サイバーっぽい中編。
Plastic Hurt.前編
 人生において大きな意義をもつ存在が目と鼻の先で奪われる――耐えがたい腹立たしさ。おれは二度、喪った。一度めはすべてを賭けて守るべき、ソフィとまだ生まれてもいない娘を。二度めは力をつくし刑務所送りにするはずの、おれからなにもかもを奪っていった大莫迦野郎を。
 思いだせ。家族をなくした日。忘れてはならない。
 あの冬の日も、いつもとそう変わりない日のはずだった。
 Kマートの棚に品々が追加されていくように、突発的犯罪を起こす連中――安直な殺ししかできないクズ。手慣れた調子で強姦と殺人を繰り返すクズ。その他、多種多様な、たまに杜撰な計画性も見せる犯罪を調べあげる。おれは前面に出張り、礼状をつきつけ、連中に手錠をかける。封鎖線をしいた現場。新鮮な死体(フレッシュ)バラバラ死体(スクラップ)腐乱した死体(ロッテンエッグ)白骨体(スカル)。痕跡。血痕。足痕。弾痕。暴力の残り香。証拠品。その場にあったり隠されていたり不詳だったりな凶器。複数項目をまとめ、書類仕事を始末し、帰りにはソフィが愛してやまない旧式ダブステップのCDを買って帰る。ネットとフリーメディアからかけ離れて三次元性を帯びたメディアを滅びかけのショップで買いあげる。家に帰りつけばソフィと指を絡め、手を触れあわせ、飽きるまでずっと話をする。今日あったこと。明日起きること。次の休日の過ごし方。生まれてくる娘のこと。そして眠る前、静かな時間の表面をじっくりと撫でる。いつもと同じ日だ。海兵隊技術適化群というサイボーグの坩堝を去り、ニューヨーク市警警邏課、第1級殺人課へと通過してから六年間、ずっと変わらなかった生活。電波時計の針がずれないように――ずれても正されるように。
 おれも努力していた。無用心な怒りを殺す――業務に相応しい酷薄さを背負う――平静。海兵時代の技術を残したまま、刑事らしい思考を身につけてきた。
 着るのは防弾効果膜で固められたDARPA拵えじゃなく、スーツと、使い古しの軍用コートだ。でなけりゃ、ラフな装いの私服だった。昔とはまったく違う。帰る場所も兵舎じゃなく安全圏。データ広告やグラフィティで壁面を装飾した色とりどりのロウハウス群。掃いて捨てるほどの社会活動で最上級健全化(エクスグッディング)された、ベッドフォード・スタイベサント区。小柄で、縦長で、愛らしく、やたらと芸術的な町。脳神経侵襲で個人とネットを結びつけ、データ化して現実を引き伸ばし、拡大していく拡張識を通せば、これほど美しい場所はなかった。そんな区画だ。
 帰りつけた。ソフィがいた最高(ドープ)の日常。だからクソ溜め(ダンプ)に浸かっても平気だった。
 だが、あの日、帰り道の色合いは大きくゆがんでいた。赤色。おれを追い抜かす消防車は焦燥の赤をかざし、行く先に野次馬とわが家が見えた。燃え盛り、燃え盛り、燃え盛る――小さなわが家。怖気がした。急激に跳ねあがる心拍。怖気が痛みとなって頭蓋を圧した。荷物を捨てて他人をかきわけ、消防隊員を振りきり、軍用コートの襟をあわせると扉を破った。赤色。
 突入とともに感じられたのは、エントランスに漂うポリマー質の臭気だった。溶けたデータ表示壁紙が放つ無毒性の、そのくせ鼻につく臭い。焼けた階段を踏みつけ転がりこんだ二階では、床を隠すイケアのサニタリ畳パッドが火の手に逆らい、ソフィを守ってくれていた。横たわる小さな四肢。焼け爛れた白皙。吐き気に襲われた。おれはソフィをコートで包み隠した。這い寄る炎に体を焦がされた。漿液を垂らしながら、外へと飛びだした。
 搬送。ICUへと走りゆく移 送 車(ストレッチャー)。喚くおれを囲う医療技師。治療の甲斐はなく、なんて簡単な言葉で済まされない。多くの願いをこめた。多くの人が処置をくだした。
 だが娘、生まれたらナタリアと名づけられるはずの胎児は鼓動をとめた。やがてソフィの鼓動もとまった。先天性の病にやられ、そのくせ補助外骨格フレームで身をささえて、すこぶる前向きで、無理して元気ぶる愛すべき妻。肌に這う除去された外骨格の痕。空虚のどん底。もっと早く帰りつけばと呪う――無数の悔悟――なにもかもが喪われる。
 枯れぬ涙は世界を溶かした。かつてソフィだった――息がとまってなおソフィでありつづける肉体に触れられず、床を掻きむしった。血の匂いだけがすがる。頬も鼻梁もおれの知っている色形をしていなかった。ただれた赤。呼吸をやめた胸。ただれた赤。とじられた瞼。ただれた赤。全身を舐める劇痛すら無視し、フィブリノゲンパッチを身体中に貼られたまま、赤ん坊のように泣いた。おれはその体を正視できなかった。
 おれは、目をとじて泣き叫んだ。目をとじた
 情けないなんて考えもしなかった。当然のことだったと思っている。おれをささえてくれていた大きな柱が、自分で触れられないところで切り崩されてしまったんだから。
 間もなく、絶望のなかで一つの事実が判明した。おれたちは間接的殺人の巻き添えを喰らったのだ、と。広範囲への放火。弁護士一家を皆殺しにするための方策。関るのは日本からはるばるとやってきた犯罪組織――ネオン菊の仔――ヤクザ。その膝元で働く凝 り 性(アーティスト)が、深く関わっているかもしれない。
 ことを告げたのは、殺人課の長、オネシファラス・ハドスンだ。人工培養皮膚が定着し、痛みが冗談のように遠のいた、事件から一週間めの昼。なにかを喪った実感すら奪われていた時期のことだと憶えている。空っぽの胸を抱えたまま、耳を傾けた。
 いわく、弁護士一家に生存者はゼロで、大人も子供も焼死体となって発見されている。
 いわく、犯行に使われたのはお手製ナパーム。油/乳化剤/ガソリンの混合物である。
 いわく、計算された順序による計画的殺人は、別件にもつながっていく可能性がある。
 いわく、被疑者の拡張識からは犯行に関連するだろう感応性データが検出されている。
 いわく、それは特定行動をとらせるために作られた心理療法的な洗脳パターンである。
 いわく、実行犯にそのパターンをコンフィグした容疑者の見当は、まだついていない。
 そして、パターンを仕掛けた凝 り 性(アーティスト)を捕らえる仕事がおれたちの手に転がりこんだ。
 複数の項目を、警視は淡々と語った。おれの痛心をこすらぬ気遣いだったんだろう。われわれはきみを捜査から遠ざけることはしないが、率先して引きいれることもしない、だが、怪我が完治したとき、どう身を振るかは考えておいてほしい。ハドスン警視はそう告げた。おれの心にはなにが残っていたか。単純――ただ追い詰めてやるという望みだけがあった。頭痛がしていた。はらわたが凍りついていた。頭痛、頭痛、頭痛。
 選択は一択。仕事に戻る。それだけだ。
 煤けた軍用コートをとった。同僚がクリーニングにだしてくれていた重い布の塊に、もはや焦げ臭さもなく、フラットな洗剤の香りだけが付着していた――おれの漿液、焼けた肌のかけら、呪わしさ、痛みは、すべて拭われていた。ただ煤だけが固執していた。まっ黒な記憶の破片。意識は澄み渡っていた。腐れ犯罪者を追いかけ、ドブの底に叩きこむという一点に気を尖らせた。家族を奪ったことを後悔させてやる。そう誓い、捜査をはじめた。
 おれは容赦なくクズを殴り情けない命乞いから情報をひきだし無力化した。
 頭痛が心を芯から冷やした、頭痛が心を芯から冷やした、頭痛が心を芯から冷やした。
 へらへらした面の薄っぺらい伊達男をガソリンと鉄拳と靴底で無力化した。
 頭痛が心を芯から冷やした、頭痛が心を芯から冷やした。
 ドラッグでどん底までラリった野郎を九ミリのダブルタップで無力化した。
 頭痛が心を芯から冷やした。
 鍵となるトピックを出し惜しむ情報屋の虚勢をナイフの尖端で無力化した。
 ときには芝刈り機やバーベキュー串やマンホールの蓋なんていう変り種でも応じた。強引な捜査――だが決して誰も殺さない。ぎりぎりでの成功。カウントされていく時間。悪意がひきずるしっぽに追いつくたび、時の流れがおれを驚かせた。一ヶ月。三ヶ月。六ヶ月。一年。短いあいだに、有象無象が流れた。得物がIDなしのベレッタから、個人識別IDつきのシグに変わり、相棒と同僚もいれかわった。もとの相棒が、殺人課を去った。おれは突っ走り、拡張識ネットを通した犯罪の網を掴み、えぐり、引きずりだした。昔馴染みのハッカーにトレースさせ、積み重ねにすえ、ようやく一人の男に到達した。似た事件、似た状況、似た目標に関わりながら、警察との接触可能性をかわしていく男。まるで亡霊。
