Plastic Talker
Chapter.4
味方はどこにもいない。
どうにか追跡は振りきったのに、いやな語彙が思い浮かぶ。ファミリーの誰が味方で、敵で、どこまで掌握されてるかも不明瞭。早いところモグラと接触しなければならない。渡りをつけるお膳立てもいる。安全な回線とさらなる武器、隠れ場所だ。警察にそのまま逃げこむのは却下だ。ベロニカから遠ざけられるのは危うすぎた。必死で理性をかき集めて、思い出す。脳のしわをほどいて掴んだのが、戦場で血に濡れたあたしをどん底から担ぎ出した男だった。ホーム・オブ・キュアでも何度か顔をあわせた男。
自己紹介で名乗ったアダ名――問いつめ屋。
ダークサイドでも噂となる――優しいドミニク。
ニューヨーク市警第1級殺人課主任刑事にして元三等軍曹、永遠の海兵隊員だ。多くの人殺しに介入する一角の男――猟犬――収賄が通じない鉄砲玉。困ったことがあれば少しくらいは相談に乗れる、という物言いを思い出せた。刑事と連邦捜査官の揉め事を想像しかけ、すぐ払拭した。あの男なら、証人保護やらなにやら、司法のいろはにうまいやり口で通じてるはず。あたしは生き延びられる可能性を求め、拡張識で緊急通報番号にコールした。
接続、しかしすぐ途切れて、通信状態には圏外の文字。ジャミングだ。怒りに巻かれるがまま拳の底でステアリングを叩いて間もなく、ベロニカが取り乱して叫んだ。
「ねぇ、さっきのくるまがくるよ」
浮わついた意識が一気に呼び戻された。バックミラーに強烈なヘッドライトが睨めつけ、車内が白濁した。なるほど、ジャミングの主ってところか。
「冗談じゃない、きちっと撒いたってのに」
「ぐねぐねしてる、かたちかわってる」
カメラリンクを抽出して、目を疑った。亡霊がかくたる姿形を持たないように、SUVもまたゼラチン質に蠢く。厳つい黒――膨張と収縮――白骨を思わせる白色のハイエースに変わり果てる。莫迦げた変化の正体はたぶん液体性金属と人工筋肉だ。人の目を化かし、足をつかせない。ステルス・モーフと呼ばれる物理的な環境同期技術。紛争後、軍から漏れて連邦の暗がりに消えた南軍製の技術だ。
お抱え暗殺部隊どころじゃない。ステアリングに指の節を軋らせ、
「しっかり頭を下げてな。なにが何発飛んでくるか、わかったもんじゃない」
「わかったぁ」
後ろでは、カーブのたび、重量を裏切る追随力が追いすがる。あたしは猛加速をステアリングで制して、無関係な車列をかわし、小刻みな運転で少しずつだけど遠ざけた。
不意に、それぞれのハイエースの背後から一対の灯りがほどけた。猛スピードで並列の二輪を廻す一輪風バイク――ヒキャクテック製のブラッドコマチ・ジンジャーだ。砲弾を思わせる濃いオレンジの鉄塊が、前傾で突進し、車上では般若が両手でカービン銃を支える。ライトの強烈な輝きに、フルオート射撃が上乗せされた。耳障りな高速弾の豪雨は傷こそ食らわないけど、ベロニカの悲鳴を搾る。耳を塞いでやれないのが苛立たしい。そこに外装を拳で殴りつける音が混じった。計器がぶれて、八〇マイルを下回っていく。
あたしは行き先指定で自動運転に切り替え、助手席のケースから銃をとった。
HK417cとM45――点検――滑らかそのもの。すぐ撃てる。
座席のハーネスで腰を固定してドアをあけると、減速も納得だ。電磁石を尖端につけたワイアで銛打ちされていた。巻き上げてはにじり寄る前衛にすぐさま発砲。ところが銃弾が飛びつくより早く、車体が軽業で横軸に跳ね、挑発的にバウンドした。
腹立ちを胃の腑にくだしてひたすら弾道を修正した。五度めで、ついに命中を確信した。鮮やかな塗装と、怒り顔の鼻梁をついばむ。粘性を帯びる視覚野のなか、上顎が消失し、はためく赤い舌で風を舐めていた。
引っこんでステアリングを握り、尻を振れば、勢いづいて転び、抜けたワイアが横払いで相方を巻き添えにした。けど転倒寸前のスピンは乗り手を軽く振っただけ。即座に立て直し、滑るように急接近してくる。点射で応じても揺るぎないハンドリングと体重移動が、独蛇のジグザグ軌道を残し、とんでもない技倆で弾道を切り抜けられ、後ろにつかれた。あたしはブレーキを踏んで轢く――と、流線型が宙に高く光を曳いた。曲芸に驚く間もなく、ケブラー製並列二輪は重力を思い出して、急降下でボンネットを貫く。
高速度がスピンに変わりかけた拍子、バイクもカービンもずり落ち、般若だけが残っていた。しゃにむに押しあててくる筒先。減音器とドラム式弾倉を備えたM11――いやな気配――直感が戦慄させた。気づけば体が反応し、助手席に身を投げていた。銃声、輝き、亀裂で白く凝結する視界。ぼぼぼっ、と間抜けな音でレストが爆ぜる。割れ目からねじこまれた銃口が角度を変え、下から上と人体工学成形の座に大穴をこじあけ、小さな爆炎のきらめきを焚く。あたれば肉を食い散らかす拳銃用エアバースト。軍隊印のバーゲンセールによる定点爆撃だ。とはいえ発射速度は速すぎて、弾切れに直行していた。
