Plastic Talker
Chapter.3
内偵の女神は噂となって上滑りし、週一の連絡だけが、きわめて順調、と教えてくれた。知らされる悪徳都市の有り様は、黒い凶兆たちと差がない物語となってあたしに届く。それらは曲がりなりにも政治のなりをした、ヤクザのシノギたる創薬シンセサイザー由来の薬物で大荒れした闇マーケットを巡る始末の筋書きだ。根回しが進むにつれて腐敗もくそったれな顧客も柵に追いこまれ、麻薬売買、殺人ビデオ、数限りない殺人罪がシルエットを成形していく。それを食い殺すのだ。そんななか、世界からつまみ出された静けさだけが、邸に塗りつけられていた。窓から落ちる淡い日差しに殺しのための神経が盲ていく。
後押しするのがベロニカのメモ帳――気になって寝ているうちにのぞいた帳面だ。そこには戯画化したマリアやベロニカ、あたし、それから南方リゾート地の地図や、したいことのリストが綴られていた。早くみんなで行けますように、と祈りも。マザーグースの詩を思い出す、きっと嬉しく楽しい事柄だ。砂糖にスパイス、素敵ななにか。大事にされ、守られるべき多くのものが感情移入のブロックを積み、隙間をうめて逃れられなくする。
一度、そのことをマリアと話した。
「始末をつけたらブラジルに連れてくんだって……」
この問にマリアは驚きもせず、
「あの子から……」
「いんや。お絵かき帳をのぞきみたら、さ」
「なるほど。まあ、その通り。第一顧問から、少しは休みをとれってせっつかれてね。法律を繰るのはなにも私だけではないし、たまには羽根を伸ばせ、と。だから、ついでにベロニカも外の世界を見せてこようって思ったの。そこで提案」
マリアの息遣いがわずかに振れ幅を増し、思わずこわばり気味になにさ、と訊けば、
「ベロニカと私のボディガード、担当してくれないかしら」
「よく考えとくよ。まだ断然に先のことだしね」
あたしは平静を装おって言いきった。内心、あまりに露骨な未来に造形に臆しながら。
そうやって、考えごとをしながら過ごしてきた、ベロニカと出会ってからの三週間――いつの間にか、ソファに二人でかけるのが普通になっていた。
隣り合わせで座ったベロニカが黙々とパチパチ飴を口に含む。必死になって饒舌であろうとする時期は、いつの間にか乗り越えていて、黙しても時を共有できた。ボードをペンが滑る音。声として耳に馴染むそれが、ときに自発的にあたしへ語りかけてきてくれた。食後の昼下がり。ぼうっと膝を抱えていると、袖を遠慮がちに引かれた。
ナディアは、ナディアのお名前の由来を知ってる……。
「知らない。興味を持つほど、自尊心とか、ある子じゃなかったから」
われながら投げやり――ベロニカが困った顔をした。はっとして頭をフル回転させ、
「ね、どういう意味なのさ」
ナジェージダ、ロシアっていう国のことばで希望っていうんだよ。
気を取り直した頬を上げ、筆跡を走らせるあいだ、あたしは首を傾げてボードをのぞきこむ。ベロニカは琺瑯引きめかした穢れなさで唇をUの字にし、表した。
とっても素敵な名前。
「名前に見合う人間だったらよかったんだけど」
あたしは言う。ベロニカは首を横に振り、
「おなまえのとおりにね、わたしのきぼおなんだよぉ」
とたどたどしく言う。壊れものの微笑みに胸を締めつけられて、強い恍惚が染みこむ。抱きしめてやりたくなる心の温度。泣き出しそうになるほどの喜びを自覚して、もっと胸が高鳴る。何年も前に落としてきたものとも似ている、と気づかされた。
変なことを言ってごめんなさい。
記されたのは、無言の間をつなごうとする文だ。
「ううん、ありがとう。はじめて言われたよ、そんなこと、さ」
