Plastic Hurt
Chapter.4
薫香――息を吸う――古びて青さを失った畳のかおり。おれはこわばる瞼をこじあけ、円形をなしたレース状の輝きを消し去る。あとには自由のきかない四肢が残った。手首に樹脂カフの膚触り。骨が金属に入れ替わったと思える痛みがあった。暴力的な銃声が遠雷のように尾を引いて響いてくるが、実体を伴うものか、幻聴なのか、判断がつかない。明確なのは回りこまれたということ――理解と呪詛をどうにか飲みくだすと、渋る節々の機嫌をとりつつ、重心を得ると、畳の網目に頬をへばりつかせたままの姿勢から脱した。広い和室を染める琥珀色――豆電球が色をなしながらも、霧は、特有の白さをたちこめさせていた。
見覚えのある顔が四つ――元内務庁の裏切り者ご一行。
「あなたも頑固な人だ。しつこく追いかけてくるなんて」
言ったのは、羽澤だった。烟草の火で口許に光点を穿ち、わざとらしく煙を吹きおろした。影がもう一枚の皮膚となったように実体を掴ませず、苛立ちを誘いだした。おれは唇をねじ曲げてどうにか笑う。カフが回った手首の付け根で鼻柱をさすり、
「びっくりしただろう……」
「まったくね。だけどそうやっていつまでも目を背けて、わたしに構っていていいのかな」
沈黙で答える。その意味は薄靄となり額の裏にこびりつく。頭痛がひどくなる。羽澤が笑う。冷え冷えとした、復讐への飢えを冬眠させるほどの頭痛がしていた。一歩を踏み出す羽澤は、何も書いてない紙を丸めたような、不思議なくらい空っぽの顔をしていた。
「やっぱりあなたは怒らないんだな」
羽澤は吸殻を携帯灰皿に収めた。
「そう思うか」
「外面上は。そうだ、いっしょにいたのは物部さんでしょう……あの人も頑固だ。わたしを捕まえるのにずっと網を張ってるなんて真っ当じゃない。採算度外視もいいところ」
「同感だな。執着してる」
「とはいえその努力に免じる気にはならないな。こっちにも目的がある。暗殺を気に留めず自由にやれるよう、道を作らなければならない。大物を潰さなければならないんでね。残念ながら、刑事さん、あなたとは遊べない」
一方的に打ち切り、長くなった灰を携帯灰皿に落とす。畳を擦る黒いソックス。デルタ機でもそうだったように、護衛をつけて和室からでていく。
物部は追いつけるだろうか。不意にそう思う。
「残念でした、オマワリさん。代わりにあたしと遊びましょ」
おれの前にしゃがみこむ白皙――ソフィの幻影――違う、水瀬誘。語尾があざ笑う。
「あたしたちね、とっても得意なんです。ひどぉいこと」
「その顔で笑うなよ、メス犬」
「どう見えてるかよくわからないけど、うまくできてるモデリングでしょ。羽澤さんが作ったんです。恐れを鏡写しにできる視覚的ウィルス。すごい詩的でしょ」
画素片がちらつく。ただ同じ形をしているにすぎないソフィの顔貌が不意に破れた。割れ目からのぞく無機質な、プラスチックの微笑。狐の面のように。
「指向性視神経投影だろう」
「よくご存知。ある種のアドオンユーザーってね、隙間があるからよく効くんですよお」
醜い鏡像をソフィと知覚してしまう自意識。呪わしさと悔悟の沸騰。脳みその一端である視神経からレーザー投影されるウィルスコードの効果――腹立たしいほど覿面。
「おれの感覚を盗めるなら、いっそハッキングもできただろうに」
「なにかしらのフィルターが邪魔だったみたい。ま、それもどうでもいいことです」
と、水瀬は台所へ手招きし、
「ウーヴェ、お仕事だよ」
呼びかけに応じて現れる巨躯――防火斧をもった筋肉坊や。無表情な斜視だが、その視線はおれの所有権を買い切って解体法を検討するかのような様子だ。嫌味な慎重さで防火斧の背を肉厚な掌に打っていた。業務的な惨殺を楽しもうってわけか。
「どうせなら足からね」
水瀬が軽々と言い放った。
「おっ始めようぜ、坊や」
おれは指を折って関節を一つずつたしかめる。良好だ。