のぞきこむ動きがあった直後、あたしは助手席を蹴った。脆くなった熱いガラスを肩で押しのけ、面を掴み、額に四五口径を据え――容赦なく、四発で脳の奥までえぐった。
死体とガラスを流れゆく路上に押し出し、座席に戻って、
「ベロニカ、無事……。だよね……」
恐る恐る尋ねた。悪い予感を疼かせるな。うちなる声に従っていても、過去の似姿が眩暈を覚えさせた。それを否定するように助手席の背中が二度、思いきり叩かれ、
「だいようぶ、ナデァ、いきてるよぉ」
と疲れた返事があった。心底からの安堵か寒さのせいで、喉が震えた。ふと呼ばれたように空を見れば、雲の破れ目にまん丸で銀貨のような月が冷たい。お前たちの命はこの程度と言いたげに、だ。そんなわけない。否定を噛み締め、夜の速度を突破した。
昔なら、美しからずとも都市設計のファサードとなりえた違いない。道を一本折れて入るのは、都市圏の外周に居並ぶスプロール群だ。戦後の混乱のなか、地上げと建築ラッシュで構想もないまま拡散したカオス。情報産業はここの消費層を見限り、貼りつくのはエナジードリンク、スニッカーズのおざなりな広告程度だ。そんな集合住宅と空き地の無計画さがなす低治安低数値の渦を奥に行く。極秘のセーフハウスまで残り三ブロックだ。
道端で公衆電話に二重、三重に防壁をかけてコールすれば、今度こそつながった。オペレータに十桁を呟く。密告用符牒に応じる杓子定規な取り次ぎ――回線はすぐ再接続された。あたしは深呼吸し、
「やあ、聞いてるかい辣腕刑事さん」
「どちらさんだ。そんな刺々しくお話あそばされる女の知り合いなんて、そういないが」
と記憶通りに低く、饒舌に唸った。
「ナディア・デントン。あんたに助けられた元上等兵。覚えてる……」
ほんの一瞬の間に、理解含みの咳ばらいが声色をととのえ、
「ばっちり。しばらくぶりだ、三年ぶりか。なにか用か」
問いかけに対して記憶をかきわける――ホーム・オブ・キュアの待合室で仕事を訊いたときの回答。新興組織への追求。きょろきょろと見回すベロニカを抱きよせ、
「よおくお聞きあそばせ、軍曹さん。前、新興のヤクザを嗅ぎ回ってるって言ってたよね。往々にして黒摩組、だろ……。どうも連中との高難度物件に手をかけたらしくて、くそ仕事の証人になるお子様ともろとも、ヒットマンに尻を追われてるんだ。保護を頼みたい」
「おやまあ、よた話でない証拠は」
ドミニクは言いつつ、調子を変える。ちょい待ち草、と告げて拡張識につないだ外部記憶からフォルダをあけた。膚の裏、後頭部のラムダ縫合沿いに貼ったウェアからギガバイトを呼び、受話器の端子に親指をあて、視覚データを送った。個別でひらいて。そう言って二秒で口笛が高く耳朶に触れた。くそ驚いた、おれの領分だ、と。聞きたかった返事――順調という証だ。喜ばしさがあまって身を屈め、ベロニカの髪に鼻先をうずめる。
一戦やらかした集団の話題もまじえた。警邏課の恐慌、路上犯罪課の緊急武装を通して聞きつけていたようで、すぐ腑に落ちたらしい。受話器の表層を爪で掻き、
「じゃあこれで、あんたも首を突っこんだってわけだ」
「ああとも。くそったれな話だ」
「至極同感、大層くそったれだ。どうか頼むよ。あたしはともかく、お子様の命がかかってる。取り調べでいくらでも証言はするから、手を貸してほしい」
「渡りに船、しかも人助けだ。この期におよんで突っぱねやしない」
ドミニクが獰猛に笑う。獲物を知るシェパードの笑い――信頼に値する――胸が凪いだ。ベロニカも、こういう安堵をあたしから得られていただろうか。考えつつ、セーフハウスの住所を暗号化して送った。返事いわく、実動部隊を引っ張るまでに数十分がかかる。
「恩に着るよ」
「なに、すべての海兵隊員は仲間を見捨てないもんさ。忘れたか……」
「覚えてる。前に世話になったのも」
誇り高くある兵隊。あたしには程遠い――そう信じていたのが嘘のよう。
受話器を金属ラックにかけ、BMWに乗りこんだ。通りをひとつまたぎ、狭隘にはまりこんでいく。住民やホームレスたちが、いぶかしげに目を細めながらすれ違う。
「だれにおでんわしてたの」
とベロニカは、後部座席の隅っこで膝を抱えていた。
「大昔の知り合い。刑事だよ。昔、あたしを助けてくれた人」
「ならとてもいいひとなんらね」
「誓って悪い奴じゃない」