と手の甲でベロニカの美しい顎の線をなぞった。
ベロニカはくすぐったそうに首を傾げてから、尻を浮かせ、肩が触れる距離まで身を寄せた。ペンが許す限りの細かさの、蟻の行列を思わせる字が余白を埋めた。マリアがあたしを最高の腕利きと紹介していたこと。無事に“掃除”が終われば、夜族の生態系から人の生活に戻れること。それはマリア自身が言い聞かせ、最高級の護衛が身の代を保証したこと。
誰よりも信用できるし強いんだって、マリアさんから聞いたんだ、逃げ場を見つけられない人のための大きな希望なんだって。言われるがまま、あたしは首肯した。おおげさで、むず痒くなるから黙っていた。誇らしい仕事をしている気になりながら。
そうだ、マリアね、ぜんぶぜぇんぶ頭のなかをすっきりさせたら、お休みとって、ヴェローナに連れて行ってくれるって言ってたんだよ。
ベロニカはこどもらしい転調で書いた。
「ヴェローナ……」
とあたしは白々しく鸚鵡返しにする。
ブラジルの、海がきれいなとこなんだって。写真で見せてもらったら、見たことないくらいに真っ青で絵に描いたみたいなとこだったんだ。早く行きたい。
「すぐに行けるようになるさ。マリアが大事業を乗り越えれば」
頭のなかにつまってる悪いことをぜんぶ取り出せば。
「そう。しょうもない悪党と退屈な物事を洗いざらい、法律をうまく蹴り転がすための有用性に変えて、やることをすっかりすませたら。そうする権利はあるよ」
平穏であるべきなのだ。あたしは思い、俯く。この子の魂を犯すくそ下らない地獄もどきなんて、さっさと削り落とすべき――人としての生に足をかけさせるべきだ。
「ナデァもいけるといいな」
思わず顔を上げれば、ベロニカは目を輝かせていた。まっすぐ向けてくる信頼――清浄なる面持ちだ。この子を多くの苦痛や幻滅から、こどもに不釣り合いなものから守りってやりたい。死や摩滅でない答えをあげたい。不思議なほどそう思え、目に希望の光が差しこむ。鼓動は舞い上がると逆向きの流れ星となって散開し、安らぎに胸が震え、
「そうだね。ああ、本当に」
熱くなる頬を手の腹で揉み、そのまま前髪をかきあげた。ことによれば、ずっとリゾートで過ごせる蓄えもある。あたしはにわかに、差し出されたものを受け取る権利があると思えている自分に気づく。これが引き際にすらなるかもしれない、と。
心にひらく大穴のメートル原器が、古写真のネガとなる夜景の黒を凝結させた。銃口炎。相方の頭が粉々になり、あたしも銃弾に焼かれていた。感覚途絶。地に投げ出される――衝撃――腕を刺す砂粒の角。首を絞める太い手。
そこにあるのは正気もなく、そのくせ統率された敵を探る任務での失敗だ。後じさる南軍がどこへ帰りつくかを追い、その道すがらで、あたしと相方は親を失って泣く女の子を助けた。薄情にはなれずに。敵勢と数キロをへだて、動きも隠蔽した。けど言い訳をならべても過去は、しくじりはぬぐえない。帰着点――空軍基地の抜け殻で隊伍に合流した南軍の陸軍特殊部隊は、あたしたちが引き返す前に勘づきやがった。通信撹乱で足止めし、M14小銃で狙撃し、対人自律地雷を放ち、環境同期彩膜でもあざむいた。
けど、心圧モッドで目的意識を収斂させた部隊は優秀で、執拗だった。
赤い痛み。殴られ、折られ、潰された。鼻がひしゃげ、ぎざついた光が目に明滅した。力任せに野戦服を奪われ、乳房の曲面を噛みちぎられ、痛みを理解し、吐いた。
叩きつけられる腰と、腹の裏をえぐられる感触に吐き気が増した。悪臭。吐瀉物。精液。血。叫び――犯される幼子の姿で怒りに飲まれた。あたしの痛みはどうでもいい。男の頬を掴み、腕に仕込んだ短矢銃を放った。けど、効きめは皆無で、貫いた矢の数だけ殴られ、犯され、ドア破りに最適な散弾で肘の付け根から派手に義肢を破かれた。