 捜査班内でオッドマンとのコードで表音されるようになった、トウゴ・ハザワ。アラブ人めかしたファミリーネームを持つ日本人が、おれから家族を奪った。実感。頭痛。
 さらに数ヶ月をかけてようやく、実体に到達した。英国人(ブリトン)がわれらの行政区画をニューヨークと命名してからおよそ三百七十年。ジェームズ二世が卒倒するほど、地獄に至る深みにまで拡大された大深度地下施設(ジオフロント)――クイーンズ・ボトムの底。おれはようやく追いついた。光ファイバーケーブル塔の供給する日差しの片鱗。気が遠くなる吹き抜けで奥底まで光が注ぐ深度三百メートル。廊下を突っ走りながら、何度も銃爪を引いた。
 思いだしていく――マガジン二本ぶんに及ぶ九ミリ口径の銃声と反動。
 思いだしていく――弾丸で護衛どもを片っ端から無力化していく瞬間。
 吹き抜けから跳躍――下階層へ飛びこむ落下感覚は最低で、空挺作戦に似ていた。ニュートンが重力を知るよりも生々しく圧倒的だ。着地衝撃でひしゃげた手すり。体勢を崩しながらも敵陣へ飛びこんだ。海兵の頃から世話になってる射撃支援アドオンが、敵と認めた目標をフォローしてくれた。輪郭補正。完璧な一瞬ができあがっていった。
 ブルガー&トーメのMP9短機関銃が小癪な面制圧をしようとも関係ない。飛来した弾丸に頬と太腿の表面をえぐられたが、おれは地面を転がり、起きあがり、踏みこんだ。容赦なく銃爪を絞った。ダブルタップを放った。一人につき一秒。二発を着弾。対機械化目標ホローポイント弾が十二対の鎖骨または肩を射抜いた。殺しはしない。安全基準を満たす二十八の銃口炎(フラッシュ)。泣き叫ぶ荒くれどもを、後を追って感嘆するばかりの新たな相棒――ハスコックが確保。
 マガジンを捨てた。再装填。息を吸った。薬室閉鎖。
 頭痛。ため息を吐く。頭痛。秘密のコンドミニアムへ落ちていく階段をくだりながら、ハザワの頭蓋骨を貫きたい気まぐれを堪えた。やがて、おれはこの選択を後悔する。
 ほくそ笑むハザワ。奴はどん底のコンドミニアムに、現代芸術めいた流線型のソファーとクッションを敷き詰め、堂々と足を組んでいた。派手なライムグリーンたち。しらけたシャツ。青二才面のくせに、小皺が目立って若さを削ぎ落とす――不気味だった。日本人が、愛想笑いなんて濡れた紙のように心地の悪い表情を好む人種であることくらい誰だって知っている。ハザワはそいつを飛びきり横ずれさせていた。まともとはいえないような顔つきだった。
 オッドマン。かつての相棒がつけたコードは、よく似合っていた。
 あのとき、おれはシグ250の図太い銃口とサイトできちんと照準。狙いを肩口に結び、腕は張らず、肘で曲線を描くように構えた。輪郭補正が深緑のシルエットを巡らせた。視界できらめきとなるパラメータ群――筋肉のうごめきを第六感的にフォロー。とっさの動きで最大効果をひきだせるように澄まされていた。
「やっと見つけた」
「どれだけかかったんです、刑事さん」
「知るかよ。こっちは時間を数えるほど暇じゃなくてな」
 かけた時間と暴力の手数が背中を押すが、おれは微動だにしない。殺すことに一切の意味がないことを理解していた。その感情を抑制できた。頭が割れそうだった。
「そ。まあ、どうでもいい。銃を下げてくれないかな。どうせわたしがなにをしても殺せないんだろ、刑事さん。それはあんたの仕事じゃないからな」
まあな(ウェル)、殺しはおれの仕事じゃない」
「かっかしないんだな」
「ああとも。だが好きな場所に風穴をあけられるからな、へたな動きを見せてくれるなよ」
 挑発に乗せられるだけの、熱情的な衝動なんてものは残ってない。しずかな圧力――自覚的な冷徹がじっくりと内臓も理性も凍らせた。頭痛。
 おれの仕事、仕事、仕事――自縄自縛――すばらしいほどにおれを縛る。あのときたしかに骸骨みたいな細い手首を樹脂カフでくくった。そうだ、このときに殺しておけば。だが、おれはお利口さんであり、大事なのは殺すことなんかじゃないとわかっていた。人を殺さない。おれはソフィに誓った。できる復讐は、腐れホモ野郎が山ほどいる刑務所に、お前の尻を叩きこんでやることだ。殺すことじゃない。そう信じていた。留置。黙秘。関係ない。壁で囲っていった。だが結果から言えば、刑務所送りになんてできやしなかった。

 思いだせ。この国に来たときのことを。そう、一週間近く前のことを。
 デルタ航空のエコノミークラス。清廉な白色で統一された機内は淀んでいた。手錠をかけたままでおこなわれるハザワの楽しげな食事。チキンプレートに垂らされた大蒜ソースの刺激的でむかつきを呼ぶ臭気。機内放送の映画チャンネルに拡張識を合わせた満足げな顔。世界に裏切られた気分だった。眩暈と頭痛が去来する。日本大使館から国務省――さらにニューヨーク市警――縦方向の指示。雨が地を叩くように当然の流れで、お偉いさんの垂れたクソはおれたちの頭に降る。眩暈。税金で容疑者を日本に送り返して、謹んで海向こうの同業者に引き渡すなんて誰が想像した。頭痛。莫迦げてる。
 デルタ機内の景色と混同して反復されるのは、小ぎれいな市庁舎を前にした滑稽きわまる立方体――市警本部庁舎(ワンポリスプラザ)での出来事。ハドスン警視を前にして大いに舌打ちを繰りだした。詰め寄った。返ってきたのは温和な警視らしい洗練された顰め面。効果はなかった。落ち着け(ステイクール)、ドム。そう言われるのみ。おれは大いに落ち着き、大脳新皮質全域が大いに冷静だった。ドミニク・ヴァシュク、きみには送還の任に当たってもらう、日本でゆっくりしてこいよ。
 頭にくる言葉の反復。落ち着け(ステイクール)、ドム、送還の任、日本でゆっくりしてこいよ。
 趣深い機内食の数々。豆腐ステーキ。米。ヘルシー指向様々、食い足りない。
 気軽なハザワの態度。長い旅のすえ、祖国への帰途に着いたような軽薄さ。
 諸々が重なって、おれの機嫌は最底辺まで落ちこんだ。つきあわされて困り通しのハスコックは眠っていた。腹立ちまぎれに丸みを帯びた窓から夜景を睥睨――できるのはそれだけ――東京に至るランドスケープときたらまるでガラス細工。
 異様に巨大な、逆立ちした注射器がぐいと針を伸ばし、街を見下ろしていた。奥行きの概念が狂いそうな大きさ、キロ単位の奇妙にくびれたスタイルに焦点(ピント)が合った――拡張識の都市解析アドオンがスカイツリーと注釈付与。それからもう一つ、夜にひらいた傷口のような鉄塔。観光向けのニュースクリップでも見たことがある東京タワーだ。親子ほども背丈が違うアンテナたちには、あっという間に厖大なデータが噛みつき、しまいには全様を覆ってデジタル構造物に書き換えた。空を目指すそうした電波塔のふもと――誇大妄想めかした高低差。散らばるのは暗色のレゴブロックを敷きつめたような地形。ビルたちの頭にまとわりつく自然色――凝視していると案内データをピックアップした拡張識が、環境保全のために植えつけられた木々や蔦をもっておれの知らぬ世界を語った。空挺作戦で見たシカゴの夜景につながりかけるが、間もなく否定となった。あれほどていねいに成型された都市じゃない。もっと、雑然としていた。電子回路のようなシカゴと異なり、電球フィラメントを思わせる高速道路(ハイウェイ)のオレンジや、明度の低い白が映えていた。方々へ広がる道筋の輝きは曲がりくねり、漠然と知る概念である漢字キャラクターのトメ、ハネ、ハライの概念と結束した。
 その奥行きを満たす、あまりにも分厚く、立体的な遠景――層状モジュール(ストラタモッド)よる数百階層を有したアーコロジー都市が、円環として完結した比類なき大構造を、千 葉 市(チバ・シティ)に向かって形成していた。数えきれない、なだらかな段。家も、店も、道路も、巨きな階段のなかで複雑に噛みあった、立体的拡張の街。ネピリムが踏む階段のような。菊竹モデリングとの注釈――なにかと思えば土地情報だ。蜂の巣めかした家々の画像がポップアップ。
 これが東京。
 生があふれる有機的なひらめき。機体の旋回。バンク角がつくとともに光が渦を巻いていった。千万都市が輝きの集積体となり、降下していく機体を迎えた。
 そしておれは後悔を強いられる。着陸から二十分以内。