頭痛がする。前戯なしで低みを裂こうと飛んでくる分厚いエッジの軌道を見極めて畳を蹴りつける。頭痛がする。壁際へ転がり、したたかに背を打ちつけながらも体を起こし距離をとると、感心したような、水瀬の口笛が聞こえた。頭痛がする。どうやら今度は本気らしい――重い袈裟切りが降りそそぐ。頭痛がする。後方へステップを踏み、鋭角を帯びた尖端部が届く寸前でかわした。頭痛がする。落ちてきた紅の背を踏んで畳に食いこませると、振りあげた蹴りで鼻柱を沈ませる。頭痛がする。揺らぐ巨体に飛びつくと腰のホルダーからトマホークを奪い、伸びてくる指へ振り抜く。頭痛を衝撃に転嫁していく。
花が咲くように肉がえぐれ、指が飛ぶ。雨が打つように白がしぶき、骨の断面がとがる。
完璧な一瞬。頭痛に縛られた精確性でトマホークを振るう。
膝、脇腹、手先、肩。反撃をたくらむ四肢の各所を割った。無力化。アンフェタミンをきめたカマキリになりきる。突き立てられたままの防火斧にカフをかけてちぎり、息をつく。また感心したような笑い――高みの見物を決めこむ鏡像が、猫のように口角をゆがませる。
「ソフィじゃない。ただの怪物だ」
おれは呟く。祝詞をあげ、呪いをしりぞけるように。袖をまくりあげ、
「さっさとこいよ、怪物。遊んでる暇はないんだ」
「そぉうこなくっちゃ」
興奮した声――十指の尖端から伸びる三インチ――マット加工された段が琥珀の光芒を絡めながら、そっとうごめく。獲物をいたぶるのに慣れた顔つきだ。
サイボーグへの非容赦性がおれを無機質にする。
すり足が数メートルの距離を削る。分析し、すぐさま総計へまとめあげる瞬間だ。そして、均衡が崩れる――先んじたのは水瀬だった。四足歩行の動物が駆けるような低姿勢から躍りあがるスーツ姿に寄り添う、ソフィの面差しが、水瀬との境界を失い誰でもない何かとなる。
小振りな太刀筋を刻み、段付き剃刀が器用な線形を描く。その速度に見舞われ、トマホークの角度を変えていなすので精一杯になりかけた。円状の動きで腕を絡めとるが、剃刀の根本を手首で受けとめつつ切り出す小ぶりな斬戟も、もう一方の剃刀で横流しにされて終わりだ。すれ違うブレードの尖端が、お返しとばかりにおれの腕を裂いていく。すさまじい速度。縦横の複雑性。一方的だ。顔に迫る爪の輝きをかわし、無理やりに姿勢を低くとり、軽薄な足どりに向けてトマホークの刃を伸ばした。膝裏を引っかけようとしても追いつかない。猫のような重心移動が右足から左足へと軸を変え、それどころか、おれを踏み台にして飛び越え、立ち位置を変える――流れに乗って上辺をすり抜けていき、皮一枚とて捉えられない。逆に首筋に肘打ちを喰らい、次への行動に空白が生まれる。
反射的行動。グリップの底を脇腹に打ちこんだのが幸運だった。肋骨の下端を割る、乾いた感触。苛立たしげな息遣いとともに顔を狙って放たれる鋭い突き――この点攻撃からようやく岐路を見出せた。逡巡なしに左手で受けとめた。甲を熱く破るブレード。抗毒用パターン作成済みのナノマシンが、滴る神経毒とダンスを踊る。驚愕にこわばる手を握り締めてやる。ねじ上げながら、もう一方の剃刀を、刃の根本を握りしめたトマホークで押さえこむ。
目が見開かれる。想定外、という顔だ。
頭突き――額で鼻梁を砕く痛みがあった。ごぼり、と音がした。女の顔をやるのは趣味じゃないがしかたない。脛を蹴りおろせば姿勢が崩れる。倒れかかる胸を蹴りあげる。のけぞり、おれの手を裂いた剃刀の曲線が、するりと抜けていった。
霧の断片が濁りきった虹のノイズを沸かせて破けた。水瀬の短い呻き――畳に倒れこむ影が明滅――フラッシュバック。怖かった。心の底から恐れた。
歯の根が立たない。やめろ。われ知らず叫んだ。やめろ。鏡像の崩壊――狐めく顔貌、ソフィの顔、桃色のケロイドに飲まれた白皙へ遷移。やめろ。霧の虹が激しく咲く。やめろ。ソフィでないとわかりながら息がつまる。やめろ、やめろ、やめろ。
