Plastic Spectre
Ch.4
引いた刃で悲鳴と生首をこしらえた。
春も、夏も、秋、冬も、腐敗した四季をめぐり――求められた数だけ――朝となく、昼となく、夜となく――求められた数だけ――男を、女を、老体を、子どもとて――求められた数だけ――事務所で、路上で、車中で、埠頭で、寝床で……
いくども、いくども、いくども。
金属の焼けつく音を、耳の奥、歯車が噛み潰す。殺しに殺して、その一巡が、ようやく狂いはじめたことを感じずにはいられなかった。
変転に次ぐ変転。東日本から北米へ、飛び地を描き、面倒事のインクで染められた勢力図をととのえる応酬を踊ったのはおまえだけではなく、北叢もまた、競うように丹念な狙撃と刺殺で芸術点を稼ぎだした。北叢組。大友組。城組。舟木組。生ごみをプラスティックの青バケツに放りこむ気軽さでかたづけは進み、寝返るべき寝返り、消えるべき消え、介錯と暗殺が黒摩組の独壇場をだんだんと孤絶に導いていた。船木組の面目躍如だ。建前からして清掃会社――その内幕は裏稼業専門の掃除屋――であり、死体処理と証拠隠滅の手際で、親分衆のご機嫌をとりつくす。
状況はかぎりなく順調に見せかけていた。
さて、喪失への準備は……
あるべき循環。細胞が増え、老廃物が押しだされ、身体性が浄化される。
さて、失墜への準備は……
埒内に戻ると信じて疑わない。もとあった場所へときれいにことは運ぶ、と。
さて、崩落への準備は……
だから、間引きが唐突にはじまったときには、多くの人間が戸惑いを隠せずにいた。
さて、さて、さて、闇を覗く準備は――
変じて転げ落ちる準備は最初からできていた。
最初に北叢が死んだ。高層ビルからの失墜――車上へ到達――肉は天井で潰れ、飛びだした骨は白服を裂き、目だけが呪わしげに天を睨んでいたという。当人が重んじていた殺しの美観からはかけ離れ、手っ取り早いだけの乱暴な死だ。他殺。黒摩の手がまわったか。いや身内に殺された。噂が、黒く腐った間引きの影でゆっくりと化学反応を起こしていく。荒事屋が一人、二人、三人と死んでいき、親分衆の半数を除いた大勢、あるいは親分衆の手駒に選ばれ損ねた組は、ようやくはじまりに気づいた。
擬似的親子の枠組みを敷いた盃の誓いに、仁義をはずれた子殺しの風聞が毒を垂らす。黒から赤、赤から黒へ――紙に落ちる墨――黒から赤、赤から黒へ――血管からじわりと劇毒を伸ばすように――黒から赤、赤から黒へ――消えぬ黒ずみ――黒から赤、赤く赤く這い――血に濡れた流言はおまえにも聞こえた。
抱いた冷たい確信。
舟木の報せが、肯定した。神話じみた時代の終わりを告げたこの時世、仁義などない、と。内務庁に嗅ぎつけられた時点で絵図はずらりと引かれていた、と。
ついに過去の追いつく足音が聞こえた。
よく知っている。騒乱がいかに最小規模でも治安監視網への波紋は隠せないし、やつらもまた見つけ出さずにはいられず、それは首都騒乱で暴れまわった怪物の坩堝ならではの欲求であることを。墨洲七奈瀬もその末席にいた。省が解体されようと怪物のやり口は変わりようがない。内務庁は本気でやる。混乱期が残したモラトリアムに、放任主義の終わりをついに見いだして、「本当の戦後」を知らしめたがっているのだろう。
皮をまとえど流れるのは殺し屋の血だ。
伯父貴らは選択を迫られたんだ。舟木は言い、憤懣やるかたなきうめきをこぼした。より大きな犯罪を抑止する必要悪の規範としての制御をうけるか。法規と火力でまったき根絶やしの憂きめに立ち会うか。政治家の一柱を味方につけ、匿名化と呼ぶにふさわしい闇へ埋没をしたところで、天下御免とはなれやしない。選べるのはふたつにひとつ。ヤクザとは無法の色をすれども経済に生える草花であるが故に、前者が選ばれた。おまえは無情な片鱗を膚に感じながら傍観した。
