サイバーっぽい百合中編。 Plastic Talker 前編 |
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仕事を反芻していく。根本はかわりばえしない。護衛を蹴散らして、目標を回収する。ごく単純で難度が高い、あたしが得意とする契約内容だ。依頼主も例のごとくこの時世でも大いに権益を握るガンビーノ・ファミリー。なじみの客筋に親しんだ仕事。 舞台だけが移ろう。ロードアイランド州はプロヴィデンス。 息絶えた北部郊外を陣取る目標地点より二キロ地点――広々とした駐車場のはじに、あたしは静止していた。目をあけてバックミラーの反射に細めれば、いつもながらに灰色のボブと無表情が凍りつく。閾値が拡張識におよぶと、黒に近しい無色が、凝集でゴシック体をおりなし、 そろそろ行動開始としよう――と、グラヴボックスから注射器をとる。じっくり自家培養したナノマシン溶液が麦色を揺らす。ジャケットの肩口をずらし、州法と連邦法をいっぺんに犯す半オンスをうなじに投じた。冷たい抵抗。間もなく、 手を休めずに助手席に据えたケースから銃を掴みだす。HK417c突撃銃。徹頭徹尾のご禁制だ。連邦火器管理ネットのタグを削ぎ、フルオート射撃可能で、閉所戦に適した九インチ銃身の先に切った螺旋を噛む 誘拐にはじまり護衛、脱出。それらを担い、多くの人間が 応用一つで大金に化けるように作られた型。精神の髄までそうだ。運。勇気。便所の床にへばりつくコンドームより無用なものに頼りたがる心性を、新兵訓練所と戦場に半分ずつ捨ててきた。目標物を侮らずに制圧を徹底する。素人と一線を画したブランドとして、ヒエラルキーの頂点に立たせる 剣呑な夜に立てば、そぞろな風に他人行儀な秋の香りがした。手近な柵を踏みつけ底の見えない雑木林に飛躍――蛍光の光の傘が遠のくけど、着地点はわかりきっていた。危うさはない。枯れ葉に足を沈め、中腰のまま、自然の張力を破らぬよう進む。 そう深くもないはずの森には、星のない夜がどこまでも重く垂れこめていた。鬱勃とした空気が停滞し、暗々とほつれた枝はボヘミアの森さながら全容をとざすばかりだ。それでもあたしは獣道に足をかけた。慎ましい道順と歩幅は、ツァイス義眼の増覚素子が闇に輪郭線をかけて補い、濾過していた。おかげで歩き慣れた場所にもひとしい。 ふとした拍子に割れた柵を越え、庭を通り抜けた。朽ちた家。褪せた滑り台。ひび割れたプールの残骸。住人が望み、そこにあったはずの生活を惜しむばかりの抜け殻だ。北部の郊外地域は内戦が終わってなお人口密度が極端に低い。それもそのはず、内戦中はT・F・グリーン空港どころか、周辺地域まで南軍の無人機でこっぴどく掘り返された。住民は逃げ出して、いまじゃ土を埋もれた不発弾も処理されず、航空機どころか、通りかかる人も車もない。だからって委細も知らないステータスを無警戒に突き進むのはよほどの阿呆だ。あたしはときどき足を止め、右掌を虚空にかさねた。さらなるディテールを求めて。それはいわば粒子の海を見る感覚だ。粒子の波が立体をなして知らせてくる。 森の奥行き。目標の 夜を切り抜くフェンスを目指すさなかにも、薄暗がりを見てまわる無秩序な人群れをはっきり感じる。六人だ。しかめ面とダークスーツ、さらに探ればロレックス、頑丈な足袋ブーツを組み合わせていた。敷地内には漆塗り風味のベンツまで見え隠れ。 無個性と下品さを同居させた飾りけを好む あたしは木陰にしゃがみ、拡張識の表示系をLAN視覚化に切り替えた。暗がりに覆いかぶさる青い架空質量。 ナイフを握り締め、最寄りのフェンス際を歩くクルーカットに接近した。 武闘派のくせに、どいつも迂闊だった。兵隊風情を相手にした回数なんて四、五十じゃきかないのに、殺すたび驚かされる。あまりにも無防備でヤワ。度胸、強度と二項が比例することは滅多なことじゃない。銃弾を叩きこむか、刃物で損なうかすれば、笑えるほど呆気なく始末できてしまう。 侮っているわけじゃない――しかし怖がるほどでもない――うちなる声の肯定。思案もそこそこ、フェンスを越えて廃車の山で隠された 管理小屋だろうプレハブ建てを目指すあいだにも、ナノマシン群は侵入していた。最初の通路は無人だと告げているけど、油断は禁物。無節操に突っこめば長生きできないと相場は決まってる。わずかにドアをあけて照準線を巡らせれば、手狭な廊下から、熱っぽい空気の層と調子はずれのデジタル津軽節ハードコアが漏れた。悪趣味にひずむ三味線ベース。つんざく叫び声とノイズに大気が弾む。多知覚センシングいわく、扉一枚をおいてもなお高く音を響かせる中央の部屋に護衛どもが固まっている。 浸透したナノマシンがさらに知覚させる――中国から出回る九二式拳銃。 浸透したナノマシンがさらに知覚させる――安物のスタームルガーSR9。 浸透したナノマシンがさらに知覚させる――切りつめたレミントン製散弾銃。 どれもしらふで相手をするなら危なげで、小領地を守るのに相応かもしれない。 しかし、あたしからすれば銃の選択一つをとっても、見かけ倒しの安物と思えた。 いい仕事に寄り添うべきはいい道具。大原則だ。なのに素人は、往々にして用意するだけで満足してしまう。恥ずべきだ。あるいはあたしが本気すぎるのか。 まあ対応が楽なのはいいことか。鼻を鳴らした直後、わずかにあけたドアに 人類が祖先から継ぐものは大抵、血でしとどに濡れてる。速やかな殺しはその極致だ。うちなるあたしが語りかける――手際としちゃ五点中の四点てとこ――悪くないだろ。心中で言い返し、ざっとクリアリングして、 「残りはお一人か」 多知覚のお告げを舌に乗せる。死屍累々を越え、広々したビデオルームへ――十メートル×八メートルの白く、まっさらだろう壁一面にうごめくスクリーン。膚色の蛆の群れとなる精密プロジェクション。悲鳴とあえぎがごっちゃになって網膜で踊り狂っていた。 ポルノ映像と とんでもないくそったれ。息を呑んだとたん、三二口径のきらめきをねじこまれた。 目を背けるな。つやつやしすぎて銀の装飾品じみた拳銃。目を背けるな。ズームアウト。目を背けるな。