[きみ]と。前編 |
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蜜月。原語ではハニーにムーンと書いてハネムーンと読む。 幸多かれ不幸は少なしという響きで世に伝わるこの蜜月という表現は、糖蜜の甘ったるいとろみとともに、どうにも薄ら怪しいものがある。なんというかこう、長続きしない夢うつつと相場を決めてしまう傾向だ。ちょろっと舌先に触れさせたが最後、するりと喉の奥に消えてしまう甘味のイメージともいえるかもしれない。 いっときで過ぎ去る騒がしさのように。 蜜月という語の源は古代ヨーロッパにあるそうだ。かの時代に端正こめて作られた蜂蜜酒の有効期間、つまり精がついてる一个月をいうらしい。この周期とは存外すぐに過ぎていくものであろうから、短期間で終わってしまう日々という印象をとっても、あながち間違ってはいない。傍観していると肝を潰すようなベタついた親密さも、長すぎれば呆れとなり果ては嫌悪ともなりかねない。お前たちにロゴスを有する生物としての誇りはないのかと。まあ短いほうが世間体はよろしい。そうした親密なる結びつきは、一般的な用法である婚姻関係もそうだが、人間と怪異にも相当するものがあった。 妖怪と人間がそこらじゅうで肩を隣り合わせ、何食わぬ顔で同居していた時代。かつて蜜月とも呼べた時代があった。それは当然のこととして国に溶けこんでいた。 物事の始まりは、はるばる明治天皇が御代に発せられた勅令まで遡っていく。こういうと長い歴史のもとに雨滴が石を穿つようにじりじりとなされた大事業と勘違いしやすいが、なあに実寸たるや一世紀と数十年。遠からぬことであるし、大事業も無理に進んだ。 事の次第をかいつまめば、かの時代にまつろわぬ民を人頭に計数しようとの大胆に過ぎる計画が巻き起こり、怪異なる存在、妖怪を富国強兵の欠片にしてしまったのだ。丸きり人間離れした外見であっても計数に躊躇なし。以降しばしの間、民俗学的なフィールドを巻きこんだ、ややこしいあれこれで日本各地が沸いたそうな。最初は思いが一致した者たちから、じわりと里におりた。それから天狗は傲岸不遜な態度で列島を飛び、狐はときに人と結ばれ、狸など東京は多摩に偉大なる帝国を築くにいたった。 これを経て、墨を水に溶かすように近代日本は有象無象、大小様々なモノを受け入れた。小中高と通して地歴公民ではそう習った。 私がたまたま関係をなし、肩を並べたあの子。 まん丸瞳のあの子もまた、市井に組まれ、それとなく同じ町に暮らす妖怪だった。 高校入学より以前、中学生二年から三年。思春期まっしぐらの私というのは、高校進学のため勉学の徒らしい孤高を貫き、理系文系とを問わず、とにかく各種パラメーターをまんべんなく引き伸ばすことを生活の軸としていた。周りが色恋沙汰や娯楽にうつつを抜かしてアハハウフフと嬌声を上げるのも横目に、学生としては理想的な熱心さで身を焦がしてきたのだ。放任主義の母が苦笑するほどであった。そしていわば勉学との蜜月期間といえた。教師陣からは軒なみいい印象と評価をもらえたし内申点もそれなりに良かっただろう。あの頃の私は限りなく優等生という役回りにはまっていた。 それというのも十四の身の丈には荷が重い青い恋が、早計に失したことが元凶であった。絵に描いた餅。絵に描いた恋。浅はかで分不相応なことを望む十代前半の絵空事は、喉に詰まり、恋をくしゃりと丸まらせ、儚い終わりをたどった。その反動である。干上がった生活を満たそうと、勉学というガソリンをたっぷり注いで火までつけた。 私は静かに、盛大に心を大炎上させた。だがしかし、物事には往々にして臨界点、終着点というのが設定されている。 火とて永遠に灯っているわけではない。そんなもんは人間の観測範囲における太陽くらいのものである。自慢ではないが私は粛然としつつ繊細であるから、あのように豪熱を放ち続けることが叶わなかった。羽を生やして地元から飛び立ったまではよかったのだ。しかし、如月倉敷高等学校に入学した私の心はゆるやかな下降線を記述すべきでない白紙ページにまで延長し、ぐいぐいと書き殴りはじめた。いかにも理知的な生活の布石を鉄槌で叩いては、ときに膝かっくんで己を打ち崩していく生活を書きだしてしまった。 まあちょっと休んでしまおう。最初に企んだ心はじきに、サザエさんや洋画劇場を見ることで生じる倦怠感を平日の各曜日に埋めこんだ。えいやぁッ、と日常生活に膝かっくんをかました。間抜けな表現に甘んじて直截かつ精確な表現を許すのなら、重度の五月病を拗らせたというところである。 