介錯は左前で、舟木組は掃除に精をだした。
だが変転は逃れられない。
冬。察したように、さらなる変転はやってくる。おまえが期待していた、その通りに。
唐木会の牙城たる嘘の宮殿。
広大なロビーはしんとしていた。本拠として客を出迎える伽藍は漠として印象に包まれ、その空白にも近い白さは、建築の様相だけでなく、注釈不在が演じていた。オフィスビルのたぐいにはつきもののナノ色素層による案内どころか、拡張識の検出タグひとつない。慣習が足を導けば事足りる、と言わんばかりだ。それはいつも通りの空疎さで、そのはずなのにおまえはそうした単一の色彩の裏に隠れ、粟立つ緊迫に、外敵からの睥睨に相通じながらも委細を言い表しがたい不穏さを嗅ぎとった。響く足音すらいつもと違って聞こえた。その感覚はもはや直観という以上に霊感といえた。
アドレナリンを注がれた心拍が、指を震わす。
舟木に気づいた様子はない。お膝元での定例会議をしに来たのだから、警戒するほうがおかしいのだ。親から子への背任の噂に気が立っているのか。いまさら何におびえよう。柄にもなくおのれを疑うと、衝動が柄におく手を握りこませた。子飼いの若い衆があけて待つエレベーターに乗ると、直後、上階からのもう一基が隣に着く。五人分の足音を耳にして顔をあげたとたん、見える世界は凝固した。黒い背広の群れから一瞥が結ばれたのだ。塗り潰したように一辺倒な影のなかで異彩を添える、女の、白んだ顔があった。
灰色の大きな瞳がおまえに振られ、細まる。
真昼が黒ずみ、暗夜の天頂、月が昇るような心地。
総毛立ち、息がつまった。
発火点を待っていたはずなのに虚を突かれた。
目尻が裂けんばかりに刮目して身を乗り出そうとするおまえを、扉が遮った。
「どうした……」
と舟木。おまえは首を振るのがやっとだった。眩暈がし、風邪でもひいたみたいに背筋がざわりとした。困惑。それは間違いなく困惑だった。この期におよんで、見聞きするものの虚実を区別できていない。眼前、あのたかが数メートル先に見えたものが嘘か本当か、それすら曖昧で、茫洋と階数表示を見あげることしかできなかった。
そしていま、おまえは確信している。血で染めあげられた屋敷を、無残に切り刻まれ、撃ち倒された屍を前にして。あけ放たれた玄関の敷居のうえで。飴色に磨きあげられた板張りのうえで。まだあたらしく香り高い畳のうえで。舎弟や護衛は得物で応じる間もなく、そこかしこでよく研がれた手並みを刻まれていた。報復など想定し得ない。そんな低劣なものとは決して思わせない。片付けたのはプロのなかのプロであり、そうだと宣告する手口だ。適宜、目標を処分するために教育された人間によるロボットさながらの処理。賊どころか正当性を標榜してやまない。おまえの観察眼がそう告げ、視線をあちらからこちらと送るたび、拡張識のふちどりが射殺と斬殺の形跡を統計的色彩で包んだ。
銃創は適切な点、要は急所――心臓付近と頭骨――へのすみやかな三点制圧射撃で彫りこまれていた。切創は延髄を断ち切っていた。
どちらも、内務庁の執行者が好む義装化を相手にしても確実な殺害方法。
足早な舟木を追うと、最奥の部屋に赤くまだらの散る障子があけられた。数えきれない謀議がおこなわれてきた和室は処刑場と化していた。パズルを彷彿とさせる、ごく奇妙な、何度も折り返して書き加えられた太刀筋の横断で切り離された屍体の山ができ、どれが誰かもわからない臓物と骨のかけらの沈む生臭い血溜まりで、おぞましい絵図をなしていた。しあげとして血祭りにあげられたに違いない。
叔父貴、と舟木がうめく。
どれもこれも汐の満ち引きと足並みを読み違えた老いぼれだ。
