案する体の
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Title
 サイバーパンク百合中編小説「Plastic Talker」
Story theme song
 電波通信/東京事変
 楯/倉橋ヨエコ
Plastic Talker
Chapter.1


 とてもとても美しいので見つめるたびに
 もうすっかり嬉しくなってしまうような娘の隣りに座って、
 借りもののジープでニュー・メキシコ州を走る、
 人生はそういう風に単純なのだ。
   ソローのゴム輪――リチャード・ブローティガン/1971年

 And, everyone who ever had a heart
 They wouldn't turn around and break it
 And anyone who ever played a part
 Oh wouldn't turn around and hate it
   Sweet Jane――Velvet Underground/1970年


 契約内容を反芻していく。根本はかわりばえしない。相手方の護衛を蹴散らして、目標を回収する。ごく単純で難度は高いが、あたしの得意とする仕事だ。依頼主も例のごとくこの時世でも大いに権益を握るガンビーノ・ファミリー。なじみの客筋に親しんだ仕事。
 舞台だけが移ろう。ロードアイランド州はプロヴィデンス。
 息絶えた北部郊外に陣取る目標地点より一・五マイル(一・六キロ)地点――広々とした駐車場のはじ、BMWの車内で、あたしは静止していた。目をあけてバックミラーの反射に細めれば、いつもながらに灰色のショートボブと無表情が凍りつく。閾値が拡張識におよぶと、黒に近しい無色が、凝集でゴシック体をおりなし、午前(AM)04:40の左右対称形(シンメトリ)がくっきり描像された。
 そろそろ行動開始といこう――と、グラヴボックスから注射器をとる。じっくり自家培養したナノマシン溶液が麦色を揺らす。ジャケットの肩口をずらし、州法と連邦法をいっぺんに犯す半オンスをうなじに投じた。冷たい抵抗。間もなく、拡張識リンクナノマシン(エンラージャ・デッキ)の凝集による構成体腫瘍が溶液を血中ノードと認めた。手の甲にとりついた花弁状ノードディスプレイには、起動ずみ、と表示をたっぷりつらねたログ群がゆるやかな渦を巻く。
 助手席に据えたケースからは銃を掴みだす。HK417c突撃銃。徹頭徹尾のご禁制だ。連邦火器管理ネットのタグを削ぎ、フルオート射撃可能で、閉所戦に適した九インチ銃身の先に切った螺旋を噛む減音器(サプレッサ)にいたっては、もうもってのほか。フルロードでずっしりした二十連弾倉の装填で重心がととのう。なめらかなハンドルの後退で初弾を送り、レール上で畳んだ簡易照準器(フリップサイト)を起こせば、あとは銃爪を絞るだけでいい。
 誘拐にはじまり脱出、護送。それらを担い、多くの人間がただ運転手(ドライヴァ)と呼ばわる荒仕事にぴったりの道具だ。そして体に刻まれた海兵らしさ――南北内戦の最尖端(エッジ)を潰して回るがまま培った様式が、銃とあたしをつなぐ。それは一言、有用性と言い換えてもいい。
 応用一つで大金に化けるように作られた型。精神の髄までそうだ。運。勇気。便所の床にへばりつくコンドームより無用なものに頼りたがる心性は、新兵訓練所と戦場に半分ずつ捨ててきた。目標物を侮らずに制圧を徹底する。素人と一線を画したブランドとして、ヒエラルキーの頂点に立たせる人狩り機械(メンシェンイェーガ)の性癖だ。仕上げにレザージャケットの上からミニマルな弾薬ポーチ構成のチェストリグをかぶり、吊り紐(スリング)で大火力を右半身に添わせる。段取りは完璧だ。

 剣呑な夜に立てば、そぞろな風に他人行儀な秋の香りがした。手近な柵を踏みつけ底の見えない雑木林に飛躍――外灯の落とす光の傘は遠のくが、着地点はわかりきっていた。危うさはない。枯れ葉に足を沈め、中腰のまま、自然の張力を破らぬよう進む。
