サイバーっぽい殺伐百合中編。 Plastic Spectre.前編 |
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紅が有象無象を摩滅させた。 歯車が苦しげに速度をゆるめ――ギチギチと――おまえの目の奥で白熱していき――ギチギチと――赤らんで――ギチギチと――ついには崩れていく。 炎が真っ赤に裂けた口のように広げられ、そこらじゅうを呑みこんでいた。自殺的爆撃。白々と、海生哺乳類の剥製じみた あのわずかな時間が停滞し、凍りつく。 あの女。爆心地を産んだ微笑だ。 世界は現実味のタイルが剥がれる音をさせ、天蓋までこぼした。砂礫が目を細めさせた。熱が体中を覆っていた。背骨が浮きたつほどの怒りが燃えさかり、なのにあの笑みに心の底は凍てつかされた。 それは生け贄の羊を見る眼差しだったから。 おまえを祭壇で見やる眼差しだったから。 死にゆくものを笑う眼差しだったから。 予定調和のなか、落ちてくる瓦礫が仲間の屍を潰していた。尊厳など、事前に引き剥がされていたのだ。多くを葬ったこの祭壇とあわせてすり潰されてごみとなる。 見上げることしかできなかった。 おまえを、 「良い吠え面だよ、それ、見たかったもののひとつでねぇ」 と、女は言って寄越したものだ。 おまえは叫ぶ。 殺してやる―― けもの臭い声。殺してやる。繰り返した。殺してやる。繰り返した。殺してやる。それしか知らぬように繰り返した。絶対にだ、殺してやる。できやしないのに声だけ高く。 怒りがおまえを飲みこむ―― 文字通り、手は断たれていた。義手から生身までを巻きこむ太刀筋。二の腕から下が左右どちらとも、掌を虚ろにひらいて転がっていた。 「その意気だ。その意気で一歩でも多く進んでみなよ。お国のための肉体はさぞ頑丈なんでしょう……。この幕引きに逆らってみなよ」 ステップがひらりと退いていった。 女の目が残月のようにおまえを見下ろして間もなく、三つ編みが最初の爆風に翻り、それは死者を打つ鞭に見えた。おまえは這い、追いすがったが、手立てもなしに何ができよう。抜く間もなかった脇の一刀と体の軸が爆発の衝撃に熱に押され、地に伏せった。女の胴から股へ渡るハーネスが天へと引かれるまでのわずかな時間に、ねえきみ、と聞こえた。告げられるが早いか、黒服に包まれた薄っぺらな輪郭はたやすく夜明け前の藍墨色に吸いこまれ、笑みは夜に焼きついた。おまえはひざまずいた。砂礫を噛みしめた。胃液を吐き散らしながら目にしたのは、何機もの、白くのっぺりとした やがて身を投げだす雨粒が、生き残ったおまえの頬で煤の筋を伝わせた。 そこは爆心地となり、囚われた魂を天に送りだす炎の渦中と、呪術の坩堝の底となった。おまえは逃げ足を引きずった。目のはしに、断たれたおまえの指から抜け落ちていた 怒りがおまえを飲みこむ―― 都市ゲリラ掃討の 喪失の怒りが―― 仲間たちはみな死んでいた。屍は灼かれ、焦がされ、瞑目し、とじる瞼を失い、目玉は茹って。死んだ。みながそうだ。死に、なのにおまえは生きている。 あのわずかな時間が停滞し、目に凍りつく。 爆心地を産んだ微笑が時制をなくし、永遠になる。 おまえは―― 生き残ったのだ。 あの二〇二五年―― おまえの熱が死んだ日。 あの秋の終わりに―― おまえの戦後がはじまった日。 戦後に無機質な亡霊として歩みはじめた―― あの日といまの境目のなさに、気づけすらしない。 知ることと理解することは違う、と惨めなおまえは思い、死に損ないの足を引きずる。 音が近づいて遠のき、遠のいて近づく。 目を焼く色とりどりの炎たち。 かき消す紅から色味は増え、収縮していくそれが崩落という曖昧さと違う、街をなす。 歩け。夜とネオンの柱。歩け。光をゆがめて街が呼吸する――歩け、歩け、歩け――繰り返すほどにおまえは目を醒ました。はじめてそうすべきと知ったように息を吸った。 雨滴が頬を伝い、顎を伝い―― 十二月の雨を混ぜ返すどろりとした辻風が、ろくな手入れをしていないひっつめ髪を揺らす。濡れた毛先がはりつくけども、払いもせず、木偶の足取りを進ませた。豊穣にして卑俗な経済の実験場。東京。見知った記号を求めて目を投げると、振り見た彼方、千葉市へつづいていく、数百階層もの奇妙な段上に富裕層と中流を収容した都市が、さながら世界の果てで建つ永劫にして不朽の宮殿のように、目の底をくらませた。 思いだしたのではない。あれは記憶でなく現実であり、常に、そこにある。気づくか、気づかないかで、気づけばひどく困惑する。 腰の革ベルトより吊るす一刀、その柄の底にかけていた手に、食指が痙攣した。 寸前まで車中で夢心地と思っていたはずが路傍にいる。降りてしばし経つのだと認知に理解がなじむまでには、一拍が要った。荒川再開発区というはなはだ薄弱な現実感。街場のざわめきに感じるわずかな困惑が、つんのめるように歩くうちに理解へ変わった。あるかないかの目的意識に背を押された。 人を斬れ、と。 血を求めて歩く。足を進めるおまえは空っぽだ。血を求めて歩く。腹のうちに何も残されてはいないのだから。血を求めて歩く。駆動因はあたえられたものだけ。血を求めて歩く。おまえがおまえ自身にかけた呪いを引きずって。 より濃いあの血を求めて―― ひざまずけど這い、脚を失えど這い、仮令、進みゆく意志を忘れても這い、進みゆく。 監視カメラはおまえを見ず、通りすがるものたちの目にとまることもさほどない。 肩をかすめるのは愚昧の徒ばかりだ。おまえをすり抜けた目は虚空に据わる違法値にすれすれなレイヤー量の広告層に溺れていた。 ナノマシン腫瘍が織りなす脳端末たる拡張識は誰の脳にでも沈着し、当然のように、おまえの目先にも共同幻覚を照らしだす。 着つけたライト・ウェアで広告となった男たちも多かった。おのれを看板として契約した人々が光学繊維で発する認識コードは資本主義幻影――トヨタ、新築ゲーテッド・マンション、保険会社、大鵬クルップス 茫洋と袖を引いて、防滴の盤上に目を落とした。午後十時。針が打つ。おまえの主観に、ニキシー管状の線形で時刻を散りばめる拡張識の幻像とは装いを異にし、飾りけのない自動巻きには、現実感をさだめる役目もあった。そぞろに顔をあげ、経済政策のあだ花にまみれた人群れをかわす。泥濘が行くようにまごつき、確かめるような歩みだった。雨粒に撃たれて凍てつくにもかかわらず、おまえは炎の熱さを背筋の芯から思いだしていた。 また、雷がとどろめく。 