おれが裏切ってしまった女、おれが裏切ってしまった女、おれが裏切ってしまった女。
震えだす体を騙してトマホークを振り下ろし優雅に反った刃の背を叩く。
おれが裏切ってしまった女、おれが裏切ってしまった女。
刃を一枚ゆがませるたび胸郭が大きく震えた。
おれが裏切ってしまった女。
なかば衝動的に打つ。
振り下ろし、叩き割った。砕き、ちぎってやった。汚らわしい人間性を揺り戻すような眩暈がした。不完全性。毒をはらむ指は原型を留めず、乱雑な手首の切り株が転がり、返り血が頬を濡らす。ひどい眩暈がした。おれは忘れてはならないことを思いだした。忘れ去ろうとした、おれ自身のすべてを責めたてる、焼けた鉄を飲むような眩暈だった。壁にもたれるとそのまま腹の中身を吐く――胸が空っぽになるまで――見たくないものがでつくすまで吐いた。荒れた息が整う。己の断片を抱き寄せて泣きむせぶ水瀬のわきを踏み越えた。白い人工血液の弱々しく名残惜しげな噴出が、最低限の止血効果を見せた。これなら死にはしない。おれはよろける足を引きずり、床に投げ出されたシグを拾いあげた。スライドを引く――薬室内の一発を滑らかに排出。コンディションは完璧なまま。思いだせ。自分がなにをすべきか。
奥歯をかみ締めてグリップを握る。
頭痛は遠のき余韻を残す。
霧の紗幕を破って現れた白熊はひどい有様だった。環境同期彩膜を脱いだ巨体を包むアロハの肩口は破れ、煤けていた。淡い黄と白の中間にある毛に滴る人工血液。裂けた膚の隙間で分厚い人工筋繊維がうごめく。狩り立てられた獣の様相。そのくせ、動きはぴんしゃんとしていた。敏捷な走り――息を弾ませおれたちは深く濁った街角を行く。
「無事みたいだね。よかった」
そう言う物部は心底安心した様子だった。
「まあな。そっちは傷だらけみたいだが」
おれは言い、速やかなパイ切りで曲がり角を見通す。
「変な方向に誘導されたかと思ったら、そこで対物と撃ちあい。相討ちに持ちこんだけど気絶しちゃってた。まあ、そこまで深手じゃないよ」
「そうは見えんが」
「うん、熊なりの強がり。まあご覧のとおりちゃんと動けるよ」
そりゃいい。痛む頬をねじ曲げた。加速する。閉鎖区を満たす霧を掻き分け、羽澤たちのあとを追う。来るときに物部が撒いていた追跡用粒子を頼りに、居場所の検索をかけて進んだ。童話の幼子が、落とした石を頼りに家を目指すような足どり。死んだ辻を曲がる。死んだ通りを一直線に駆ける。公園の遊歩道に足を突っこむ。枯れた葉の匂いを掻き分け、おれたちは求めるもののすぐそばまで銃口を繰りだした。
広場につづく道――おれたちは追いつく。またしても逃げさろうとする怪物に。
濃霧の奥を凝視――距離は二十メートル。傲慢な守り手の体へと敵意を飛ばす。
行動をさだめる――はっきり目的へ結ぶ。輪郭補正で補正されて姿が浮き立つ。
霧に噛みしだかれたパラメータ群の、薄汚れたダイヤモンドダストのきらめき。邪魔だ。表示系を最小限のシルエット補正を除きオフにした。それでもナノチャフの妨害は強い。四つの後ろ姿を陽炎のように揺らめかせる。おれはトマホークをひっくり返して刃の背――スパイクを前にし、グリップを指に滑らせ、後端を握る。そして、ためらいなく投擲した。警告なしの攻撃に命中の予感が満ち、放物線の終端が、振り向こうとする護衛の背を貫いた。完璧だ。
留まることなくシグを構え、よじれる背中へ発砲。銃口炎が画素片のモザイクにオレンジの波紋を走らせる。二つの薬莢が幻影のように舞う。殺しの予感を制圧への確信にねじ曲げ、右肩と左膝をえぐった。全動作を二秒以内に遂行。テンポを変えて照準線を右にずらせば、あらゆる経験則に導かれ、銃口に目標がそろった。さらなる打撃の敢行――よどみない連続射撃をもって右肩を貫徹。拳銃を抜こうとする右肘を撃ちぬき無力化を完遂。