 そう深くもないはずの森には、星のない夜がどこまでも重く垂れこめていた。鬱勃とした空気が停滞し、暗々とほつれた枝はボヘミアの森さながら、全容をとざすばかりだ。それでもあたしは獣道に足をかけた。慎ましい道順と歩幅は、ツァイス義眼の増覚素子が闇に輪郭線をかけて補い、濾過してくれた。おかげで歩き慣れた場所にもひとしい。
 割れた柵を越え、民家の庭を通り抜けた。元民家というべきか。朽ちた家。褪せた滑り台。ひび割れたプールの残骸。住人が望み、そこにあったはずの生活を惜しむばかりの抜け殻だ。北部の郊外地域は内戦が終わってもなお人口密度が極端に低い。それもそのはず、内戦中はT・F・グリーン空港どころか、周辺地域まで南軍の無人機でこっぴどく掘り返された。住民は逃げ出してしまい、いまじゃ土を埋もれた不発弾も処理されず、航空機どころか、通りかかる人も車も少ない。だからって委細も知らないステータスのなかで無警戒に突き進むのはよほどの阿呆だ。あたしはときどき足を止め、右掌を虚空にかさねた。さらなるディテールを求めて。それはいわば粒子の海を見る感覚だ。粒子の波が立体をなして知らせてくる。
 森の奥行き。目標の廃材置き場(ジャンクヤード)までの実距離。歩哨の数と動線。指先から放つナノマシンの渦が、視覚であり触覚でもある多義的ビジョンで、夜の相をおりなす。ナノマシン機能群(クラウド)で伸張する神経――海兵隊戦闘研究所(MCWL)は、この感応力を多知覚センシングと呼んでいた。野戦ヴードゥの複眼ディテールに包まれて、あたしは足を速めた。
 とっかかりにちょうどいいフェンスを目指すさなかも、薄暗がりにうろつく無秩序な人群れがはっきり感じられた。六人だ。しかめ面とダークスーツ、さらに探ればロレックス、並の品より頑丈そうな足袋ブーツを組み合わせていた。敷地内には漆塗り風味のベンツまで見え隠れ。
 無個性と下品さを同居させた飾りけがお好みの日本人(ニップ)――ネオン菊の仔――ヤクザだ。支店展開どころか征服を遂げた、儀礼を好む礼儀知らずの集団。在来マフィアにを蹴りをくれ、経済事案をむさぼる新興の大物だ。とはいえ、ここの警備はギャング風情と大差ない。
 あたしは木陰にしゃがみ、拡張識の表示系をLAN視覚化に切り替えた。暗がりに覆いかぶさる青い架空質量。携帯防壁端末(ウォーリングモブ)経由で、監視カメラの無線リンクが線形として描かれたかと思うと、外回りの全員につながっていく。あたしはアドオンで回線破りにかかると、一秒そこそこでかすめた管理者権限を認証ってやり(アイディーイング)、カメラを掌握――対敵想定はせいぜい二流どまりか。それなりに手堅くも、素人よけがいいところ。脅威になりえない。映像にループをつけて通信に傍受の枝をはれば、あとは殺意の独壇場だ。
 ナイフを握り締め、最寄りのフェンス際を歩くクルーカットに接近した。忍び寄り(ストーキング)はお手のもの。接触まで気取らせず、口を塞げば声の尾も漏らさせない。喉笛、左胸、と順繰りに深々と裂き、セオリー通りの三秒以内に無力化する。まったくちょろい。残らず把握した足取りにひっつき、反撃のそぶりも許さずに首を狩り、六人めをしとめても二分足らずだ。
 武闘派のくせに、どいつも迂闊だ。兵隊風情を相手にした回数なんて四、五十じゃきかないのに、殺すたび驚かされてきた。あまりにも無防備でヤワ。度胸、強度と二項が比例するなんて滅多なことじゃない。銃弾を叩きこむか、刃物で損なうかすれば、笑えるほど呆気なく始末できてしまう。
 侮っているわけじゃない――しかし怖がるほどでもない――うちなる声の肯定。思案もそこそこ、フェンスを越えて廃車の山で隠された敵陣の中心(ドンジョン)にひた走った。