あたしはうなずきながら、ドラム缶に焚かれた火を一瞥した。新品のフェンスが敷かれた路地で、かすかな風に踊る煤煙が、目的の四階建てまで約二ブロックの奥行きを汚す。深く長いため息をついて角を折れる。色褪せ、資本主義の下地をさらした路地から、半端に広い空き地、そしてまた込み入った路地に抜けていく。行く先々、路傍はどこだって枯れ草、アスファルト、淋しげな電灯の陰気なトリコローリズムに染まっていた。
遠回りでアパルトマンの裏手に回り、重い鎧戸を引いてBMWを隠した。撃ちこまれた弾は百発あまり。着弾がところ構わずに塗装を削ぎ、防弾膜もへこませ、亡霊を運ぶ四輪馬車も真っ青の残骸ぶりだった。これなら人々の反応だって納得だ。
階上にあがって、冷たい床板に腰を下ろしたとたん、アドレナリンが去った胸郭に空虚が流れこむ。見知った他人が消える惨たらしい無情さなのは間違いがない。
こみあげてくるものを無理に飲みほし、マリアを悼んで密かに、ほんの少しだけ泣いた。震えかける肩を慰めるように、ためらいがちに頭をもたれかけられた。袖で下瞼をこすりかけて肘がぶつかった細腕を見下ろせば、箱はまだしっかりと抱えられていた。この子は、内偵の女神と、どんな時間をすごしていたのだろう。それはひと抱えの単位まで分解された末路と同じくらい、想像がおよばない。けど、手つきと横顔がひたすら丁重なのはたしかで、そこには大切な誰かしらを抱くための敬意と愛着があった。きっと悪い時間じゃなかったんだろう。あたしは守り通すべきものを、この子のなかに見出す――なかば信仰にも似た思いだ。心地よい頭の重みに頬をあて、瞼をとざす。
数分とせず、デジタルの幻聴が平穏を刺した。ログ表示は公共回線。スプロール周辺道路を見下ろす怪物像じみた監視カメラ。そこにしかけた画像処理ウェアが、ハイエースを捉えていたのだ。都市内の追跡性はきっちりと破っては縫い合わせたのに。
奇妙に落ち着いた混乱に、ふっと平静が訪れた。はじめて、罠にはめられたのではと考えいたる。察して頬を蒼褪めさせたベロニカから箱を受け取り、背を向けてから封をとく。十字を切って口腔、次に断面を探り、食道粘膜のぬめりから、薄べったくざらついた黒い円形の小片を掴みだす。ステロタイプと呼んでもあまりある発信器だった。
油断しきっていた自分の愚かさに歯噛みした。既視感――追いつめられる――最悪の相似形。けど、あのときと同じにはさせない。させてたまるもんか。
「あいつらがきたの……」
と痙攣性の涙声で言い、
「あいつらが……」
問いを繰り返し、暗い目は掌の黒い真円を見た。
「ご、ごめんなやい、よけえなことしたから」
「やっこさんたち、あたしもあんたも、マリアを捨て置けないだろうって踏んだ上で仕込んだんだ。悪趣味ったらありゃしない。始終くそったれだよ」
と、ポケットに収める。そうだ、この子にはなんの罪もないに決まってる。悪いのはいつでもくそったれな大人だけ。箱を渡し、頭をなでてから作業に移った。
急いで押しのけた棚の裏、武器庫のラックにかかる銃はどれも飛びきりだ。チェストハーネスをかぶって黄褐色の大物をとり、拳銃の比じゃない輪胴をあけ放った。四十ミリ口径――個人所有の埒外――アームスコー擲弾発射器が腕に重くのしかかる。ずんぐりと太く、弾頭が緑に塗られた対装甲機能榴弾をこめていく。弾倉をとじ、輪胴回転用の発条を巻ききると肩にかけた。車両に装甲を仕込んでいてもこれで事足りるはず。しまいにとりあげたHK417cとハーネスに弾倉を、胸許にはM45とナイフを押しこむ。
隣室へ行き、あたしは床下への戸をひらいて、
「一時間もしないうちに、さっきの電話相手が来てくれる。それまでの勝負だ」
五センチ四方の小型携帯端末を渡すと、ベロニカは頭を振り、
「わたし、あのね、しんじてまってる。きをつけて」
「きっとうまくやれるよ。しばらく撹乱するだけだし、一人か二人、ぶっ飛ばしてやれたら重畳。言ったっけ……。あたし、昔は兵隊だったって話、さ。ことが終わったら電話する」
床下に促した瞬間、ベロニカが必死に手を伸ばし、
「けがしないように、ここでおいのりしてるね」
右頬に手を、もう片方の頬に唇の祝福を添えられた。苦しいほどの愛おしさ。ベロニカを抱いて壊れものの体つきを、体温を、汗のにおいを心に焼きつけ、額にキスを返した。胸の穴に感情を投げこむ。大事な宝物をしまうような慎重さで鎖した。良心に麻酔をかけろ。首筋に注射器をあてた。認証。拡張識から特別プロパティにアクセスし、急速増殖。体内コロニーへの負担で神経が軋む――理性を醒ます痛みだった。骰子を振ろう。未来と称した博打にベットして。息を吸って、吐き、不遜に鼻を鳴らす。
黒哀分遣隊の動きは、画角の乗り継ぎで逐一監視できていた。