目玉に明滅するあの日といま。 しかし剥がれ落ちたものに馳せる思いはない。 おまえにあるのも散漫なる視線だ。なぞり、読み取り、触れるのみで、ものは思わない。思えないと表すほうがただしかろう。おまえにまともな記憶はない。あるのは過去だけだ。分離して羅列と化した過去を、死んだ赤子のように、後生大事に抱え、いまを思う心もなしに腐りゆく青黒いそれを見下ろす。だから、この世に存えられた。恥知らずでないと存えられなかったはずだ。空白だらけのおまえだから、いまここに立つ。 おまえは亡霊の襤褸を演じる白いコートに裾をはらりと揺らして、夜の奥に足を早めた。夜を生きるけものらしいありさまで雨滴を気にもしないおまえを、ビニール傘のうちから怪訝そうにうかがった客引きの男が、頬の色を白んだ怖気で 無造作だが、まったくの手つかずではない。 雨粒の歌が耳につく―― おまえは生肉の薫香を嗅ぎつけたように歩んだ。 いまのおまえは走狗でしかない。 逸した牙を称えたもう声。 雨音がおまえを嘲笑っている―― 有用性なる首輪。 それも奪われ追放されたのだから。 ヤクザものに 糠雨では怠惰な生存の罪を拭えない―― 裏社会を牛耳る大輪のネオン菊が構えた倭刀。 ぎりり、と鳴るのは奥歯か、手にした刃か、応えて四肢に通う血の量が増え、頭が肥大するような闘争への敏さが殺意を引き絞ることで、雨音がかすれゆく。かわりにあるのは歯車の回る音――キチキチ、キチキチ、キチキチ――影を踏むたび聞こえた。おのれのすべきことを知るものは幸福だ。拍が速まった。アドレナリンに頭がふらつき、左右に揺すった。 闇の儀仗兵こそおまえの名にして体。 春も、夏も、秋、冬も、腐敗した四季をめぐり――求められた数だけ――朝となく、昼となく、夜となく――求められた数だけ――男を、女を、老体を、子どもとて――求められた数だけ――事務所で、路上で、車中で、埠頭で、寝床で…… おまえは、刃をたててきた。 らしいふるまいは手指になじみきっていた。ベルトに吊るした鞘を握り、柄を握った。パラコード巻きを黒い指に食いこませ、ゆるりと鯉口を切った。 静寂に和し、銘を菊ノ本山とする一刀が笑う。 と、それをスイッチにきらめきが爆ぜ、拡張識が、神経を電位で淫らにさすり、吐気を招く光の認知が世界の奥行きを変え、背骨が震えた。毒々しい歓喜が生のふるまいを 保安に常駐防壁ルータを噛ませているからだろう。どいつも安心しきり、高速化したさにアンチウィルスソフトを軽量フィルタにしていた。鍵がバレていると露知らず、呑気に自我の尻尾をふらつかせていた。 ナノセカンドで閃く機械的腫瘍――おまえの求めに火花の渦、電子の地図で応じた。 一秒に満たぬ思案で探り、浅はかな人格の壁のむこう、いくつもの目玉に侵入プリセットでこの世ならぬガラス細工を通した。登録ずみの戦術ウェアは細工を参照して、おまえの行動癖からの代理演算によって最適表示を選び、コートの白い裾に色を転じさせ、 介錯人らしい笑みの仮面をかぶる。キチキチ。歯車がけたたましい。キチキチ。嗅覚なき鼻腔に、ほのかな錆の香り。キチキチ。おまえは扉を肩で押す。 「誰だてめぇ」 と、遠のく雨音にかわり声がした。 おまえは誰だ、誰だというのか。 とじた扉が、指に おまえは血を求める亡者だ。悪霊だ。 銃を抜く手つきを解するよりも早い反射で胸を蹴り、靴底の 次の半秒、最小挙動で鞘を鳴らし―― 居合が、 仰天にこわばる首を一閃ではねれば、昔ながらのトカレフをとる手はぶらりと踊った。土壇場で おまえは刃を振り切る前に引いた。広いと言い難い部屋だろうと、刃を引っかけ、壁に届かせる 首筋をなぞる横一閃。 肩口を下る袈裟斬り。 頭頂までの逆縦一閃。 今一度、走る横一線。 銃をまっすぐに構える所作への意味が生ずるか否かの間隙に、軌道は往来し、そこでは照準にいたる暇もあたえはしない。 電位の仮構が目に描く推定飛翔経路はどれも見当違い。その補助は、いつとておまえの直感を後追いして裏づけるものでしかなかった。 密室を乱れ打つ 肥大した五感に、銃の作動音がすがりつく。 薬莢がぬらりと硝煙の糸を引いた。 火薬式の騒がしさは、もちろん、おまえの影以外、一切をとらえられない。コートの繊維上、秒間二十回にわたり明滅する撹乱演算の ハッキングでかざす狂いの色ガラスは、またたきを増して神経をねじまげる。誤認の幅、実寸にして三十センチ。付け入る隙となるに足りた。 銃火のむこうを見据え、手近な壁を 血はしぶけども避けて通り、眼鏡の 一直線の通路が果てる前に、おまえは鉄のささやきを耳にした。 歯車が煽る。 キチキチ―― 粘つく キチキチ、キチキチ―― 重く落としたがる死。 キチキチ、キチキチ、キチキチ―― すなわち大型拳銃の尻に起こす撃鉄だ。 キチキチ、キチキチ、キチキチ、キチキチ―― 硬く冷たい音色が撃鉄のはしとそっと噛みあう。 おまえは壁へ背を寄せた。回線からえぐる拡張識の位置情報が働きかけ、射界を予測して危険域をさししめす小円が扉に散らばった直後、差し渡し七度、くぐもって低い銃声と質量が爆ぜた。大気が銃弾で膨れる高い擦過音。黒ずんで重々しい木材を一瞥――音速を超えた甲高さと細やかにこじあけられた射出孔は、 「なあ、真部よ。銃なんぞにすがってないで、さっさと腹を切れよ。おまえの価値は腹を切ることでしかしめせやしない。親分衆からの言伝はそれだけだ。救いなんぞありゃしない。せいぜい、きちんと死ねよ」 数えきれぬほど諳んじてきた口上。 言う間に弾をついだのだろう。銃身の先をくるむ黒い筒先が出迎えの発砲で硝煙を渦巻かせ、肥えた死相がくすむ。弾道はそばを素通りした。ぎり、と奥歯を鳴らしたおまえは放たれた矢の速度で迫ると、ただひと振り、ディマコDE自動拳銃の銃身から手と軌を通して指ごと両断した。 おまえは尖峰を鼻先に突きつけ、 「気迫で押せるほどやわじゃない」 ひざまずく真部は切り株じみた手を押さえ、苦痛でなお奮いたたすように目をむき、 「舟木の差し金か。てめぇの脳みそで考えもしねぇ傭兵風情が」 「風情なんざ興味ない。さあ、心構えをしろよ。芸がないならないなりに。若頭も舎弟も、十全に理解していたがね。みな腹を切った」 おまえはコートの前を跳ね、 「なあ、法度のケツ持ちをしたんなら当然だろ……。 と、ディオールじたてのスーツに釣り合わない かつての連帯の証にして、十人分の血脂で薄膜がはる無残な小道具。これは決闘でも暗殺でもなく、介錯でしかないのだと告げるように。