 管理小屋だろうプレハブ建てを目指すあいだにも、ナノマシン群は深くに侵入していた。最初の通路は無人だと告げているけど、油断は禁物。無節操に突っこめば長生きできないと相場は決まってる。わずかにドアをあけて照準線を巡らせれば、手狭な廊下から、熱っぽい空気の層と調子はずれのデジタル津軽節ハードコアが漏れた。悪趣味にひずむ三味線ベース。つんざく叫び声とノイズに大気が弾む。配信インディーの密かな流行曲。多知覚センシングいわく、扉一枚をおいてもなお高く音を響かせる中央の部屋に護衛どもが固まっている。末端組員(コブン)らしくてんで締まりがない。
 浸透したナノマシンがさらに知覚させる――中国から出回る九二式拳銃。
 浸透したナノマシンがさらに知覚させる――安物のスタームルガーSR9。
 浸透したナノマシンがさらに知覚させる――切りつめたレミントン製散弾銃。
 どれもしらふで相手をするなら危なげで、小領地を守るのに相応かもしれない。
 しかし、あたしからすれば銃の選択一つをとっても、見かけ倒しの安物と思えた。
 いい仕事に寄り添うべきはいい道具。大原則だ。なのに素人は、往々にして用意するだけで満足してしまう。恥ずべきだ。あるいはあたしが本気すぎるのか。
 まあ対応が楽なのはいいことか。鼻を鳴らした直後、手中でピンを引き抜き、一拍おいて、わずかにあけたドアから閃光手榴弾(フラッシュバン)を投じた。輝きと轟音の針が部屋の四辺に浸透するよりも早く、戸を跳ねのけた。射撃支援アドオンが耳目を押さえた六人に対して輪郭補正――世界がじわりと鈍化していく。明晰な指で強烈な反動による一撃必殺を律して、テンポよく組員の額、または鼻梁をうがつと、素早く頭の頂が大いに弾けた。そろいの防弾樹脂骨格も、七・六二ミリ弾の力押しを前にすると脆いもんだ。特有の大きな骨片。眼球。ナノマシン沈着で白んだ脳髄。肉と素子(ディヴ)の断片は、生命の集合をといて運動エネルギーの爆心地から散る。残るのは電子の轟き、薬莢、血の抽象画だけだ。
 人類が祖先から継ぐものは大抵、血でしとどに濡れてる。速やかな殺しはその極致だ。うちなるあたしが語りかける――手際としちゃ五点中の四点てとこ――悪くないだろ。心中で言い返し、ざっとクリアリングして、
「残りはお一人か」
 多知覚のお告げを舌に乗せる。死屍累々を越え、広々したビデオルームへ――の白く、まっさらだろう壁一面を汚してうごめくスクリーン。膚色の蛆の群れとなる精密プロジェクション。悲鳴とあえぎがごっちゃになって網膜に踊り狂った。
 ポルノ映像と殺人ビデオ(スナッフ)。金を弾きだす、最悪でいて最高の古典的なしのぎ(クラッスラ)だ。
 とんでもないくそったれ。息を呑んだとたん、三二口径のきらめきをねじこまれた。
 目を背けるな。つやつやしすぎて銀の装飾品じみた拳銃。目を背けるな。ズームアウト。目を背けるな。手から指へ、膚にもぐる糸で縫いとめた象牙の銃把。目を背けるな。死体を胸に抱いた少女。目を背けるな。拒絶をわめく。目を背けるな。その隣、桃色の髪の女の子が涙をこぼし、いやに長く、鋭利な鋏で若い女の頬にざくりと亀裂を作る。目を背けるな。十歳になるかも怪しい幼い横顔。目を背けるな。前を見れば聖杯めかして切除された頭蓋から脳が覗く。目を背けるな。灰色の器官をうがつ蛇のようなペニス。目を背けるな。うつろな視線はぐりぐりと裏返り、痙攣し、嘔吐した。目を背けるな、絶対に。
 編集されゆく禍々しい死のおゆうぎを、有象無象のセックスが囲む。突飛で汚らしい想像力を尽くす最悪のフッテージ。聖餐めかして酷薄な死体袋の物語(ボディ・パッケージ)
 仕事という仮面の内側――良心のうずき(ホワイトノイズ)――怒りで噛み潰す。目を背けることなく歩む。MP9短機関銃のぶん不相応な火力を片手にして、それでもひるむ痩せぎす男をめがけて足を踏み出した。
 薄闇に浮く吸血鬼じみた白さ――かさついた膚――落ち窪んだ薄笑い。撮影と編集で地獄の様相を収めてご満悦の裏ビデオ屋。“カットマン”・ゴセク。今回の確保対象だ。
「さっさと似合わんおもちゃを捨てな、痩せっぽち。それとも面を吹っ飛ばす……」