手から指へ、膚にもぐる糸で縫いとめた象牙の銃把。目を背けるな。死体を胸に抱いた少女。目を背けるな。拒絶をわめく。目を背けるな。その隣、桃色の髪の女の子が涙をこぼし、いやに長く、鋭利な鋏で若い女の頬にざくりと亀裂を作る。目を背けるな。十歳になるかも怪しい幼い横顔。目を背けるな。前を見れば聖杯めかして切除された頭蓋から脳が覗く。目を背けるな。灰色の器官をうがつ蛇のようなペニス。目を背けるな。うつろな視線はぐりぐりと裏返り、痙攣し、嘔吐した。目を背けるな、絶対に。 編集されゆく禍々しい死のおゆうぎを、有象無象のセックスが囲む。突飛で汚らしい想像力を尽くす最悪のフッテージ。聖餐めかして酷薄な 仕事という仮面のうち―― 薄闇に浮く吸血鬼じみた白さ――かさついた膚――落ち窪んだ薄笑い。撮影と編集で地獄の様相を収めてご満悦の裏ビデオ屋。“カットマン”・ゴセク。今回の確保対象だ。 「さっさと似合わんおもちゃを捨てな、痩せっぽち。それとも面を吹っ飛ばす……」 殺す気満々と思わせる脅しは効きめ抜群。 「ちょい待ってくれよ、抵抗はしない、暴力は勘弁なんだ」 と吃り気味に言って転がしたMP9を、あたしは靴底で受け止め、 「ほほう」 「ははは」 あたしは下らない作り笑いを見据え、 「御託をご開陳ってわけかい、坊や」 「そうじゃない。おれは大した罪は犯してないんだ、そう。撮っただけ。それからちょい編集して。手なんて一度も下してもないんだ、物的に減るだろ、悪徳は、大幅に」 飲みこみが早い。 「重いの軽いのって考えるならなるほどだ」 「そうだろ、なあ。見かけどおり、軟弱で無害なんだ、とってもな」 「けどビデオ漬けの頭でよく考えてもみなよ、なあ、くそっ面。莫迦げた弁解なんてできる立場……。調子にのってると鉄砲玉で 吐きつけた語彙はバベル崩壊以前に由来しそうなほど舌になじむ。しかも拳骨とも相性がいい。頬骨を殴って尻もちを突かせれば、どうして、と言いたげな顔が見えた。契約を思い出す――殺さず、深く傷つけなければ問題なし。爪先を鳩尾へ振りぬき、 「下らんおしゃべりでやりあってる暇はなくてね。がきの使いじゃないんだ」 肝臓を蹴りあげてうめきを化合し、満足を得てから 一体なんでまた、こんなくそったれを確保せにゃならんのか。苛立ちまぎれに考えかけ、すぐやめた。この仕事に理解はいらない。穿鑿は不幸を生むだけだ。 わりきり、念のため銃を抜く。扱い慣れたM45自動拳銃のスライドをつまみ、三センチばかりの後退で、四五口径のイースターエッグっぽく鈍い金色がのぞいた。胃液をこぼすゴセクを担いで堂々と射界を得ながら、解体小屋、屑鉄の谷に横切った。増援はなし。地獄でも鎖すような金網のゲートを抜けるときには、悠々たる夜明けの空気が多知覚に満ちた。駐車場に戻ればBMWが出迎えてくれた。銃をしまい、皓く微笑むフロントグリルに指を鳴らす。車載カメラが相貌認識と シートにかけてステアリングに指紋認証すれば、エンジンの眼醒めに穏やかな胎動が感じられた。鉄の塊に淫する気は毛頭ない。けど、有用であろうとする力強さには愛着が絶えない。空力の究極的線形でなされた車体は華奢そのもの。その実、内外を問わず アクセルをやさしく踏めば、電気モーターの馬力が車体を弾く。 駐車場を飛び出し、ねじれた車道上で数秒とせず七十マイルを超えた。隙あらば暴れる力強さをステアリングとブレーキで制御しながら猛スピードで二車線のルートを南下する。あけた窓に尖った風が飛びこみ、胸にぽっかりあいた穴から疲弊、怒りの熱量を奪う。 風に穴を冷たく払われながら、人里とわかる州間 風がびうと鳴り穴をなぜる、風がびうと鳴り穴をなぜる、風がびうと鳴り穴をなぜる。 気を抜けば腐り落ちようとする心を抱いて、黒々した森の狭間を突き抜ける。 風がびうと鳴り穴をなぜる、風がびうと鳴り穴をなぜる。 法定速度を踏み台にするのはいつだって心地いい。 風がびうと鳴り穴をなぜる。 直線で百マイルを突破してすぐに、スピード違反を叫ぶ不快な高音で意識の緒をつかまれた。サイレンの響き。バックミラーを見れば、 ほんの数秒、自動運転に明け渡す。 拡張識の羽ばたきは劇的で、空電へ転がりあがり、ついに神経末端の そこは輝きの海。再解釈がはじまる。 通信回線から都市インフラへ―― と、背骨の上にすとんと戻った。思考リンクで速度を増す――加速、加速、加速。 尺度の手がかりが不足して、作り物めく道路際に目をやると、世界が眠ったと信じかねない停電がやってきた。ヘッドライトを消灯。電脳空間が記号の幽霊となり焼きつく。外装に秘めた 電力復旧までのタイムリミットは最大で二十秒。最短で八秒ってところ。そのうちに引き離す。挑発的心情が熱くなりすぎぬよう、下唇のはしを犬歯で噛む。西へと猛進――体が座席に押しつけられる。タイヤのノイズ、モーターの唸り、鼓動が混和しそうだ。車どおりの増した州道116号へ至り、歯切れのいい感触で対向車線にはずれた。車間を縫い、ヘッドライトのおっかなびっくりな輝きが迫るたび、車首を大きく転じる。戸惑いもたつく車たちを、パズルをとく軽々しさでかわし、左、右と車線を移っては舞い戻る。警邏のエリートが四苦八苦して追随を試みてくる。けど、あたしの軌道もまともに捉えられないまま、彼我距離は一キロを超してさらに伸びた。傍受した無線に激しい怒りが叫ばれた。 もうそろそろおひらきだ。ゆるやかなカーブの先に、自動式の手駒である中型トレイラーのコンテナが、ぽっかり口をあけていた。減速――突入――乗りあげ、奥行きに激突する前に制動性が衝撃となって体幹を突き抜けていった。静止で心搏の大きさを感じた。すさまじい音の落差を、アドレナリンのわめきが一層に大きく思わせる。 外では、二種類の盾が守ってくれていた。偽装ナンバーと 三度、軽いノックですべての窓に外部カメラの映像を投影した。空には、柔膚に散る内出血を思わせる、鈍い、痛々しい赤と紫を混ぜあわせた終わりが描かれていた。 サウスブロンクス区――狭苦しい中二階。セーフハウス群の一柱だ。あたしは蚕豆色のソファで、きらめく朝と悪い夢の予兆を遠ざける酩酊に浸った。 