残った一人には、バトルカービンの叫喚が襲いかかっていた。銃口炎が光の槍となり周辺視野を燃焼し、霧に激しい紋様を描きつける。的確なセミオート――突撃銃、肘、肩――二秒以内で見事に破壊。適切に制圧する技能をもつ者同士がぶつかる場合、大当たりを引きあてるのは先んじて鬼札を切った側だ。邪魔者を蹴散らしたおれたちは大股で詰め寄る。
羽澤は懲りずにワルサーオートを掲げ、
「追いつかれるとは思わなかった」
「そろそろ潮時ってことさ」
物部は言い、立ち木のように足を止めた。カービンを腰だめに据え、
「長い鬼ごっこだ。長すぎて理由もわからなくなるくらいね。これで終わりだよ、統護。きみにすべてを覆いかぶせる気はないし、きみを行くべきでない方向に突き飛ばした人間に始末をつけるためにも、いっしょに来るんだ」
「それだけじゃだめだ。見なければならない景色があるんですよ、物部さん」
知ったことか。ソープオペラが幕を切る前に歩みだし、白熊の太い腕が制止するのも構わず、羽澤に大きく歩を踏んだ。九ミリ口径が吠える。一発。牽制が足許の石敷きを砕く。二発。脇腹をノックしてくるが防護質の腹膜が品よく受けとめてくれた。三発。芯に届かない痛みは足止めにもならない。四発。汚れ仕事をしたことがない人間特有のつめが甘い牽制だ。羽澤の薄い頬に怯えがちらつく。いまさら殺す決心をしても遅い。おれはワルサーをスライドごと握り、引き寄せ、地を踏みしめてから顔面へ拳を振りぬいた。骨に響く。肉をたしかに打った衝撃が腕を付け根までしびれさせた。倒れると胸ぐらを引き――殴打、殴打、殴打。
おれは量る――深い瞋恚と嘆傷の重さを。
殺さぬよう殴りぬいた。殴った。殴った。殴った。だが、殴るほどに衝撃は薄らいだ。残ったのは、怒りを上回る、己への失望だけだった。細い裂傷ができた羽澤の面からは、寸前までの恐怖が剥落していた。なにもない。虚無そのもののような眼差し。
このままあと数度、思いきり拳を振り下ろせば、殺してしまえるだろう。おれは振り上げ、そっと下ろした。息を呑む。こんなことは無意味だ。
静寂。
痺れた拳と、裂けた唇から流れ落ちる血が、ゆっくりと混じりあう。頭痛。吐き気。背骨が芯から震えた。荒れた息だけが揺れる無音のなか、おれはひざまずき、うめいた。
蚕豆色の電話機がすえられた台に寄りかかり、拡張識の決済メニューからクレジット認証、暗号コードをリンク。番号登録済みのショートカットをノック。どこへつながっているのかはよく知っている。コール音が鳴っていた。眩暈がした。おれはどう言うべきか考え、瞼の上から眼球の曲面を揉みしだく。ほどなく、つながった。
気楽に問いかけられた――おれは言う、仕事はぜんぶ終わった、と。周囲の雑音から切り離されたおれ自身の呟きが内側に響くようだ。おれは意を決し、
「これから帰るよ」
すべてが終わる。すべてを終わらせなければならない。受話器を放さぬよう強く握った。おれは犯してしまった罪を認めなければならない。帰りつかねばならない。
「待ってる。そうだ、外出許可もでたんだよ。迎えに行くね」
「ああ、ソフィ、待っててくれ」
「そうだ、ねえ、ナタリアも外に出ていいんだって。みんなでごはん食べようよ。はじめての団欒、みたいな」
安らかな声だった。裏切りの重みで胸郭を押し潰されたような気分。おれは一度うなずいてから、電話の向こう側には見えやしないと気づき、相槌を打った。
それからいくつかの話をしたはずだが、脳神経から一切がこぼれた。耳を傾けた委細の一切が意味合いを欠いているように思えた。受話器をおく――空港らしい皓さに彩られた国際線ターミナルのロビーに身を翻せば、物部がディズニーマスコットのように腹に手を組んで待っていた。おれは驚きを隠し、黄色いアロハを羽織った巨体にうなずきかける。
「やあ。見送りに来たよ」
「用が終わったらそのままポイといかれるかと思ったが、意外や意外だな」