酸鼻きわまる調子に耐えていた若い衆だが、生き腐れのくさい血にまみれてあふれた臓物のうち、ダイキン社章入りの胃を革靴で踏んだ拍子、ついに胃の中身を垂れ流した。舟木すら絶句して口許押さえるので精一杯らしい。
おまえは高価値標的の渦に目を馳せた。
呆け、あるいは苦痛にゆがむ死に顔はすべて、タカ派の老人たちだった。
転がる手先は白鞘を握りしめていた。刃を抜くことは叶わなかったのだろう。虎挟みじみて柄を固く握った手は、死した老人のものにもかかわらず妙にすべすべとしていた。身奇麗で、指が五指そろい、入れ墨のひとつもなく、欲望とサド趣味で腹のうちは誰よりも真っ黒な、唐木を仕切る老人たち。
精確には、仕切っていた、というべきか。
おまえは断じる。このやりくちは間違いなく離断フィラメントに由来し、おまえの、かつて属していた第一群の類型でなされたものだ。
おまえは知る。怪物は読み違え、失墜した、と。いまここに描かれる絵図はつまり、武闘派の政治の終わりであって、もう取り返しはつかない。
おまえは確信する。メッセージとなる殺し――片澤から、おまえへの置手紙だ、と。
あの目。あの目だ。
あの虹彩に、おまえは怒りを思いだす――喪失の怒りを。
切れ味を思いだして、神経にありもしない痛みの亡霊がぶり返す。
片澤、裁きにこい――
生贄の羊は足りないだろう。
裁きの面をし、わたしを殺しに――
やつがやってくる足音が耳の奥に響く。
その面を切り裂き、潰し、わたしのものに――
不都合を消そうとする足音が、遠雷のようにやってくる。おまえという破綻をただそうとやってくる。待ち望んでいた到来。降りる稲妻――発火点に、火を灯す。
逃げ帰った舟木組は身内との不通に敗北を知った。
時代の一巡。タカ派の、密やかな抗争に権能を見いだす物語は終焉を迎えた。おまえたちにそうと教えたのは主権を握った穏健派であり、穏健派のなかの穏健派であり、舟木を気遣う老人がさしむけた使節だ。地獄の季節は終わった。武器密輸はハト派の手に渡って限りなく穏当な不穏さのもとで流れを管理され、あとにはならず者の始末が残された。
使節の眉根はビジネスマン風情で苦り、
「あなたもおわかりでしょうが、舟木さん、刃物も銃も、いまこのときは望まれていないんです。ビジネスとして成立させるために、いつかまたくびきから抜けるために、です。われわれは潰えるわけにはいかない。だから当然の話ですがね、簡潔に言えば、そう長くない目で見ても、舟木組の取り潰しの予定となっている」
使節の忠告。逃げるのならいまのうちだ、というこどもでもわかる図式だ。事務所のすみで、ソファにかけたおまえは聞くとなしに聞く。聞かざるを得ない。舟木は喪う可能性を恐れておまえを身近に伴わせ、ソファが定位置となっていた。
掃除屋は不要らしい。介錯人も不要らしい。耳に届く会話はなんと残酷なことか、咽喉笛を噛みちぎる牙はいまや、てんで異物となっていた。大友組はすでに潰されて生き残りもなく、城組は手っ取り早く海外へ逃げた。使節の乱れなき口舌が、砕かれた舟木の情報網の骨に残る小さな神経、情報機関群の末端にも出回る崩落の噂を裏付けた。そして選択を迫る。稼ぎを抱えて逃げるか。湿っぽいプライドのために、対をなす抗争と死の道を進むか。舟木はヤクザながらに賢明であり、生きて敗走することを選べた。なにせ、国外の口座へ逃がした金はたっぷりで、高飛びの伝手もあったのだから。
子飼いの若い衆も、その身内も逃げのびる。かき集めた組員へ放たれる舟木の、侠気を奮おうとする宣告を聞き流す耳の奥に、音が響いていた。
歯車が回る――キチキチ――固く高い音。
崩落のしかけを目にして、だから、疑わなかった。
それがきっと失敗することを。
世界はおまえという破綻を許さない。おまえの接したものでさえも、許されはしない。