ハイエースが二ブロック離れた路地に停まろうとしていた。月明かりはあれどスプロールの底までは注がない。腫れぼったい闇の恩恵にあずかった脇腹をひらき、三人編成が姿を見せた。白式尉を先頭に、後衛の二人だけ、黒い軍用アシスト外骨格のせいで脚がスプリンターじみて厚みがある。狩りにもってこいのフル武装だ。
あたしは一連の動きを見つつ屋上への階段を登り、一段低い隣の屋上から、さらに隣へ、攻撃に適したポイントを求め、飛び移る。匍匐でへりに辿りつきアームスコーをとれば、照準器が射撃支援アドオンと連動し、風速測定の反映で悪戯っぽく横揺れする青い弾道線が三人の背後に伸びた。距離は六五〇フィート。すかさず銃爪のストロークに四度、指を行き来させた。白々した放物線が運転席、サイドドア、と軌道を結び、液体性金属と人工筋肉層をえぐる。完璧な角度だ。対装甲機能榴弾の侵徹による火花のウィンクが、着弾点からの生めかしい波紋の同心円を白く照らす。炸裂で車体が跳ねて、引火したガソリンが炎と破片の赤々とした殺傷力の海がブロックを区切っていく。
たいていの戦闘単位には充分な打撃だろう。少なくとも、これだって運転手くらいは殺せたはずだ。けどくそ能面たちはさすがに生半可じゃない。階戸は炎に巻かれながらも転がって遮蔽物に隠れ、同じく生き残った後衛に手で指示を出す。
こちらの居場所は丸わかりらしい。早速、掃射が近くをかすめてきた。擲弾発射器を捨ておいて低く身を起こしたときには、カメラ群による監視網は死に絶えていた。
見張りの網に気づかないほどに愚かでもない、か。
あたしは踵で発信機を粉砕――HKを握りしめ――地を蹴る。町並みは数百メートル先まで把握していた。進むべきルートは何通りも見えたし、選択肢とて通り一遍じゃない。無計画に重なり、空隙が生じ、行政を意に介さないバラック建てが群れをなし、行き先の知れぬ配管が伝う街区。そこを立体的に伝うには膂力さえあればいい。
あたしは屋上のふちから手近な非常階段に飛び、剥げて毛羽立つペンキと、血管じみた蔦ごと手すりを掴んだ。這いあがると不用心な窓から侵入し、薄汚れた絨毯がしめっぽい廊下を抜ける。スプロールは常識的リズムとは無縁だし、普段なら多少の暴力沙汰があれど、出歩く誰かさんと袖をこすりもするだろう。けど銃撃戦は別だ。誰しもとばっちりを恐れて部屋に隠れ、そこに生じた日常のほつれ穴をあたしはすり抜ける。大麻の焼けたにおい。香辛料と灯油の混ざった排気。部屋のひそひそ話。生活感と称したノイズを、多知覚センシングで延長された五官で拾っては捨てを繰り返し、同時に銃口でもクリアリングした。
うまく立ち回れば先手をとれる。ただそれだけが仮借ない優越性だ。接敵にかかわる要素を見逃さぬよう、周りのディテールを必死に読んだ。
数十秒分の安全を確保し、あけっ放しの窓から飛んだ。最寄りの壁に寄り添うパイプに飛びつき、無理なしつらえの水垢で黒ずんだ室外機を足場に、手近な窓へ這い登る。左から右へ、そのまた逆へ、やにで壁紙が汚れたむさ苦しい通廊を行く。油断すれば方向感覚がねじれてそうだ。脈絡はあるけど、見方によっては、夢で不条理な道のりを走るのに似ていた。ベロニカとともに悪夢から醒める、という目的意識の存在だけが違う。
突き当りを行く前に宙に手を重ねた。闇を透かすセンシングが、あたしを窓の下にふせさせた。紙一重の差で、窓を挟んだすぐ横をダークスーツが落ちゆく。
忍者のように静かな着地。アシスト外骨格の人工筋肉出力、衝撃分散があるとはいえ、人間離れした軽業だ。さらに跳ばれる前に殺そう――あたしは即断し、助走をつけて窓枠に飛びこんだ。ガソリンの尖ったにおいをくゆらせる夜に巻かれ、三階の高さを舞う。向かいの壁の煉瓦パネルに肩をぶつけ、破ったガラスの小片が食いこんだ。主観をえぐりとるほどの狭窄。痛みが遠のく。うっそり見上げる童子面の喉から額まで高速弾を浴びせる。地に達したあたしは倒れゆく屍を突き飛ばし、ごみ箱を巻き添えに路地を転がる。
予期せぬ知覚に盆の窪がざわついた。幽霊のたぐいと出遭うような冷やかさが、多知覚から神経細胞まで染みた。見ぃつけた、と女の声とともに。
銃声を聞いたか、拡張識戦術リンクか――と、案ずるだけの余裕を行動にあて、飛び退きざまにM45を抜いて二度撃ちした。しかし想定した姿はない。大幅にずれた十六フィート上に駆ける影。十連弾倉のうち半分を放てどかすりもせず、路地を挟む壁を直角に滑ってくる。接地スパイクがカラフルな落書きを一直線にこそぎ、なめらかな着地をもって砂礫を散らす。それとほぼ同時に、懐へ肉薄された。
あたしはバックステップで上段蹴りをかわし、
「お次はくそビッチかよ。忙しいったらない」
「一世一代、またとない相克なのです。一刀をもってお付き合いくださいまし」
笑う小面――優雅にお辞儀し、炎のように波打つ抜身を指に滑りこませた。