密造調剤師のデザインした 戦後に携わった仕事の最高潮が抱き起こす――神経の末端をスパークさせる、あたしという媒体の奥底にしまわれた レストランを出たとたんの奇襲が、銃弾で前衛二人の首を破った。鮮血と確定的な死。あたしはそいつの脇から二挺のグロック拳銃を拝借。トヨタから湧き出る黒ん坊へ――銃爪を絞り、絞り、絞る。咲き乱れる橙が、必死に飾り立てた敵意を赤い肉片に変えた。 手に跳ねる重い反動。二六発の四五口径。反動がふっと失せる。すぐ弾切れだ。何人かをしとめながら硬直した女の子のもとへ駆け、抱いた。耳をこする、無数の撃鉄の下りる音。劇痛に防弾ジャケットの背を乱打された。襲いくる吐き気を無視して、どうにかSUVの後部座席をひらいた。もう大丈夫だから。言っても泣き声はとまらない。当然、こんなひどい事態。流れ弾に腕をやられた奥方の尻を押しこむ。と、 爪先がアクセルを踏みこむ。大丈夫、すぐ安全なところに。激しい耳鳴りが頭を満たす。たぎる充足で、内臓に響く鈍痛ですら心根が高ぶった。単一なる衝動に支配された。 銃を肉体の延長として撃ち伏せ、銃声に魂の曲面をなぞらせる。それだけで自尊心の割れめを埋められた。あの日、殺したアルジェリア人ギャングは五人あまり。戦後のニューヨークに忍びこんだ略奪者を殺し、あたしもまた十発近い九ミリ口径をもらった。体には醜い痣の集合と折れた肋骨が一本。護衛でただ一人の生き残り、幹部の家族を命からがら助けだした。これで兵隊からも、大物からも多くの信頼を呼んだ。当時のボスは、最高の新参者にして最高の楯ですよ、と誇らしげに言ってくれたほどだ。器物にさずけるたぐい、暴力装置としての栄誉でも、空っぽのあたしが浴するには充分だった。 あたしはボスからのお達しで 誇り高い人間なら苦々しいだろう。でも、あたしにはそう悪い話じゃない。ただ血で汚れただけの、日常にすら戻りつけないあたしをからめ捕とる、いやみったらしい虚ろさで圧壊せずにすんだのだから。 ステアリングがぬめり、そこに手がない。左右の肘の継ぎ目を飛び出す骨が血みどろだ。恐れがあたしの首を絞める。忍びこんできた過去にステアリングを渡さぬよう、しがみついた。猛スピードで 冷え固まる体―― 宙に落ちる仮想の慣性で記号論の膜を破り、ソファの柔らかい 昨日今日と食事をとってなかったっけ。三度めの嘔吐をしながら、あたしは思った。連想はむやみにさかのぼる。髪が長い頃には胃液で毛先を濡らしたのを憶えている。 いまじゃ気だるさが喉にまとわりつくだけ。粘着くつばをこぼし、 「慣れたもんだ」 週一のペースで世話になってれば慣れざるをえない。ひどい起き抜けと引き換えに、悪夢を殺す。忌避すべきものを遮ることの価値がどれだけ大きいかは、一度でも自我を浸した人間にしかわからない。薬物と拡張識、という科学の縫い針がなす最上の応急処置。 フラッシュバック――悪意――顔が、壊された少女の顔が照る。 唐突に、揺れる水面に浮かんでは消えた。血。低い天井に挟まったかたいタイル床から引き剥がされ、 隣の監禁部屋にいるゴセクを死ぬまで蹴りつけてやりたい。痛みを、苦しみを、あの子らが受けた以上の恐怖を――たまらず、くそったれ、と単語を舌に乗せて区切る。 どれだけ黙然としていたのか、部屋に這い出た頃には、夕暮れが窓にさしていた。セピアに色づいた床板が、額を低い憂鬱で気を曇らせる。ドラッグの残り滓が呼ぶ気分障害――十分とせずに治まってくれる――その通り。テーブルからとったぬるいエビアンをあおり、味けなさが口角から一筋こぼれるがまま、ソファに寝転がった。 時刻表示を視野に灯したけど、ゴセクの引き渡しにもまだ早い。低い天井を見上げ、意図もなく呆然として時を受け流してた。過ぎゆくだけの時間が、あたしの過ごすあらゆる時間に幅を利かせていた。よく生き、過ごして、望み、叶えながら老いていく。世俗の語るようなものとは縁がない。ただの空白。これが生きているといえるか、たまに考えるけど答えは出なかった。けど“生活”からかけ離れ、ただ生存しているだけなのは決定的だといつも思う。生存だけなら、飢え死にという不正解を回避していればいい。 正反対の、人らしさを営むには多くの輪郭が必要になる。魂の土台を支える文化の輪郭、あるいは生きていく理由。ところがあたしの曖昧な生はちっぽけで、みすぼらしいったらない。呪詛というセメントで固まった家から逃げ出して海兵になり、あっという間に一線を越えて転げ落ち、なにもかも見失って八年。漠然と、明らかな判断基準も、目的もなしにここに流れ着いてしまった。到達じゃない、怠惰な流刑だ。 ダッジ・チャージャーで、ひなびた午後十時のブロンクスを走り抜ける。アーチの天辺が悪魔の角めかすトリボロー橋を抜け、クイーンズ区に向かうあいだにも、横目に曇った天蓋を持ちあげる摩天楼の光輝がちらつく。中心部――大建築の群生地――マンハッタン。イースト川をへだてた二十世紀の残り香。ブロンクスのぼろと比べたら、きらびやかさとくれば王侯貴族の空中楼閣とでもいえようか。印象論として、あれは間違いなく、誰もが思い描くニューヨーク的なる概念の体現だった。あるいは抽象化されたアメリカ的景観そのもの。けど、実際のところの所有者はその大半が非アメリカだ。 一世紀をまたいだ歴史を誇る華麗な 知る人は少なく、あたしもどういうことかはきっちり理解してはいなかった。 脳のしわに挟んだスコラスティック そのたぐいの普遍的無知を許し、同時にだまくらかそうと、全方位でコマーシャルがぶらさがる。空間情報で固定された通販広告が、低い夜空をとざし、提携した建築物の壁や看板には目がくらむナノレイヤー広告を満載する。産業的装飾はこの数年で急増して現実を溶かし、割りこんで当然という面だ。コカ・コーラとマクドナルドのジャンク共産主義。任天堂のキャラクター分遣隊。フォルクスの不細工な新車。記号の洪水だ。いつでもどこでも、あなたの根源的な消費欲のおとなりに。そう言い募っては、おぼろげな消費行為にとりいる眩暈になろうと厚かましさを隠さない。法的に許された形でターゲティング広告に結びつけられるネット閲覧履歴、生活傾向、行動パターンから割りだされる、魅力的で触れたくなるものとして見せかけようと懸命な広告は、表示権を売っ払った場所のどこでも現れた。