舟木からメールがきたのは待ち合わせの日、夜更けすぎだった。事務所で待つ。仕事をたたんで高飛びを残すのみ。メッセージが上乗せした言外の意などほかになかろうに、どうしてか頭を揺さぶられた。開封して読むうちに反響する違和。頭蓋が発泡スチロールにでもなったように頼りなかった。
呼び出しに応えていつも通りの服を着つけた。ファゴット用のソフトケースを引きずりだした。菊ノ本山は捨て置く気になれなかったのだ。
ゆったりと足を引き、歩きだす。
ビルごと買いきった事務所は中野の古びた再開発地区にあった。都市の形態は人の心よりも、ああ、早く変わる。そう残したボードレールの見た速度よりか、よほど拙速であろう代謝の落とし子だ。人気を欠いた道。古びた電灯の落とす光。浮浪者の寝息。住人が去った建築物はくすみ、有用と無用の中間地点で動くこともままならない。そのさなかに伸びゆく雑然とした界隈が暗中に変わり果てて見えた。眩暈がした。ほとんど一本道の、何度も通った土地が、こうも質感を狂わそうものか。後ろ頭にあけた穴から眩暈のシロップを注ぐ心地が増すなか、折れ間違った角を何度か戻り、ようやく事務所の前にでた。
玄関の前で火を落としたベントレイのそばを通りかけたおまえの鼻が、化学薬装の残り香にくすぐられ、タイヤの影、下がりきったスライドで弾切れを嘆く四五口径が横目に見てとれた。減音器つき。若頭の得物だ。空薬莢が八つ、夜光に濡れていた。
おまえは深く、酸素で肺を満たす。予感がそうさせたのだ。たゆまず動けるよう。火のついた鼓動に絶頂への兆しをはみ、すすす、と鼻息がたつ。
予感――違う――それは霊感だ。
「ようやく、か」
パラノイア気味の確信。
おまえは吐く息にひと筋の喜色を溶かした。嗅ぎとったヘモグロビンの不吉な重さが階段をあがるごとに硝煙臭さと混じりあい、大脳辺縁系に眠る、古々しい生命の感覚を喚起して危機感を煽ると、手は自然とケースを下ろしてた。見ひらく目に映りこむすべてに拡張識が反応した。輪郭線が伸びる。あらたなものを見るたびに、光条が野蛮な祈りを囃したてた。おまえの興奮に査定を添え、ノード検出表は、事務所にしかけられた無数の感覚素子がすでに無効化されていることを知らせた。ここはもう敗北者の檻でしかない。おまえは望んでいたものであってくれと願いを織り重ね、半びらきの扉を突いた。
胃がむかつくほどの血のにおい。血と、甘く果実めかした香水の芳醇がからみあう赤。
キチキチ。心臓にまわる歯車。キチキチ。血を潤滑油とする。キチキチ。速さを増す。
そして、応接間を抜けたおまえは息を呑む。
腎臓状の曲線で趣味がいいと思いこませる執務机に腰かけた、細いシルエット。
どれだけこのときを待ったか。
心臓が爆発寸前に高鳴り、背が震えた。窓の夜光を背負った影へ順応した目に明らかとなる白皙は、少しもくすんではいない。軽々しい笑みはあのときのままだ。有縁の焦げつきにうなじの毛が逆立った。
「ハァイ、墨洲七奈瀬准尉。いや元准尉か」
振られた手に、おまえは歯噛みし、
「これはこれは、片澤=サブリナ=八四一」
声は思うよりなめらかさでこぼれでた。
おまえは軸足に重心をかけた――胸の奥でカチリとまわる鍵――じっくりと息を吐いた。年月を超えて待ち望んだ再会は、存外な平静のなかにあった。
片澤は二つくくりにしたおのれの髪を嗅ぎ、
「憶えててくれたんだ」
「忘れられるとでも思ったか」
「根にもつタイプだよねえ」と片澤は莫迦にしたように、「しつこく嗅ぎまわってたのも道理だよ。飼い主に探らせていたんだろう……。IsCOOにコネをつけるのはなかなか悪い選択じゃない。足跡を残しすぎだけどね。あの男、そこそこやり手だったようだけど、まあヤクザはヤクザ以上になれやしない」