「来いよ、速攻で脳みその螺子をぶっ締めてやる」
とナイフを抜くが早いか、遠慮なく、の一言と順手が巡らされた。あたしは銀の弧を逆手で止め、背面をレールにして飛跡をかなたへ逸らす。速度は最高なれど手つきは洗練されてない。速やかさと積極性に美感が先立ちすぎだ。突きで数手の流れを誘い、乗ったところに膝裏を払い、姿勢を崩すと肘関節をきめ、手首を掴む。力任せの抗いを組み敷き、小面自身の切れ味を顎の下に沈めていく。最後に、グリップを掌底で思いきり打ち上げる。
まるで杭で打たれた吸血鬼――頸椎を抜く尖鋭部――完璧な死が、壁に留めた。あふれる血が、傷だらけの面の裏からしたたり、最期まで怪物たろうとする高笑いを溺れさせた。重いパーカッションとなって地を叩く接地スパイクも、じきに沈黙。
残すところはあと一人。階戸の姿を求め、さっきまでの透明度を失った夜の奥行きに踵を返した。走るさなかにもあらゆるものがモノクロームに感じられる。
どれだけ優れた技術でも対抗手段の発生はそうそう免れない。
当然の原則を、いまさら強く意識させられる。偽装フェロモン剤――対電子斥候知覚ハック――小面を撃ち損ねたのもこのせいだ。全方向に行き渡ったそれは、センシングによる検索精度を大いに下げていた。いまだって建物の陰からまた別の建物へ移るあいだ、周辺数十メートルにいくつかの気配を感じた。接触可能性は欺瞞だとしても、ただそれだけで脅威となって動きを鈍らせる。わざわざこんな道具を持ち出すあたり、ヤクザのコネクションに嫌悪を超えた恐れを覚えそうだ。最悪の同業者と銃を向け合い、久しぶりに本物の闇を感じた。夜が夜として知覚の深度を覆う強い不安。それでも一歩として足は止めず、知覚を数えきれない痕跡に焦点を絞っていく。斥候として身につけた昔ながらのスタイルに近いトラッキングだ。空間に刻まれた乱れを直感で結び、追いすがる。
真新しい靴痕、ドアのあけしめ、各要素を嗅ぎつけ辿りついたのは、ブロックのはずれにある廃工場だった。M45に持ち替え、わずかにひらいたドアを押して隙間から銃口を巡らす。破廉恥な軋みもなく踏みこめたけど、内部は偽装フェロモン剤に多知覚をとざされ、まとまった像をちっとも感じ取れない。あからさまに奥へ奥へ、と誘いこまれていた。
打ち捨てられた機材が囲った中央部、高い窓からさす光の帯のなか、階戸は待っていた。あたしは近距離戦に備えて体に寄せていた銃を構えなおし、
「チェックメイト手前だ。諦めなよ、影男」
「それは主観と楽観を混同した幻覚にすぎませんな。お楽しみはこれからというもの」
「右も左も決闘おたくとはたまらんね」
階戸が、派手な銀色をたたえたレヴォルヴァを持ちあげる。
S&Wの四九口径。標準最長銃身よりさらに長大な、男根的なまでの十五インチが支えられていた。規格外の化け物が砲声を鳴らす前に照準――やはり能面は狙えず、胴に速やかな連射を放って横に跳んだ。吸いこまれた銃弾は功を奏さず、切り損ねた手札をおどけた口笛が嘲る。埃っぽい床を膝立ちで滑り、撃ちまくって物陰にまぎれる寸前、ついにすさまじい応射がきた。幾重にもなるネオンを思わせる銃口炎。高初速が後押しする巨弾は、直近のコンベアを直撃し、うがち、盛大な衝撃波で頭を揺すぶる。
徹甲弾だ。特大フレームとの併用は、銃撃戦というシチュエーションを制そうと恐怖を贈りだすのにぴったりだ。一度でもあたれば、重装備だろうと動きを絡めとめられ、あるいは死に至る。恐れで敵意が底上げされる。銃が手許になかったら考え、戦い続けるためのタフネスをたやすくねじ切られそうだ。
物陰をじりじりと移りながらの反動と弾道の応酬。恐れを蹴りしていくつもの殺意をかわして、あたしが一度の弾奏交換を経てもなお、たった一発の命中もないまま、たがいにほぼ同時の弾切れが訪れた。階戸は輪胴をあけて排莢桿を押し、
「やはり慣れもしないのに銃を撃つのはよろしくない」
のんびりとすら表現できる声――落とされた六本の真鍮色が、鈴に似て澄みきった音を添える。あたしは耳を傾けながら弾倉を継ぎ、
「刃物でがきをバラすのが精一杯ってか」
「それはそれ、また別のお楽しみというものですよ。心を満たす条件の切れ端だ」
と、階戸はなんの頓着もなく化け物拳銃を捨てた。鉄のひしめく暗がりに悠々と走るのを複眼的ディテールで追い、あたしは追撃をかけようと、機械類の陰から顔をのぞかせた。走りだそうとしたところへ“なにか”が跳んできた。
目の前に落ちたもつれる線形が、ひとりでに持ち上がる。階戸だと認めるのに、わずかな時間がかかった。横薙ぎが生じた隙をかきわけ、思わず身構えた左腕をなぞる。痛みの層は横滑り。義肢表層が切られたと“認識”――プッシュダガーだ。