下手すれば教会すら。内戦で疲れきったこの国にあるのは広告ばかり。 これから触れにいくのは、そうして演じられる都市経済辺縁の被膜の下。奥ゆかしい暗部のはしくれだ。クイーンズ通りを南に行くうち、品性欠如の広告ノイズはどこへやら。ミドル・ビレッジの景観は平穏そのものだ。低い街並みに巨大な白い螺旋構造が見えた。グッゲンハイムの雑な模造は、上層にいくほど厚みが増す立体駐車場だ。ガンビーノ絡みの会社が運営する 時間の指定は二二三〇、十分前の到着、とあればまずまず。入り口への段差をあがってすぐ、無数のセンサ認証と監視カメラが針の山の警備体制にさらされた。一階ごとに武装した警備員もうなずきかける。車上荒らしから守れるだけのセキュリティを露骨に示し、外敵から隔絶され、密会にはぴったりだ。六階に停めれば、マリアの遣いが顔を見せた。 「お待ちしてました」 と告げる男はホテルマン風に慇懃だ。全身にご奉仕の字を記してる。あたしは座席から身を乗り出して、チャコール背広の胸ポケットにデータセルを入れてやり、 「毎度ごていねいに」 「敬意を表するべきかたですから。ノーベル暗殺賞受賞はすぐそこだ」 「褒められてるんだかなんだか」 「そいつが例のビデオメーカー……」 となかを覗きこむ顔に、あたしはうなずきかけ、 「そ、あんたのボスがお求めのとびっきりなくそ野郎」 「また一人で敵陣を突破したわけだ。さすがですね」 誉れを重ねられたところで機嫌よく返事をする気にもならない。あたしが黙って、腕一本でゴセクを掴み出していると、気まずげな咳払いが聞こえた。 「急な話で非常に申し訳ない話なのですが、追加で新しい仕事をお願いするよう、グッドマンから申し付けられているんです。よろしいでしょうか」 「あの女、こんなせっかちだったか……」 「仕事に関わると情け容赦なく」 「あはん。いますぐ聞かにゃならん用件かい」 あたしは礼儀に反しない程度に舌打ち。返ってくる首肯は、やはりうやうやしい。依頼を突っぱねる難度はそう低くない。諦めて訊けば、拉致の次は保護業務を頼みたい――どころか取り急ぎ、契約を精査する時間すら惜しんでいた。 「仕事は仕事、いたしかたない。誰を守れって」 遣いはもがくゴセクを受けとって顎を殴りながら、 「あちらに」 眉をひそめると遣いの背後、ちびた影が、護衛の若造にひかれてセダンを降りた。上等な仕立てのダッフルコートとひだの多いスカートで着飾る、波打つ髪を薄桃に染めた トランクをおいて、小さなホワイトボードを掲げる。はじめまして、と。記された文字列は、年に不相応な達筆だ。すっかり毒気を抜かれたあたしが呆気にとられ黙っているうち、細い指が慌てた速度でペンを走らせた。 わたしはベロニカと言います。あなたがデントンさんですか。 「ナディア、ナディア・デントン。あんたの護衛をやることになった」 よろしくお願いします。読みやすい尺度の字体をむけ、ぎこちなく微笑んだ。また風が吹き、ふっと甘い 「荷物、それで全部……。後で足りないものがあっても引き返せないけど」 あたしは言い、深層意識の警告に従おうと顔を逸らした。大丈夫。ベロニカはそう書き、どこか傷ついた面持ちで眉根を寄せて、うなずいた。胸のうずき――穴のふちを探られるような痛み――あたしはほんの少しだけ深い一息で追い払う。 受け取ったトランクは、頑丈な造りのわりにえらく軽く、かと思えばもう一方がやけに重い。バランス感覚を乱されそうになった。歩きながらダッジに顎をしゃくって振り返ると、はっとしたベロニカが上目遣いで眉の尻を下げて足を早め、落ち着かなさそうにして不安げな瞬きも増した。とっても速そうな車ですね、とベロニカは示した。 「なにもすっ飛ばしてくわけじゃない。安心して座ってな」 リトルビレッジを遡るあいだ、ベロニカはずっと景色を追いかけていた。大きな建物を見ればそれを、広告や、すれ違う車まで。まるではじめて外を見る子犬。無垢さに同居した驚きが目を大きくあかしていた。無口なお嬢様だ。遠く、あたしとは分離された世界からやってきたかのような。 行き先はどこにしようか。考えて一ブロックを走るごと、都市の末梢神経をじっくりハッキングしていった。防犯カメラ。車両の通過記録センサ。市民からの反感をさほど買わない加減での監視を、バックドアから侵してだまくらかす。現職のジュリアス・ゲイブル市長が企図した この仕事では有意義な手間だ。 最悪の事態を避けるために獲得したのが、人手も足りず、ポイントを急増させたせいでザルな監視環ピケへのアクセス法だ。手に入れたのは、遡ること市長閣下が健全化を旗印としはじめた頃だ。この街の腐敗は前世紀末ほどじゃないにせよ、それなりには横行している。その一側面との契約。市内から除きたい事件の破片――管区外とのコネクタだった汚職警官の死体を、処理のプロに引き渡す。健全であるため揉め事を外へ逃がし、外面を保つ、急場しのぎな不健全性の片棒を担いだ返礼として、アクセスコードを得た。逃亡のためのトレイラーにかぶせる欺瞞情報にしてもそのおまけだ。 来るときにも施した作業工程をとくに念入りにやって、まどろむ辻にはられた網をすり抜けながら、考え至る。お嬢さんに粗末な寝床は押しつけられやしない、と。 ブルックリンからスタテン島へ、橋を乗り越え、直進は控えてぐるりと巡り治安指数高数値の郊外に北進した。行政の手で整備された郊外のウェストコールドウェル。白亜の化石に見えるセーフハウスは、富裕層がための平たい住宅地のすみに佇む。 ガレージに予備のBMWと隣りあわせでダッジをとめ、M45に指を絡めた。訪れるのはおよそ半年ぶりか。車を出るとガレージから鍵をあけ、最初の長い廊下から気を払い、ひと部屋ずつ灯りをつけてく。どこも深い静寂の虜だ。居た堪れなさが心に重圧となって積もっていると気づくのに時間はかからない。思い出す――重い空気――大昔に母と住んでたトレイラーハウス。住む者のない家の息苦しさが、 前の軟禁対象が残した、 「 あたしは言い、ソファへかけた。ベロニカはフローリング床にじか座りし、膝を抱えた身震いで、すてきなお家です、とボードを小刻みに揺らす。 