 思いだせ。ほぼすべての客が去った機内に訪れたのはコート姿の男たちだった。剣呑な面差しに、傷持ちの顔や斜視、義眼の三人組。それを率いるポニーテールの女が会釈した。フラッシュバックと絡まっていく記憶――この国じゃ神の使いだという狐に似た細い顔。壁面に塗布されたエフェクタが錦鯉を映していた。機外からやってきた連中を迎えようと、そばにつきしたがって尾を翻す。波紋。意味のないエキゾチズム。あのときのおれは言語変換アドオンを立ちあげてから、ハザワの襟首を掴んで立たせた。
「警視庁の引き渡し要員か」
 おれは訊いた。うなずいた女は頬をゆるめながら、
「奈川奈子です。あなたがアメリカさんの……」
「ドミニク・ヴァシュクだ。握手は省略しても」
「構いませんとも。こちらにサインを頂いてよろしいですか」
 掌の代わりに差しだされたのは、気難しげな漢字の曼荼羅で織り成される書類だった。おれの領分じゃもうあまり見かけない部類の道具。ハザワと手錠の鍵を斜視の男に押しつけペンをとった。逐一翻訳される文字列から意味を探る。常用だけでも二千種――それ以外を含めると五万にも及ぶ、この複雑なラインで構成されたオリエンタリズムの塊を、ツールなしで読みとるのは不可能に近い。名前欄の記述――羽澤統護。名前に意味が付属していった。おれは読むうちに気づく。なにかがおかしい、と。
 視野が顔から外れて俯瞰になっていくような眩暈がしていた。
 必ずしもそうとはいえないが、このたぐいの書類には一定の生真面目なパターンがまとわりつくもんだ。装飾と文節の組み方。それは巧みな二重語法であり、婉曲化した強迫だったりする。あのときのおれは、テキストにはそれが欠けているのを嗅ぎつけた。作りが薄いのだ。海兵時代にも感じた第六感の刺激。南軍の連中が偽造した書類と似通っていた。
 おれはふとペン先をとめ、
「なあ、あんたら、ほんとに警視庁の人間なのか。まともな面構えじゃない」
「なんですって……」
「そういぶかしがらないでくれ。単にちょっと気になっただけだ。この国じゃ、そうだな」
 辞書ソフトを引いて視界のすみに飛ばし、
「海千山千っていうのか。うちの同僚とは印象が違ってな」
 おれは親指で怪訝そうな顔のハスコックを指し、笑った。疑いにならぬよう、冗談でも言うように。再度落としたペン先をじっくりと這わせる。時間稼ぎ。
「あはん。そういうこと、よく言われるんです」
「おれもだ。経歴がろくでもないと顔にでるのかね。軍属か……」
「おおむねそんなところ。もっと言うと秘密警察とか、かな」
 嫌な冗談だ――笑いかけたとたん、前触れもなしに衝撃がきた。
 だしぬけに鳩尾をえぐる突きに呼吸を奪われた。スーツの上等な仕立て、それどころか防護質の腹膜まで貫かれる感触があった。電撃的速度。白々とした内装が魚眼レンズを通したようにたわんだ。相棒のハスコックが視界のすみで崩れ落ちた。額をえぐる銃創と驚愕。おれをえぐったのは刃物による刺突だろう。よろめきながら二歩、三歩と通路にたたらを踏む。見えたのは、わずかに湾曲した、血が滴る段付きブレードだった。細い指先から伸びたスマートな三インチ。奈川は無慈悲な笑いで見下ろしていた。羽澤は懲り懲りとでも言うように、錠前がとかれた手を振るいながら、廊下を去っていった。
「ごめんなさい、あたし、まどろっこしいのと詮索は嫌いなんです」
 殺しを冗談めかす声色。奈川は後ろ手を組んで踵を返した。それが羽田のコンクリート平野で記憶野に刻んだ、最後の景色だった。

 フラッシュバック――苦痛――星、星、星。星々を見た。
 地上に広がる幾万の星々の閃きが、一斉に発狂を決めこんだような痛みが昏い視野を薙いだ。空挺降下につきものの風圧が四肢をはり飛ばした。姿勢を変えると抵抗が減衰した。シカゴの夜景。無限定のきらめき。美しさ。ゴーグルとニコン(ナイコン)義眼の光量補正で際立つ景色が、眼底に星座を焼いた。最尖端(エッジ)。この最尖端(エッジ)を叩き、鈍らせるハンマーとして空挺投下された。不意にやってくる地対空飛翔体――尻から内臓を吐きだすような航跡煙。目視から数秒後、拡張識戦術リンクからオスプレイ二機の支援表示がうせた。一瞬。二瞬。耳を聾する轟音とともにローターの破片が周辺視野を通り過ぎていった。振り下ろされた処刑剣さながらのローターブレード。巻きこまれた仲間が切断され夜の藻屑となった。永遠とも思えるほどの降下のなかでパラシュートを展張――降下速度が急激に落ちた。頭痛がしていた。
 遠く、オスプレイの機体が火の玉となって紛争のスピンドルに降り注いでいた。
 焼けつくほど鮮やかに、焼けつくほど鮮やかに、焼けつくほど鮮やかに。
 まるで清めを知らぬまま煉獄へ向けて墜ちていく魂だった。
 焼けつくほど鮮やかに、焼けつくほど鮮やかに。
 シカゴの夜景。都市の連続体。
 焼けつくほど鮮やかに。
 現世と思えぬ景色。
 夜を切り裂いて近づく影の群れ。射撃支援アドオンが掴みとる、マンタとコンドルを合成した輪郭。反射的に、華奢なカービンを身に引き寄せた。影の正体は軍用剃刀で人体を切断できるゲノムマシン――空中白兵スライダ――ジェットエンジンの囀り。嘲るように角度と軌道を変えながら迫る空挺殺しのシルエットに誘われ、拍動が増して背が震えた。一度のはためき。翼に刃が展開。輝き。しっかり銃床を肩に押し当てた。軌道を変える夜間適応迷彩の黒に照準して撃ちまくった。フルオートを指で細かく刻んだ二点射。中枢を狙撃。翼を貫徹。銃口炎(フラッシュ)にあわせて尖った痛みが指の節を打ち四肢へ伝導。視野の明滅。
 クリーチャが人工筋肉の制御を失い、爆音を立てて頭上を通過し、たかだか五十メートルの距離で自爆した。火炎が夜景にほどけて断片が夜空を乱舞。仲間たちがカービンで的確に、ときに大口径拳銃で撃墜していた。輝きの底はまだ遠い。
 あのとき、おれは気づいた。すべて遠のいた夜のことだ、と。
 技術競争が華やかなりしグロテスクな二十年代の夜(ナイト・オブ・ザ・ゴールデンエイジ・オブ・グロテスク)
 思いだせ。喪われたソフィの笑みと、きみはあんまり怒らなくなったね、という声。最後の憤怒。殺す寸前までの暴力。思いだす。アパートのドアの隙間から、水平二連散弾銃を突きだし喚く虐待者。尻から血を流し、倒れ伏した子供。嗚咽。センサで強化された嗅覚が床でもつれた毛布から汗と精液と血と憎悪を嗅ぎとった。ドアを蹴破り、銃身を掴み、引き寄せる――顔面――殴打、殴打、殴打。顔がジャムを塗りたくったように血みどろ。拳を振り下ろすべき的を知った夜。おれはクソったれの近親相姦野郎を殴った。頬骨を沈めた。吐き気をこらえて子供を抱えあげた。警察に渡した。翻る未来の裾を掴んだ感触があった。輝く夜。
 あのとき、おれは気づいた。すべてが遠のいているのだ、と。
 都市の輝きが拡散し、収束し、一個の銀河となって死に絶え、生まれた。

 柔らかな午後の陽。目醒めと喉のかわき。病院――個室――窓の外から聞こえるこどもの声がしずけさをふちどっていた。広告データもなにも、邪魔な拡張識の層が、すべて遮断され、まっさらな壁と天井。清潔なマットの太陽のような香りが喉を圧迫――想起するのはソフィの横顔。首筋に感じるあたたかいかおり。記憶と係わりあう嗅覚。膚に散った境の曖昧な斑、根拠のない自信に満ちた笑顔、白銀をまぶしたような髪の毛が神経をかすめていった。頬をこする膚触り薄らぎ、やがて、味気ない天井に消えた。おれの手のなかにないもの。
 識閾モニタが昏睡状態からの覚醒を通知――男女ワンセットの看護師がおれをとりまき検査の嵐。あっという間に始まり、瞬く間に終わった。知らされるのは二日間眠り通しだったということ。真面目腐った顔の老医者が訪れ、怖ろしく正しい構文の英語で呟いた。
「腹の傷口から神経毒が検出されたんです、ヴァシュクさん。それも、ただの毒物ではない」
 老医師はそう言い、えらく勿体つけるように咳払いをした。
「あなたのなかにコロニーを張る医療ナノマシン(メディ・デッキ)は抗毒化合体だ。まったく都合がよいことにそれが即座に血清を作成していた。搬送時にはあらかた分解されていたし、解毒処置がなければ命を落としていたはずだ。すばらしいものをお持ちですよ。あなたが生存できる可 能 性(ポテンシャル)を、最大にしたんですから。しかし、後遺症も多少はある。四肢に痛みが残ってるでしょう」
