか狂気で魂を縛るものだ。そうした害をもたらす来訪の好例が、流れ着いた辰の仔の瘴気にあてられて腐ったという極東のどこそこだ。
 いずれも、呪詛たる病。
 現 世(うつしよ)の浅瀬に神の片鱗、あるいはそのものが寄りつき、よりひどく無理に呼んだ地で、それはいつだろうとつきまとう。動乱と病の世紀にも道理はでそろっていた。
 けものの病もまた、それを噂される。
 もっとも、機序の仮構、病の真なる正体がいかなるものかはそうそう見むきされない。
 民草が求むるは安らかに迎える払暁だけだ。
 リツは霧で底知れぬ水路の梁に寄り添う、蔦細工のほどこされた梯子を降り、生化学質の刺激臭と無数の泡が暗渠に落ちていくどぶ川のきわにでた。金網の小径を越えたとき、夜気がどよめいた。遠く時計塔の鐘が、おごそかな重みではじまりを告げる。
 けもの狩りの夜が幕をあけたのだ。


 リツが街殻の奥に潜る理由を得たのは、五日前、ハインスベルクに到着した日の夕刻だった。中央街区に座する鉄道駅に着くと、宿をとるより早くフォーディズムの申し子たる四輪ガソリン車を拾った。参じる先は人と手を結ぶ繁栄の担い手――華族の殿堂にして、血族優位の社会をおりなす最上層たる記述院だ。
 ハインスベルク外縁で山間を切りひらいた低層ゴチックは夜陰に際だち、大仰きわまりない。人里より離れて生存戦略を案じるその館は、白夢のチェイテとあだ名されていた。
 槍衾がそびやかされた錬鉄細工のさなかに血族の象徴、瑞香(ダフネ)の飾られた門扉を押すと、暗然とした木々の茂りが森閑たる外から一転、リツの耳に切れめのない唸りがへばりついた。宏壮なゴシック様式を三階建ての上背にはべらす両翼から満遍なく届くのだ。低音はどこかパイプオルガンの残響と似て、よそよそしく、おごそかなまでに深みがあり、建築のすみずみにかよっていく血流を思わせた。封建的な見かけにお似合いの大扉から、内面にゆきすぎた白があしらわれた様式を踏めば、昼に生きる職員の人群れと混じって華族がすれ違う。その都度、寄越されるのはわざとらしい瞥見だ。気取り。蔑み。噂話。汚れた責務にむけてにじませる態度は、短命を嘲り、そのくせそこへ卑近した生しか営めない華族にこそ似つかわしかった。いらだつ理由さえもとうに摩滅した悪たれものどもは、リツの眼中にない。輝ける菫屍鋼の薄片で彩る自由接見証の五角形を掲げて、ロビーは足早に抜けた。あらゆる煩瑣な手続きにて抜け道となる証は、四代を越えて残る、数少ない栄誉の残光であり、気安い契約を断絶せずに使いこなせる唯一の道具だった。
「Rがお通りだ」
 受付の官吏が吐き捨てた。
 忌み名と云いたげで非難がましい声音につぎ、壁でうねる古風な気送管(プノイ)が、スコン、と間抜けに鳴った。主への通知票を投函したのだろう。
 リツの眼のはしに陰口趣味を唇に焼きつけて、眼配せでほのめかす笑みも、奥の通廊へ行けばぐんと減った。角を曲がって行くほど強まる唸りが敷物となり、壁紙となり、絨毯の絶え間につかと鳴らす靴音から角を落とす。この音はしかるべきもので、なにせここはハインスベルクという肉体の頂点なのだ。歯車とパンチ・カードのおりなす蒸気機関式の人智、大蒸気頭脳が、いまだ訪れぬ未来の色彩に触れ、あえぐのだ。
 このところ、西では大いなる戦の火種がくすぶっているのだという。爆弾で(しい)された帝国大公。それを起点に人の愚かさと策謀が積みあがるなかで、自治区はいかなる振る舞いをすべきか、つねより一段と演算を重ねあげていた。