あたしは距離をとりながらM45で牽制を送った。手応えのなさと引き換えの熱いハレーションに浮かぶ本性。こどもの落書きのようなケーブル状の四肢が、骨格図様の痩せ細った裸を支えていた。人間性を削いだ重度改造体だ。軟質な足のくねりは床をこすって間合いをつめ、肉体の制約を捨てた予備動作もない手つきに鏃状の刃が閃く。
刃の傾きで予測される最小挙動を、拳銃のスライドで紙一重にさばく。海兵隊を辞めて以来、はじめて拡張識がもたらす大脳運動野励起のありがたみを感じた。分泌されるアドレナリンのブースト――加速し、加速し、加速する。ナイフを逆手で抜いて、大腿への軌跡にあやまたずに応じた。これも想像力をつくして予想済みだ。
決め手を探って踏みこむと、動きを読まれていたらしく、手首を掴まれた。腕とは呼びがたい人工筋肉の束が縛り、引き寄せ、複雑な切断曲線をかぶせてくる。迂闊さを悔いる暇もなく俊敏な刃に切り結んで金属音を数珠つなぎにした。まるで殺しの即興ダンス。腱を裂きたがる連続性を除いては優位に立とうとステップを重ね、点と線とでしりぞけあう。あたしのほうが不利に傾いていた。階戸への切りつけは、どれも表層の防刃繊維に阻まれ、少なくとも精密なナイフ格闘じゃ制せない。決め手を案じながらも、緩急のない猛攻に火花を散らす。コンタクトから五秒で、すでに二十手が拮抗していた。
階戸が不意の重心移動でさがり、
「まったき僥倖ですよ、われわれの仕事にこうもしっかりと切れ目を入れてくれる手練とやりあえるのは。私の教え子たちも満足だったに違いない」
どこまでも穏やかだ――子分が残らず死んでいるのを疑いもしない――追いかけだした時点で、すべて必定だったというように。あたしは半身で構え、
「お褒めにあずかっても嬉しかないね」
「つっけんどんにしないでいただきたい。物語性に飢えているのですよ」
と階戸はあたしの周りに円を描いて歩み、
「私ら、もとは治安活動を生業にしていましてね。そこでお上が望むまま、自在な問い詰めで策定に要される情報を紡いで、多くを喜ばせてきた。われながらいい仕事をして。なのに風見鶏の一声、国の方針でなにもかも奪われてしまった。何かを紡ぐ愉快さなんてもの、そうやすやすとは手放せやしないのに」
あたしは鼻で笑って切りつけで刃を交わす――階戸が左右に揺れて退き、
「そこで昔の同僚に連れられるがまま覚えたのが、“物語”として作品を作ることだったのです。誰かがために見せかけ、私のものでしかない物語だ。私らは書かずにはいられない、愉快で心震えるようななにかを。その上で、ずっと、このような派手さを求めていた」
「突き詰めてしょうもないね。人様にくそを塗ったくらんでオナってろ」
あたしは踏みこんで足を絡めた。頭突きをかまし、背後の工作機械で能面を板挟みにしてやった。ところが蛸のテクスチャを借りた無関節が不意打ち――白式尉の背後から迂回した鋭刃が唇をひっかけるや、頬を大きく裂かれた。熱い痛みが胸の悪くなる錆となって喉に伝う。顔を背けてなかったら頸動脈を切られてたかもだ。
舐めてくれるな、とあたしは喉の奥で唸る。
無茶をやれるのはこちらも同じなのだ。反撃のタイミングを得て、水平の刃を奥歯で噛みしめにっこり笑う。そして、左腕の機能――ガーバー銘を刻んだ二枚刃を展げた。手首を挟んで一気に負荷をかければ、最適角の単分子相刃が、もがく階戸に構わず表層素材、筋繊維パッケージ、と断ち切った。狼が食いちぎるのに等しい勢いで、とどまることなく肩の付け根も破断。血が吹き荒れる――無臭の紅――ヒトらしさに似せた強度人工血液だ。それはダークシティを跋扈する怪物がすがる、最後の人間性に思えた。あたしは下腹を蹴ってマウントポジションをとって、残りの手を膝で踏みつける。
白式尉という闇としてのペルソナを剥げば、そこには人間の残骸があった。
病的に白んだ膚。闇の底の色をした笑いは、髑髏そっくりだ。余裕綽々なのが始終、気に入らない。オートマチックな怒りが拳を落とさせた。足癖悪く首を絞められ、脳貧血が周辺視野を暗く沈ませようと、とめどない衝動に任せて殴り潰す。鼻も頬も顎も眼窩も――歯が刺さり、指の骨が折れても殴った。何度目かで、首を圧する力が失せる。脳波が水平線に達したんだろう。もういい――殺そう――ああ、殺そう。
腰を上げ、HKを握る。と、首にぶら下がる脚からBANが生じようとしていた。ウィルス侵入ではない単純な定義。記憶の湧出だ。旧内務統合省・治安維持委員会専任尋問別班。長ったらしく政治的な字面の認知――神経を逆なでする、大容量転送による数百もの尋問の明滅。情報抽出し、死体をさらしものにし、動乱のなか恐怖を演出してきた部隊。
治安維持がどうこうという遍歴を語りたがるけど、そんなもの興味はない。