「ひどいなぁ。短い間だけど相棒だったんだから」
「世話にはなったが根本的には棒になって振られただけとも思えるぜ」
「そう言われると一個も否定できないけどね」
白熊が気まずげに後頭部をかく。口許をふちどる黒が、本当のほほ笑みに見えた。装いではなく本心からの笑いがおれの頬を痛ませる。
雑踏の広がり――歩き出した通路には賑やかな広告が川をなしていた。洪水めかした広告文化の基盤となってささえる厚みのない電子の壁。コカ・コーラとマクドナルドが結託した、フランチャイズ共産主義の飾り気満載な赤。こまやかなフォントで彩りつつ、補償バリエーションや契約案内へのリンクをささげもつ国際保険大手。エキゾチックな和風の映像をスクロールする土産物案内。その他数百。大資本に購入された空間には、中空にまで過剰な広告パネルが舞い、あの霧の海とは違う煩わしさを振るった。こそばゆいまでの狂騒がおれのなかに偽りの日本を描く。血と銃声と痛みが嘘のように、から笑いのきらびやかさで包みたがる。
情報群にまみれた白熊はより非現実的に見えた。非現実的な書き割りを歩く超現実的な巨体は人の気を引き、スーツ姿や観光客風情が驚いては、ときに振り返ってカメラを向けた。物部は気前よくポーズをとってみせ、功夫のモーションを演じれば小さな歓声が飛ぶ。
搭乗までは時間があった。展望デッキに物部を誘い、夜空のもと、おれは柵を握った。さかしまな注射器となるスカイツリー。豊洲のビル群。巨人の階梯たる層状モジュール。多くが重なりあって東京という城塞を形作る。居場所がない街。ゆっくりする暇などなかった。
おれは冷たくなる指先をもみ合わせ、
「なあ、二つほど尋ねたいんだが、いいか」
「どうぞ。前も言ったけどぼくは正直者だからなんでも答えるよ」
「なんで熊のガワを着てるんだ……」
短い沈黙。北の空を仰ぎ、物部は口をもごつかせた。好きなんだよ、白熊、と。予想しがたい言葉に笑いをこらえきれない――おれに向き直る物部はぎくしゃくと両手を突きだし、
「メーカーのテストで無償提供されてるからっていうのもあるんだよ。向こうからの保証が効くんだ。そんな笑わないでくれるかな、自分でも変だとは思うけどさ」
「想像よりまともで安心したよ」
「なんだと思ってたのやら、もうもう。で、お次はなにかな」
「羽澤絡みだ。あんた、始末するって言ってたよな。奴を捕まえたときだ」
「話してしかるべきことだね」
物部は白く息を吹きあげ、
「平たく言えば悪党狩り。身も蓋もなく表現するならば、うちの上層部にいる寄生虫の駆除。疲れきった羽澤をそそのかした挙句、できあがった成果を独り占めして、きな臭いことをやってきた男だよ。そいつときたら、自分が関与した証拠になる羽澤を消したがってるんだ。僕の部下をけしかけてまでね。そんな奴がのうのうと笑ってられるなんて、許せないでしょ……。絶対に打ち崩さなきゃならない。だから、策を巡らせてきたんだ。羽澤に罪を償わせて、命を奪わせないためにもね」
おれは納得したという自意識を唾とともに嚥下――首肯――羽沢は尋問小屋で大物を潰すとうそぶいていた。犠牲を払いながらの起点への帰着した、どこまでもひどい内輪もめ。片棒を担いでとうとう到達した先は、おれ自身が犯してきた認識だった。罪に背き、ことの始まりを追いかけて、ついに奥底まで落下したすえ、ようやくだ。
「ぼくも一つだけ、訊いていいかな」
物部は壁に背をかけ、ためらいがちに顔を覗きこむ。おれは、ああ、とだけ応じた。
「奥さんだよね……さっき電話してたのは……」
「聞いてたのか」
「うん、申し訳ないとは思いつつね」
「まあいいさ。おっしゃるとおりだ」
「でも、きみは前に家族を喪ったと言ってた。それって穿鑿してもいいこと……」
「構わんさ」