 バベッジ卿が女王の頽灰都(バビロンドン)にもうけた歯車娘の子孫たち。いまや、仮構する歯車の塊なしに世はたちゆかなくなっていた。人の意に従属する大蒸気頭脳はシミュレートというおこないでもって、多くを変えた。演算は科学の系統樹に成長をうながすと、産業を揺り動かしては全球的に広がるつながりまで講じ、グーテンベルク的変容は人の眼に映る世界を一変させたのだ。変わり果てたのは地球表面上の輝きだけではない。上位の智慧を模倣し、演算することで、より高みに干渉しやすい法が編まれた。
 恐ろしい神域の智慧は忌まわしく、ことによれば結実した先にある最果(いやは)てなき荒漠で発狂にも導きえる。だからこそ世に多く残されながら畏怖とともに禁じられ、保存され、なしくずしの散逸に見舞われてきた。それが人が世界認識、あるいは常識という皮膜をもって狂気の彼方に対抗する最大の手段である、というようにだ。触れるべきではない、手にあまる技法。その尖端にあって湖畔に身を横たえた、はるか西方のビェルゲンヴェアト学舎――神をも恐れぬ「瞳」の探求の果て、ついには破滅するにいたった学徒たちは、豊穣なる見当違いと蒼褪めた血(ペイルブラッド)の物語を残した。解析手法はそれをたしかな基礎として扱い、再現し、有用なる手段まで昇華した「式」として組みあげられた。
 もっともそれすら、智慧の足許にも達せられてはいないのだが。
 それでも、兎角、ロゼッタストーンの自動翻訳をはじめて遂げた大機関が祖となる汎用処理能コードさえ通せば、解析に解析を重ね、文献の主要文節を拾い、パンチ・カードで編んだ写本と手順くらいは提示できた。人智と手作業のありかたが高く見積もられていた半世紀前なら、あるいは嘲笑の的となりえただろう。たかが機械になにができよう、と。だがこの時世、偶発する歯抜けを人の手が補うことはあれ、特別なところは微塵もない。
 この記述院、ひいては麾下でたち働く官房遺物管轄団の有する蒸気頭脳は、それらを浮足だって活用する側にはいない。
 上位の智慧とは往々にして小走りで破滅に身を投じがちだ。故に、神秘を重んじるものたちは最低限の手際で抑えこむ法を案じた。かまびすしき大蒸気頭脳のマグラを核としたこの館も、もとは宝物を効率よく保管して、または壊す策定を編むべく建てられた。
 それがいつしか政治を請け負い、ウィーン学派の複雑系なる夢まで見て、記述院の立場を高めるにいたった。くわえて暗号業もあった。読み解けない高度暗号がほどこされた回線の貸与。協定を結んだ国家とのつなぎめとなる事業が、この街を内側から肥やす。奥の間にむかう細道には、それを律する偉大なる頭脳に接続された蒸気管、ケーブル、気送管(プノイ)、と真鍮の神経系がところ狭しとからみつく。右往左往させる入り組みようは巨人の脳のうちで歩く気分にさせ、そこに賊を足止めする設計もうかがえた。要所にくるたび、最大の免疫となる近衛騎士が睨めつけてきた。もちろん、誰一人として余計な態度があらわとなるような愚は犯さず、優美な甲虫の頭とも見える、鋭利ながらも美は損なわない完全被甲の兜と、脇に佩いた剣からもの静かな敵意を誇示するだけだった。
 そのなかにあって一人、眼光鋭いのが、朱に金糸を織った装いで飾る騎士長だった。素顔をさらすのは極東で血を拝したと聞くその男だけだ。偏屈そうに唇をへの字に曲げ、その手は柄頭におく。横切りざまの一瞥が警告していた。不信に足ればわが牙で千々に散らそう、と。和刀に由来する千景を繰れば、速さにおいて比類はないそうで、この忠義のしめしかたにリツは少なからず共感していた。賢しらな口を叩かない分だけ、頭脳労働者よりよほど血族らしい、と。古風ながらのよく磨かれた具足も、過装飾も、大袈裟な浪費趣味によく似合い、光の時間に闇を見出させる。どこもかしこも、そうした華族らしさと人間社会らしい機構を混ぜあわせるが、それ相応なものは多くなかった。