介錯。なんと美しさばかりを気取った語だろう。本人の手によってなされた腹切で、秩序に自己犠牲の緒を結ぶ。けじめと称すおためごかしを塗りたくる美学を遵法に優先させ、処刑を綺麗ごとに解釈するのだ。 それが 単純な世界観の命乞いが耳朶を打ってち、頬のたるんだ童顔は不細工にゆがむ。 おまえはじっと、じっと、じっと見下ろし、やがて覗く瞳に一点の死を灯す―― 真部はためらいがちに柄をとる。 死の色は無色ではない―― 「頼む、殺す前に、一回、やり直させてくれ。あのやりかたじゃ稼げなかったんだからよ、叔父貴に、叔父貴にもっかい話をつけさせてくれ、頼む」 とジャケットを脱ぎ、不器用に刃を抜き、 「後生だ」 「他に言い残すことは……」 「爺どもに忠義とケツ振って、おれには礼儀のひとつもねぇってのか。クソ殺し屋のクソ女狐。おれはうまくやったんだ、うまく金を、金を作って。畜生が、クソがっ」 と真部は力んで舌を震わせた。 おまえは一分たりとも揺るがず、 「他に言い残すことは……」 無言に、死が憎悪を色濃くして燃える。 こどもじみて垂れるすすり泣き。フェイントにしてスイッチングだ。うつろな手足のすみずみからにじんだ刃を翻したがる所作など、おまえはとうに見抜いていた。と、圧縮空気が鳴る。爆ぜた真部の二の腕が微径弾を吐いたのだ。殺傷域を絞って放たれた数千の細かな硬質ガラスからなるその剃刀状散弾を、おまえはただの一挙、身を傾けて避け、勢いは足に伝えて すれ違う刃を ただしい角度で刃を落とすと、 おまえは一刀を逆手に反転させた。指のうえで峰をうながし、尖よりすとんと鞘に納めれば、鍔で打つ涼やかさが甲高い。 刃の おまえの背を音の針先でなぞる音――キチキチ――奪った命の数だけ、響きがあった。 踵を返し、歩みだした。 死を看とるものはおらず屍だけがあった。 外へ出れば雨はやんでいた。 よどんだ雨上がりの風が頬を撫でつけて、セルロイドの月だけが世を明かす。 月。 反転する。そこは昨日を今日として、時制はない。 あの女はぐいと顔を寄せ、 「ねぇ、お人形さん」 気持ち悪いほどに澄んだ目に光彩がぎょろりと灰色を際だっていた。腐肉を思わせ、あるいは曇天に昇る月と似てもいた。いつか父がおまえに憶えたであろう忌まわしさに息を飲んだ。おまえはぞっとした。女はおまえの聖杯となり、のちに心象は裏付けられた。干して割るべきもの。さえずる予感――キチキチと鳴る――たしかに抱いた。 感傷などない。 焦慮の毒がせいぜいだ。 おまえはあの女を追い求めずにいられない。 あの、月を悪意に細めておまえのすべてを覆した女を求めずには。 月。 反転した目に照り――それは月ではない――おまえは気づく。 生暖かくすえたアルコールを含む息。 豆球の濁った橙。 囁く時計の針。 午前三時の軋み音に囲われていた。 おまえはぼうっと感じる。股ぐらをかきまわされ、突きまわされ、不快感が腹の奥にのぼりくる。覆いかぶさる見慣れた輪郭を虚ろな目のふちに残し、天井を見あげると、ぽつり、ぽつり、ぽつり、と息を洩らした。あえぎ。呼吸。よどんだ衝撃への呼吸器と肺臓の反射。おまえは申し訳程度に身をよじった。鈍い行き来だけがあった。早まり、銃口でも押しつけるように腰が深く打ちつけられて、短いうめきと静寂が腐肉のようにぼたりと落ちた。 黒い塊が、男の形でおまえに覆いかぶさる。爛れた影が落ちてくる。 おまえの上に。 口づけを寄せて唇をこじあけ、歯をこじあけ、舌を求めた。他人を所有物と思いこむ習癖のなせるもの。勘違いでしかない。おまえに反射した、自分自身の鏡像に舌を絡めあわせているにすぎない。なのに、男は気づきもしない。 おまえは自慢の刀で、最高の鞘だ。親分衆の喝采はおまえが受けるべきだ。おまえだけが屑どもを本当に裁ける。おまえが、おまえが、おまえが――饒舌にゆだねてつぶやかれる声は、毛ほどの意味もなさずに上滑りし、汗にまじってこぼれる。 白痴という薄いガラス膜の表層で。 おまえは、ただ笑って返す。 哄笑の声――ハ、ハ、ハ、ハ――頭蓋に 人形の笑いは男の耳に届きやしない。 腰が離され、ずろり、と抜け落ちる冷やかさがあった。品のない桃色のラテックス膜に包まれたダーウィニズムの白い泥濘。股ぐらでしとどに濡れそぼち、吐きだされた汚泥。男は大儀そうに抜きとり、おまえの 頬をゆがませて笑う。 するどい歯をのぞかせぬよう笑う。 黒々として虚ろな目を白い瞼に細め、濁った電灯で矯め、ただただ笑い声をあげる。 自動的な、濁った喜びをくすぐるような笑み。 排泄される感触。孕むことも能わない、角度を変えれば十四に満たぬように見えかねない細った肉への、愚昧な情欲は、腐った笑みのなかに艶を見る。淫売の真似ごとをするまでもない。愛想を欠く女でも愛でられる隙を見せれば人形くらいにはなれた。 情欲の底に暗いおびえのある指が、太腿を青黒く彩る大剣の紋様、寄り添う語に触れた。 戦時生活の名残である刺青から汗ばんだ股ぐらまでを、なぞっていく。 濃く広く叢がる茂みを。 腿をのぼりゆく 筋張る腹のわずかな曲線を。 数えられるまでに浮く 薄くとりつく血管の青い胸乳を。 脈の浅い首筋から仮面の頬までを。 そうすることで輪郭をつかもうとして―― おまえを所有することなどできないとはちっとも自覚してはいない、つかみ、引き寄せれば自分の許におけると信じこむ愚かな手つきが、おまえの肉を探っていた。おまえの死臭をシャワーで流し、餌をあたえ、 妾ですらない。 腹に泥をつめた人形なのに。 おまえは、ありもしない手を伸ばす。肘から先のない、あの日、失われた手。舟木は半身にさらす不具を好いていた。義肢をはずした、珊瑚状のぞっとするようなフラクタルを引き写す瘢痕を、ひやり、とあてがう舌で執拗に舐めまわした。人殺しの手など触れさせられない。そう無意識の演技で告げたときにはどれだけ喜ばれたことか。二の腕から、不様に途切れた先端にいきつき、乳首をもてあそぶように吸われた。 うずく痛みを赦すのは、いわば契約があるためだ。 ここにあるのはねじ曲がった独占欲だ。 刀にして鞘であることと引き換えに、おまえがすべきことをなす日を、舟木組の長として関東ヤクザの不可視化された網の一端を握る、この男が、いつか用意するはずだ。諜報という黒い霧に片足を浸し、ゆえにおまえを見つけ出したこの男が。口封じにも近い長い病院生活の終わり。錆ついた刃は掘り起こされ、契約を結んだ。だからおまえは人形を演じる。