 殺す気満々と思わせる脅しは効きめ抜群。
「ちょい待ってくれよ、抵抗はしない、暴力は勘弁なんだ」
 と吃り気味に言って転がしたMP9を、あたしは靴底で受け止め、
「ほほう」
「ははは」
 あたしは下らない作り笑いを見据え、
「御託をご開陳ってわけかい、坊や」
「そうじゃない。おれは大した罪は犯してないんだ、そう。撮っただけ。それからちょい編集して。手なんて一度も下してもないんだ、物的に減るだろ、悪徳は、大幅に」
 飲みこみが早い。技術オタク(テッキー)らしい饒舌さからは交渉への望みと、暴力を振るわれない側に立ってる自信がにじんだ。惨憺たる応酬を知らない人間特有の思いこみだ。ふざけやがって。あたしは眉間にタイプライターの乱打もかくやとI字を刻み、
「重いの軽いのって考えるならなるほどだ」
「そうだろ、なあ。見かけどおり、軟弱で無害なんだ、とってもな」
「けどビデオ漬けの頭でよく考えてもみなよ、なあ、くそっ面。莫迦げた弁解なんてできる立場……。調子にのってると鉄砲弾でぶち犯すぞ(ファック・ユー)。あほんだら」
 吐きつけた語彙はバベル崩壊以前に由来しそうなほど舌になじむ。しかも拳骨とも相性がいい。頬骨を殴って尻もちを突かせれば、どうして、と言いたげな顔がよく見えた。契約を思い出す――殺さず、深く傷つけなければ問題なし。
 あたしは爪先を鳩尾へ振りぬき、
「下らんおしゃべりでやりあってる暇はなくてね。がきの使いじゃないんだ」
 今度は肝臓に蹴りこんでうめきを化合してやり、ほんのり満足すると樹脂カフ(タイラップ)で後ろ手にぎっちりと拘束してやった。些細な身じろぎもできないほど、肩甲骨を背骨にきつく寄せて。まったく最高のざま。次に床に寝かせてあるデスクトップからメモリセルを抜き、執拗に語りかけてくる映像の閃きとあえぎを黙らせた。参照元(ソース)をなくしたディスプレイの暗転から間をおいて、スクリーンの像という像が白い光にばらけた。目の内側はまだちかちかしていた。
 一体なんでまた、こんなくそったれを確保せにゃならんのか。苛立ちまぎれに考えかけ、すぐやめた。この仕事に理解はいらない。穿鑿は不幸を生むだけだ。
 次の工程のため、念のために拳銃を抜いておく。扱い慣れたM45自動拳銃のスライドをつまみ、三センチばかりの後退で、イースターエッグみたいに鈍い金色の四五口径がのぞいた。あたしは胃液まみれのゴセクを担ぎあげると、堂々と射界を得ながら、解体小屋、屑鉄の谷と横切った。増援はなし。地獄でも鎖すような金網のゲートを抜けるときには、悠々たる夜明けの空気が多知覚にあふれていた。駐車場では何事もなくBMWとご対面できた。銃をしまい、皓く微笑むフロントグリルに指を鳴らす。車載カメラが相貌認識と合図(キュー)に応じて解錠――すっかり従順なゴセクを後部座席に転がして固定すれば、これで仕事の七割はすんだも同然だ。
 シートにかけてステアリングに指紋認証すれば、エンジンが眼醒め、穏やかな胎動を感じられた。鉄の塊に淫する気は毛頭ない。けど、有用であろうとする力強さに愛着は絶えない。空力の究極的線形でなされた車体は華奢そのものだが、その実、内外に問わず荒仕事仕様(エクスプルーフ)としての堅牢さをこめてある。乗りこんだ人間を保護する車体――楯――簡易留置所。なんと見るかは乗る際の立場によって、なんでもござれ。兎にも角にも、完璧なのはたしかだ。
 アクセルをやさしく踏みこむと、電気モーターの馬力が車体を弾く。
 駐車場を飛び出して、ねじれた車道上で数秒とせず七十マイル(一一三キロ)を超えた。隙あらば暴れだしそうな力強さを制御しながら、猛スピードで二車線のルートを南下する。あけた窓に飛びこんでくる尖った風が、胸にぽっかりとひらいた穴から、疲弊を、怒りの熱量を、すみやかに奪っていく。
 冷たい風に穴をいらわれながら、人里へと戻りゆく州間高速道路(ハイウェイ)259号に駆けていく。
 風がびうと鳴り穴をなぜる、風がびうと鳴り穴をなぜる、風がびうと鳴り穴をなぜる。