残された手を伸ばす。力いっぱいに。あの子の楯にならなきゃ。
笑い声。
銃口の明滅。頬にへばりつく、頭皮のまとわりつく金髪。頭蓋が赤く裂けていた。数分前まで抱いていた小さな命がついえていた。目を背けられなかった。
殺してやる、と叫びが喉をつんざく。とめどない涙が乾いた血の膠をにじませたとき、停止寸前の作戦用アドオンが味方の存在を囁いた。銃声がし、暗い朝焼けの泣くような光の底に、土けぶりを巻いて屍が倒れた。あたしは土を掴んで矮躯に這い進んだ。虚空を見つめる裏返った右眼。失われゆく熱を抱き、ただ、泣きむせぶことしかできなかった。
神なんて信じてなかった。あたしというガキにすらまともな生活すら与えなかったものを信じる義理はない。けどあのときだけは心底、祈った。すべて夢であるように、と。
現実には、ただ死体が増えただけだ。助けに来た三等軍曹の率いる適化群の小隊は総力で屍の畑を耕し、特殊部隊を打ち砕き、隊伍を潰した。奪われた命の重さに等しい怒り。救出されたのは壊れかけのあたしだけ。どうするべきかわからず、壊れたところを治し、作り変え、電子斥候としてふたたび戦った。気づけば、終戦が訪れていた。望みもしない名誉除隊。ホーム・オブ・キュアへの通院。かつて通った、潔癖なまでのビルディング。必ず、よくなりますよ。倫理の石鹸でこすった声と笑顔で飾りたて、技師たちの業務的に洗練されたやさしさは、心的外傷を溢れづらくしようと、脳電位をいじって痕跡を書き換えた。
あなたの可能性を最大にできる。言われるがままセラピー実験で話者を載せ、生きてきた。話者――脳神経学由来のサードマン効果でなるべく正しい道を選ばせる御守り。あたし自身を俯瞰する、レクシコンより深くに根付いた饒舌性記述ウェアの“たが”に守られてきた。過去の赤い水脈に、深く深く落ちれど、生へと浮かびあがらせる。負いめを抱え、それでも仇は討ったのだ、と心のどこかに信じこませながら。
あたしは夢の底で改めて感じる。三十年近くかけて層をなしてきた人生と、いま、この瞬間は、短い殺しの遍歴で大きく分離している、と。愛情は。安寧は。願望は。生きていく価値は。どれも見失い、恐竜一匹、植物の一つとして化石が残りやしない、虚無の地層で分離されてしまっている。いつしか、眠りに思案の泡沫が浮かんだ。あたしは、大きな空白を、苦痛の起源にある守るおこないで埋めようとしている、と。ベロニカが満たしてくれている気がした。自分を救うため、あの子を利用していた。頭のどん底で生えた棘が、鼓動が大きく搏たせる。目醒めに誘う、いにしえの蓄音機が泣きわめくのに似て、古びた痛み。心臓のハミングが突き刺して夢の輪郭をほどき、ずくずくと魂を突き上げてくる。
いつぶりに覚えたかわからない生っぽさに頭の奥が痛む。
長期的なお薬の不在――何日も前に見た殺人ビデオ――さらに“日常”。安堵が呼んだ、見慣れた夢の嫌味さは、過去の再現どころか、制御できない自己分析にある。あたしなんていう、どうでもいいものについて考えさせられる苦痛ったらない。
夢の残り香は後をひき、重心を垂直にすることすら拒んだ。ひどい吐き気がした。床に落ち、膝を立てても壁にぶつかる。よれよれになりながらも足音を殺して、トイレに駆けこんだ。便器にひざまずく拍子、粘膜を裏返そうとする激しさが剃刀となり喉を切る。苦い酸っぱさ。陶器じみた歯茎の不自然さに、体が偽物と思えた。足音に気づいたのは、もう一度吐き、はらわたの機嫌をとろうと息を吸ったときだ。