息を吸う――心をつなぎとめるため――息を吐く。良心の疼きのような痛み。胸の内側に吹き溜まったおれ自身の悪意に汚された肺が、大きく窄むような苦悶。黒い瞳がうながすように瞬きをした。どの思いが正解なのかは知っていた。柵を握り締める。苦悶の代替であるかのように、編み目に沿ってこびりついた汚れが指を汚す。
罪を認めなければならない。
「ああ、嘘だ。自分を騙して多くを忘れるための。目をあけるのが怖かったから」
おれは針金のグリッドに額を当てると滑走路の浅い闇を見つめた。
物部が、ふうん、と喉を鳴らし、
「なるほどね。ねぇ、話してくれたってことは、その嘘はもうつかなくていいってこと」
「もしかしたらそうかもしれない」
白熊は頭をかきながらリュックを下ろすと、
「そう。変なこと聞いてごめんね。そうだ、手伝ってもらったのに手ぶらで帰すのもよろしくないかなって思って買ってきたんだ。帰りに食べて」
背負っていたリュックから出したのは紙袋――思いもよらぬ手土産に拍子抜けした。ありがたくいただこう。おれはそう言い、受けとった。多くを語るでもなく夜景を見つめ、数十分後にはターミナルで別れを告げた。こっちの悪党は僕に任せて、どん底まで懲らしめ抜いてやるから。物部は暴力を匂わせて笑い、去っていった。意味深な言葉。デルタ機に上がってから袋をあらためてみれば、なかにはバナナをかたどった黄色い包装。それからもう一つ、旧式のタブレットモブ。おれは気まぐれに電源をオン――収められたデータ――捜査ファイル。ネオン菊の仔らを追うための地図だ。サービス精神過剰だな。おれはひとりごち、モブをしまうとしばしの眠りに落下――脳を時差ボケから救うシンクピルの効果。帰還に向けた調整だ。
フラッシュバック――記憶――光、光、光。現在を奪った炎と、過去がかざす閃光。
過去は一年という壁を軽々と貫徹。眠りの粘膜を念入りに捻転。思いだせ。ソフィの体表面を覆う、悪意の這いまわった痕。形をともなった死の予感。焦げた血の臭い。タンパク質の燃えるにおい。空虚の寸前まで至る肉体。どん底。焦燥と躍動がわが身から去り、一介の怪我人として膝をついた瞬間を思いだす――おれは、緊急処置がくだされていく傷ついた肉体を、おぞましい肉の塊と感じてしまった。ただ一人大切な、守るべき家族を。
肉。既知の色彩。赤。ソフィを焼きつくす赤――おれ自身が真っ黒だった過去に直結した。重機関銃や地雷や即席爆発装置で耕した屍の地平と変わりない赤。生ける肉体がその形に変質するかもしれないことを忘却していた。心理医療で封じたはずの過去との相似――死に爪を立てられたソフィと惨憺たる銃撃で壊れきった南軍兵士が重なった。ひどい怖気がした。傷ついたソフィを、恋人から、家族から、現実から切り離した。見知らぬ肉体だと思った。一拍おいて悔悟と罪悪感が脳神経を圧した。ソフィは人形ではなく、偶像でもなく、ただ一人の家族であるはずなのに。束の間だろうと拒絶を胸につめこんだ事実に絡めとられ、今度はすべきでない思案の重みに怯えた。心的圧迫。それを、ナノマシンによる神経フィルタリングの作用が包んだ。南軍を攻め落とした際に回収された、かの精神構造フィルターの応用であるおぞましき心理医療アドオン。プラスチックめいた、硬い無機質が罪を隠した。ホーム・オブ・キュアで得た皮膜はトラウマパッドとしての役目を果たした。
おれは目をとじ、何も見なかったふりをした。
あのとき、良き伴侶を演じるための仮面で汚らしい本性を覆った。
記憶を切り刻む――殻のなかに隔離するように――汚穢を奥底に落とす。それで、終わるはずだった。医療スタッフの投げかけた説明が泡のように浮いてくる。
時にはね、余計な考えを切り離してしまうのも必要なんです。誰にでも手に余ることはある。だから、自ずから消化し、傷を残さずに解決できる瞬間まで、完全にスタックしておく。わたしたちの提供する、人工の防衛機制ですよ。