律儀な男はそれでひきつけておける、と知っているから。 おまえは本当にほしいものを求めた。 おまえは人斬りの快楽にも指を伸ばした。 おまえは失い、またおのれを刃とし、起きた。 死を知らない屍には世を歩む道理がいる。 ねえ、そうなんでしょう、舟木さん――おまえは、舌のうえでだけ唱えた。 演じていれば、ねえ、足痕をきっと見つけ出してくれるんでしょう…… 張りついたままの仮面で作り笑いをこぼす。 哄笑の声――ハ、ハ、ハ、ハ――頭蓋に 絡みあう鉄が、ゆっくりと回り、連なり、ひとつながりの動きをなすかたち。 ただ一点に空転を残す歯車の群れ。 薬で頭がぼやけていた。意志をつなぎとめようとするが眠りは深みへ誘う。鈍って、摩滅し、無機質なにおいがする橙の闇。次に薄目をあけると、部屋は空っぽだった。 肺の動きを検めるように短く息を吸い、吐き、酸素で頭を満たす。身につけるものがブラトップとショーツで足りるのは、暖房と加湿器をつけて帰った舟木のおかげだ。布団のそばからとった義肢を分子間力でかたく接ぎ、眼下に湧く神経系リンクの、オレンジ色をした連結標へとりすがるゲージが百パーセントに達するまでを凝視した。 やがて神経をねぶる生ぬるいうずき。ぞわり、と鳥膚が合図となった。 ひらいてはとじ、十回、二十回、と拳をなしてほどくと、偽りの身体性を取り戻す。 始終を、おまえのものであり、決定的におまえのものではない客体に繰り返させる。生存とはそうした反復の拡大にほかならない。鼓動の反復。代謝の反復。体に起こる化学反応は命を反復させ、呼吸を、心拍を、思考を反復する。反復は今日を昨日に変える。手にすべき一瞬のための限定された循環でもって、小さな柵のなかを往来するおまえ。無慙に生きながらえ、日々という泥をすすり、ヤクザものに解釈をあたえたまう、零落した刃として残りつづけてきた。ただれた肉体への刃毀れを拒み、せめてもの抗いとばかりに腕立て伏せを、腹筋を、懸垂をはじめる。そこにどれだけの意味が内包されているのかはわからない。 うぬぼれたことなどは一度もなかった。 ただ当事者として、理解していた――介錯の切れ味なしには一介の肉塊でしかない。おのれを誹るかたわら、心底でこう唱えもした。予感のためだ、と。 目に読みこむ 光の明かす六畳一間。布団だけの部屋は、舟木があたえたもののひとつだ。何畳も、何部屋もいらない。存えるのにいる場所と道具は限られ、例外は介錯の道具くらいのものだ。おまえは、砂の踊る濁流を思わせる雲の散った朝のなかでトレーニングに息を切らす。汗水を垂らす。白堊の錠剤を噛みしだく。苦みを水で嚥下する。また汗を流す。暖房を消して冷えつきはじめた部屋で身じろぎを反復し、目をとじ、かき消しても浮かびくる過去に震えた。 三度の変転。 一度めの反復。 生を剣の道で犯したのは父親だった。 侮るな―― 剣道。競技と礼節の顔をしていた。 それがお遊びにしか見えない、ひどく下らない、義と称した物語臭い道筋を人生に重ねさせたことを、憶えていた。 はじまりがあるとするなら幼い頃の所業だろう。 海馬のなかで真昼の色をしている過去だ。世界の輪郭となる金魚鉢から逸して畳に落ちた 物心がついたときには魚を、虫を、小鳥を、猫を、命を潰す生ぬるい心地よさで総毛だつことに慣れていた。 感情任せにつかんだ細腕へと痣を残す力は、抵抗の芽を摘むのに充分だった。 おまえは疑問を少しも抱かなかった。父を怒らせるのは自分だとわかり、かたや、その自覚と行為への恍惚は分離していた。 だからみずからを他人事の膜で包むすべを学んだ。 泣くことどころか、うめくことすらやめた。 父は退屈で、声ばかりが大きな他人となった。 命を明け渡して死んだ妻に似ながら違和で爪が黒ずみ、人並みに笑えもしない娘を、父はみずからが営む剣道の、礼節を気取る暴力で矯めたがった。背をたださせては竹刀を振らせた。構えを骨身に書きつけ、気に入らなければ心が入っていないと打ち据えた。浅はかな反復。猫のぬいぐるみは踏みつけにされた。縫いめからあふれた綿は痛ましく、なぜか確信させた。わたしの腹にもそれがつまっている、と。ことあるごとに父は、おまえという破綻は決して許されない、と告げて憎しみの鋳型で潰し、家をでる日まで虐げた。 性徴が肉づきはじめた年、父は一度だけ首に手をかけた。無垢だった日の面影を探す親としてのうめき。赤らむ視野に憶えた毒々しい恍惚――苦痛の感触――爪先で掻く畳の感触。苦い悪意でも、壊れ、落ちてゆく恍惚をあたえたことは事実だった。遂げられはしなかったが。妻と同じ顔を壊せるはずがない。殺してくれてたら。恍惚を思い、ときおり反芻した。 他人事の膜で包みこみ、それでなお手にかけた、手のうちからこぼれ落ちかけた命の感触だけは膜をすり抜けて「本物」なのだ、と実感させた。 実感への拒絶を頬にはりつかせた父は、憤怒と呪いを叫べど、「ことば」を伝えることは一度としてなかった。あるいは従順で、人形じみた娘と合い通じることを、もうずっと昔に諦めていたのだろう。肉塊を打つような手の冷たさは忘れえない。それが当たり前だと思っていた。学校を行き来し、殺し、殴られる。父に隠れて、母の遺品である古びたiPodで古いロックに耳を傾ける時間だけが心穏やかだった。 勝ち誇るな―― 二度めの反復。 敵目標を侮るな―― 抜刀。殺人術であると隠しもしない。 あの男は本性を見抜いていた。命を奪わずして愉快な心持ちは抱けない、腐り果てた髄を知っていた。内務統合省麾下、特務自衛隊。 あの男の率いる諜報戦争がための軍門へとくだってはじめて、おまえは本当の笑みを浮かべながら、刃をとった。いや、刃となった。 そう、あの時代に。ねじけた東京にテロルが吹き荒れ、移民排斥とナショナリズムが台頭し、保守政治家の裏面にささえられた首都騒乱の時代。もう終わった時代。空気中を呪詛が占めていたあの時代だ。 騒乱でどれだけ死んだか。 高校を卒業したおまえは家をでるとすぐに自衛隊へ入り、やがて上官がすすめるまま、いくつかの特殊教程を苦痛などまるで知らない面構えで抜けた。そして首都騒乱の治安任務についた。治安部隊狙いで起きたゲリラ戦を生き残った。はじめて人を殺した。何も感じはせず、ただ邪魔なシルエットを撃って排除した、と実感だけがあった。おまえの肉体の付帯物となる銃があたえた感慨はそれだけ。途中で自分も銃弾を浴びた。腕を切り裂いた重いけがと足を貫いた軽いけが。命に別状がないとはいえ短期間の入院をしいられたおまえを見舞う男は怪しく、それでも生活に飽いた頃合いで、機はぴったりだった。 