振り向く前に、膚が触れていた。肩に額を当てて、首から背骨にかけてなでられ、抱きしめられた。大丈夫……と。何度もなでられ、うなずき返し、まともな呼吸を少し思い出す。
あたしが守られているみたい。自嘲しながらも悪い気はしなかった。
その夜、ベッドで一緒に眠った。ずっとベロニカを抱いていたせいか、起き抜けは関節を接着剤で固められたように鈍い痛みで覆われていた。けど、脈が搏ち、呼吸で上下する腹をなでながらまどろむ短い時間は、かけ値なしの満足をくれた。
平穏が長続きしないのは、この業界の通例といってもいい。ひと月が過ぎた頃、マリアからの連絡が途絶えた。多くなりはしても、最低限、減りはしなかった電話がぱったり途絶えて、ニュースが変転の前触れを告げた。あたしは壁にディスプレイを表示したままにして、見つめ続ける。抗争の報道だ。ニュースチャンネルとネットの報道――自動検出にかけた関連情報――死者と生者と罪と罰だ。ガンビーノとヤクザコミュニティの戦争へ、いくつもの関連性が延々とリンクし、混沌を描き、胸さわぎをもつれさせる。
ベロニカを預かって三五日。ついに静寂がしっくりこなくなった。
前触れもなく夜中に目醒めた。邸内のインフラに結んだ励起アドオンとは関係ない、直観的覚醒。異状が身の回りを濁すならそろそろ、と経験則が応じたように。隣で寝るベロニカを起こさぬようベッドに半身を起こし、嫌な予感を遮ろうと視野に監視カメラを呼んだ。そして最悪の状況に、鳥膚がざわめく。屋外で多方向にさしだすレンジのどれにも、画面の染みと思えるスーツ姿が、葬送の趣で不吉な影をこびりつかせ、立っていた。
一斉にカメラを見つめて、回線を貫く視線が逃げ場はないと告げる。単一の表情しかもたない面――顔を隠し立てる集団――這い寄る凶兆。立ったそばから玄関がノックされた。繰り返し、繰り返し、等間隔で。起きたベロニカが不安げにあたしの服の裾を掴む。
「こおおおおおおんばんは、お嬢さん、お迎えにあがりました」
ドア越しの高らかな呼びかけだった。カメラに手を振る姿を認めたときには、鍵をあけ、たやすく足を踏み入れていた。派手な音を控えた襲撃。カメラが捉える誰もが痩身にダークスーツで侮りやすい交渉担当っぽさを着飾り、怪物らしさ隠すに足りる風采だ。クリアリングもなく、堂々と闊歩する。あたしはベッドから予備の四五口径をとり、スライドを力任せに引きながら情報に気を巡らせる。異常なし。けど外部とつながるものはだめだろう。気は抜かずにベロニカを体に引き寄せ、ドア一枚先、薄暗い廊下をうかがい、そろそろと歩み出た。天井のセンサへの反応。リビングに出てすぐに鉢合わせした――天井を伝う能面姿と、だ。指先と爪先で体を支える完全な静粛性。あたしは絶句し、反射的に照準した。
海兵としての記憶が、どうにか技術的根本を掴む。一種、儀式的に緩慢な、能の演舞への類似をレクシコンが指摘するそれは、分子間力制御と訓練で重力を無視した忍び寄りだ。あたしと同じ、暗い象徴学をなす軍用の残骸。小面の女は片手を天井に、足を壁に固定し、プレゼント箱を小脇に抱えたまま殺意も見せずぶらさがる。
異様さを追って踵が鳴らされた。廊下の左右にひざまずく般若の男女。最後に、白い顎鬚と悪趣味な微笑みをたたえる白式尉が現れた。殺し屋には派手すぎる、スーツを着た聖人とでもいうような歩き方。狂った顕示欲。間違いない。くそフッテージで見た男だ。
「はじめまして、デントンさん。お噂はかねがね」
白式尉が言い、テーブルを挟んでお辞儀をした。私はこういったものです、と卓上に時代がかった紙名刺が添えられた。拡張識が黒地に白抜きの明朝体を読みこみ、ポップアップされ、紙片に漢字が踊りだす。階戸京、と。あたしは銃を構えたまま、