 気を抜けば腐り落ちようとする心を抱いて、黒々した森の狭間に突き抜ける。
 風がびうと鳴り穴をなぜる、風がびうと鳴り穴をなぜる。
 法定速度を踏み台にするのはいつだって心地いい。
 風がびうと鳴り穴をなぜる。
 直線で百マイルを突破してすぐに、スピード違反を咎める不快な高音がした。意識の緒をつかんでくるサイレンの響き。バックミラーを見れば、警邏課車両(シャープシューター)が、早起きな通勤車両をかわして追いすがろうとしていた。やすやすとは振り払えない技量――あたしは苦笑まじりで車体に“沈んだ”。座席のセンサが、身体域ネット(BAN)リンク形成で身体感覚そのものを操作系につなげる。車載カメラは高精細(ハイレズ)で視野深度を増し、格子(グリッド)の走査線が夜景をびっちりと縁どってくれた。
 ほんの数秒、自動運転に明け渡す。
 拡張識の羽ばたきは劇的で、空電へ転がりあがり、ついに神経末端の光暈(ヘイロウ)が、新鮮な卵黄のような濃さで沸きたち、瞼に焼きつく。
 そこは輝きの海。再解釈がはじまる。
 通信回線から都市インフラへ――没入(ジャック・イン)――ネット系統樹が視覚化され、地図をなす。田舎とはいえ、通信量を色分布化すれば恐ろしく眩い。あたしは事前にプロヴィデンスの地元企業につけおいた枝から、架空の指で線を引き、足取りが残らぬよう三、四のゲートウェイを通じ、電力会社の管理網に侵入した。数マイル四方のインフラ網を一望。フェッド(FBI)のブラックリストに入った手際でこなす、時間にして、たった四秒間のクラック。網膜に光が舞う。
 と、背骨の上にすとんと戻った。
 思考リンクでモーターの回転速度を増す――加速、加速、加速。
 尺度の手がかりが不足して、作り物めいた道路際に目をやると、世界が眠ったと信じかねない停電がやってきた。ヘッドライトを消灯。電脳空間が記号の幽霊となり焼きつく。外装に秘めた環境同期彩膜(リジョンカム)を起動させれば、ナノポリマー質が隠匿色相に転じて、外装を黒ずませ、ナンバープレートには架空の七桁が上書きされた。暗色に埋没させる夜間低視認性だ。
 電力復旧までのタイムリミットは最大で二十秒。最短で八秒ってところ。そのうちに引き離す。挑発的心情が熱くなりすぎぬよう、下唇のはしを犬歯で噛む。西へと猛進――体が座席に押しつけられる。タイヤのノイズ、モーターの唸り、鼓動が混和しかけていた。車どおりの増した州道116号に至り、歯切れがいい感触で対向車線にはずれた。車間を縫い、ヘッドライトのおっかなびっくりな輝きが迫るたび、車首を大きく転じる。戸惑いもたつく車たちを、パズルをとく軽々しさでかわし、左、右と車線を移っては舞い戻る。警邏のエリートが四苦八苦して追随を試みる。けど、あたしの軌道もまともに捉えられないまま、彼我距離は半マイル(八〇〇メートル)を超してさらに伸びた。傍受した無線に激しい怒りが叫ばれた。
 もうそろそろおひらきだ。ゆるやかなカーブの先に、自動化した手駒である中型トレイラーのコンテナが、口をぽっかりあけていた。減速――突入――乗りあげ、奥行きに激突する前に制動の衝撃が体幹を突き抜けていった。静止で心搏の大きさを感じた。すさまじい音の落差を、アドレナリンのわめきが一層に大きく思わせる。
 外では、二種類の盾が守ってくれていた。偽装ナンバーと青心(セイ=シン)ロゴ。引用元はこの管内(ヤマ)のSWATが隠密行動をする際の看板で、以前、汚職警官から手に入れた内部情報だ。あたしのほか、誰一人として扱えないやり方だ。すっかり騙された青いカラーリングが猛スピードで追い抜いていく。エンジンを切ると、ガラスへのノックで地図を表示した。自動運転はプロヴィデンスを後にして、あたしの庭に突っ走っていた。州境をまたぐのに時間はかからない。
 三度、軽いノックですべての窓に外部カメラの映像を投影した。空には、柔膚に散らばった内出血を思わせる、鈍い、痛々しい赤と紫を混ぜあわせた終わりが描かれていた。