 たっぷり時間をかけて執行室にたどりついてノックすれば、すぐに返答があった。
 重々しい観音開きを押すと薄明かりと、よどみない打鍵の音がこぼれた。機械仕掛けによる巨大な振り子が、部屋の最奥でゆるゆると身を揺すり、暗室の時が停滞しないよう通奏低音で刻みめを入れるかのようだ。
 その最奥で、燭台の火に白面が浮かぶ。華族の一柱にしてハインスベルク内務卿、無明のクサヴェルその人だった。男女のあわいも曖昧な美貌に若さをにおわせるが、それも皮相にすぎない。齢の意味はこそげ、数百を生きる老練さが面持ちに裏打ちしていた。なにより違和を色濃くするのが、両眼を固く塞ぐ縫い糸だ。相対するものにたいていざらついた不和を宿すそれは、麗しさの欠けた有象無象を強引に退けるもの、ともっぱらの噂だった。
「少々待ちたまえ」
 と、クサヴェルが告げてすぐ、タイプライターにピリオドを打つ強い一音が響き、
「ようこそ、忌まれし血統の子。息災ないようだな」
 面構えにたがわず細い指は手近な椅子へ、着席をすすめた。微笑で頬をゆるめて見せようと、それがマスケラ風情でしかないことをリツはよく知っていた。
 クサヴェルは机上に伏せた通知票に指を打ち、
「わが臣下はぶしつけな真似を……」
「特段には」
 リツは首を振る。
「それは重畳」
 とクサヴェルはタイプライターを脇へ寄せると、備えるように手を組んで見せ、
「困ったことに、みな高潔な素振りが好きだからな。それにしても、だ。生身の挨拶を交わすことも久方ぶりと思える――きみの氏族は社交や儀と縁がない」
「ザンクト・ヴェーニヒグレーベカップでの舞踏会もどき。それ以来です」
 リツは云い、外套の裾を払って就いた。
 華麗な服と優雅な振る舞い。思わせぶりな眼配せ。甘い血と杯。夜会のたぐいはいついかなる種類だろうと下らない阿 諛(おべっか)にまみれ、リツの好みからもっとも遠いところにあった。
「ならば、十二年ぶりというところか。ああ、もうそれほどに……。女爵位(バロネス)を継がざるをえなかったあのときですら。そうだな……」
「恨み節を唱える気などありません。たかが来訪の有無くらいで」
「たかが。そう、たかがだな。とは云えど礼儀を怠ったことには変わりがない」
 それとて三年近く前。血の系譜に席をつらねど、時の膚触りは人であった時分といくらも変わらず、蒸し返すには遠く思えた。無意義な点検を重ねるのは友人の「型」を楽しむ華族なりのことば遊びだ。リツは思い返し、気休めに首を振ってみせ、
「そちらはお忙しい身。お手紙をしたためてくださいましただけでもありがたい」
「その節には乱筆乱文で失礼をした」
「返信にも記しましたが、気遣い痛み入りました」
 機関電文のやり取りもあるこの時世、紙と時間のやりとりは幾分古風だった。そう思案するリツも秘密郵便を網とする古式ゆかしい手段が嫌いではない。気が遠のいていた時期の手紙ばかりは、それこそ眼にあまる乱筆のかぎりであったが。
「大事な文のかわし手だからな、気に障っていなければさいわいだ。近頃は、筆をとることを嫌うものも多い。産業機械華やかなりしいまは嘆かわしさがつきんものだよ。して、この政治地図のなかで何用か……。きみが接見をとりつけてくるとは」
「要件は手短に。宝物庫に眠る禁制史料の閲覧。渡りの星杯(カリス)にしずくの囀りを満たす、儀式の夜に達するための四書です」