「黒哀分遣隊じきじきにお出まし、と……。どうやって嗅ぎつけた」
「私らの親分と喧嘩をしたがっていた個人を絞りあげたまでです。いざ答え合わせをしようと思うと存外、拍子抜けする程度のものですよ」
そう言う階戸は仮面越しと思えないほどに朗々として、
「おっと、銃はおろしてください。なにも争いに来たわけではないのですから」
「あはん」
あたしは一旦従いつつ、腰だめで撃てる姿勢にはさだめた。階戸は肩を落とし、
「それから。黒哀分遣隊とおっしゃった。そう、時たまそう呼ばれます。ですが、繊細さに欠ける語彙だと思いませんか。物騒な字面の上に、哀しみとは。心外とまではいかずもいささか心苦しい。たしかに仕事を鑑みれば、大いに正鵠を射てはいる。しかしどうせなら、凶兆のほうが据わりよく、なにより詩的だ」
「知ったこっちゃないね。くそにセンスを問う趣味はない」
「察するに手短にすませたい……。ビジネスライクに……。よろしい」
階戸は言い、掌を打ちあわせて、
「まだるっこしいことは抜きに、そちらのストレージを引き渡していただきたいのです。その子に封をしたものは誰にとっても値打ちものの元盤ですし、私らにとっては美術館でして。応じて下さるなら、無闇に状況を乱す手出しは控えましょう。そう、被害も最小限で留まる。きわめて安全でいて公平と呼べる取り引きではありませんか……」
「それはそれは。指をくわえて抗争を眺めるだけになるわけだ」
とあたしは頬をおもいきり歪める。きわめて険悪に――そういう選択の安全さをよく心得ていたし、だからむしろ忌々しいことに思えた。
「考え方次第ですな。決して悪いことでもありますまい」
「それも考え方次第だね。くそ多角的なこったよ」
「ごもっとも。しかし多角的に、適切に振る舞えば、どの道、寿命が縮むこともないとは思いますがね。あるいは私らの雇い主から報奨金を受け取るという手もあります」
「くそ経済的」
「褒めことばとしてうけとっておきましょう。金銭を惜しむ気がなければ、言い争う気もまたないのですから。汚れ仕事の四柱を取り扱っていても、のべつ幕なし、四方八方へ敵意を振りまいているわけではない。汚れ仕事といえど外交ですからな」
階戸は言って、断りもなしにソファへ腰掛け、
「ともあれ、落ち着いて話を聞いていただけてこちらとしても助かります」
「で、例えばの話だ。逆らえばどうなるって……」
「興味の幅が広いのもそう悪いものではない。お嫌でなければ、実例をこの場で示してみせましょう。抽象的ではない形でね。咲坂、プレゼント箱をこちらに。私らの俗名が口上にのぼったということは、当然、業務内容もご存じでしょう。さあ、是非も遠慮もなしにご照覧あれ。きっとご満足いただけるでしょう」
床に降りてきた小面が、テーブルに箱を据え、震えるベロニカに掌をひらひらと振ってさがった。見下ろした箱は一抱えほど。白い無地に赤いリボンが結ばれ、小奇麗で、意味深で触れがたい。リボンの緒をつまんでほどく擦れ音が耳障りだ。あけてすぐに、ひどく鉄くさい死の香り――考える前に一歩踏み出し、ベロニカの視界を遮った。
そこに収まっているのはマリアだった。傷だらけの無表情。見せしめとされた、女神の末路。ベロニカの息が跳ねて、泣きだしそうなのは見ずともわかっていた。
「酷いったらない。護衛がいたはずじゃ」
とあたしは歯と歯のあいだから漏らした。凄惨な殺人ビデオが霞む、身近な人間の屍の衝撃に足許を揺らがされながら。吐き気がした。階戸は白髯を拇指と人差し指でこすり、
「木っ端も同然、口ばかり達者な藤四郎ですよ」