と、顎でさす部屋の片隅、舟木が亡骸をさらしていた。裸にむかれ、頭頂よりひと筋に両断された身のはしばしに尋問の痕。暴力を生業とした人間に相応の末路だ。おまえの、わたしの関心は惹かない。他人が一人死んだところで何を思おうか。
「ちょっとずつ切り落としていったらあっさり吐いてくれたよ。覗けば覗き返されるってのをわかってなかった」
「それとて算盤ずくだとも」
おまえは言った。諜報畑の人間がおのれへむけられた視線に気づかぬはずはない。だからおまえは、わたしは、到来を信じた。
「ああ、そう。そういう反応はむかつくなあ」
と片澤は書き損じを丸めるように笑みをゆがめ、
「興味薄に不感不動。最後に会ったときもさ、お仲間が死んでるのを見てもどうでもいいっ
て面して。焦り顔するんじゃないかって期待したんだけどね。変わらないわけだ」
「あんたがおいでなすっただけで足りる」
と、ファゴット・ケースから一刀をつかみとり、凍てた鞘を腰だめに据え、
「そうは思わんかい。なんせ六年ぶり。お喋りより、することがあるだろう……」
キチキチ――歯車がしかけに達する――キチ。
このために生の苦杯をなめてきたのだ。そう告げるも同然に駆けずり、拇で鍔にかけたテンション、鯉口に鳴る高さが抜刀となるまで半秒足らず。
ひと息の発火で居合を辷らせた。
澄みきったひと筋なれど、引き伸ばされた一瞬にわたしたちは理解していた。たかだか一手で決着がつく道理などない。片澤は掌をさしだすように、
「猟犬どころか狂犬だものね、きみは」
鎬を、とんと払われた。袈裟懸けの剣筋が死んだ菊ノ本山を引いた直後、意識が途切れたような空白をわが物顔とし、おかしげに細めた目と殺気が迫った。切り返しには速度が足りず、そう認めたとたん、襟ぐりを掴まれた。力任せに投げだす勢いに逆らう間もなく肩口で窓ガラスを破った。吸いこまれそうに濃い夜闇。腹の底を冷やす地上三階の虚空。おまえは墜落に恐慌もきたさず風を切って重力と踊り、ベントレイの上、両脚を突いた。黒面処理が黒曜石色に爆ぜ、衝撃が末端から体幹までを見舞うが、それしきならばさほどの苦痛ともならない。鞘を捨て、たわむ天井を転がると獣じみて低く伏した。
あとを追ってそっと降りた片澤が、ほんのひと振りで略刀の短縮刀身を伸ばす。
「なんであのとき殺さなかった」
と、おまえは睨みあげた。
「面白いから。それだけだよ。平然としてた仮面にあんなひびが入るなんてね。どんな死体を見ても、お仲間をゴミみたいにされても顔色ひとつ変えやしなかったのに、あんな呆けた面になるなんて。信じきってた腕を発揮できなかったの、腹立たしかったかい……」
「ああ、心底な」
「安心だよ。本当はもっと遊びたかったんだ、あのざまを見て。でも、空爆は既定路線。引くしかなかった」
「ゲリラとの密約か」
と唸るおまえに、片澤は苦笑して見せ、
「ゲリラとの調停にいたるための必然」
「だが、いまならやりあう時間はいくらでもある」
「こうなる気はしてたんだ。わたしの顔をまじまじと見てたような人間だからね。こちらも邪魔は入らないようにしてあるから、せいぜい、深追いしてきなよ」
と、またしても認知が跳んだ。外界の感触が、あたかも無関係な写真を並べたように、不連続に変質し、前触れなく片澤が間合いにいた。
躍る刃は蝶を思わせ、空間を殺意で赤く膨らます風音が、ひらり、と頬をかすめた。
軽量きわまる刃は重心、軌道を転じ、ときに構えを正手から逆手と変え、肉薄は真を悟らせない。剣術とはいかにも化かしあいであり、念頭にあるのは呼吸や筋肉の動き、兆候の探りあって、最前におかれたその流れをコントロールし、支配下におくのだ。