 と、リツは云い、継いだ息で心のすみに落ちるためらいの影を拭った。ジャワ更紗を張った椅子の果てしなくふこふこな居心地のよさのうえ、むしろ据わりが悪くて前のめり、
「こと、昏い蝕血の碑を」
「なんたることか、これはまた」
 とクサヴェルは吐息すら迂遠に、
「存在せずして存在するもの。上位なる幻想。むこうの真理値を導く供え。墓守り氏族の娘が禁忌漁りをしていると伝え聞いたが、事実とはな――しかし、だ。傲岸にして不遜なわれら夜族であろうとも、おいそれとは触れがたい機密なのだ。わかるかね、リツ」
 従者が主から賜った言の葉を尊ぶ声色だ。真っ当なる同族としてあつかい、そしてまた、特別なあつかいとて決してしないとの表明でもあった。
 クサヴェルは肘掛けに頬杖をつき、
「グスターフィアは、いつであろうともわれ関せずの態度ではあったがな」
「自由そのもの」
「そして闊達」
「そのおかげで無茶にもほどがありました」
「いつでも窓の外を見て、な。夢見る貴族。頽廃のなかでもっとも頽廃らしい、なのにふわつき、歩きまわり、なんでもかんでもまさぐる態度」
「世界の輪郭に愛されるべくして。彼方への節度なんてもってのほかです」
 主はいつでも夢想とあり、リツは同じ夢想を、同じ幻想を共有することを望み、手と眼差しを重ねていたはずだ。握りしめた拳が、思いがけず音をたてる。
 クサヴェルの爪が物憂げに机上を叩いて、
「数百の時を生き延びるものの特権なるかな。きみの求める四書が含むのは、その揚句の、惑乱で飛び越えさせた碑。名を呼ぶにもいささかならぬためらいがいる宝物だ。畏怖の山脈より掘り起こされたドラクル公の暗憺。国土を守るべくしてつかみとった禍々しい遺風の、朱に染まった方法論。もはやこの世に姿を見せることなき旧い人々の儀式を、通史を、われらが祖神に伝う異聞として記した遺し文、と」
「存じあげています」
 かの碑は神に呪われたものが記し、外なる神の寵愛にいたる法を残す、外典にして魔書、儀式道具のたぐいだ。法則さえ満たせば、神が喚ばいに報い、ささやかな対価をあたえるというわけだ。そこに悪魔崇拝や秘密宗派のような子ども騙しの曖昧さはなく、御供の法はことさら磨かれてきた。そして、螺旋を描く神の内面を損なわぬよう注意もまた求められた。
 クサヴェルは頬にこぼれた髪の一房を耳にかけ、
「一等禁書であることも……」
「一等禁書第三類指定のもと、この眷属の都においてすらも、教会が引き渡しの声明をだしてやまぬ語りの器。よき知識と認める余地もない」
「知りてなお求めるとは愚かなるかな」
「それも存じあげています」
「わからず屋の顔で云うに相応のことばだな」
「でしょうとも。西の医療教会の経典にことばを借りるならば、禁忌を恐れずして犯し、なればこそ光は降りる。諦念とは無縁たるべき、でしょう(ネス・パ)……」
「マタイによれば求めよ、さらば与えられん、とも」
 クサヴェルが同調の語を繰り返す。福音書第七章七節。傲慢な引用に、神へと接する語群もたしなみの一端でしかないとの嘲りが潜んでいた。
 リツは顔色ひとつ変えず、
「そのようなところです」
「光を追うのはおよそ乙女の特権だ。血を借りた心が時の追随に億さず、それでなお心は鈍せずして夢想の爪先を浸すなら、乙女の領分にありつづける」
「わが主が光のあとを歩んだように」