制圧しても勝ち誇るな―― 初老にさしかかる自衛官にしては幼げで細く、穏やかな声色だった。 「きみは人体の脆弱点を知っている」あの男、近江栄三佐は言った。「人殺しにぴったりの目で他人を見られる。躊躇もしない。他人は錆臭い目つきを呪おうと、ぼくたちは心から歓迎する。人殺しらしい人殺しはさほど、させられないかもしれないがね。だが、お気に召すような切り口を無数に見つけられるはずだ。突入して敵を切り刻むことは、嫌いではないだろう……。基準となる接敵距離は、刃を振るい、相手の刮目に恐れを嗅ぎとる間合い。真っ当な心理が圧倒される状況でもきみは恐れないはずだ。そうだろう……」 心臓が跳ねた。 事実はおまえをせせら笑い、近江はまじまじと見据えた。 おまえは疑念含みに見つめ返した。大嘘の気配を感じとった。その気配が平気で大嘘を描き、立体に引き起こせることを知る日は目前に迫っていた。 「きみの心理パラグラフにぴったりの仕事をあたえられる。ともに来るかい。もちろん無理じいはしない。忘れてくれたってかまわない」 「パラグラフですか……」 試す口ぶりに近江はうなずき、おまえの眉間に指の 頭の中身を審査する心理検診――自衛官として平坦にならしつつ、しばしば起こる逸脱も防ぐ措置は、定期的に実施されていた。身をおく陸自での検診は簡易式ながら、内面をパラグラフ上に書きだすには充分だった。近江は、その原本を欲していた。 「目的は……」 と、おまえはたてつづけに訊いた。 「敵勢力掃討。それに限った話ではないが」 「 「ご存知かい」 「噂の段からちっとも精練されてない話はいくつか。首刈りが得意な異端審問部隊、と」 「なら話が早い。仕事の本質はそちらにある。もっとも、狩るのは首でなく腕だ」 近江の言いまわしにおまえはくすりともせず、 「そのためにわたしを……」 「もちろんだ。それ以外には何もない。技能がほしい。刃を操り、手っ取り早くものごとを押さえこめるよう、教育したい」 「率直な誘惑」 「何事も率直に、単刀直入に限る」 おまえは、その声に真っ向から応えた。機械じかけの恩恵。目にツァイス、全身に骨密度補強措置をほどこし、両の腕は硬化アパタイト骨格にまとわる強度培養人工筋として、頭蓋のうち、灰白質定着で端末化ナノマシンを植えた。法を曲解する そして名乗った――墨洲七奈瀬准尉――名乗るべきだと思えた肩書はほかにない。 何度、振り返れどもそれだけだ。 隊の実質的な長、近江は、群狼を率いてなお一匹狼の目をしていた。指でさされた誰それを噛み殺す。目に透くのはそうした単一の目的意識。家族や友人を持てないし、持とうともしない、論理の証明にしか興味がない人種だ。 おまえはその態度と語られる技巧を気に入った。 近江はおまえを気に入り訓練キャンプに迎えた。 何事も率直に、単刀直入に限る。その物言いを手際に変えたような様相に胸躍らせた。 良識をはずせ。規則を壊せ。優美に背け。角度と美観の鋳型より身体をどけながら、新たに踊ることを憶える日々だった。静止と運動のはざま、極微としか言いようのない身動きを骨へ、腱へ、肉へ、と描くほどに、身体を飼いならす形式という枷から逃れ、真に目指したがっていた「運動」を実現していった。 そしてようやくフィラメントの渡る一刀をあたえられて振るったおまえは気づいた。父がしいた剣道は少なくとも剣筋くらいは学ばせていた、と。 身体を道具としつくして近接戦闘に長じる。特殊戦の執行者らしからぬ異形らしい異形にして、過積載のリスクを白兵で背負う不可解なありかたを、第一群で育まれた。それは一点に収斂する目的、不殺の題目を達するためにほかならない。人道主義のうわべを真似ても、その実、人らしさがつけいる余地はいくらもなかった。銃を手ごと断つ。ただちに医療処置をほどこす。資源を獲得するための最適解だ。 特殊作戦部隊らしく待機をやりすごし、ときに敵勢力との接触から最悪の結果として想定される拘禁に備えて、拷問に耐える、レンジャー課程のそれをさらに精錬した心理訓練もほどこされた。敵をのぞくならのぞき返されもすると考慮すべき。しかるべき前提だ。自分の「大切な部分」を「箱」にとじこめる方法。教えられた多くの困難を前にして役立つ見立ては、おまえが過ごしてきた人生のなかで心得たもののひとつでもあった。父の振るう拳をもう一人の自分がやり過ごすのにどこか似ていた。 おまえは籍の統合から三箇月足らずで、恒常治安対応なる暗がりに足を浸した。仕事をともにする分遣隊メンバーとして三人がおまえを迎えた。 大柄で肉づきのいい、浅黒い体躯を猫のように駆けめぐらせる女、マルシア 絵に描いたように屈強な体を影さながらに隠して動かせる男、 タカトシ・マクハティ。 いっそ少女じみて小さく華奢な体つきを殺しの妖精として踊らせる女、 三人とも日本に生まれついて自衛官となり、しかし身に流れるブラジル、アイルランド、韓国の血筋がために 作戦の基本は フルタングにせよ、略刀にせよ、見舞う際は命知らずを奮わせた。 重力と手をとり踊った。 腕を断ち、足を断って無力化した。 殺しと紙一重で、 仲間も息を呑む速度で敵戦闘員を黙らせるたび、アドレナリン質の耳鳴りが破断された。音は何度も刻まれ、いつしか像をはっきりとさせていた。耳の奥をキンとさせる歯車。闘争の真っ最中、おまえに気づかせた。大きな、小さな、おまえの組みこんだ無数の歯車が速めていく毒々しい回転を。 恍惚とする速度と感触と音色。 近江のおかげで知れた。着付けて知れた。振る舞って知れたのだ。語るべきを語り、伝えるべきを伝え、継がせるべきを継がせ、身にひそむは 交わされる共通言語はどこで生まれ、誰を知り、つながりあうかという背広組じみたお笑い草のエリート意識ではない。より純粋だ。どれだけの技巧を抱え、何を知らされ、どんな作戦で、どの対象を、どう殺してきたか。特殊作戦要員としての生は手際が出自に優先していた。おまえにとってこれほど過ごしやすい、理想的なコミュニティはなく、猛毒の恍惚を尊ぶ生きかたを強く後押しするものが見えはじめた。 いつの間にか、闇に目が慣れるようにおまえの組んだ歯車が眼底に映えていたのだ。 プロセスに慣れると、 多くの作戦で三人の仲間と編成を組み、こと行動展開の前、現地浸透では、チュンハと肩を並べた。切れ長の目許を猫目のコンタクトで飾り、ショートボブのキューティクルに埋めた微粒子で作戦ごとの髪色を披露する娘っ子――青、桃、橙、緑――ライダースを好み、おまえといると悪党の姉妹じみた。