能面どもの揶揄うクスクス笑いが気障りで呪わしさが膨れた。殺人ビデオで聞いた幼い笑気によく似ていた。この怪物たちが焼きつけたのか。結びついたとたん、意志が沸騰した。信奉に値する意志――楯となれ。冷静さが最大速度に達していた。鼓動は強く大きく、悪意を追い越せる速度に達する。うちなる声――あたしはあの時からなにも変わっていない――ああともさ。黙りこむあたしを見つめ、階戸は微動だにせず、
「たがいの暗い領分をおもんぱかっても充分、理にかなうはず。そう思う次第です。潰しあうよりは共存する。私らはそういう、とても技巧的で繊細な業種ではないですか。食いあわない手を適切に選ぶべき、でしょう……」
「曖昧な中立よりも利害を選べとね」
問いには沈黙が返ってくる。とるべき選択を押しつける態度を、演説口調と使い分けていた。膚にまとわりつく不気味なほどの静止――存在は鏡映し。どん底に足をつけた人間を相手とする、ゆがんだ自らの像を見るような、浅からぬ憎悪があった。
「傍観者になるか、死体になるか。恐怖と刃物による二進法です」
「驚嘆すべき極端だこと。議論の余地は用意すらしてない」
「この業界ならでは、というところですな」
階戸は自慢気にうなずいてから足を組んだ。
「バイバイしよう」
と、気弱な涙声が背を伝ってきた。諦めがベロニカを縛って、墜落への足がかりに爪先を乗せさせていた。あたしは気を引かない些細さで、細い首筋に触れてから言う。
「金をもらえる確証はどこにあるんだい……」
「誠実さを信じていただく他、ありませんな。しかし、こういった取り引きにおける一般的な流れを思えば、そう怪しげでもありますまい」
「道理に破綻はないね。まったくやむない」
あたしは右手を差し出す。BANで送った通信コードを唱えながら――大丈夫だよ、と。腰を上げた階戸が握り返す寸前、火器コンソールにアクセスし、テクニィク・フィクスト製義肢を鮮明に意識した。除隊時に回収され、戦後、故買屋経由で手に入れた海兵時分と同型の戦術義肢。そいつを改造した、金のかかった機能を。
「やむないけど、いつまでもジョークに付き合ってるのは仕事の鉄則に反する」
左腕の人工筋肉の束を押しひらき、短矢銃の筒先が濁った風音を立てた。
転換。主導権を握るのはあたしだ。
加速する。至近距離からの矢の群れが階戸をのけぞらせた隙に間髪をいれず停電にもちこんだ。加速する。世界が黒く鈍化するなかで、箱を奪うベロニカをかばい、わんさと四五口径を乱射。加速する。極彩のハレーションの死を二人に差し出し、痩せたシルエットを盛大に撃ち抜いた。加速する。三秒とせずに弾倉が空になるのも構わず、ベロニカを急かしながら暗闇を進みゆく。加速する。セキュリティノードを作動して、センシングナノマシン散布で即席ながら網を張る。加速する。一秒ごとに加速度的な悪化を遂げていく状況に逆らい、ただひとつの退路へと退く。極限まで加速していく。
五官でセーフハウスを支配しても状況は不利だ。あたしは多知覚を頼りに柱へ隠れ、観葉植物の裏に樹木風ペイントで隠した散弾銃をとりあげた。ポンプアクションで弾を送る。
天井に知覚。ゴキブリじみて這う影が片手で短機関銃を構えた。銃口の動きを感じて伏せると、コブレイM11が太い減音器をもたげ、雀蜂の羽ばたきに似て囁いた。九ミリ口径による低初速の針が、壁に殺意を縫いとめた。あたしは化粧漆喰の粉雪を浴びながらも照準で返答――射撃支援アドオンが、散弾の飛散効果域、前後散開域の二項を円形表示で包む。撃つ寸前、小面がトランプを裏返すほどの薄っぺらさでふわりと横に転じて回避した。次弾を装填しながら、思わず舌打ちした。身のこなしが人でなしそのもの。どうにか筋肉の動きを読み、降りてくるところへ発砲を重ねた。胴に牙を立て、うつぶせに落ちてくると銃爪を絞ったまま、先台を前後し、四度、散弾で嵐を起こす。