 節々には鮮やかな痛み。夢のなかの痛みが現実とむすぶ。光輝に似た苦痛。銃口炎(フラッシュ)に合わせた劇痛。おれはうなずいた。理解とともに、羽澤を連れ去った女の顔がちらつく。
 奈川は無慈悲な笑いを浮かべた。
 後悔。時を巻き戻せればとの念慮。どうすればいいか理解しつつも二の足を踏んだ。この国の同輩に協力を得られるだろうか。不可能だろう。おれは異物でしかない。
 細い指先から伸びたスマートな三インチ。
 おれは簡単な仕事をしくじった部外者――交渉ごとが得意な相棒も病院の遺体安置所に保管されたという。ハスコックにはことさら情が湧かなかった。つきあいはたかだか三週間。
 わずかに湾曲した、血が滴る段付きブレードだった。
 大事の当事者であるおれはそう自由に動けないだろう――内務庁の巨人が面を見せたのは、策を考えうずく額をさすっているさなかだった。
「やぁ、きみがドミニク・ヴァシュク……だよね……」
 戸を開け、落ち着いた声音で編んだ英語で呼びかけるのは、親しげに手をあげる白熊だった。身長およそ二メートルの大型哺乳類。眠たげな顔と丸々とした耳。濃紺にマーガレットのパターンが散る涼しげなアロハシャツ。絶滅危惧種指定された毛玉が東京のどまんなかに生息し、人語を解するものとは思いもしなかった。
「驚くこともないでしょ。面会の予定、聞いてなかった」
 白熊はそう言い、窮屈そうに頭を下げて戸をくぐった。おれは脳神経を意識でぐいと引っ張ってからうなずいた。どこかしらの捜査官が面会したがっている――醒めたばかりで朦朧したままのおれへの呼びかけを想起し、呆れた。白熊とは聞いてない。意識から独立した手は、検査後に買ってから握ったままの三角形(テトラ)パック牛乳をさすった。
「あんたがモノノベか」
 問いかけに応じて腕がずいと伸びた。無造作な握手――黒い肉球はふにふにとしていた。
「はい、モノノベ・ナツオです。漢字の綴りはね、こういうの」
 白熊は人差し指を伸ばした。拡張識が応じ、黒い艶をはらんだチタン爪の先に文字パネルが浮遊。言語アドオンが自動認識――四文字に物 部 夏 青(モノノベ・ナツオ)、と意味を宿らせた。内務庁犯罪環境考査課第9室室長。文字パネルに触れて照会を通せば、政府が業務委託する情報管理会社から保証コードが返ってきた。すくなくとも体制側の人間ではあるらしい。霊長類以外に司法と治安を任せるのか。おれは後頭部にへばりついた胡乱な疑問を、海馬に隠した。
「羽田での件は残念だったね。連れのかた、ご愁傷様」
「猛獣のわりには礼儀正しいんだな。日本語でいい、アドオンを通してるからな」
「じゃあお言葉に甘えて。それと、白熊なのはガワだけだよ。きみが連行してくれた男と昔、やりあったせいでね、サイバネティクスに身を委ねざるを得なかったんだ」
なんてこった(ホーリー・クラップ)、奇遇だな」
 われながらひどい棒読みだった。内務庁の使者は一拍と間をおかず、
「でしょでしょ。でね、早速だけど今日来たのは、きみに捜査を手伝ってほしいからなんだ」
 理解するのには時間がかかった。なんで仕事を手伝わなきゃならない……素性にしか耳を傾けてないのに。黙して睨んだ。腹でそろえる指はディズニーデザインめいて礼儀正しく、マスコットらしいが、細まる目許ときたら否定をよしとしてなかった。目的はなんだ。おれは言い、一枚紙から形成された四面体の天辺をつまんだ。パックに充填された牛乳が吹きこぼれぬよう、そっとストローを挿してから、巨体を見上げた。
「きみがヒントの一部になってるんだ。それ、ピューピルウェアでしょ」
 物部は爪をにょきりと伸ばした人差し指で、一直線におれの眼球を指した。それから答えも聞かぬままおてあげのポーズへと身振りを変え、
「それというのも、残念ながら空港とデルタ機内のメモリったら、羽澤を連れ去った誰かさんに制圧されてたんだ。証拠は残ってない。きみが記録していただろうメモリ以外には、ね」
「どうしてウェアだと」
「虹彩の型番からね――カルテを見せてもらったの。軍用でしょ。ぼくの身体も同系統」
 下瞼を押しさげると微細な型式番号表示(パット・ナンバー)と青いバーコードが露呈。その間に物部は微笑。口許をふちどる黒が笑みと認知させるだけかもしれないし、事実、笑ってたのかもしれない。
「単刀直入に聞こう。きみは非常時の視覚情報を保存しておくタイプかい」
「わかってて聞いてるんだろう」
「お察しの通り。ストレージとか使ってたの……」
「モブだ」
 おれはベッドを降りた。踝に浅い痛み。洗浄済みのスーツや荷物が収められた棚からポリマーケーシングをとった。直径二・五センチのマット加工外装を、ぐっと握った。おれは尋ねた。始末しに寄ってきた人間じゃかなわない、せめて信用させてくれ、と。
「たしかに気にはなるよね。でも、それはもうちょっと待って」
 物部はふわふわした指先を口許に当て、
「始末屋が聞き耳を立ててたら大変だよ」
 おれはため息をつき、肩をすくめた。刺すような痛みが肩から首筋を駈けた。牛乳を口に含めば加糖の強い甘みが喉の奥をなでていった。
「有無を言わせないんだな」
「言わなくても、きっときみはついてくるんじゃないかな」
 ごもっとも。おれは笑った。おれに選ぶ手段はなかった――JFK空港へ踵を帰すなどもってのほかだ。二日間打ちっぱなしの点滴が相当量のカロリーと栄養素を投与したおかげで、体内のナノマシンはすさまじい速度で傷口を塞いでいた。それでも神経毒による執拗な傷みは残っていたが、動くのに支障はない程度。医者いわく、二日程度のつきあいになるくらい。
「さっそく外にでようか」
「無茶を言うな」
「熊だからね、人間ほど気をつかわないよ」
 皮肉っぽく言い、勝手に棚から荷物類をとって放った。血に濡れた仕立て良きスーツは始末され、残っていたのは煤がしがみつく軍用コート。それからトランクにはいった着替えの白シャツと黒のスラックス。そいつに袖を通し、医者を押しのけての強行退院。医療産業らしく嫌そうな顔。おれはクレジットを押しつけた――差し引かれた治療費――額はそう大きくない。業務上の保険システム適用。為替換算調整勘定。カロリー投下、診察、病室の代金。
 痛みを引きずったまま病院の廊下を歩いた。つきそいに好奇の視線が集まるのは当然だろうが無視した。電話をさせてくれ、と唸れば物部の大きな手が公衆電話を指さした。熾天使めかした後光をもらす自販機の横にすわる蚕豆色。受話器を取り、拡張識の決済メニューから国際通話でクレジット認証――暗号コードをリンク。登録済みショートカットをノック。
 眩暈。どこへつながるのか憶えが曖昧だった。コール音が鳴っていた。
 眩暈がしていた。選びきれぬ言葉や話すべきことを前にしたような眩暈だ。
 おれは目をとじた――何度も感じてきた眩暈だ――そしてほどなく、途切れた。

 病院の駐車場に居座っていたのは、白熊の体型にあわせて改造された、装甲車同然の重々しいハマーだった。巨体とは裏腹にこまやかな脚つきで首都高にでた。
 共有状態にしてあるナビが視野に浮かせる指示標。道路に這いつくばってリアルタイムに変化していく誘導ライン。おれが腰掛けた、狭苦しい助手席のガラスに宿る、青い文字列――足立新田。見知らぬ地名。防弾ガラス表層では、つややかな広告レイヤーが住友シュミットの提供であることを誇示していた。薄幕の奥に目をこらせば、この国の象徴、富士山が現れた。ほんのわずかな時間。フラッシュのように。それらしさを欠いたさりげなさ――見飽きた街を見る味気なさと同等だった。とても実物と思えず、高速道の壁となるようにあふれては遮る車両向け広告レイヤーが拍車をかけた。マンハッタンとは比較にならない厚み。ニーズあるところに進化を遂げた暴走気味のテクノロジーの壁紙だ。レーンが変わると、コーヒー飲料のかぐわしさ、整形外科の美的想像力が富士山を塗りつぶした。
 ハマーが急加速。目前でウィンカーすら出さず、荒っぽくレーンを変えた紅のプジョーを、すれすれで追い越した――軽快なハンドリング――ひるみがちなクラクション。
「そうだ、どこまで話したっけ」
 こともなげに問いかける横顔は、やはり笑っているように見えた。
「捜査を手伝えってのと、おれのメモリが頼りって話の二つだ」
「そうそう。聞きたいこと、ある……」
「ふんわりした言い方されても困るぜ」
「ぼくはね、わりと正直者だよ」