「そう。でなければ、血の医療に通じてわれらに列席した、かの微睡姫、アンナリーゼ公が跡()ぎの一人とてなきままに、孤独に、その(はら)に神の子が宿る日を待ち望み、時をさまようように。きみもまた、永い血の従者でなく神秘の踏み手として求めるのだな。渡ろうとするものの『瞳』はつねにひらかれる。われらの誰もが秘めたる脳膜をタブローに、空想画の深淵として。何を求めて歩むにせよ、まず要るのは傲慢さだ。あるのかも知れぬ上へと手を高く伸ばす。まったく、忌むべき務めの氏族はその涯までが忌まわしくある。恐れなど知らぬことそれ自体が恐れとなろう」
 クサヴェルは長広舌を味わい、声を落とす。
「あなたがたは繁栄の徒、ですものね」
「寂滅を恐れ、故にこの地を作りえたことはたしかだな。闇にありてうつろのまったき闇を憎み、輝きの落とす闇を望んだ」
「先を見る眼はいつとて破滅の足取りに感心しない。そのことは承知のうえです」
「だからとはいえ、とめるような節度をもつわけでもない」
 クサヴェルの唇がゆがんだ。褪せた血色に、犬歯の(しろ)さがのぞく。リツははじめて、不得手の極みで苦く引きつりながらも笑みを装い、
「さすがは人との折衝となるだけの心持ち」
「栄誉として受け取っておこう。褒めてくれるものは悲嘆にくれる少なさなのでな」
 だが、とクサヴェルは念押しして、
「やすやすと閲覧を許せるほどに記述院の法はおろそかでない。ここは行政府のなかの帝国だ。隠匿された宝物に触れるとあらば見返りがあるべきであり、納得ずくだろうことは、あえて訊くまでもないな。しめしたまえ。手指に染みついた鋭利な冒涜を。けだものよりしたたり落ちる血だけが、固く(とざ)した禁忌の門戸をひらく鍵となろう」
 それはわかりきった宣告だった。
 クサヴェルが抽斗から調書をとった。受け取ろうと伸ばしたリツは、ただの一瞬、渡すのをためらう微動に感づき、腹には小さからぬ怪訝さが沈む。それは訪れと同じく瞬時に去った。数枚の綴りからなる紙の最上、古層街掃討との黒々した機関印字極太書体にくわえて捺された教区長の印が、眼を瞠らせたのだ。引き換えの条件は大物狩りというわけだ。
 指に角をたてる紙質をめくるやいなや、思うとはなしに唇を噛んだ。記されるのは、ハインスベルクの穢れを祓う、血まみれの一夜に生じた魔だ。
 思いを馳せてかクサヴェルは天井へ息をつき、
「音なし鏃のグレッチェン」
 眼をつぶるリツは一抹の眩暈に耐えて、
「教会刺客の古狩人。まれなる完遂者。あるいは背信尼僧」
「背教者としてのおのれも捨てた。前回のけもの狩りの夜に、大きな失策を犯したのだよ。あやつらの血に穢れ、毒を腹に潜ませて古層(した)に身を隠した。足取りはひと月ほど不詳となっていたが」
「けものとして現れた、と。こうなっては詮ないながら、らしからぬ話です」
「そうかね」
「隊伍を組んだことがあります」
 それも一度や二度どころではない。抜けめない腕利きだ、とは口にださなかった。技倆を知るのはリツだけではない。教条記しの弓剣をかざすあの女狩人は、影から影へ、と転じて狩りを遂げ、けものどころか味方の眼とてくらませることで知られた。
「しくじりもまた狩人につきものだ」
 クサヴェルは冷やかに断じ、
「御技より早く牙が届くこととてあろう……」
 穏やかなる内務卿にしては奇妙な、有無を云わせぬ抑揚に、リツは眼を眇めて応じた。
 さらにページを追えば、若い世代の殉教者――正教は自前の狩人をそう呼ぶ――のなかでも辣腕で知られる黒き宰相エミグディオ、副官たる蜉蝣刃のユルシュール、果ては血族の擁する赤マントのミヤークさえ、絶滅闘争に敗れたとの記述が、残酷なまでにくっきりとした打刻(タイプ)で書きつけられていた。教会が教義を、ひいては人身を害するものとのはざまにたたせる殉教者は、十八世紀末の人 狼 審 問 葬 乱 期(ツヴィシェンファル=ヴェー)、あの拷問的大時代を最たる隆盛として、わずかずつ減りつづけてきた。堅牢な機械仕掛けの先導する技術革命が花ひらき、信仰が思想に取って代わられていく昨今だ。好きこのんで藪を行くものはそう多くない。