一度、作戦前の サングラス越し、夕映えの街角で目につく反射物から、六人編成による尾行、さらには襲撃準備もすませているだろう様子を視認した。すぐ動きだせるに違いない。おまえは思うと同時にオンラインへ不可視の指を馳せると、野戦演算をはじめ、 「三秒で目を押さえるから待ってな」 と言えばチュンハのうわついた声が、 「ヤーヤー」 すみやかな撹乱はおまえで、即座の死体製造はチュンハ。二人でやるときの得意分野は明確だった。拡張識の境界を犯してかぶせる幻視は気を惑わし、一隊として連携した歩みを、横並びの標的も同然に変えた。狭い路地に追いつめたとの思いこみ――銃を抜いて姿を見せたとたん、チュンハはリーダー格を蹴倒し、五人を瞬時に 「殺し損じなし。まさに有言実行だ」 と血だまりを見下ろすおまえに振り返り、 「だしょ。チュンハさんのお手にかかりゃお一人様でもこんなもんよ。かわいいお顔に素ン早い手際、われながらマジ惚れ惚れしちゃうでしょぉ」 「まったきお美事」 「お、褒めことばで返すの珍し」 「いつでも評価してるさ。春の疾風、夏の迅雷ってな具合にね」 チュンハは顔を背けて後ろ頭を掻き、 「んなレトリックかまされっとどぉも面映ゆくなっちゃうじゃん。ま、 「可愛げがある謙遜だこと」 「だしょだしょ、もっとかわいがってくれても 「それを見て思いついた……」 「そ。どうよ」 「屠殺場のほうが近くないかね。たしかに上手な輪切りかもだが」 と顎に手を当ててみせるとチュンハも 「ん、 「ひとまずは退散だ。髪ににおいがつく」 「ん、そだね。えんがちょえんがちょさっさと帰ろ」 チュンハはスキップ混じりに、うめくリーダー格の腹をにこやかに蹴った。 殺しは手早く、もちろん捕縛もしかり。 「ひっどいな、この前殴られたときのひびも治ったばっかなのに」 「ごめんてば」 マルシアがタカトシの萎れた赤毛を直してやる。それはどれだけ凄惨な作戦のあとでもなじみの流れで、おまえの隊はいつだろうと賑々しかった。 太刀筋をトリックじみて描くのと同じく、ときに隊の任務が 「悪党しばきまくっと気分いいね」とチュンハ。 「しばくどころじゃないだろ、あっちゃこっちゃと好き勝手ちょん切って」とマルシア。 「下っぱを消しても胸が痛む。手にかけるのは 「頭がさっさと見つかるよう祈るしかないね。お次はどいつ……」とおまえ。 もちろん状況は泥沼。すぐには見つからない。 第一群は狙いを次から次へとスイッチングした。 勢力の動きを鈍らそうと、指揮官クラスに 忙しいときはひどく忙しく、転じて休みとなると一様に凪ぐ。〇から一、一から〇へ。隊では唯一、子持ちのマルシアは、福利厚生や給料の充実と引き換えとはいえ、と緩急によく嘆いた。いいママとパパといい家で暮らしていいごはん食えりゃ文句なしっしょ、とチュンハが鼻で笑い飛ばす。おまえは何を言うでもなく、それでも言いあいを聞くのが嫌いではなかった。困り顔のタカトシに乞われ、とめに入るのも。 おまえは、はじめて同類と呼べる人間たちとの調和を、神経に宿していた。 自爆攻撃によって左腕をなくしたこともあったが、ひるむどころか停滞を一笑にふした。調達された義手をつけて間断なく作戦に戻った。 作戦工程のなかで歯車を拾っていくのは愉快でしかたなかった。だからこそ父が礼を学ばせようとしたのと同じことばが、意味を変えて繰り返された。勝ち誇るな。近江は言った。勝ち誇るな。感情のふらつきで隙を見せてはならない。勝ち誇るな。いつか不意を狙い打たれ命を落とした隊員を礎とする真摯な宣告だ。確たる制圧を遂げて、資源に変えるまで、目標物を決して見損なってはならない。敵目標を侮るな。いくども脳裡に響かせた。 太腿に刺青をほどこしたのも、こうした日々のさなかだった。チュンハに請われ、四人で大なり小なりにあの文言、ヨハネによる福音書よりの引用を書き添えた。こうすっと特殊部隊って感じすんよね――と、チュンハは楽しげに言ったものだ。 刃としての生を営むとんでもない日々だった。 無関心な人々は起こったことを知らない。罪人に興味はない。興味があるのは営まれ、育まれ、結ばれる日常という積み重ねの物語で、だから大義名分のもとで戦えた。いつかはそれにも終りを告げる日が来るだろう。おまえだけでなく、チュンハやタカトシもそう意識して状況を味わおうとしていた。あるいはマルシアのように、すべてが終わったあと、有事法制がとかれ、省解体後にあたえられるものにより多くのもの思いを馳せて苦境を乗りきろうとするものもいた。多くは語られることもなく、過去の時制も未来の時制もない。 目的意識だけでつながれ、終焉と永続の予感を抱いて恒常的戦場を駆けた。 何十と腕を断ち、男女に医療処置をほどこさせ、SUVにつめこみ―― 勝ち誇らず、かわりに薄笑いがあった。おまえたちが帰り着くのはあの暗渠だった。 作戦はいつもそこへと帰り着いた。 荒廃せる埋立地――辰巳――打ち捨てられた団地。 無実の人間などいない、無実の人間などいない、無実の人間などいない…… 資源の襟ぐりをつかみ引きずりだした。いくら叫ぼうと構わない。誰にも聞こえやしないのだから。足を暴れさせようと。身をよじろうと。叫ぼうと。くすんだ水色で見下ろす背高の給水塔が門番めく。そばを走る高速道の線形が放つ夜を切り刻むような白光も、闇の底をえぐることは一度とてなかった。 無罪の人間などいない、無罪の人間などいない、無罪の人間などいない…… 男を引きずった。女を引きずった。若者を引きずった。老骨も。ときには子どもとて。 明かりの灯された扉をあければ、血に汚れた手際の担い手が待っていた。治安維持委員会からの使者たち。医療支援任務を帯びてタスクフォースに統合された専任尋問別班。白い面をつけた男女。連中の作る資料は、蔑みをこめて あまねく技術は新たな手管で 無実の人間などいない、無実の人間などいない…… 一階。電灯の明滅する廊下のなかほど。想像力の奥行きを殺しつくす場所。打ちっぱなしのコンクリートに皮膜をかけた、空白の、そらぞらしい部屋。 カチャリ――手術道具が鳴った――カチャリ。 床じゅうに敷かれたビニール。カチャリ。壁一面に張られたビニール。カチャリ。中央にぽつねんと空白のスツール。カチャリ。トレイを載せた台車。カチャリ。ステンレスのトレイに手術道具がならぶ。カチャリ。ライトが強い光を散らした。カチャリ。