迫りくる剣筋を徹底して逸らしていく。フィラメントの損壊を招くだけの打ち合いなる失敗は犯さない。寸前でかわし、翻れば鎬を押し、その隙に剣筋の行方を急所に狭め、一分の虚から死を削りだす。小振りな弧をミリの差でかわし、手、脚、脇のあらゆる間隙に切り返した。戦闘支援ウェアが身動きから計算した架空線がひとつ、ふたつと円弧を引くが、どれも無意味だ。片澤が構えの機微で騙すやり口を知らないわけがなく、その証拠に予測へ沿うのは始点のみで、即座の反転が襲ってきた。
読みあいの果て、順序を決めたように双方、計二十手が層をなした。ひとつずつが死に直結する一閃を手先でずらして欺瞞として、円状の運動により刃を跳ねあった。爪の先。指の腹。掌。素子が凍てつく刀身を感じた。本気で殺したがる絶妙な角度と角度の応酬に、背骨のわななきを隠すにも苦労した。刀身がわきへと逸した流れから、身を寄せて、柄頭で打ちつける。足つきをにぶらす向こう脛への蹴りを避けた。閉域抜刀の極近接展開はナイフ格闘へと似通った複雑なつながりを読解でき、なのにおまえは、何かを読み損ねていた。理解からほんの一コマ分のずれが手数にずれを生み、致命傷とはなりきらず、それでも意図せず折れる軌道で小指を真面になぞられた。切られた指の尖が、こつりと地を打つ。
おまえは突き放すように退歩を引いた。
一気に広げた間合い、四メートル分の平静で抱くのは焦りでなく疑念だ。
何かが違う。疑念が焦げつく。化かされている。手足に糸を引く振りつけ、肉体の御する法がこうも不完全となるなんて。化かすはずのおまえが。
首を傾げ、円を描くように歩む澤の足音に耳を澄ませるおまえは、静寂のふちに佇った。
化かす。浮かんだその語が、下段の構えとして仕切り直す挙の、一拍後、推測に焦点を結ぶ。なるほど、とこぼすつぶやきの裏にはりつく破断の膚触りは、おまえが「らしさ」の習癖に慣れすぎていることを痛感させた。
キチキチ――早まる歯車が告げた――キチキチ――当然なのだ――キチキチ――殺しに手段を問うべきではない――キチキチ。
かわすのは一刀と一刀の対だけではない。
意をめぐらせ検出したエラーを樹状表にインデクシングし、路面へオーバーレイすると無数の赤が引かれた。どれも一度気付けばどうともない小さな嘘ばかり。それでも上積みされれば知覚は氾濫して、割れた鏡へ像をいくつも描くように、虚像を見せ、一瞬の盲点は致命傷となる。それはおまえが、わたしが近江から得た電子戦論の憎たらしい継承を暗示した。
あるいは近江を裂いた死の正体を。
額の裏に残る違和もまた、証拠のかけらと気づかされた。舟木のメールに憶えた違和。眩暈。知るには遅すぎたくらいだ。口角を吊れば、片澤が半面に目を見ひらき、
「おや、お気付きかい」
「小細工とはやってくれるじゃないか、ええ……」
「使える手段はみんな使うのが好きでね。いざとなれば出し惜しみしないにかぎる。それでこそ手に入れた甲斐もある」
そう、手を尽くすべきなのだ。わたしは、おまえの刀刃に拘泥しかけた手をとった。
再会をきちんと祝おうじゃないか。おまえは、わたしは、笑みを大きくねじあげた。
殺しのすべを尽くしてやろうじゃないか。はりつかせるような仮面の笑みではない。
武者震いで募る熱が頬にのぼり、どこかしら恋情にも似て、記号を脱した、穢らわしいまでの笑えみができあがった。
立ち返る静かな境地でパラコード巻きをかたく握った。踏む歩と意志の裏に、代理演算でない値で能書きを走らせた。メールを足がかりとしてうがたれた隠し扉を潰し、野放図な嘘を封じるのだ。修正。解析。頭が沸く感覚。殺意の緒が接して間合いに達すると、菊ノ本山を繰り、逆袈裟がすれ違う二つくくりを切り落とすまでの二秒で異常をただした。返される舌打ち。認知のずれが失し、間もなく、片澤の逆手が上段から殴るように下す一閃を、精確にのけた勢いからのあて身で突き放した。たたらを踏んだ片澤が不快げに唇の片端を引いた。その面構えが舌の根に悦びを跳ねさせ、笑いに火をつけかける。