不細工な薄笑いの奥の奥まで深く削ったはずだ。なのに怯むどころか、逆しまに曲げた強靭な手足で器用に床を叩き、猛然と跳ねて逃げていく。なんて動きをしやがる。
口をつぐむベロニカは心配でならないけど、脚はとめてられない。弾を切らした散弾銃を捨て、モノクロのスーツ姿が踊るロバート・ロンゴの木版画を引っつかむと、枠の裏側から五〇口径をとった。身を低くして後じさるなか、さらなる接近の知覚――銃をむけた先で、二人編成の般若がカービン銃を携えて迫っていた。巧みなふらつきが頭を狙わせてくれない。あたしは立て続けに撃った。炎の輪が転じて、胴に飛翔経路を結んでもすぐに姿勢が立て直される。灯りで闇を追い払うのと同じくつかみどころがない。曳光弾の熱っぽい射線がくる。あたしは最小の動きで射線をかわしながら、重いドアを押す。ベロニカをガレージに逃してから、銃口炎の華と咆哮で闇を灼く。
追って滑りこむのを呼び止めるように、階戸の高らかな演説口調が響いてきた。
「なんと愚直な歩み。お利口であることをよしとしないとはすばらしい。たぐいまれなる膂力の同胞だ、諸君、追いすがれ。存分に踊りあかす機会だ。貴重な機会を逃さぬよう、ステップを踏もうじゃないか。好きに勝手を尽くして千に一つの無駄もない」
鍵をかけてもしつこく響く、最上層の命令から振りきれていそうな殺しの歓喜。次から次へ突っこんできたのは腕試しか――どれも動きに軍隊造りの滑らかさ、専従ならざる美意識を同居させてた。殺しのためだけに働いてきたわけじゃない。されとて、やすやすと追い払えるかは疑問だった。案じながらBMWに歩むあいだにも、銃声で聾された正気がぐらつくのを感じた。心の働きが鈍り、薬莢とともに人間性がはじき出されてしまっていそうだ。状況への適応――鈍麻していく――兵士としてのマインドセットだった。
「ナデァはあんなのとおなじじゃない」
そう言って指を握ってくるベロニカは、涙と鼻水に濡れ、
「マリアとおなじ。わるいひとじゃないもん」
と、箱を抱え直した。ただそれだけで、褪せた心が色づく――あたしはシャツの袖で鼻水をふいてやってから、BMWを認証で起こした。助手席に棚から担ぎ出した武器ケース、後部座席に乗ったベロニカには軍用防寒ジャケットを投げる。
「そうともさ。あたしは怪物じゃないし、あんたはただの女の子だ。ストレージじゃない。ねえ、二度と軽々しくバイバイなんて言うんじゃないよ、お姫様」
運転席に尻を据えてガレージのゲートを全開にする。
「安全圏まですっ飛ばそうじゃないの」
あたしは陰鬱を覆し、タイヤ痕を残す勢いでアクセルを踏む。半地下を飛び出し、着地で路面に沈みこむような気すらした。チャンス一つで逆転できるアメリカという名の奇跡がまだ生きているように願いながら――加速、加速、加速。
外に待機していた規格外にでかい黒塗りSUVが、すぐさま追ってきた。速度を得る前に追いつかれ、体当たりをかまされた。ひらかれた鏡張りの窓から、分隊支援火器が吠え猛って十フィートたらずの距離感が焼けつく。顔のすぐ横、窓に白の蜂の巣模様が走りまわる。防弾硬化フィルタが、ケイ素質の高い悲鳴で鼓膜をキンキンさせながらも、高速弾を、しかも直撃を残らずとめてくれていた。あたしは鼻を鳴らし、車道から歩道に躍りこむ。人の庭の芝を荒らし、角をショートカット――地区外へ猛加速した。
状況も読めずに法をなそうと割りこむパトカーが、駆けつけたそばから、軍用火器の猛撃で蜂の巣にされている。泡を食う間もなしに警官が死んでいく。サイドミラーの極小尺度による光景から前に目を転じ、寒々しい夜のなかを百マイルで北進する。