「くその出自はやはりくそってか」
血塊を舌で丸め、吐き捨てた。痛みがうずき傷口を焼くけど、なにかを奪われることほどはつらくない。銃口をまっすぐ階戸に据え、憎しみを十発の銃弾に乗せた。あたしは華奢とすらいえる胴と顔面に、一発ずつ、残らず撃ちこんでいった。
世界が、天鵞絨をかぶせたようにぼうっとしていた。怪物を殺しつくして集中と先鋭化がとけたのかもしれない。頬の痛みだけが鮮やかにふちどられ、劇痛は立ちくらみをおびき寄せて足つきまで不確かにする。あの子を守れた実感が、すべてを上回っているのだけが救いだ。工場を出ると、夜空を切り刻む回転翼の爆音に瞼の裏からこすられた。瞼のふちがしょぼつく。壁に描画された赤牛広告に、肩で疲弊をこすりつけながら電話をかけた。もう終ったよ、と。狭隘に散らばるガラスに足を止め、位置情報を送信。
長い路地を出たところで、多知覚センシングが鈍った尖端に動きを報せる。夜道を慎重に走るベロニカだった。息を切らして走ってくる、というただそれだけで嬉しく思えた。守りきれたのが。ベロニカ、と叫ぼうとしても、頬の裂け目から息が漏れるばかりだ。用水路にかかる橋を渡ってきた足どりが緩み、短からぬ距離をひらいて止まった。不安げにゆがむ眉が見せる怯え。口許を覆った手の隙間で唇が動き、いや、と多知覚までが告げてくる。また抱きしめて、抱き返してもらえる。そう信じきっていた心臓が大きく搏った。答えを見失って視線を落とせば、いたるところが染みだらけ。
秩序なき終わりを象る、汚れきった呪わしい曼荼羅。
手を覗きこめば、掌紋のみぞに乾いた血が沈み、膚は裂け、中指が折れ曲がって肉片までへばりつく。あたしは壊れ気味の、汚らしい異物になっていた。
そうだ、暴力を忌むのはとても正しい反応だ。悲しみを切り離そうとして、あたしは誰にともなく、大きくうなずいた。フラッシュバック。吹き荒れる過去。血に沈み、手を伸ばす――届かない――虚空だけが重なる。しかたない、と自分に言い聞かせた。ベロニカは暴力から遠ざけられているべきで、そのためにくそ野郎どもと接したんだ。仕事は果たし、これでおしまい。業務用の笑いが口角を吊り上げかけて、孤独を支えきれず崩れた。
でも、もう一度きちんと触れたら、やり直せるかもしれない。
うちなる声が囁く。まったく安直すぎるのに、いまは信じられた。
あたしはあんたを傷つけない、守るため以外に手を汚さない。不思議なほどの楽観に突き上げられた。血に濡れた聖女がもう穢れを浴びぬために、楯になる。そこで待っていてよ。言おうとしても、喉がすくみ、舌がつかえるばかりだけど、足は踏み出せた。ヘリの接近する音がゆっくりと近付いてくる。終わりが、恐ろしい夜の終わりが近い。
ベロニカは目を見ひらき、なにかを叫んでいた――劇痛をもってそれを知る。油断大敵もいいところだ。頭上からの激しい一撃が肩口から腹へと抜け、肺をこじあけられる無限定の苦痛に息が途絶えた。殺したはずの怪物が耳元で言い募る。
「まだ終わっちゃいない。もっと殺りあおうじゃないか。私の代わりなど何人でも立てれるが、この刹那は、私らだけのものだろう……」
腹のなかをかき乱す異様さ――ケーブル腕をねじこまれていた。うごめくたびに、四肢が残らずジャムになったと思えるほどの弛緩。ここで倒れてしまえば、すべてが無意味になってしまうじゃないか。枯れていた魂の最後の一端が熱され、焦げつく。
走りだそうとするベロニカに、来るな、と必死に声を上げようとあえいだ。
あの子を奪うのだけは許さない――ほとんど潰れた階戸の頭を抱えこむ。柔らかな脳髄を爪で鷲掴みにし、残された命をつぎこんだ膂力で骨を軋ませた。はらわたを抜く感触にふらつきながら地面に投げ飛ばす。肩に足をかけ、顎をつかみ、踵で肋を踏みつけ、激しい血しぶきを巻きあげながら脊髄を引きずりだし、地に叩きつけた。
膝が虚脱して踏ん張りがきかない。たたらを踏んで、平衡感覚を忘れたままフェンスによりかかると、網目も掴めず、腰を落とすことしかできない。行き当たった生の涯。シーソーが本来あるべきほうへ傾くのを、劇痛が、鼓動が、冷めゆく血が、痛感させる。心の底から怖い。戦場においてきた実感としての恐怖が、単純あからさまに追いついていた。終わりの慣性に引かれて目に映るすべてが分離していく。遠のく。なくなっていく。
覆しきれなかった終わりのなか、なにもかも空洞となるのがわかった。耳鳴りが五官を聾した。白々と光を背負う黒い影が降ろすサーチライト。遅すぎる到着に揺らぎ、眼底に落ちて撃ち抜く輝きは、まるでヤコブの梯子だ。割れガラスを踏む音を連れて、真っ白な天使がやってくる。きれいな顔が、くしゃくしゃになっていた。