本来は交錯をもって刹那に終える抜刀を奇怪な運動量に変える、この処理が愉快だった。嬉々として骨の髄まで刻んだ方法論なのだから。意志を免れた肉体を観察し――目的と自由の二重でかかわる身体に――しっかりと糸で引く。近江の教えは、まだ体験してもいなかった、同じ戦術のかけあいさえ想定して論理を描いたのだ。
ネタが明かされたいま、片澤も速度を早めていた。
ハッキングの足止めに頭心地が焦げつく。刻一刻と電位が脳神経を犯し、解除しつくせない枝から誤信号がやってくるのだ。足への震えで踏みこみと構えをずらすマイクロ秒単位の遅れ。微細だが、下段より刃の逆だつ機をなくすには充分すぎた。高深度に迫るそれは、しかし待っていた機でもある。
手数を盤上より拭い、重ねなおすのだ。
身中に毒を忍ばせ、目下、ノードとしての手足に畳みかける改竄にむけ、徹底した連動制御の訂正を巡らせた。せっつく能動性を笑いながら。おまえは、わたしは、手足を欠く亡霊めく動きの連なりで、圧倒に酔う片澤をぎりぎりで翻弄した。凡庸ながら放つには値する太刀筋。ふらつき芯をさらさぬ足さばき。不意に虚へ放つ蹴り。それが十を数えたとき、ついに罠は芽吹く。仕組みは単純だ。ハッキングが予測される身体ノードの位置を推定し、偽装した野戦マルウェアを敷き、読みこませて片澤への毒となす。必要なのは悟らせないための詐術――肉体に千里を隔てる防壁を眼差しで超えて、覗きこみ、その身に生じる挙動のいろはを読み取る。あたえるのは空隙などではない。誘いこむ。おまえの描く挙動。わたしの描く演算。片澤自身がこの身体に送りこむ嘘まで部品とした、目には見えない連続体によって、およそ五十手先、案じえぬ結末にまで絵図を引いた。まさに騙しあいだ。片澤も何かがおかしいことは薄々、気づいているだろう。でも見透かせまい。
おまえと、わたしと、片澤は刃をすれ違わせ突き放しあう舞踏を踊る。生と死の、亡霊と人間の、不規則な、死に落ちる痙攣が生起する振り付けだ。
刃を背かせる手先と優位にたつ足の描く円運動。
足をさしはさみ、絡めては動きをとめ、片澤はそれすら抜けて見事に踊った。
ステップが増えるにつれて戒めはほどけた。
片澤の軌道が致命的一線を求めようものなら、それを縫おうと腕をねじり、まともな関節や腱では耐えられないような、人らしさが脱臼して引き攣れのくねる構えで追随した。強引で不均整。片澤は蜂でも飲んだような頓狂面で、おっかなびっくりに距離をとる。
逃すものか。執着心が叫ぶ。殺してやる、絶対にだ、殺してやる。怒りと似た衝動。魂の秤が大きく傾く。それは期待だ。同類と演じる闘争への。
奪われたのは仲間でも戦争でもなんでもない。心底からの期待。本能をくすぐってやまない女に寸前で逃げられ、堪らずに叫んだ、憎らしく、口惜しく、魂を引き裂く切望が、血を吸って潤う。
この女に壊されたいとすら心のどこかで思い、なにより、自分で壊したいと――
おまえは、わたしは、あの日を思い出す。
おまえは膝を鳩尾にねじこみ、片澤もすかさず頭突きで眼窩を打って寄越し、痛みが奥底まで沈んだ。ほどけた髪が鎖のように鬱陶しくまとまとわる。けもの同士の争い同然。拳で、肘でたがいに頬をえぐって身を離すと、送るべき刃を霊感が知らせ、嘘偽りなど通用しない魂の辺陬に導かれた。おまえは、わたしは、押しきって軸足を奪い、衝動的な切っ尖を逃げ場のない突きに変えた。血の紅を引き傷までが艶やかで柔らかな上唇。真珠色の前歯。真っ赤な舌。容赦なく裂いて押しこむ横倒しの刃を切り払いに変えかけて、なのに思いもよらぬ片澤の歯噛みが刀身を食いとめ――ついにおまえを、わたしを、読みからはずれた浅からぬ筋がとらえる。つまった臓器に実感させる激しい痛みが、脈で膨れ、猛烈な吐き気と腹圧の押す不気味な脱落感に息が浅くなる。