だから、おれは罪悪感を隔離した。ひた隠しにした罪から逃げつづけるために、分裂した意識の裏面が、犯罪への反撃に依存していた。ソフィのための復讐を遂げる――欺瞞でしかない。罪悪感に口をつぐませる、機械的な人格の層化。
凍結した怒りのままに刑事を演じるおれ。
億尾にも出さずソフィの声を求めるおれ。
分裂した感覚と罪悪感――羽澤に一撃を叩きこみさえすれば、数えきれない記憶の列にまぎれて、もう過ぎたこととして消化されるはずだった。だが、忘れたままでいられなかった。指向性視神経投影がひびをいれ、すべてを認めざるをえなくなった。
どん底から湧きあがる疑問符――ソフィがいつか傷ついたとき、また目を背けるだろうか。いつか愛情も希望もあの赤に覆され、拒絶するのではないか。羽澤が不意に触れた虚無によって心奪われたように。ささえてやれないかもしれない。また逃げ出すかもしれない。ともに歩んでいくことの拒絶という可能性への恐怖。おれはおれ自身を許せなかった。誰も殺さないという約束を破りかけ、ソフィを見放しかけた――裏切りたくない。混乱――根底――昏迷。戸惑う童のように口をとざす。光がじわりとまたたく。闇のネオンが収束、ロールシャッハの左右対称が、蕾がひらくように差し出された掌となる。もはや怒りをフィルタリングした無機質な推進力などなく、おれ自身の心だけで前進しなければならない。たしかな欲求――おれはまだソフィを愛し、笑顔に触れるため、帰りつきたいと願ってる。裏切ってすらまだ帰りつきたいと願ってる。願いの残り香を頼りにおれは目をひらく。
夢からの下車。窓辺。ブルックリンからスタテン。遠景が匍っていた。
空港のロビーでは三人がおれの帰還を迎えてくれた。かつての相棒たるクリス・マークィス。路上犯罪課に落ち延びたうるわしき捕手。クリスが押す車椅子にかけたソフィ。かんばせには傷一つなく、唇を横に伸ばした笑みが彩る。そしてソフィの細腕に抱かれたおれの娘、ナタリア。聡い灰色の瞳が外環境への興味に色めく。わが子だっていうのに、同じ空気を吸うのはこれがはじめてだった。網膜に残っていたのは集中治療室の揺り篭で眠り、あるいは看護師の腕に抱かれた姿だけ――汚れた手で触れることが禁忌であり、だからおれ自身の前から切り離してきた。白い布に包まれたほんの小さな肉体。眩暈がした。
手を伸ばしかけてやめた。どう触れればよいかもわからぬまま、おれは息をこぼした。
「おかえりなさい、ドム」
とソフィが微笑む。返す言葉が見つからない。低く、ただいま、とだけ応じた。
「お疲れさん。あとは家族水入らずでよろしくやって」
クリスはそう言うと、カラビナ付きの鍵束――おれのトヨタの鍵――を差し出し、
「こっちは仕事があるから」
「なんなら送ってくが」
と言い、おれは鍵をとる。冷たいステンレス材が懐かしく思えた。
「お手を煩わせるわけにはいきませんわ、殿下。タクシーで行くから大丈夫。それに、きみがすべきは送迎なんぞじゃなく、ソフィの隣に座ることじゃあないのかね。間違ってもわたしなんぞとだべってる場合じゃない。おわかり……」
とクリスは赤錆色の髪を指に巻きつけながら、右目を大きく眇めた。我知らず、まあな、と口がゆるむ。どうやら応答に満足がいったらしく、クリスは親指を立て、愛嬌のあるウィンクを合図に駐車場への案内情報を飛ばしてきた。拡張識が読みこむパターン――地面に敷かれるビット処理が粗い青の矢印。相棒だったころと変わらずに気の利く女だった。短い謝意を告げると、手を振り、踵を返した。おれはソフィに目配せした。楽しげに細まるまなざしに、数秒をかけて焦点をあわせてから、車椅子のハンドグリップを握る。
ロビーを行くうち、ソフィが機嫌よく鼻を鳴らし、
「よかった。帰ってきてくれて」
「ほかに帰っていきたい場所なんてないさ」
「そういってくれて安心したよ」
とソフィは声を落とし、
「いつだってどこかへ行ってしまいそうだったもの」