「ヴェローナには行けなさそうだ」
今わの際に漏れたにしては、間が抜けていた。
天使の面持ちが一層、歪んで、それを見ることも許されず、薄れ、星もない夜に塗り潰された。闇に手を重ねれば、でも触れられた。虚ろでないそれは、熱っぽく、だけどすぐ嘘くさく濁った。拒絶の予感が蘇っては熱を溶かして、得られなかった安らかさに泣けてくる。そのくせ、手をすり抜けて頬に触れ、耳に移りゆくと、声が形になって、
「ナデァ」
とあたしの名に唇を震わせて、いまにも崩れ去りそうな嗚咽。
「あたし、あんたのことが好きだったかもしれない」
声を絞り出す。好きになってもらいたかったけど、最後でしくじったな。漠然とそう思った。怖がらせるつもりはなかった、と伝えたい。他のことを言おうにも、声帯に裏切られ、哀れがましく息が鳴るだけ。あたしが死ぬとこの子はどうなるのか。想像が涙に変わった。こわごわと唇に触れる熱――胸の穴が熱で満たされる――闇を払おうとする口づけの感触。これが本物だったら嬉しいな。思えども五官から早々と剥離するから、余計、悔いが残る。ゆっくり加速し、風速によってすべてが燃え尽きる。天か、地の底か、兎に角すさまじい速度であたしは落ちていく。闇を這う怪物は死んで幕はとじるのに、そこに光はない。あたしが求めていた光は。最後に、ひとつだけ祈りを捧げた。どうか生き残って、と。
再現実終了/話者アドオン記述解除。
脳電位の形作っていた、ナディア・デントンという物語が、ほんの数秒間に圧縮されて蘇り、終わった。BANの大容量転送はもう失われている。リンクは水平線のままだ。ベロニカはまだ温かな屍を抱いたまま、思い出の断片に震えた。義神経を介して厖大な情報を見とったから――というだけではなく、愛おしさが、その身の隅々を突き刺すからだ。何度も、何度も、名前を呼んだ。傷口を押さえても、もう遅い。知りながら腹に小さな手をあてた。流れだす錆と涙の味が混じりあう。ごめんなさい――慟哭し、呟いた。
否定なんてしていない、ナディアの、裂かれた頬に驚いて、どうすればいいのかわからなかっただけ。自分がした悪いことを思い出しただけ。嫌いになんてなってないよ。そう繰り返しても、抱き返されることはなく、返事もない。自分を守ってくれた、好意をくれた人が壊れたまま永遠の眠りに落ちてしまった。ことば少ない優しさも、もうここにはない。
ごめんなさい、と届かない声を繰り返す。ベロニカにできるのは、失われないように、物語の切れ端を自分に残されたストレージの空き容量に記録することだけだ。
寄る辺ない不安と、ナディアへの罪悪感で、混乱しきっていた。
「すまない、デントン」
隣に膝をつく見知らぬ男――そっとナディアから顔を離して、ベロニカは見上げた。濃い琥珀色の瞳をした、犬に似た横顔。大きな掌が、行き先知らずの眼差しをとざす。
「けえじさん……」
「ああ、すまない、遅くなった」
「ナデァが」
死んじゃった、と莫迦げたことばを遮り、掌が頭におかれた。ナディアがしてくれたように。行き先のない苦痛に低く声を上げてうめいた。どうすれば正しいかもわからず、チェストリグのコーデュラナイロンが膚を擦るのも構わず、終わりを焼きつけられたナディアを一層に強く抱きしめた。電位の語った望みを果たすために。そうしないと取り残された自分まで一緒に崩れ落ちてしまいそうにも思えた。わたしも大好きだよ、と耳許で言い募り、最後のキスを唇に重ねる――干上がり、こわばった命の味。
どれだけの時間が経ったのだろう。夜明けを目前にして吹きつけてくる剃刀めかした風に押され、重い箱を手にして腰を上げた。ヴァシュク刑事は、痺れをきらさずに隣で待ってくれていた。付き添われ、車で発つ。入れ違いに到着した救急車が、亡骸を真っ白な車内にナディアを運びこもうとしていた。ただ怪我をしただけで、生きていてくれたら。スプロールの空白は願いを飲みこむ。ベロニカは深い傷口と、残された祈りを胸に抱き、いつまでもやまない涙を必死にぬぐいとった。
出発。そして、証言というやがてはじまる戦いへの到着。
また一人、取り残された。自分一人だけが生き残ってしまった。けど、罪の意識はない。道の上に立っている、立たせてくれた人がいる――それがうつろな心に色濃い輪郭をかけてくれていた。残っているのは短い時間でも愛してくれた人の思いと、それを傷つけてしまった誤解、別れの悲しみだけだ。
どうか生き残って。
もうここにはいない人の声を、繰り返していく。
そうする権利はあるよ。
諦めから遠ざけ、生を祝福しようとすることば。
心が潰れてしまいそうな不安に濡れ、恐れに震えが止まらない。でも、目を塞ごうとはしなかった。あの人がすべてを賭して守ってくれた“わたし”を無駄にしないように。