一気に血が、命が失せ、すべてをほどく一瞬への秒読みがはじまっていた。いや、だからこそここからの数十秒間は混じりっけのない真実ともなる。
推論。まだ何十秒もある。充分だ。
さらに来る刃に応じて切り結ぶ禁じ手に、菊ノ本山が甲高く喚いた。後はない。後などはいらない。罠に追いつめられればいい。歩の踏みこみ深くし、手数に横車を押そうと、ほっそりして無駄ひとつない首筋に狙いをつけた。心因性の度胸なる銃爪ではなく、器質的なひだのおりなす本能が決めていた。一身を一刀として白刃としての本能に委ねろ。大口をあけろ。踏みこめ。片澤の首へまっしぐらに食らいつくと、口蓋に満ちる甘ったるい香りが熟れた洋梨のそれだと気付かされた。洩れるか細い声を振動として感じ、顎の咬みあわせを奮った。ぷつりと弾ける膚も、柔肉も、果実を頬張るように大きく齧りとった。吐き捨てれば、存外、愛らしい悲鳴があり、傷を押さえる華奢な指に鮮血が爆ぜていた。
踏むのは逃げ足だ。ゆがんで揺れる灰色の月に浮かぶのは恐怖だ。余裕などもはや些少も残されてはいなかった。もっともっとおびえろ。怖気の迷路にはまりこむ面を見て胸はぬくもり、歩が速まった。
あの夜落とした
もはや死んだ
この一刀に
澱みなき
血の雫
一滴
を――
求め、柄を身に引き寄せれば、一挙一動で鳴る。
キチキチ、と嬉しげに。
構えを最上段へ送る高霞。おまえの鋭利さに相応で、わたしの願望の結晶した構えだ。
これほどに高く――キチキチ――やつを求めて――キチキチ――嬉しげに高まり――キチキチ――歯車が叫ぶ――キチキチ、キチキチ、キチキチ、と。
距離を飲み干すように寄れば、片澤がうろたえた刮目と切りあげで迎え、かわしざま、横合いから略刀を打つ。踊り狂う火花。切断の手触り。寸足らずの四段伸縮が舞い、呆気にとられた片澤の声が、ああ、と震える。汐時だ。
おまえは稟質を最速につくした刺突とする。
わたしの頭に、胸に、重く硬い音が響く。
眼に怖気の滴る片澤の胸へ飛びこみ、たやすく抜けて、とん、と鍔で叩いて止まった。
それはいちばん大きな歯車をはめこむ音だ。
大事な、なによりも惹かれる歯車がここに――キチキチ、キチキチ、キチキチ――高まりつんざく歯車の嗚咽に、わたしは、おまえは溺れた。
後ずさるように倒れゆく片澤に引かれ、ささえる余力もなく、わたしは、おまえは倒れ伏した。痛みが褪せた。上下が曖昧だ。息が鈍く、吸うほどに体温が逃げだした。わたしは震えるばかりのおまえの手をとると、残滓を振り絞って片澤の頬に、怖気でこわばる熱に触れた。指先にからむ途方に暮れた喜び。ついに完成した大歯車細工が、ゆっくりと、静々とした停滞の音に移りかけていた。止まってしまうのも不思議と惜しくない。構いやしない。当たり前だ。欲しかった歯車はもうここにあるのだから。
「きれいだな、あんたの目玉は」
と洩れるのは、境いめの失せたことば。
よじるのも難儀な身をどうにか寄せ、焦点のずれる目を凝らして覗いた。涙で輪郭のゆるんだきれいな灰色の月。神経電位が溶けだしてとりつく輝き。
キチキチ、キチ――キチ――キチ――
きれいだった。腹がたつくらい。
片澤のこぼすかすれ声が、熱く唇にかかった。
月は夜に呑まれ、仕掛けも間延びしていた。途方もなく安らかな、はじめて抱く心地に目蓋を落とす。見えるものはない。触れるものを強く感じた。聞こえるものが導く。拇指の腹でなぞる血のこごった膚の柔らかさに、心地はいや増していた。
もう何も聞こえない最果て。
胸にたしかに感じられるのだから、聞こえなかろうと構いやしない。やがて闇を混ぜ返す風だけが、蒙昧なわたしたちから、なにもかも拭い、去っていった。