「正直者なら自分から説明してくれるもんじゃないのか」
「言葉多きは偽りも多い、そういうものだと思うけれど。ぺらぺらと秘密の香りをさせても、大概の人はむしろ疑いをもつと思うけれどね」
 ごもっともだ。否定の余地がない発言に、おれは眉をあげ、
「ご高説どうも。じゃあまず、どうやって病院から連れだしたか教えてくれよ」
 ジャブを軽く放つのと似た問い。おれは知っていた。あの病棟が警視庁の有するセキュア空間だ、ということを。おれは証人として見張られていたし、みすみす他の機関に引き渡す道理もなかった。強権発動、と物部は言った。横から奪ったも同然だ。
「うちは小さい部署だけど、この件にとても強い捜査権を持っているんだ。警察をしりぞけるくらいにはね。あっちに任せてはかどる仕事はたかが知れてる」
 白熊は言った。ほかと違ってさ、内務庁はいろいろと追いかけるための手段を持っているんだよ、と。統合銃器管理ネット。監視カメラとセンサによる追跡。顔紋チェック。警察機関が有効活用しない資料軸への介入。そのほか草の根単位の情報収集。山ほどだ。
 それからおれはいくつかのことを聞きだした。たとえば、羽澤は元々、拡張識研究に携わる人間だったということを。脳を端末化している拡張識リンクナノマシン群(エンラージャ・デッキ)に訴えかけるデータを市井に満たすことで、犯罪抑止力を提示する――環境管理型抑止システム、なんていう大それたものを構築するため、内務庁に招聘された。待遇は情境司法技官。なんというか、そう、羽澤統護はぼくの元部下だったんだよ、と物部は気まずげに言った。物部のもとについて犯罪抑止システムを作ったはいいが、その間に何があったのか、今度は特定機脳倫理法への抵触行為をやらかした。これをもって部内で対立。逮捕令状を掲げた物部や同僚を、頭蓋へのハッキングで焼いたのち、東京のトラフィックからこぼれ、行方を晦まし、アメリカに浮上した。
「ネオン菊の人形師として、もう一度姿を現した」
「おれは奴が人形劇をやらかすついでに家族を喪った」
 間接的暗殺という形での交わり。妻の、ソフィの。頭痛。娘の。頭痛。傷。赤。はらわたが凍りついた。頭痛。冷徹が感情を覆った。頭痛。
 物部は、なにか戸惑うようにおれをしばらく見つめてから、
「ある程度は、うん、ある程度は知ってるよ。調べさせてもらったから。いかなる抵抗が飛んできても容疑者を殺したことがない辣腕家ってのも知ってる。すんごく優しい男(スウィート)ドミニクって調査書類にあったよ」
 おれはわれ知らずと唸り声をあげていた――かつての相棒がつけたあだ名だった。
「やめてくれ。そのあだ名、嫌いなんだ。おれの面にあわないだろ」
「それはどうかな。で、なんだっけ」
 羽澤の目的を問うと、面白みのある人形遊びをしたがってるだけさ、と答えがあった。まるきりフラットな声――なんと言ったらいいやら、答えが見つからない。沈黙とエンジン音を乗せたハマーは、隅田川に沿って伸びる高速道をおりた。中洲に結節した橋を渡って至るのは、小ぢんまりした住宅やマンションが密集した景観。貼られた治安係数が高く、それを表現するように温かな色彩が家並みを包んでいた。閑静な路地。軒を押しこめた縦長の一軒家。
 眩暈。人生から剥離したわが家を想起――白い眩暈。焼け爛れた外膜が剥がれ、すぐにもとの家なみが戻ってきた。眩暈が冷たく脈打った。まったくもってひどい幻覚。
「ここ、セーフハウスなんだ」
 扉をくぐると広い背中越しに言い、階段を昇っていった。
 おれは靴を脱いで揃えてから――ネットで学んだ最低限のマナーだ――あとを追った。住宅事情のせいかやけに急な階段。三階。青いソファーを除いて調度品もなく、殺風景な十メートル×六メートル。住空間として成立させる必要がないからこその空っぽ。中央に放りだされたラップトップの前に腰を落とす物部は、ケーブルを手にうっそりと、
「モブ、貸してもらえるかな」
 小さな円形を投げ渡して数分、いともたやすく出来事がリンクされていった。こいつも羽澤とつながっているのではないかと疑ういとまもない速度。
 奈川奈子とその他。奴らは羽澤の元部下であり、きわどい仕事を担ってきた男女だった。たわごとに従い9室を抜けた男女だった。おれの過去視を画像(ピク)として抽出――おれを殺そうとした悪党、奈川奈子――本名、水瀬誘。ミナセ・イザナ、イザナ、イザナ。こうした追跡に誘った女。水瀬が率いるのは内務庁でマーク済みのグループ。旧軍時代にミキシングされた、存在を許されない神経毒を濫用する無法者。金をとれるほど業を澄ました職業的戦闘集団(マーセナリーズ)。犯罪者を潰すための、犯罪者ぎりぎりの悪意。おれは海千山千と言ったが、まさにその通り――辞書の検索ログから語源へ――山海でそれぞれ千年ずつ経た蛇は竜となる。怪物め。
 公的記録に残っている、化物どもの最後の足痕は、羽澤を奪うに至る前日だった。そこで姿を跡形もなく消した。最初からそこにはいなかった。順調な雲隠れ。
 しかし、おれに巣食う戦闘補助医療ナノマシン(メディ・パーシテンス・デッキ)までは想定していなかった。海兵隊の餞別。最高の軍用サイボーグと保証されていた頃の名残がおれを守った。空港のネットインフラに侵入し、機内のカメラも押さえる。高度電子戦で捜査の糸を断ち切るはずが、おれ一人を殺し損なっただけで結び目はほどけた。間抜けな話だ。
 なるほどね、やることははっきりしたわけだよ、と物部はフラットに言った。あとはしつこく追いすがって、一撃を食らわせてやるだけだ、と。物部は限りなく単純化していた。捜査といいながら情報を照会するだけなのを否定しないアクティビティ。
「きみも、このまま帰る気はないでしょ」
「当たり前だ。責任をもって法の裁きをうけてもらわなきゃな」
 白熊のうなずき――重く、誓うように。おれのうなずき――ソフィへ誓い直すように。

 拡張識とネットをつないでやりとりが繰り広げられた二日間。セーフハウスにこもりきりの二日間。おれはハドスンに連絡をとった。物部は内務庁のデータベースをひっくり返した。角度を変えた。検索。照合。走査。ヤクザから盗んできたデータを混ぜ返した。羽澤へとつづく追跡パターンを作成した。ひたすらな監視と追跡だった。
 奈川奈子の勢力を拾いあげる。特殊オペレータ崩れたちの動きを、都内に捉えた。
 関連口座の動きを拾いあげる。内務庁のマッピング領域で数値の変動を追った。
 行動追跡性抽出を拾いあげる。特定ID検査による認証と反応を監視、参照。
 黒社会での噂話を拾いあげる。裏で拡散する、誰かがなにかをしている噂。
 同業者たちの姿を拾いあげる。物部は同僚すらも出し抜いて動いていた。
 すべてがつなぎ合わさったとき、おれたちは食事に出ていた。
 出かけるきっかけは引きこもってたら心によろしくないからね、という物部の緊張感もない物言いだった。同じ対象を狩る者同士、少しくらい親交を深めてもいいでしょう、と。
「ああ、まあな(ウェル)、ただ黙ってるのもな」
 おれは虚ろな毒気に水を差され、困惑と笑いの中間で眉を寄せた。
 最寄りの駅前。夜更けに暗がりを入り組ませる路地にぽっかりと口をあけた商店街の痕。下りた鎧戸の葬列。消費者金融の拡張識広告が添えるだらしない赤の献花。道筋は荒れずに整然として、手入れされた墓場に似ていた。青灰色を落とす蛍光灯のよどみを湯気が腫れさせ、頭上をとざす低い天蓋のアーチには結露が伝っていた。和食は嫌いじゃないよね、と白熊は背を曲げておれを見た。頭にあるのは趣深い機内食。阿呆なヘルシー食品じゃなけりゃなんでも、とだけ応じた。修辞なしの答え。通りがかる小さな空間――蕎 麦 屋(ソバ・スタンド)――カウンターと六脚のスツールによる素朴な安桟敷。おれたちは奥まった席に腰を据えた。
「味はご安心。品書き(メニュー)、これね。何にする……。ぼくは月見蕎麦かな。半熟で」
 こまっしゃくれた書体。多少、崩された漢字のなめらかさをツールが読解した。おすすめは、と問えば爪が序列の最初から三番めを指した。
「天蕎麦。お好みなら単品もいいじゃないかな」
「寿司、天麩羅、芸者の基本三点セットのひとつってわけだ」
「富士山を加えたら典型的だよね。山芋の天麩羅、おいしいよ。ねばねばしたものが大丈夫ならおすすめ」
「天蕎麦と山芋の天ぷらを二人前ずつだな」