「これはこれは。じきに床暖房がきくから辛抱して。それと、さ。こっちに座りなよ」 隣を叩けばいささかの埃が舞った。ベロニカはそれを気にするでもなく、顔色をうかがう兎の上目遣いで、ボードを抱え直した。 お気遣いありがとう。でも私はどこでも座っていられるし、眠れます。 「それはそれは。でも冷たいまんまの床に座らすの、気が咎めるとは考えない……」 ごめんなさい、気づきませんでした。 ベロニカは狼狽気味に書くと、俯向きがちにはじっこへ腰かけた。目は地雷を避けるようにふせたまま、ついにあたしと結ばれない。また胸がうずく――浅い痛み――どうしたことか。最初の、たった数十分前、あたしを迎えようとしたぎこちない微笑みは去っていた。思い返してやっと、初手からしくじってた、と気づいた。 失敗に気づくのは、いつも後になってからだ。言うべきことは見つからず、たがいのあいだには甘い香りがあるだけ。あたしは幼い無表情を見ないようにして部屋を出た。 保守点検だってしないといけない。喉の奥で唱えてはみたけど、これはわれながら言い訳臭すぎた。苦笑のせいで頬が痛む。まるで逃げてるみたい。でも、点検そのものはせにゃならんじゃないか。独りうなずき邸内LANを呼び出す。仮想レイヤーはほぼすべてセキュリティノードで、自動診断の群れいわく、半年、ずっと漏れも侵入もなかったらしい。リスト上のセンサ類は、周辺ブロックから庭先に範囲を絞り、拡張識に枝づけした。侵入があろうものなら、寝てても強制励起で叩き起こしてくれる。転ばぬ先の杖だ。 いつもながら不思議だけど、仕事に関わる作業をしていると気が落ち着く。空虚感なんてどこへやら。目的意識が、頭蓋につまった灰白質――プラスチックと思い紛う肉の塊を補填してくれるからかもしれない。行動する主体として、あたしに不足したものを。“どうしていればいいか”を教授してくれるありがたみったらない。 けどそれだけじゃ足りない――こどもを相手にするには――そうとも。 人間性の破片を探しあてられるだろうか。腹の底に残っているかもわからないけど。あたしは自分自身に尋ねながら、防弾材を仕込んだ重いドアを押し、寝室をあけた。 拡張識に通信が飛んできたのは、ベロニカを部屋にあげたすぐあとのことだ。日付が変わる瞬間。幹部会第二顧問、マリア・グッドマン――探偵役からの連絡だ。衛星通信によってまだるっこしい通信網を経由した、ささやかなカロライナ訛りを含む、ゆるやかで威厳ある声。あたしは骨董風黒電話をかたどった防壁端末に回し、 「なに、注文のキャンセルかい……。唐突な仕事だもんね」 とソファに寝転がり、肩で受話器をはさんだ。 「これまでに契約を切ったことがあったかな」 「どうだったか。というか、じかに仕事を受けたのはここ一週間が初めてじゃない……」 「たしかに。さておき、おしゃべりは脇にやって。別に契約内容の変更とかそういうことでもないの。説明義務を果たそうと思ってね、詳細を伝えられなかったから」 「ありがたいお心遣いだ。一体なんでまた」 尋ねてすぐ、根本からの説明がはじまる。状況は単純、まず根底には北部を中心に勢力を伸ばすヤクザコミュニティ―― 懐かしい名前に、驚きあまって口笛を吹きたくなる。しかも裏切り者とは。いわく、敵勢と共同でガンビーノの利益から外れた薬物、収賄、殺しを転がしているそうだ。 「外にいる人間が想像できるような状況ではないの」とマリアは厳かに、「ただの腐敗ならまだ許容範囲といえる。国家内国家だものね。けれど、蝕み、勢力図を変えようとする連中ときたら、あんまりにも大きい問題を巧妙に隠し立てしている」 「お気の毒」 「痛みいるわ。それを処理するためモグラと接触したの。 マリアは汚穢に爆弾を放って、しっちゃかめっちゃかに焼き尽くす戦いをするつもりだった。名前に沿った行動だ。 暴力、麻薬、人身売りを生業にするクロームスと、そのシンパを蹴りだす戦いはギリシャ神話さながらだ。神話は戦争に飾られ、戦争の道具は有用性を手札にする。だから、あたしも動かざるえない。ガンビーノ寄りとしてやってきたからにはチェス盤から逃れられない。 話は政治という大きな物語から、ベロニカのもとへと転換していく。 いわく、あの子は東ヨーロッパで人身売買にあった。 いわく、頭蓋骨を掘り起こし いわく、損なわれた脳機能を補うため義神経処置をほどこされた。 ことごとく人道に反する、人間ストレージとして改築された子。しかも 「腐りきってるし、お涙頂戴にもならないね。そんなのをよく連れだせたもんだ」 「苦労したわ。取り巻きどころか、警官にまで尻を守らせているんだもの。FOXニュースでもつけてみて。お得意の下品なセンセーショナルさで扱っているかも。面倒だったけど、腐敗した駆け引きをしたがる連中を蹴り出すには、触れざるを得ないリスクでもあった」 「要は、あの子は政治闘争のための人質って……」 「嫌なことば選び。もっと装飾して、泥沼に浸かっているべきこどもでない、と言って」 「へぇ、道義をかさねろっての。だいぶお察しな感情表現だこと」 「この際どう思うかはお好きなようにどうぞ。証人であることだけは変わらないのだから。美徳も法を誤れば悪徳と化し、悪徳も用処を得て威厳を生ず」 マリアは小難しい 「シェイクスピア。ごもっともな以上に洒落てるね」 「それはもうかの時代の演劇さながら、華美で真っ黒な異様さってこと」 「いつもながらじゃない。でもなんでまたあたしが」 あたしの疑問に対して指摘されるのは、 「 四つ柱―― 不穏な通称は、どれも実在を秤にかけると嘘に傾きやすすぎる物語性に富んでいた。南北内戦のさなかなら信憑性もあったはずだ。南軍の気狂いどもときたら、反吐と科学を同じ鍋で煮ていたのだから。けどいまは戦後、それも復興を遂げた時世だから始末が悪い。大いに冗談めかす上、しかも実際に動いていると明確に言い切れる証拠だってないそうだ。たしかなのは、対抗するため、消去法じゃなしに選ばれるべくして選ばれたのがあたしだということ。経歴を思えば順当だ。索敵と人殺しのプロで、逃げるのもお手のもの。 「しかし真面目な話、聞いたことがないよ。