 サウスブロンクス区――狭苦しい中二階。セーフハウス群の一柱だ。あたしは蚕豆色のソファで、きらめく朝と悪い夢の予兆を遠ざける酩酊に浸った。
 調剤師のデザインした麻薬膚板(ドープダーム)は、いつもながらに精度が高い。あたしをすっかり深みにはめた。平衡感覚が失せた。拡張識に保存してある記憶鍵の山が、脳の特定部位励起で過去の断片を抽出、増幅していた。そして、いまとして認識する――没入(ジャック・イン)――数時間に渡る浅い眠りをついやす導入。デルタ波の導きが、認知学的タイムマシンに乗せようとしていた。仮想現実に相似しながら、トマソンじみた象徴物が、いつ、どこで、なにが、と輪郭への線を引きで再現しつつ、それ以外の小物は刈りこまれる。立ち現れる景色はごくシンプルだ。
 戦後に携わった仕事の最高潮が抱き起こす。神経の末端をスパークさせる。あたしという媒体の奥底にしまわれた未知とまがうほど真新しい既知の連続体(ジャメ・ヴュ・コンティニューム)。除隊から一年の空白を経た仕事。ガンビーノの護衛業(スワガー)。いやに熱い日だった。照りつける太陽は死神の熱視線となり、ブルックリンの街角を焦げつかせていた。
 レストランを出たとたんの奇襲が、銃弾で前衛二人の首を破った。鮮血と確定的な死。あたしはそいつの脇から二挺のグロック拳銃を拝借。トヨタから湧き出る黒ん坊へ――銃爪を絞り、絞り、絞る。咲き乱れる橙が、必死に飾り立てた敵意を赤い肉片に変えた。
 手に跳ねる重い反動。二六発の四五口径。反動がふっと失せる。すぐ弾切れだ。何人かをしとめながら硬直した女の子のもとへ駆け、抱いた。耳をこする、無数の撃鉄の下りる音。防弾ジャケットの背を劇痛が乱打した。襲いくる吐き気は無視して、どうにかSUVの後部座席をひらいた。もう大丈夫だから。言っても泣き声はとまらない。当然、こんなひどい事態。流れ弾に腕をやられた奥方の尻も押しこむ。と、場面が途切れ(インタラプト)、つながった。
 爪先がアクセルを踏みこむ。大丈夫、すぐ安全なところに。激しい耳鳴りが頭を満たす。たぎる充足で、内臓に響く鈍痛ですら心根が高ぶった。単一なる衝動に支配された。
 肉体の延長とした銃で撃ち伏せ、銃声に魂の曲面をなぞらせる。それだけで自尊心の割れめは埋められた。あの日、殺したアルジェリア人ギャングは五人あまり。戦後のニューヨークに忍びこんできた略奪者もまた、あたしに十発近い九ミリ口径をくれた。体には醜い痣の集合と折れた肋骨が一本。護衛でただ一人の生き残り、幹部の家族を命からがら助けだした。これで兵隊からも、大物からも多くの信頼を呼んだ。当時のボスは、最高の新参者にして最高の楯ですよ、と誇らしげに言ってくれたほどだ。器物にさずけるたぐい、暴力装置としての栄誉でも、空っぽのあたしが浴するには充分だった。
 その後、あたしはボスからのお達しで輸送業(ランナー)をうけたまわった。きみの運転技術なら警邏課の犬も怖くはない、と。陳腐ながらとりとめのある形――誰かを守る仕事を離れ、都市の狭隘をたしなんだ。評価を得た。いつしか訪れた和平にあきあきし、浪人(ローニン)として独立した。
 浪人(ローニン)。おおむね自由業と同義の、気楽で、荒仕事らしい響きだ。裏腹に、どこかしらと関わらざるをえない。ファミリーの出はファミリーに首を突っこまずに生きられないわけだ。絶対のフリーランスにはとびきり勇気がいる。あたしは妥協した。ガンビーノ寄りのスタンス。利権の歯車にはさまれない範囲での仕事だ。
 誇り高い人間なら苦々しいだろう。でも、あたしにはそう悪い話じゃない。ただ血で汚れただけの、日常にすら戻りつけないあたしをからめ捕とる、いやみったらしい虚ろさで圧壊せずにすんだのだから。
 ステアリングがぬめり、そこに手がない。左右の肘の継ぎ目を飛び出す骨が血みどろだ。恐れがあたしの首を絞める。忍びこんできた過去にステアリングを渡さぬよう、しがみついた。猛スピードで高速道路(ハイウェイ)を駆けながら。後部座席には誰もいない。外にはなにもない。ひたすらに加速。夢の、虚無の、現実への高速道路(ハイウェイ)を駆けあがるべく加速していく。