別班要員はカメラの三脚を立てた。カチャリ。何かをするたびに、機材の鳴る音が鼓膜をさすって背がぞわりとする部屋。カチャリ―― 仮面は実体のない微笑みを寄越した。はじめて訪れた日、スタジオと病室に似ているとおまえは気付いた。白んだ壁は余計なものを映さない。医療技術の担い手たちは一瞬を求めていた。苦痛にまみれ、腹のうちをひねりだそうとする人々の顔に映しだされる、一瞬の連鎖を。おまえは感心し、対象を引きずり、椅子に座らせ、絶望を見下ろした。 無罪の、無実の人間などいない…… いかにも居心地の悪い光景ではあり、だから同僚たちも目を背け、率先して資源の首をつかみ引きずるおまえに、悪趣味だ、とタカトシが苦笑することもあった。そして一層、あの女へ注視した。 「官僚殿がいらっしゃるとは」 と、おまえはジャケットを脱いだ。オフィスで椅子に腰かける階級を冗談めいて官僚と呼ぶものは数おれど、面とむかって言うのはおまえくらいのものだろう。 「この手の仕事を見るのが好きなんだ。当たり前みたいにいるってことは、どうやら、きみの趣味もまた別格らしいね」 と、片澤はかたわらの床をぽんと叩いた。 座れと命じ、有無を言わせず―― 手つきが香水の、甘い果実をモチーフとした香りを舞わせ、それは腐敗のただなかにいると感じさせるように、部屋のすみでまどろむ血のにおいへ混じった。 無実の人間など…… おまえは惹かれていた。 真っ向から見つめる灰色の月。穏やかでない、軸が狂った人間のもつニュアンス。 解体工程を楽しむ、好奇を所与のものとする目。差し出された手をとって握手をすれば、不自然に柔らかな手を気安く重ねられた。妙な距離感が気に障り、陽気を気取った調子やときたま語尾にとりつく引き笑いが、心臓の裏をひっかいてきた。訥々とことばをかわして知れた共通項は、休暇が訪れようと酒を飲んでは暇に潰される生活不在の生活があるのみ、というのがせいぜい。内心で嫌悪が化合したのに、見つめずにいられなかった。 「きみたちは面白い道具を使っているよね」 と指さされたおまえは、脇に吊ったパラコード巻きの柄をとりあげ、 「略刀のこと……。たいしたもんじゃない。見た目のまんま、警棒と似たようなもんさ」 「人斬りの道具に変わりない。でも不殺をとるんだからまったく変な戦術だ」 片澤は言い、うけとった柄を軽く振って短縮刀身をのぞかせ、鋭利な照りからチタン鋼の鈍さ、そしておまえの顔、と灰色の月を思わせぶりにさまよわせた。 ときに誘われて酒を酌みかわした。 「見事なやりかただよ、あれは」 片澤がそう言い、栓を抜いたコロナの瓶を差し出してきたのは、何度めのことだったか。 「まったくだ」 一気に半分ほど嚥下したビールの苦み――酔いは薄く、むしろ酩酊への飢えを誘う。 「きみにもわかる……」 「あらゆる条件を問わず、同じ顔をさせ、同じ色を塗りたくる。病気の人間だけにやれる」 「本当に。洗練された芸当というのはよどみなく、何度も、正確に反復できる。どこかで正気が削げた、病気の人間にだけできる正確性だ。多くの芸術家が異常者であるように」 「芸術家。あの連中が……」 空にした瓶を突き返すおまえに、流し目が這い、同類だろうと問いかけられた。 その眼差しには死が香った。 無罪の人間など…… 「あんたも、似たにおいがするがね」 おまえはそっけなく言い放った。 睨みつけるように見返しても片澤は微笑むのみ。嫌悪を憶えながらにして、この女が事務官でしかないにもかかわらず、期待を抱いていたのかもしれない。 この女が飼い主になれば歯車を増やせる、と。 あるいは―― 思う間にも、作業は黙々と進められていた。 誰の腹であろうとも、なにかしらの宿痾は隠れていた。聞きだした。治療と尋問。吹きこんだ。やめてくれと何度聞いたか。聞きだした。尋問と治療。吹きこんだ。おまえは敗者の側にいる、と。聞きだした。第一層目標の手掛かり。吹きこんだ。拷問と呼ばれることなどは決してない、医療を経由して苦痛をもてあそぶ力学はくまなく苛めた。聞きだし、聞きだし、聞きだし、聞きだし、聞きだし、聞きだし、聞きだし、聞き出し――物語を紡がせた。 やつらは吹きこんだ。 無実も、無罪も、ここでは言い訳に変わる。 やつらは執りおこなった。 歯は資源となる。膚は資源となる。性器は資源となる。目と耳は大事にする。視聴覚も資源だ。足の指は資源となる。足は資源となる。骨は資源となる。臓器は当然、大事にする。命が失われては意味がない。そのために神経の一本までを資源としている。どれも痛覚に恐怖を縫いつけるための資源だ。 大事に扱わねばすぐに死ぬとの事実に通暁し、ていねいさにかけて右にでるものはない。 肉体はどこもかしこも価値ある反応を生みだす。 尋問という工学を実証した。 生白い薄橙、痛々しく爆ぜる赤、苦しげな紫―― 暮れゆく空のように変わる色彩で、嘘と本当を、肉と骨から、細かくよりわけた。 犠牲者が一人、二人―― 犠牲者が九人、十人―― 使い物にならない残骸は拡張識を壊した。偽装IDを貼った。ガス抜きの 犠牲者が四十九人、五十人―― 作戦が最適目標を回収したが、意に反してつながりは薄れた。焦燥感に近いなにかが作戦につきまといながらもおまえと片澤はコロナをあおった。 なれなれしい距離。 なれなれしい声色。 なれなれしい呼び名。 片澤はおまえをお人形さん――近江の作り上げた最高級の人形――と呼んだ。重心の傾きは肩を借りようと横ずれし、おまえは押し返し、横目で見あい、肩をすくめあった。そのたびにおまえの胸は、言い知れない鬱陶しさ、苛立たしさで膨張した。ちょっと振る舞いが冷えついた機嫌の表面をなでさすった。 なぜか胸のうちに音がした。キチキチ、と。 「ねぇ、お人形さん」 と、片澤は顔をぐいと寄せた。初夏の夜。灰色の虹彩。忌まわしく決定的に通じあわない冷たさは腐肉にも、月にも似て、宝石細工の繊細さも彷彿した。指を押しこめばぷつりと壊れそうで、えぐって、潰し、中身はどんな色か、掌に乗せてよく見てみたかった。 「退屈だね」と片澤が、「さしもに見飽きない……」 「まさか。そっちは酒の量ばかり」 「増えてるね。むべなるかな。精緻な反復はだからこそ反復でしかない。それひとつで完成してしまっていては、脇道にそれて即興を演じはしないから」 「機械仕掛けみたいに硬直してるから人間を壊せるんだろ」 「かもしれない。どんどん早まり、どんどん壊す。盲目的に」 と言うのを最後に、黙りこんだ。 退屈な時間と会話の繰り返し。