そんな連中」 「これまで商売の邪魔にはならなかったからでしょうね。これまでは。それに、この業界ではまだ新参者の域。耳に入っていないのも道理かも」 「汚れ仕事をやってるんでしょ。それが噂レベルの存在なんて釈然とせんね」 「足跡を残さず、関わった、という露骨な痕跡も残さない。惨殺体と妙な面をつけた集団を見かけた、とほんの少しの話題だけがある。冗談みたいな話だけれど」 そのまんま冗談でしょ、まるで幽霊なみの未定義だこと――と、あたしの呆れ含みな言いようにマリアは否定もせず、 「私たちにとってのブギーマンとでもいうところね」 「卓見。見えない誰か相手に拳を構えるとはご大層だよ」 とあたしが皮肉っぽく語尾をこすれば、マリアはやっと抑揚を落とし、 「けど油断だってできやしない。とってつけた噂ではないもの。 「ゴセク周りで推して知るべしってとこだ。で、お求めの待遇は」 プランBよ――と、マリアは即答した。長期保護と襲撃者への攻撃的な準備。滅多にとられないし、料金も数倍上乗せだ。大げささに、またも口笛を吹きたくなる。 「ベロニカをあなたに預けたのだって、それが必要だから。慎重に隠し場所を選んだのに、こちらでは一週間ちょっとで探り当てられた可能性があるの」 「恐ろしいこって。なんにしても、料金割り増しには変わりない」 「この件にはいくらでも積む。前金で百万ドル、もう振りこんであるわ」 「出処の怖い金額だこと、芯から本気だね。しかしこどもを預かっててそんなんを相手にしてるんじゃ、いよいよ都市伝説の筋書きに近寄ってる。ばかげてるったらないね。で、さ。そっちが危機的状況に陥った場合、こっちはどうしろっての……。そちらの内偵仕事を把握してる人間は果たしてどれだけいるんだい」 「質問は一度に一つまでにしてほしいな。前者は特定機密。後者は、そうね、 「慣れっこ。始終きなくさいのは気に入らないけどね」 「きなくさいなりの理由があるから、警戒心を払ってほしいってこと」 「伝説相手に」 「そう。きわめて慎重にね」 「振る舞いはあたしが決めるわ。言われるまでもなく」 あたしは言い、ぞっとして考えこむ――神話を持たない国らしい後ろ暗さだ、と。 噂話が訳知り顔で闇をふちどるのが、アメリカという文化の裏面だ。下水道のワニや獣か悪魔のしわざのような猟奇殺人。暗い伝統からは、社会の裏面もまた逃れられやしない。ガンビーノ・ファミリーは北米大陸の中で、矮小化されたギリシャ神話となりながら、忠義と裏切り、謀略でヒストリーを膨れあがらせ、都市のための闇の神話として色づく。そこに今度は マリアが息継ぎをした。咳払いであたしは割りこみ、 「あのさ、手並み拝見だなんて物言い、放り投げてこないでよ」 気分を害した演技で唸ってみせたマリアが、 「いつでも無言で期待してる。一度ならず膚をかさねた相手だし、思い入れも含めてね」 「ありがたいことだけど、実際どうとっていいんだか」 「信頼しているのは本当なんだけどな。だから、たかが一の気がかりが大がかりな十のへまになる前に、静々と仕事を進めるために託したわけ。単なる便利屋だとは思ってない」 「ありがたいおことば」 「でしょう……。とりあえず、今日はこのくらいで。進展があったら連絡する。またね」 別れを聞き届け、受話器をおく。軽く言ってくれる。眉を上げては下げてみたけど、あたしも向こうを信頼していないでもない。こわばった肩を虚脱させ、電話をなでた。 異様に重く、一方で軽いトランクの謎は翌日になってとけた。昼過ぎ、なんとなくのぞいた寝室には限界まで圧縮していただろう服があふれて、トランクは小さな紙パックの山だった。 距離のとりかたがわからないまま、保存食を引っ張りだしての食事やらなにやらの世話で近寄るだけ。ベロニカは声をかければ絶対に応じた。テンポが遅れるもどかしさと、びくつきが仕草に透けた必死さで。あたしはもどかしさと苦しさ、いらだちすら覚えた。脳裏をかすめるのは護衛に耳打ち――親しさ――ため息で殺した。そのまま二日ばかり、鈍重に過ぎていく。没交渉。日々の停滞。あたしは本だらけの箱に何度もつまずき、ベロニカは飴を何袋も舐めた。そのうち積まれた本の山に興味を抱いたのか、ベロニカは寝室に数冊、持ちこんでいた。やがてそれが起伏となる。ありがたくない起伏だ。 箱の位置が変わって、ちょっとずつすみに寄せられていた。 見ていないうちに、そいつを移動していたらしい。 なにやってんだ。気づけば、その一言を張り上げていた。跳ねたベロニカの後ろ姿が薄暗がりに重い箱を取り落とし、本が散らばり、埃が窓からの光の柱に舞う。桃色の唇が弁解に上下して、足許のボードを取ろうとする。あたしはその手を掴み、 「勝手なことをするな」 喉が震えた――怒り――その情動ではないはずなのに。 「ここにあるものを下手に動かしゃ、せっかく張った網がおじゃんになるかもなんだ。わかる……。ねえ、あんた、自分が誰に守られてるかわかってるの」 言ったそばからその卑しさに喉元を焼かれた。違う。声に出すようなことじゃない。ベロニカは無抵抗に首を振るだけだ。喉の奥に小さな、語彙の萌芽がわだかまるだけだ。なんか言えよ。あたしは叫んだのか、それとも心中に沈ませたのか。きっと前者だ。小さな肩が跳ねて涙と唸りが、滴となって床を打った。息がつまる――記憶――声を荒げる母。あなたを守るためなら他人だって殺すわ、と口癖ばかりこぼすだけの なんで黙ってるの、ねえ、ナディア。こんなはずじゃなかったんだ。 なんで何も言わないのよ、ねえ、なんで。こんなはずじゃ、なかった。 なんでそうやって私を責めるのよ、ナディア。自分が重なり眩暈がした。 膚の裏で無限の棘が突き立つ痛み――そうだ、あんたはあの女じゃないのだから――そして、根強い忌避感を肯定される。自らのかかわる全てに許しを乞う 「ごめんなやい、ちらかってたから、デントンやんがけがしそうだったからしまいた。ごめんなやい、ゆるしてくだやい、ごめんなやい」 舌足らずで、ままならない発音。言語障害だと理解すると、さらなる後悔に心臓をえぐられた。 自分の、衝動的な物言いを許せない。唇のはしを噛み破り、錆くささが広がった。