 そのなかで威信を賭して育む精鋭中の精鋭を殺すまでに、強大な魔となり果てた戦友が、この都の底にいる。数年ぶりにしては酷薄にすぎる巡りあわせが沈思をしいた。
 真っ当な狩人であれば自分も真っ先に呼ばれただろう、とリツは思った。流儀を学び、一流の尖端にいるといっても決して過言でない。血族自体、狩りを捧げることによって、この国における正 教 会(オーソドクス)、どころか各国が抱く闇との、魔女狩りとよりあわせた時代を遠い過去に押しやる蜜月のあがないとしているのだ。
 そも、血族は血を嚥下するが故にけものという病には敏感であり、狩りを独自にとりおこなってきた。それを政治の道具として最初に投じたのは、東欧一帯における最長老の一人、ヴィクトル・ナイ卿だった。いまより一世紀前に締結された神の代理人との契約は、五百年を越えてグレゴリウス九世の旧約さえ反故にさせた。病を殺し、血を統制する。普遍の救いとして世を導く教会は、直接に政治をとることこそないが、契約は守り、血族に俗世をあたえる権限を擁するほどには強固だった。そしてその鎖につながれた調書は教区長じきじきのお達しなのだ。にもかかわらず、こうして能動的に動くまで声がかかりもしなかったのは、氏族の長が代々となす技法に由来していた。狩りは優雅になされるべき、と華族は云う。武具の形態にこそ流行り廃りはあれ、騎士とは、鋭利な腕前による血のほとぼりをつねとすべき。流麗な刃を自在に走らせることで斃す手練手管にこそ栄誉はある、と。
 儀礼が矜持の側壁の彩りとなって、先代のグスターフィアすら、幾度も大物狩りを遂げながらにして、手際の著しい劇しさただひとつで蔑まれた。氏族の抱えこむ得物――神の器の凄惨さは侮りや嘲笑の一線を越えるばかりではない。代を超えた憎しみに近い念で、氏族の繁栄を禁じた。少数の守り手であれかし、と。まっとうと云いがたい神秘の仕掛けはリツの手中にある。だからこそ動揺、恐れは腑には落ちた。
 呼ばれずして巡りあえただけ、ましというものだろう。必ずやこの手で遂げようとも。リツはそう誓いながら、おくびにもださなかった。
「あと何日かすれば、今季のけもの狩りの夜がはじまる。今日、きみが来なければヒジカタを投じていただろうな」
 口上にあがる騎士長の名とて、狩りの目標を思えばいくらも違和感はない。
 リツは咽喉の底でささやくように、
「靴底の泥汚れをこそぐにはぴったり」
「やつが聞いたら喜ぶだろう。何をするにも実に器用な刃となってくれる男だ。立場が駒として動かすことを拒むのは難儀するが」
「栄誉ある拘束、と。わたしは夜に乗じて、自由に大物狩りをさせてもらいましょう」
 リツは執務卓に調書を伏せて返す。
「よかろう」
 と、クサヴェルの微笑みが煽り、
「まれなる技法をもって武功をたてたまえ。朱水銀のグスターフィアの継子、刃むかうリツよ。わたしは拒まん。高慢だけを胸に据えた子らと道をともにすれども、この心根まで売り渡してはいないのだからな。行きたまえ。せいぜい準備を怠らぬことだ」
 必ずや果たすと思ってか気軽な宣告だ。
 しかし、事態は要求に見あい、くみしやすさは微塵もない。血の騎士に楽な仕事はなく、一厘の隙があろうものなら死に蹴落とされるだろう。
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