 と品書き(メニュー)にかぶさって見える注文表を指の腹で叩き(タップ)、ウェブ決済。胃に訴える湯気の奥――手を伸ばせばすべて事足りる厨房に働き蜂のように小柄な老体が愛想良くうなずいた。あいよ、と目前のほかには届かぬ声。白熊も注文し、掌をふわりと合わせると満足げに、
「それだけ食べられるなら健康体だ」
 と何故か嬉しげに言い、
「ま、傷をふさぐにはカロリー補給が大事だもんね。というかね、あの毒を含まされてその調子でいられるの、結構すごいことだよ。見たところは不調もなさそうだし」
「飯時に死にかけたときのことを考えたかないな」
「変な話をして悪いね。熊は人間ほどじょうずには気を遣えないんだ」
 おれはなるほどな、の一言でいなした。
 間もなく物部に大柄な器が供され、器用な二本一揃いを蕎麦に箸をくぐらせた。思い出すかつての張りこみ――数口で飽きる中華料理の入った紙箱。今や遠い昔だ。出汁を絡めた麺をかきこんだ。歯触りのいい海老の天麩羅を噛みしだいた。さいわいにして啜ることへの忌避感はたいしてない。しばしの無言を切り取るように物部が顔を上げた。
「箸、使えるんだね」
「ガイジンが握ってるのは珍しいか……」
「エキゾチックだよ」
「おれからすると熊が持つのもだいぶだが」
「よく言われる。どうやって握ってるの、とかも」
 むべなるかな、物部の手先は工作機械よろしく器用だ。対比の狂った箸で蕎麦を寄せては口吻で啜った。夜空に見立てた出汁に浮かぶ半熟玉子(ハーフ・ボイルド)。箸先で突き割られ、麺とともに消えた。
「きみ、もとは兵隊なんだってね」
「書類にあったろ、海兵隊だ。向こうじゃ軍隊上がりで警察の職につくのはそう珍しかない。名誉除隊ならな。力の使いどころを明らかにしておきたい人間が山ほどいる」
「うちも似たようなもんなんだよ」
「ジエイタイか……」
「もうちょっとひどい奴。準軍事組織(パラミリタリ)
 情報機関を糖衣で包む表現――準軍事(パラミリ)――有り体に言えば権力に仕えるドブ浚い屋。
「考えてること、顔に出てる。考えを包み隠すような相手じゃないって思ってくれたらありがたいんだけどね。気持ちはよくわかる。内務庁の前、内務統合省にいたんだけど、そのころは現場に横槍を入れる仕事ばかりだったし、嫌な顔をたくさんされたもの。暴力をさばいて兵隊と差がない仕事をしてたけど申し訳なさはあったな」
「内務統合省ってことは都市ゲリラ狩りか。たしか内戦中の」
「うん、複雑な作戦にいくつも従事した」
 CNNヘッドライン――古い記憶の揺さぶりを差し出された縁がざらつく皿が遮り、おれは慌てて受け取った。D分遣隊(デルタフォース)が好む小型手榴弾(フラグ)さながらの丸っこい塊。箸先を入れて割った。淡い湯気。塩をつけて含めば、なめらかな欠片が舌の平面にしがみついた。悪くない熱。
「いろいろとむごいことをしたけど、それでもね、騒乱が終わって、省が解体された後には随分とまともになったんだよ。エレベーターに乗って、世の役に立つ仕事をもらって、今の立場にいるんだ。本当、わりとちゃんとね」
「すべきことを見つけた、か」
「うん、混乱期がやらなきゃいけないことを教えてくれた」
 かつて――過去を越えた今――力の価値あるあり方を示す仕事。おれも同じだ。屑を許しがたい人間だったのだから。人を殺すために拳を振いたくはなかったのだから。
「羽澤は健全な仕事をやりだしてからはじめて得た部下だったんだ」
「それはまた」
「悪い奴じゃなかったんだ。なのにひどくまずってね、うちの人員は、大部分が羽澤の策のもとでひどい死に方をすることになってしまった。とても目を当てられないような、ね。多くの人間から多くを奪っていったんだ。そういうわけで、ぼくの部下は、報復するつもりで動いてるみたいなんだ。ぼくもご覧のとおり生の体を喪ったし、脳の何割かを人工組織で補ってる。腹立たしさだってある。けど、とはいえ、復讐の是認はできないんだ。復讐者に羽澤を委ねるわけにはいかない。殺させちゃいけないんだよ」
 まだ熱いだろう出汁を干し、それはまったく意味がない、と白い口吻をもごつかせた。
「あれはあれで、一種の被害者だからね」
 物部の眼差しが抑揚なくおれを刺した。
 視神経から心へ割りこむように眼窩を見つめ、こちらの事情を話さないのは、フェアじゃないよね、と頭を振った。それから、口承文芸でも語るように拍子をとった。南北紛争後のことさ、と。それは羽澤を彩る経歴記号じゃない。物語だった。記憶だった。悪夢だった。
 すべてを押し殺した、あの終結宣言から三年。穏やかならざるアメリカ深東部でのことだよ、と物部はこぼした。技術適化群が最尖端(エッジ)を目指して通過した後のフィラデルフィア。第9室は治安情勢管理のため、国際協力と称してあの地へ派遣された。紛争の余波で悪化した治安の浄化。そのための環境管理データと街頭ナノペイントの試験エンベッド。データ採集と引き換えの協力だった。物部と羽澤は実験のため、国土安全保障省(DHS)の役人と技官が率いる護衛部隊と揃って降り立つはずだった。だが、市街で出迎えたのは残党の急襲だった。現地対応ユニットの屍。民間人の屍。対空攻撃による歓迎。予期せぬ横槍で第9室メンバーを乗せたヘリは墜落。生き残ったのは物部と羽澤、それから数人の検査オペレータだけだった。墜落から交戦までは五分とかからなかった。多勢に無勢だった。銃弾の雨あられ。携帯式ロケット弾の輝き。物部は突撃銃やミニガンで応戦した。検査部隊は手榴弾を投擲した。羽澤はハッキングで対応した――大脳をデッキとして電子の大空へと飛翔――それで、頭蓋に眠る悪夢を認知した。拡張識ネット経由の頭蓋侵入で鎮圧コードを流すさなか、オペレータたちの自我へ触れてしまったわけだ。
 生の感情を殺してしまう心圧モッド――自我を目的別にマスキングする技術。
 うつろなくせに鋭く澄まされた殺意――南軍が先へ進むため演出した攻撃性。
 二人は戦い、逃げつづけた。最寄りの支援部隊が到着するまでの能動的三十分間。救出された二人は現地の治安策定にくみせぬままに治療を受け、データだけを残し、日本に引き戻された。だが此岸に帰りついても羽澤には痛みが残ったままだったという。カウンセリングであらわになる単語――空虚――その後も羽澤につきまとう断片。うつろで芯がない濁流。よぶんな精神活動が拭われた、ゆえに単純で、能弁な殺意、と語ったそうだ。触れたことで現実認識が混濁していることも心理分析官に語った。正気ならば頭をひとふりするだけで蹴り出せる、そのはずの狂乱が、脳裏に、びっしりとこびりついたままだった。強烈なイマーゴ。カウンセリング結果が語るのは、羽澤が戦争の闇を、戦争の一端を美しいとすら認識していた、という事実。おれも等しくはないが似通った技術を携え、殺してきた闇――戦闘継続機能の闇。
 第9室に引き抜いたのはぼくだ。それは告解だった。
 派遣時にあれを連れだしたのはぼくだ。それは告解だった。
 あのときにハッキングを指示したのはぼくだ。それは告解だった。
 ぜんぶぼくだ。物部は言った。白熊の黒い目が鎖される。告解がとじる。
 思案し、悔恨しながら、語を継ごうとするため息。異常を知った物部は、羽澤に心理医療へかかるよう言い渡し、休暇を与えた。その間に、自我ハッキングの手管や多くの研究を進めることになるとも知らずに。羽澤は、自分が望む空虚へつながるための手がかりをつかんだ。機脳倫理法に触れる行為。それだけなら、どんなによかったことか、と物部は言った。
 おれは相槌しいしい、ただ蕎麦をすするだけ。
 憤怒の噴出で奮起に向けて感情を高めてもよかったはず――だが何も思わなかった。すべてを失うクソ溜め(ダンプ)の礎をこしらえた相手だ。物部はおれの空虚の根底にいた。
 なのに、おれは――理解できる――裁く者。意味のない結果を求めず、戦っている者。だから気も立てず、物部を真似て空の丼に箸を揃え、
「ひどい内輪もめの話だな」
「ウディ・アレンみたいにまとめないでくれるかな。いくらかいつまんだとはいえ」
 物部は気が抜けたのかうなだれた。口吻がふふ、と笑いをこぼした。そして、口下手でな、とおれが言ったとき、目標が網にかかったのだ。物部は顔を上げると声を低く押さえ、
「どうやら獲物に尻尾が見えたみたいだ」