 冷え固まる体――再現実終了(シーケンス・アウト)――現実に到達。
 宙に落ちる仮想の慣性で記号論の膜を破り、ソファの柔らかい膚触り(テクスチャ)という現実感を手に入れる。縮こまった四肢を伸ばす。息苦しさを飲みこむ。と、薬品質のにおいが鼻についた。二の腕に貼ってある排出膚板(ダーマルウォッシャ)がなす悪臭だ。食品医薬品局基準なんてお笑い草の解毒剤が時間差fr浸透し、薬効を血中から残らず集め、汗に乗せ、排出させようと奮闘していた。医療アドオンを入れてようものなら、目につく壁という壁の表層を警告に書き換え、医者に行けと促されるだろうひどいステータスだった。半身を起こすと、都合もなにもない吐き気が、喉の粘膜にはりついた。壁にすがる鈍い足取りで、トイレの灯りで白々とした便器にひざまずく。いもしない神に祈るように。一、二、と数えて、六で嘔吐。総毛立つぬめりに肋骨の裏側まで震え、黄ばんだしずくだけが、眩い陶器にカオス理論の線を書いてすべり、水に溶けた。
 昨日今日と食事をとってなかったっけ。三度めの嘔吐をしながら、あたしは思った。連想はむやみにさかのぼる。髪が長い頃は、胃液で毛先を濡らしたもんだ。
 いまじゃ気だるさが喉にまとわりつくだけ。粘着くつばをこぼし、
「慣れたもんだ」
 週一のペースで世話になってれば慣れざるをえない。ひどい起き抜けと引き換えに、本当の悪夢を殺す。忌避すべきものを遮ることの価値が、どれだけ大きいかは、一度でも自我を浸したことのある人間にしかわからない。薬物と拡張識、という科学の縫い針がなす最上の応急処置。
 フラッシュバック――悪意――顔が、壊された少女の顔が照る。
 過去の痛みに重なりあう。
 唐突に、揺れる水面に浮かんでは消えた。血。低い天井に挟まったかたいタイル床から引き剥がされ、廃品置き場(ジャンクヤード)の一室に招かれる。肉。無関心を装えない。骨。反撃を知らない少女たちからの搾取。苦悶。いまだ、神経の末端にまとわりついたままだ。踏みにじる喜び。あたしの焦げつきとともに汚らしく際立つ黒い商売(ダーティビズ)
 自分に重なりあう。
 隣の監禁部屋にいるゴセクを死ぬまで蹴りつけてやりたい。痛みを、苦しみを、あの子らが受けた以上の恐怖を――たまらず、くそったれ、と単語を舌に乗せて区切る。
 どれだけ黙然としていたのか、部屋に這い出た頃には、夕暮れが窓にさしていた。セピアに色づいた床板が憂鬱で気を曇らせる。ドラッグの残り滓が呼ぶ気分障害――十分とせずに治まってくれる――その通り。テーブルからとったぬるいエビアンをあおり、味けなさが口角から一筋こぼれるがまま、ソファに寝転がった。
 時刻表示を視野に灯したけど、ゴセクの引き渡しにもまだ早い。低い天井を見上げ、意図もなくぼうっと時を受け流してた。過ぎゆくだけの時間が、あたしの過ごすあらゆる時間に幅を利かせていた。よく生き、過ごして、望み、叶えながら老いていく。世俗の語るようなものと縁がない。ただの空白。これが生きているといえるのか、たまに考えるけど答えは出なかった。“生活”からかけ離れ、ただ生存しているだけなのは決定的だといつも思う。生存するだけなら、飢え死にという不正解を回避していればいい。
 正反対の、人らしさを営むには多くの輪郭が必要になる。魂の土台を支える文化の輪郭、あるいは生きていく理由。ところがあたしの曖昧な生はちっぽけで、みすぼらしいったらない。呪詛というセメントで固まった家から逃げ出して、海兵になり、あっという間に一線を越えて転げ落ち、なにもかも見失って八年。漠然と、明らかな判断基準も、目的もなしにここに流れ着いてしまった。
 到達じゃない。これは怠惰な流刑だ。
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