わずかな時間、ぐっと目をとじる。あれから八年以上――喪ってから――ヒトの全細胞は七年周期で入れ替わるという。あたしは、かつてのあたしは喪われ、もはや卑しさだけが残っているのだろうか。苦々しさと呪わしさで体の芯が熱くなる。 昔、されたことを思い出せ。望んでいたことも。 熱がわななき漏れだす鼻梁を、掌の底で押さえつけた。奇妙なほどの冷静さで、うちなるあたしが呼びかける。幼いあたしが望んでいた温度を選べばいい。それから、手をおろして小さなつむじにそっとおいた。震え。柔らかな薄桃色をおびた髪。ひきつれた息。 「怒っているわけじゃ、ないんだ」 あたしはびくついたベロニカの前にしゃがんで、懇願すら含み、 「責める気だってないんだ、どう言っていいかわからなくって――ごめん。ぶったりもしない。あんたを守るためにここにいるんだから。その、勝手に、ものに触らないでほしいんだよ。そこかしこに危ないものだってある。外から来るかもしれない悪党を探す道具も、武器も、いまある環境にあわせてる。わかるかな……」 信じてほしい。怒りなんてない。どうにか伝えたい。見つからない言い回しを補いきれず奥歯を噛む。ベロニカが、じっと上目づかいに、猫がそうするように覗きこんでくる。無垢なはしばみ色――胸の穴がすうすうとする――聡明な瞬き。ボードを拾って渡せば、しゅんとしてかぶりを振り、わかります、デントンさん、と書かれた。 「それさえ守ってくれたら、うちのどこにいてもいいし、雑誌やらなにやらを出してもかまわない。くつろげるかは別だけど。でも大きなものは動かしちゃならんよ。わかった、お嬢さん……。それからあたしはナディアでいい。敬称なんてのもいらない」 とあたしは雑念という虱にたかられた頭をかき、 「それと、もしもの話なんだけど、さ。書くんじゃなくて、そういうふうに口でお喋りをしてくれないかな。無理はしなくてもいいんだ。けどいざってタイミングじゃ、手書き、追っつかないだろ。だから別にいますぐじゃなくてもいいから」 でも、とベロニカは戸惑いがちに言い、私は上手に喋れないから、と少し小さく書き記した。慎重にことばを探しながら、あたしは笑ったりしないよ、と静かに告げた。それがどんな口振りだろうと関係ない。偽りない本心からの気持ちだ。 「いまじゃなくても、いつもじゃなくてもいい。なんて言ったら伝わりやすいかね」 「おへんじとか」 「場合によっては」 「できます、はい、ナデァ。ナデァ」 ゆっくりたしかめるように繰り返される――呼ばれるだけでくすぐったい。 「角ばった物言いもしなくていいさ。あたしは主人でもなんでもない。ボディガードなんだから。それにもし欲しいものがあったら、できる限りは調達してくる」 それはほとんど餌で釣るのと同じような口ぶりだが、自分でわかるほどおっかなびっくりだった。察してか、ベロニカはボードを抱いて大げさに頭を振った。 この一件から、あたしたちには濃かれ薄かれ線が引かれた。害意も侮りも嘲りもないと知らせる一線だ。 もしかしたら信頼、と呼んでもいいのならそれかもしれない。 ベロニカは、あたしを味方の枠に入れてくれたのか、一日、二日とすごせば、羽化する蝉がわずかずつ翅を水圧で広げていくように、気を楽にしていった。 食事も二人で食べるようになった。以前は手っ取り早さを重んじていたし、保存食の山を切り崩せばそれですむよう、スパムやらの缶とて山ほど――けど、気まぐれに調理すればひと手間も悪くない。洗浄ずみアカウントからのネット注文で卵やらを注文し、料理した。手伝いたがるベロニカが不器用に殻を割り、あたしは薄切りのスパムとそろいで焼き、できたてを床に座って食べた。ただそれだけで背が粟立つ感銘があるなんて。 オムレツが黄色く包む熱が、口を無造作にただれさせる痛み。罐詰めのパンが食道をこする苦しさ。喉を下って癒す牛乳の冷たさ。ベロニカのいくらか穏やかな横顔。生の質感。どれもが人としての呼吸を取り戻した、と思える新鮮さだった。 それは無用な肩入れと愛着の兆しでもある。うまく区別がつかず、たとえ分別できても、業務を透かせば健全とはいえない。 そもそもから印象層に絡め取られていた。媚びを透かす可憐な愛想と、そこに溶かされた怯えと、食事中でも鼻にもつかない 「ありがとお」 「たかだか紙束じゃない。これしきでお辞儀なんて 返ってくるのは無邪気な表情――歯をむいたにこやかさ。 ソファのすみにかけ、足をばたつかせ、大急ぎで小さな字を書きつける。安らかさを得られる距離を見つけられたような様子。それを見ているだけで全身の血管が波立った。 銃器を整備しては食事を用意し、ノードをチェックした。たまに書き物をするベロニカに話しかけ、微笑み返される。臭素合成を落とさせたから香りはない。マリアが恐れていた襲撃だってない。穏やかさを装う時間は邸に降り積もって、いつの間にか、取り繕うのとは違う本物の穏やかさに満たされた。こもりきりだろうと区内で噂はたちやしなかった。なんといってもこの金満居住地ときたら、連邦政府御用達の警備会社による 淡々とした日常のまねごととして結ばれる共同生活。けど、そうした薄膜の下、深いところには過去という名の幻肢痛が這いつくばっていた。 深夜が扉をひらいた時刻、ベロニカは静けさにくるまり、隠しだてようとソファの陰で泣いていた。気づいたときには、ガーゼブラウスの白い袖が灰色に湿気ていた。 どうした、とあたしが問うと、びっくりして顔をあげたベロニカが首を振る。なんでもない。詮索を許さない圧力をもった文言は、尖った釘の筆致で記された。あたしはどう言えば正しいか、涙を止められるのか、わからなかった。隣に腰を落として片膝を抱えた。鼻をすすり、やがて新しい文が書きくわえられた。お母さんとお父さん、お姉ちゃんに会いたい、でももうどこにもいないの。消え入りそうな字だった。返答に値することばの不在――すべてを喪っているという理解だけが、あたしの背中に重くのしかかってきた。 どうせ、ぜんぶ嫌な夢なの、と間をおいて記される曖昧な言い回し。 嫌な夢……。あたしの鸚鵡返しな問いに、湿っぽく鼻が鳴った。