咎めるでもなく刺す言葉に呼吸が閉塞――神経フィルタリングからサインアウトした心が怖気を感じとり、背骨に棘を巻きつけ、おれの思考をホログラム同然の薄さに変換する。おれの虚無を、ソフィは見ていた。自分で組み立てた考え以上に、ソフィには、無用な痛みを与えていたのかもしれない。喉がつまる。ソフィはナタリアの柔らかな頬をなで、
「お見舞いに来ると、いつも変な顔をしてたじゃない。わたしが気づかないと思った……。いつものドムじゃないって一発でわかったわ。何年もいっしょにすごしてきたんだから」
「すまない」
乾いた舌を震わせる。おれはソフィを騙していた。
「いつだってなにも見えてないみたいな顔をしててつまらなかったよ」
「すまない」
濁った喉を揺さぶる。おれはソフィを悲しませた。
「ねえ、いまのきみに、わたしは見えてる……」
ソフィが車椅子の上で身をひねった。グレイの瞳は冷ややかさを潜めていた。冗談めかして咎める、どこか子供っぽくすねた色味がおれを射る。なにも言い返せない。
「文句を言わずに待ってたんだよ。それでお気に召した……ご満足でしょ……ドム、お返しをしてよ。愛してる、もう遠くに行かないって、それくらい臭い台詞を言ってほしい。待ってる時間は死ぬほど退屈だったんだから、埋めあわせをしても罰はあたらないでしょ」
「すまない」
とおれは俯いた。息を目いっぱい吸いこみ、
「心からそれを言う自信がない。また裏切るかもしれないのに。おれは、きみの怪我を見てひどいことを考えた。きみから逃げたんだ」
「それでもいい」
「よくない。その言葉を信じてくれたきみを裏切ってしまいそうな気がするのに」
おれはそう言い、肋骨を内側から破りそうな不安を押し殺した。足がすくみ、つるつるした情報膜に覆われる床に、根を張ったように凍りつく。ソフィは繰り返した。いいんだよ、と。不意に、電動モーターに操作権がうつった車椅子が動きだす。シャフトの唸り。すり抜けようとするグリップが指先から逃れてしまう前に、おれは全力で掴んだ。手放したら大切な一欠片すらも喪う――確信――怖気の速度は理性より早かった。
「きみのことは信じてる。帰ってきてくれた。いまだって捕まえてくれた。ねえ、その力のほんの一部分でいいから、わたしに触れるのに使ってよ。ちゃんとわたしを見て。家に帰って、それからお話をしようよ。嫌なことがあっても裏切られても、喧嘩をして、きっと仲直りできる。わたしは平気。軍から抜けた後だって沢山、話したでしょ……。お仲間といっしょに、なんかの研究所だっけ、あそこで治療を受けるときもそうだったよね。こうなる前も話して、話して、話しまくってきたじゃない。だからまた、きみが恐れることも嫌なことも教えてよ。きっと、特別でもなんでもない、普通のことなんだから。わたしはきみの声が聞きたい、きみと、この子と生きてく実感が欲しい。ねえ、なにも見えてないような顔なんてしないで」
ソフィはそう言った。雑踏の底に落ちていく、凛とした囁きを掴んだ。いっしょに歩かせてよ、とソフィはつづけた。気休めなどない呼びかけが鼓膜に沈む。
どうするのが一番正しいのか、わからなかった。おれは唯一、明確な思い――ソフィの体温を感じ、もう裏切ることなく、そばにいたいという欲求を頼りに車椅子を放す。過負荷を超えた原動機のように腕が震えた。か細い背を抱きすくめる。柔らかな体温。髪のかおり。
犯した罪を忘れてはならない。それだけに支配されてもならない。
おれは思いだす――自分自身の暴力に怯える指先を包んだソフィが言ってくれたことを。
おれは思いだす――ゆっくりと変わっていこう、と言ってくれたあの瞬間の深い信頼を。
袖を引いてくる強い力に、拍動が増した。ナタリアの息が興味津々とばかりに弾み、小さな手が触れてきた。言わなければならないことばは無数にあったが、いまは一言が精一杯だ。
おれは、声を絞りだす。ありがとう、と。