 帰り道、共有状態で夜の帳に表示されたのは、武器取引の可能性を示すデータパネルだった。こっぴど事態のつながりを示していた。追いすがるべき相手を示していた。速やかなセーフハウスへの帰着。物部はクローゼットを開放――背がわななくほどに棘っぽい鉄の微香がした。保管されていたのは殺しの道具。圧力を秘めたフレームの数々。どれも樹脂と鉄で形成された銃だった。ラックにかけた拳銃や散弾銃、カービン銃が、光に濡れ、艶を放っていた。
 物部は床に伏せた、インドガビアルを思わせる分隊支援火器をとり、
「どうせ生やさしく歓迎してくれる人なんていないからね、用意はしておかなきゃ。きみもなにかしら持っていきなよ。丸腰じゃ気が乗らないでしょ」
「外からきた人間に銃なんぞ渡してもいいのか」
「まあ、IDなしの銃だからね。道端で拾ったも同然」
「むちゃくちゃだ」
 おれは呆れと感心半々で、顔の皮がよじれた笑いを隠さぬままラックを眺め、
「だが狐狩りをしに行くわけでもないだろう。分隊支援火器なんて大仰だ」
「そんなことないよ、大掛かりな装備は大事。率先して殺しはせずとも、備えは大事だとは思わない……。こちらが説明して理解させようとしてもね、あっちは直感的に、ぼくらの外見で勝手に理解してしまうんだから。ガンマンの理解にガンマンの精神性はいらないけど、撃ち返す銃はいるのさ。悲しいよね」
 物部は振り返り、オリーブドラブ色の箱型マガジンをとりつけた。安全性弱装弾(セーフ・ボール)。癖のある漢字の殴り書きを、翻訳アドオンが苦心して訳した。フィードカバーを跳ねあげ、露呈させた機関部――弾薬をつまんだ金属リンクを添えてカバーを閉鎖。あとは遊底を引くだけだった。
「うちはさ、やっぱりどう言いつくろっても本質部分のとこ、準軍事組織(パラミリタリ)のままだからね。こういう準備は怠らない」
 事情を知りつくした人間らしい軽々しさで笑った。
「なによりぼくがこんななりでしょ。相手もなにを持ってくるかわかったもんじゃない」
まあな(ウェル)、その図体じゃロケット弾を向けられたとしても文句は言えんかもだ」
「でしょでしょ」
 言いながらとりあげるのは原形を失ったM14バトルライフル。形をもった殺意。銃床が外され、銃身すらも大幅に詰められた極短の突撃銃だ。形をもった殺意。金属フレームは飾り気一つとなく、彩度の低い黒色のマット加工によって潰されていた。形をもった殺意。ヒトの腕では制御しえない、対サイボーグのバトルカービン。形をもった殺意。
 いくつもの武器を眺めていると、不意に目を引かれた。殺人課のオフィスに残してきたのと同じシグ。違いは二つ――浅く傷がついた(スカード)スライドと、銃身の先に切られた消音器用螺旋。誘われるようにグリップを握れば、神経がぴたりと満たされた。普通分解でスライドをフレームから分離し、艶っぽい銃身を滑らせ、しなやかなスプリングをとりさる。ひかれた油の匂いと滑らかな感触。作動性を保証するメカニズムを組み立てるうち、発砲の予感に指が、手が、腕が痺れた。銃と第六感が橋渡しされた。呪術医(シャマン)が薬物で彼岸へ渡るのも似て、霊感的な、大きな予感が這った。ありもしない銃口炎(フラッシュ)で視野に皹が走った。筋肉のこわばりが虚構の反動を伝達。節々に幻痛を投じた。マガジンをとり法務機関向けの九ミリボトルネックを沈めた。ゆっくり。それでいて速やかに。冷たい感情をこめるように。
 頭痛。フルロードを六つ、こしらえた。
 装填。鈍色の薬莢が覗いていた。薬室閉鎖。滑らかな感触。ひどい頭痛がしていた。
「それじゃ足りないんじゃない……」
 背後から覗きこむ巨体に、思わず背骨が浮きかけた。おれは振り返り、
「いつも拳銃ひとつでやってきたんだ。今更、重火器を持ったってむしろ腹が落ち着かんさ」
「そ。あ、これ飲む……」
 とがった爪が三角形(テトラ)パックを差しだした。
 おれは意外な気遣いに息を飲み、ありがたく、とだけ応じた。マガジンを装填。スライドを引いてからパックを受けとった。頭痛は失せ、甘みだけが胃にくだった。
「なあ、電話を借りたいんだが」
 おれは言った。かけなければならない。物部は自身の似姿であるかのような、小さな白熊のぬいぐるみを投げてきた。プロセッサ繊維と回線装置の塊。ケータイ防壁端末(ウォーリング・モブ)。受けとったそばから視界に舞っていたメニューが反応――ノード検出。おれは謝意を告げてから、メニューから国際通話を選択――暗号コードをリンク。登録済みショートカットをノック。
 眩暈。どこへつながるのか憶えが曖昧だった。コール音が鳴っていた。
 眩暈がしていた。唇がわななき、息つぎのしかたすらも忘れさせる眩暈だ。
 おれは目をとじた――何度も感じてきた眩暈だ――そしてほどなく、途切れた。

 目をひらく。
 現在への揺り戻しが、瞼の裏側で駈け廻っていたすべてを瓦解させていく。
 深夜三時のロードノイズ。エンジンの叫喚。夜にたたずむ高輝度放電灯の無気力、テールライトの朱とすれ違っていく。ハマーの車体――法定速度を破りながら目指すのは蒲田――たかだか二十数キロの距離。虚空を微速回転する樹状の蒼いビジョンが、地図表示で行き先を示した。G PS情報の数値。治安データ。距離計。数値が光の枝葉となって茂る。
 追跡パターンが、水瀬が接触しようとしている犯罪組織へと導く。目標はネオン菊の仔ら。坂詰会。水瀬が武器を調達すべく接触を図っているという連中。
 速度を落としたハマーが突入する景観――建築物が重りささえあう、壊しては作るという都市の代謝が遠い昔に停まった力場。路地の両脇には小ぢんまりした密室のつらなりが集合住宅をうごめかせる。クラスタのさらなる上位クラスタ。町という現象。数十メートル間隔に置かれた自販機や、見慣れたものよりカラフルなセブン・イレブンの看板が、生活圏らしさを凝縮した光で深夜を貫く。遠くの空を満たす、度を超して巨大な層状モジュール(ストラタモッド)と比べれば、矮小とすらいえた。小さな、名前もないような通りを越えて車幅ぎりぎりの裏道を進む。
 やがて目標地点の近く、狭い通りにバリケードめかして停車。物部は窮屈そうに降りた。ボンネットに大きな手をかざすと嚢胞めかしてじわりと字が浮かぶ――黄褐色のL2502。駐車禁止の取り締まりをしりぞけるナノレイヤー表示。特殊治安機関(スペックオフィス)の法的優越。
 物部が分隊支援火器をとりあげ、
「準備はできてる……」
 うなずきと一瞥で返答――足を徐々に速めた。
 商店街を名乗る看板を掲げた入口を別とすれば、商店と食堂の残骸は狭苦しく、老朽化しつくした路地のていをなしていた。湿った色合いの電灯が作る薄闇。どこかからオキアミボールフライ特有の、潮気と油分が際立つ、アミノ酸質の芳ばしい悪臭がした。おれはこの海産物由来のにおいが嫌いだった。不潔で、鼻についてとれない。重く垂れこめるにおいが、道のはしにかけられた側溝からのぼるゲオスミン由来の黴臭さで着飾っていた。甘ったるい酒の臭いもかすかに漂う。そのくせ住まう人間の気配は薄い。場末らしい異物感だった。
 生活臭で満たされた路地を生む建築物どもは高さこそ、どれも四階にも満たないが、密度だけは笑ってしまうほど高い。小柄な軒にあいた空白を漆喰のように埋める小屋。場違いな室外機。もとあった部屋すらこそぎ、違法建築の様相がバランスを書き換えていた。繰り返される変成で原型は失われ、各所に意味を失った過去の残り滓がへばりつく。二階壁面には足場も階段もないままとり残された無用の扉が、心細げに点在し、ときには手すりの朽ちた螺旋階段が、中途半端な高さで途切れていた。破損したヒトゲノムの様相。錆びついた無用階段。思考を埋める刑事としての心性が、それらは飛び石として立体的な道をなしていると気づかせた。いざというときの逃げ道というわけだ。多方向への狭い道は蟻の巣にも似ているが、必要に迫られた要塞化とは致命的に違う。気まぐれなパッチワーク。粗雑な道筋。広告がどこにも貼られていないのが唯一、まともだ。壁面に土地情報データパネルを呼び出してみればその理由も瞭然。坂詰会の関連企業が土地だけでなく空間資産まで買いきっていた。それも別段不思議ではない――ここに広告データが這いまわっていたら気が触れかねない。
 曲がりくねった道をゆくと、最奥から歓声の尾が届く――路地の最奥、それらしい形を残した事務所。架空の硝煙が鼻腔を焦がす。大きな歩幅で悠々と歩む物部が、肩からさげた分隊支援火器のボルトを引く。出入口につくと戸を一度、二度とノックした。重々しい扉に隙間ができ、戸惑い気味の誰何。覆いかぶさるように屈むとともに、物部は小声でなにかを問う。