終わりがなかなか来ない夢、生きるために悪いことをしたから見なきゃいけない、わたしが死んですべて嘘っこになるまでの夢なの。あたしは恐る恐る、華奢な肩を抱き寄せた。迂闊に偽ものの赦しを演じれば、それだけですべて無為に消えそうだから。どうにもできないの、守ってくれる人がいても、一人でいるみたい、生き残るために悪いことをしたから、ずっと悲しくて寂しい、本当ならお母さんたちといっしょになればよかったの。生存への罪悪感――苦痛――なにかに加担させられた気配。不安が、一文字ずつ書きつける慎重さを黒ずませていた。 ナディアは寂しくなったりつらくなったりしたとき、どうしている……。 「さっぱりだ。孤独に骨の髄まで慣れるしかなかったから、考えたこともない」 本音だったし嘘でもあった。落としてきてしまったから。空っぽだから感じづらい。内戦中に根こそぎにしたから。薄っぺらな心は傷つきづらい。 大人ってすごいんだね。 「たいていは大人に限らず、さ。変な道を踏んで鈍くならざるを得ない。それだけ」 選択を過ってしまうと魂の角も落としてしまうの……。 「悲しいけど、詩的な表現だ」 あたしは声色を探しながら笑いかけ、 「本当のところはもっと単純で、楽しくも美しくもない。わからなくなるっていう、ただそれだけだよ。なにもかも曖昧になってくる。それにときどき、自分がわかりたいことだってわからなくなってしまうし、ね」 それはナディアにとって悲しいこと……。 「わからない、でも、苦痛がないに越したことはないでしょ」 迷いがちな筆跡が動き出す。わたしも悲しいのがわからなくなるのかな。喉をつまらせるほどの困惑で沈黙を反射させるしかない。役立たずな自分にがっかりして、ひたすら唇を噛みしめるしかない。ベロニカは、泣き疲れたのかいつの間にか眠っていた。縮こまる体を抱いて寝室で横にさせた。ひらかれた掌が、びくりと震えた。小さな、ふにふにした五指にあたしの指をかさねる。おやすみ、と言おうとしたとき、部屋の広がりが四辺をゆがめた。 拡張識のパラメータが身体域ネットワークの形成を告げていた。膚が触れて生じたもの。そうと気づいたときには魅入られ、もう遅い。 大容量転送が階梯をのぼらせる―― 魂という奥行きの扉をひらき、ベロニカを知る。 ベロニカのなにもかもを知り、体のどこをどれだけ傷つけられ、尊厳をなぶられ、もてあそばれたのかも刻まれた。実感的に再現される痛み。他人に出力を向ける、悪趣味な認知学的タイムマシンだ。現場が現実に重なり合って悪夢に至った。膨大な痛みで生という恐怖の根源へと卑近したメディア。楽しむのは脳神経だけで、そこにいずしてそこにいる。始点もなく最初からそこにいたと信じこませる転移をして、感情移入をしいる認知の歪曲みで立ち現われるのは、「所有者」がショートカットをつけていた一編の終章だ。 カメラ視点が白い部屋を描き出す。 焦点がそろう――天使のような白ドレスの少女。 レンズに笑み、裾をつまんで優雅に足を交叉させ、引きつり笑いでお辞儀をした。ベロニカに似通う幼い目鼻立ちは、あるいはあの子自身なのかもしれない。 ズームアップ――妊娠させられた幼い裸の輪郭。 白々とした膚に注射痕が浮いていた。鈎と鎖が四肢もない肉体を吊るして、宙に揺らす。豊かな乳房を破って、留める、ネジやボルトの鈍い艶がおぞましい。 浮ついたドレス姿が、ひどく場違いな、無数の道具が散らばる ほんの数秒、手を休めただけで腕がひどく重い。脇から、好々爺然とした表情の殻――白髯を垂らす 「しあげだよ さあ――パンッ――さあ。扇動だった。 甲高い天使のクスクス笑いで応える。蜘蛛の節足ほどに繊細な指が、ぎらつくステンレストレイを探っていく。二本の散弾を握れど、震え、装填すらたどたどしい。 薬室を閉鎖――かしゃり――尖った金属音の余韻。死にたくない。構えは不慣れで隙間が多い。許して。銃爪に指が絡むが速いか、脇腹にもぐった初弾が皮下脂肪の粒を噴いた。死にたくない。並行して知覚に刺さる左右からの画角。撃たなきゃ。死を拒むのも構わず撃った。死にたくない。二発めで細やかに縫合された左二の腕の先が爆ぜた。苦しい。鈍い時の余白に細切れが踊る。おうちに帰りたい。薬室開放で紫と白の中間色を渦巻かせると、レミントン印の 誰か助けて。四度の運動エネルギーの嵐が首をなかばからちぎり、 薬物による偽りの高揚は抜け落ちていた――絶叫――うずくまって声の限り。 思考と音声の境がない。助けて。滴が握った散弾銃を濡らす。助けて。 数人分の拍手の高音が悲しみを覆う。あたしに結ばれたリンクから、勝手に翻訳アドオンが選択され、単純な語句が、際限ない苦しみの意味を結んだ。 肉親を、その手で殺してしまったのではないか。そして一拍おいて漠然と思った。黒い哀しみと冠する怪物どもによる厭味ったらしい「教育」の記録だ、と。ただの人殺しが、殺人者になるため求められた、経験の階段を踏む最初の一歩。 赤がブロックノイズの集合となって自意識をこすった。 生を犯す暴力。完成と破壊をともなう死のフッテージが完結を迎える。なんでこんなものを。価値を拒みたくても、殺意を愉しむ欲求の存在に知らんぷりはできない。再現実から離脱する。途中にも死のフッテージが神経をかすめた。能面姿の気狂いどもが織りなす苦痛を引き伸ばす尋問、拷問、死を遠ざける医療処置。血塗れの手際は懇切丁寧だ。 例え 倫理的怪物の群れとワンセットにされた、誰かに物語を楽しませるためだけの存在――ベロニカは、血で汚れた都市伝説に加担させられ、背負わされた子だった。どんなことがあれどくそったれどものもとに戻してはならない。うちなる声が告げていた。そうとも。連中の玩具にさせちゃならない。幻影から醒めれば、頭がずくずくと熱を脈打たせた。あたしは何事もなかったと言い聞かせ、ベロニカの頭を何度も、何度もなでた。BANの設定を書き換え、自動読みこみを殺す。そして祈った。悪い夢を見なくてもすむように。犯させられた罪で心を焼かれぬように。心の底からの願いを募らせた。 身汚いあたしに釣りあう願いは別として、心の底から。 |
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