片澤の、瓶の口を舐める癖に気づくほどにはすかすかだった。むきだしの性器めく赤い舌先。意識するとなしに、噛み切りたい衝動が震えた。ほんの数十センチでやれた、と思っては本人の眼差しから背いた。やれてもやらない。不可思議な距離で、良識というよりは禁忌めいてはばかる感覚に、かたく押し留められ、何本ものビールを茫然とあけた。コロナ。ハイネケン。バドワイザー。安酒ばかりを呑みこみ、一から十まで変化なしの尋問を睨みつけた。悲鳴の渦は聞きすぎて日常にとってかわっていた。そのさなかに、意味もなく片澤に胸をざわつかせる。退屈なのに、白い部屋で停滞した時間からは逃れられられなかった。 それが終われば人の理を欠いた弾丸の直進性で、検索し、検索し、検索しまくった。 敵はどこだ。敵はどこにいる。問いかけ、悪党を切り刻むはずの工程は、第一群編成を罪で傷だらけにしていた。それだけですめば引き返す道はあったのかもしれない。 モールス信号を打つようなしゃべりかたは機能体らしさそのもの。そのぽつぽつと語る自意識の断片が さらに驚かせたのは本人の居場所だ。パラメータ調整と審訊を組みあわせ、論理パラドクスに追いつめて機能体に吐かせたことが事実なら、自衛隊中央病院に収容されている、と。隠密理に裏付けを進め、当該人物がいること、本人とIDが不一致であることを解析から四日後にはつきとめた。 陸自内での そうした処置の理由はわかりやすい。だいたいの作業は代替えをたてて作業をさせ、必要なときにだけあの立方体に意識にリンクし、鍵をかけてまわるのだろう。通信回線の監視を騙くらかす内通者を挟むだろうから措置としてそれなりに有用だ。 間もなく、標的拉致が立案された。近江たちは手慣れていた。味方のうちに敵を見つけることにも。それを敵としてきっぱり扱うことにも。すぐに許可をだした群長に片澤は時期尚早を指摘し、実質、妨害と呼べるような疑義の提起、作戦承認手続きの遅れを書類の束で巻き起こしてきた。もちろんそれ自体は事務官としての立場から、当然だった。容れるべきでないための判断としてそしられはしない。ただ、群長と近江はそれを寄せつけない根回しで準備を終えて応えるにすぎなかった。身内への敵対的情報行動。第一群はそれら一切を暗がりで処理する技能の塊だった。 作戦執行単位は 目標は九階。東病棟。犠牲者をだす必要はない。そう心得て慎重に歩み、看護師の巡回を巧妙に縫った。廊下の奥に座する個室の扉に浮いた認証パッド、そのメモ帳ほどの長方形にペン型プロジェクタで偽装鍵を投じ、苦もなく侵入した。 辰巳への到着。スツールにすえての強制的覚醒。困惑に尋問技術がかぶさった。さっさと抽出された情報から、第一層につながるあらたな追跡作戦も企図された。 その成功が、間違いの銃爪をひく。 順風満帆の日々は静かに終わりを告げた。あの晩秋、政治力学の加速度は失われず、厖大な衝突エネルギーを露わにした。襲撃をかけてきた同業者――居合わせたチュンハの指摘によれば 「こんなときにまであの女を気にかけるのかい……」 近江に低く問われたのは、輸送トラックのコンテナに潜りこんだときのことだ。どう応えるか悩んだおまえは肩をすくめ、短い沈黙を挟み、 「こないだの件でさんざん邪魔をされたってのはわかってるんです。なのに不思議と気にかかってしかたがない」 「よくつるんでいたものな。情も湧くか」 近江はひとりごちるように言った。まるで、おまえが情を抱くのは意外だというように。皮肉っぽい響きには内心で納得もあった。なぜ執着するのか、と。 答えはでないまま状況は流転する。 生き残りとの合流地点として辰巳に行きつく。 引き払われた領土が空漠とし、罠もないと事前に確認していた。だが、ほうほうの体で逃げるおまえたちを迎えるのは、黒背広と屍体だった。偽装ナンバーのセダンとボンネットにおかれた生首。タカトシ。チュンハ。物言わぬ肉となった二人のかたわらに腰かけた片澤がハァイ、と手を振った。近江の舌打ちは、もはや何も覆らないと悟っていた。 ことの次第を察するにはそれで足りたのだろう。 近江はおまえを制し、鯉口を切り、 「仕分けのつもりか」 片澤がいくらか不器用な手つきで略刀を振って、ギリ、と刃を鳴らし、 「見るからに、そうでしかないでしょ」 言い終わるかいなかに一対の構えが殺意をもたげ――フルタングと略刀がただ一度だけ交錯し、老いた狼の手から刃を落とさせた。技倆をきわめたはずの男が斬り捨てられたのだ。輪切りの頭。ほとばしる血。ほんのわずかなずれが敗北を演じさせた。 略刀がステッキのようにくるりと回り、 「仲良しごっこをするのは結構ながら、きみ、道理という避けて通れないものもある。やりすぎだよ、第一群ときたら。せっかくわたしが状況誘導をしてあげたのにねぇ」 と、片澤の顔に月が細まった。 どれも、興味のないことだ。聞き流し、大きく跳ねる心臓を感じて、名もない感情の切実な、怒りの熱に似た搏動が増していた。名付け得ない熱量は、思いもよらぬ手つきで退けられた。抜刀の挙におよびかけた手は、刃が走ると認める間もなく切り落とされていた。真っ赤な痛みが、地面に転がる。「目」を奪われたのだ。脆い現実。敵勢力をもてあそぶハッキングと同じ手順に圧倒されていた。最初から敗北を仕組まれたどころか、相手にする必要もない、と宣言され、情動は嘘に変えられた。そんなものに価値はない、と。 おまえはあふれる血と痛みに叫んだ。 「良い吠え面だよ、それ、見たかったもののひとつでねぇ。きみ、いつだって仏頂面を崩しやしないんだもの」 と、片澤は嘲った。 その意気で一歩でも多く進んでみなよ―― おまえは逆らった。 幕引きに逆らい、歯を食いしばり―― あの女は舞台監督気取りで幕を引いた。 爆撃の訪れ。瓦解。炎の柱にすべて飲まれた。冗談じみたショウに変える派手な一撃。 おまえは失った。 奪いとられた。 無残に生き残り、名誉は死に、歓喜は失し、輝きは潰え、命ある亡霊となりさがった。 わたしは空虚を生き残ろうと、心奥、コンクリートの箱にふたをした。 おまえは、空っぽの残骸としてやりすごした。 魂の温度をないがしろにすれば生き残れた。 勝ち誇ることはない―― 三度めの反復。 侮ることもない―― 目をあける。空疎な部屋にはおまえが見るべきものなど何もない。 反復された朝に生き残る。残骸のおまえが。 |
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