 威圧的な、言語としての意味を超えた返答が、言い切られず、轟音で叩き潰された。聴覚にも訴えかける衝撃波。水瀬とは違う野蛮な速度。毛深い腕が打ちだす雷撃めいた掌底。扉、人体、騒がしさ――三つ揃って粉砕され床を滑っていく。沈黙する幾人もの組員。
「あらぁ、もう終わってたみたいだね。あの子らにごまかされたみたい」
「呑気に言ってくれるな」
 おれは額をさする。痛みが前頭葉に沈む。
なんだお前ら、どこのもんだ、なめてたら殺すぞ、お前ら(んだおめぇらぁどこのもんだぁらぁめとったらっぞおらぁおめぇらこらぁ)
 吠えたのは汚いテーブルでドミノ・ピザを囲う組員だ。もたつく口がクリスピー生地の粉を噴き、ひときわ大きな断片が転がり落ちる。翻訳パッチの働きがアクセント認識を均し、ニュアンスを削りだす。意味が不明瞭なほど圧迫力を増す言語の効力を削ぐ。共鳴する罵声。L字状に二階を這う通路にも、音を聞きつけた連中が集まっていた。にわかに蘇る騒がしさ。圧迫。露骨な物部の得物を目にすると、銃を引き抜く。レヴォルヴァ。自動拳銃。短機関銃。民間向け火力を超えた顔ぶれが首をもたげる。
 おれはシグ250を固く握る。安全装置を弾き、銃爪に指を添え、
「だいぶむくれてるみたいだぞ」
「だから言ったでしょ、武器はいるって」
 すらっとした分隊支援火器が、アロハを擦る。
「先に手をだしてちゃ世話ないぜ、物部=サン」
 きちんと名前を口にするのは二度めか。イントネーションが覚束ない。
 おたがいに発砲の準備はできていた。作戦なんて上等なものは用意してない。的をフォロー・アップするだけだ。特定脳モジュールから敵意の閾値を拾った支援アドオンが輪郭を補正。認識を平板化。直後、警告もなしに超高速のハレーションが爆ぜた。音響の檻で見当識をとじこめる弾幕。膝から下、または手先を得物もろともに千切り足を噛み砕く、器用すぎて人間味が欠けた銃撃。効果諸元――二人の組員、ソファ、三人の組員、テーブル、ドミノピザ、二人の組員、達磨、掛け軸――四秒以内に順繰りで粉砕される目標をピックアップ。水中花のような鮮血がフロアに咲き誇った。不正確な流れ弾を受け止めても白熊は動じない。血の一滴も流さない。ますます非人間的なサイボーグの優位性。それを周辺視野に見つつおれも応射。二階の三人を即座に仕留めた。露払いに充分。おれの口笛を合図に物部がしゃがんだ――唯一、戦術らしい動きの組み合わせ。背中を踏みつけ弾丸となりまっすぐ宙を突き抜ける。
 すれ違いに飛来した閃光手榴弾(フラッシュバン)――掴んで投げ返す。時間は限られている。
 手すりを頼りにして身を翻す。アフロがS&Wレヴォルヴァの太い銃身を差しむける。頭痛。ナノパターンで巨大な脳髄を投影した毛髪の塊が禍々しく赤みを含む。頭痛。反射的挙動でおれを捉える射線。頭痛。かわすと同時に発射ガスと銃口炎(フラッシュ)が吹き荒れた。頭痛。熱病めいた爆炎を義眼がカット。頭痛。存外に精確じゃないか。頭痛がする。ダイナモ感覚が躍る。
 プラスチック製の推進で心を跳ねさせた。床を蹴りつけ、飛びこみ、アフロの横っ面へと勢い任せの肘打ちを叩きこむ――おとがいをノック。肘に破砕性の衝撃があった。
 頭痛を外部へと転嫁する、頭痛を外部へと転嫁する、頭痛を外部へと転嫁する。
 苦痛を払って構える防禦姿勢をかいくぐり鳩尾、そして手首を打つ。
 頭痛を外部へと転嫁する、頭痛を外部へと転嫁する。
 守りを裂くとつづけざまに銃を叩き落とす。
 頭痛を外部へと転嫁する。
 着地から四秒以内。
 こちらの速度に追いついて防禦しようとしていた。ずぶの素人ではない証が感心させる。記憶から引きだす格闘スタイル――ともに南北を渡り歩いたジエイタイあがりの企業傭兵とそっくりだ。ブロックして隙を突こうとする。だが腕前が完璧とも言いがたい。二度、顔を打ってやればアフロヘアが石鹸の泡っぽく左右に揺れる。最後に額を突いて意識を刈る。盾とした直後、轟音と閃光が膨れあがり、鎮圧エフェクトが五人の目と三半規管を潰してくれた。おれはアフロの両肘を折ってから、残りにシグを振るう。発砲、発砲、発砲。一人につき一秒だ。対機械化目標ホローポイントをダブルタップで撃ちこみ、肩と鎖骨を砕く。効果覿面。むりに銃口を持ちあげる二人――すれ違いざま、花をつむようにそっと腕をへし折ってやる。音圧で耳の奥がきんとしたが支障はない。血だまりに沈んで泣き叫ぶ組員が既視感を呼んだ。
 階下では分隊支援火器を捨てた白熊が、図体にあわない素早さでバトルカービンを振るっていた。左から右、また左。火力過多のカービン――適切に組員たちの腕先を消し飛ばす。応射で飛ぶ散弾のコローンに見舞われても、腹の毛並みを震わせるだけだ。ひと通り処理した物部は空っぽのマガジンを交換。のそのそと階段をあがって、
「いやいや、手早いね」
「そっちもな。昔はツーマンセルで文句を言われたもんだがな」
「へたに合わせるより、うまいスタンドプレーを組み合わせるほうがいいよ」
 まったくだ。おれは、うめく坊主頭のそばから閃光手榴弾(フラッシュバン)を拾った。拡張識が型番を見つけ、グーグルへと検索を通す――軍用との結果提示。身の丈を知らない装備。
「それにしても気が短いったらない」
 おれは手榴弾を階下に放り捨て、
「マフィアでもこうはいかんぜ。銃を抱えてようと、少なくとも発砲するまではにこやかに応じるもんさ。治安タグデータ、頭に貼ってなかったのか……」
「貼ってたよ。でも文化が違うからね」
「職業レイヤーに対する排外主義」
「そんなとこ。立ち塞がるものは恫喝するのが通例さ」
「司法屋でもか」
「だからこそ、かも。堅気には本気を出さないけど、プロには手厳しい。しきたり、かな」
「厄介きわまりないな。これだから組織犯罪って奴は」
 おれは呆れつつ、物部とともに短い廊下を抜ける。組長室へと踏みこむ。水瀬たちは去ったあとの大部屋に隠れていた小曽根組長は、逃亡もままならず、マホガニー材の豪奢なデスクの裏で腰を抜かしていた。物部の巨体を見たが早いか、折りたたみ式のKBP暗殺銃を投げ捨てる。額を床に擦りつけるバッタ顔。赦しを乞う。脅されていた。しかたなかった。命だけは。言語から抑揚を削ってしまう翻訳アドオンを通すと、語彙の貧困さが際立った。嘆く口ぶりから、この中年男は子飼いだと推測した。物部はさえぎって訊いた。
「バグはちゃんと植えたままだよね」
 物部はあくまで朗らかだ。
 応答――ほとんど虚脱したまま頭が振られた。
「来たのはいつだい」
「半時間前です」
 脱力――不意打ち(アンブッシュ)を食らった人間独特の、おびえ気味のうつろさ。
「ほんとうに。ぼくの目を見て言えるの」
「間違いありません」
 ずい、と歩み寄った白熊が、小曽根の眉間を爪で突いた。悲鳴。バトルカービンの銃口を肩に押しつけるとさらに甲高くなる。即興の人間演奏術。一挙を目にして丸耳がぴくりと動く。
「ま、いいよ。偽証を立てていたら、後がひどいだけだから。さ、ヴァシュクさん、すぐにでも追いつけそうだよ。あっちがまだ気づいてなければ、ね」
 物部はデスクからとったラップトップにリンクをつなげると、拡張識の表示共有フレームに取り引きリストを表示した。軍用の突撃銃。爆発物。符丁化され詳細を隠した対拡張識電子兵装。どう見たって個人所有の度をこえたものばかりだった。はふぅ、という物部の嘆息――八つ当たりとばかりに小曽根の腿を蹴っ飛ばした――子どものような悲鳴。おれは思わず鼻先で笑った。わずかに首を傾げた物部が、
「面白げな顔をしてるの、はじめて見た気がするね」
「こういう荒事になるとどうにもな」
「はっはぁ、面食らった……」
 おれはまさかと鼻を鳴らし、顔の前にあげた人差し指をくいと曲げ、
「いんや、羽澤を引っ掛けにいくときもひと暴れしたからな。そう驚くことじゃない」
「やっぱり大暴れはつきものだね。優しくして立ち行くなんてのは遠い昔のこと」
 そんなのは当たり前とでもいうように顔の横で手を振り、
「市民が信用できた時代のことだもんね。いっそ命とり」
 おれは片眉を上げて、まあな(ウェル)、とだけ言った。

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