気が抜けるに任せ、芯のない生活に専念した。専念といっても、もっぱらはぎりぎりで留年しないよう、日にちをよく選んで計算し、欠席を重ねただけであるから不毛である。朝眠り暮れにむくりと起きてバイトに赴き、ときどき登校する。暦に書きつけていくこのリズムのおかげで我が生活は妖怪めいた、あるいはとてもモダンな、底辺様式の先端にあった。哀しいかな微塵も自慢とならない。 面倒くせえやいとの思慕によって布告したこの五月病延長戦は、狭隘とはまではいかぬまでも相応に危うい流れをたどり一年と数个月が経つ。そしていまになってつらい結末が現れていた。営みが不摂生となり、本格的に祟りだしたのだ。 洗面所の鏡を前に愕然とした。しばらくは美容室へ通うでもなく手前で整髪していたせいで髪型は収まり悪く、出来のよろしくないミディアムと果てていた。それだけなら茶飯事である。鏡面に照る我が仏頂面と久々にまじまじとご対面したところ、右頬に痛ましく赤い吹き出物が浮いていたのだ。さらに目許をくまが薄く縁取り不健康な面構えに見せる。いくら堕落した生活と心得ていてもだいぶ堪えた。それなりに整った面構えをしているとの自負で大きく構えていたものだから余計、目の前が暗くなった。 「何故そんなことに」 と思ったが、思っただけではなく口に出ていて悲しみが増した。何故にも何も道理ははっきりしているではないか。自堕落なのがいけない。 体格維持と勉学の優位性が数少ない救いであるが、笑ってもいられない。今の私は惰性で坂道をすっ転んでいく石ころでしかないのだ。現実逃避とばかりに装丁からして厳しいアーサー・マッケン作品集成へと逃げたが、文面を追えども頭にはいってこなかった。 「なけなしの知性もどこまでもつやらッ」 私は本を閉じるとともに、頭を抱えた。 ゆめゆめ忘れるなかれ。人の腐敗はイースト菌からこしらえたあのふかふかのパンに青カビを育むのと同じくらいたやすい。あゝと呻吟しても澱んだものが澄みはしない。清流を通さぬことには何事も澱んだままである。 怠惰も限界やも知れぬ。このそこはかとない不安にとどめの釘を刺したのは、母からのお小言電話という珍しい現象だった。どうやら新学期早々、実家に担任からの連絡がいったようだ。進級してからの新しい担任は教育熱心が過ぎて困る。 「先生に厄介をかけると後々で得をしないよ」 「そうだね」 「おうおうヒトゴトだな」 「否定はしますまい」 「親としては否定して欲しいんだけどねぇ」 そうは云われても、こうなったら他人事のように考えねば遣る瀬ないのだ。陽気に諭す母に適宜相槌を打ちながら、私はフローリングの床に俯せる。下着姿と冷房でクールビズを決めこんでいるおかげで接地面が痛いくらいに冷たい。通話はそれとない警告で終わり、あとは飯をちゃんと食えという一言で締めくくられた。母はいつでも不精をお見通しだ。 電話を切った私は大きく背伸びをしつつ、 「幾分しゃっきりせんとなぁ」 欠伸混じりにぼやいた。他人事として振る舞うぶんには完璧な声色だ。 とはいえ機嫌がヒネていたので、頁に指を挟んだハードカバーをふたたび開こうとも思えなかった。不貞寝すべく栞をさしてベッドに投げると、私もいっしょになって飛びこんだ。だが姿勢と落下位置が悪かったらしい。シーツでつるりと辷るとベッドのかたわらに積んだ文庫本たちを巻き添えにしながら、書籍流となって床に転がった。悪因には悪果が重なってしかるべきである。広がった書籍流は他に積んでいたメモ帳や、インクを切らしたペン、万年筆、書きかけの原稿用紙も巻きこみ、原初の混沌さながらの様相を呈す始末。水を浴びた紙が如きくしゃっとした脱力感があった。 連鎖反応に腹を立てて駄々っ子がごとき振る舞いをじたばたと演じたいところであるがそこまで大人気なくはない。ぼうっと、砂塵に建つ牙城たる六畳間の高天井を見上げた。凍結した床の感触。腹に乗っかった数冊の重み。水道の蛇口から水が滴る音。何もかもが一本筋の通った静寂に加担していた。外から見れば焼き菓子のようなこのアパートに相応しい静寂である。夏が終わってなお気が長く喚く蝉の鳴き声、はるか空を舞う旅客機の飛行音が、ふわふわと交わっては窓を抜けてきた。どことなく心地いい。気分任せにそばにあった地球儀を抱え、地平をぐるっと回転させた。 だがしかし、心地よさもてっぺんを越えてしまえば無為さが際立ってくる。 私は中央アジアを人差し指で射止め、盛大な舌打ちでもって気を奮わせた。 どうにか体を起こすと、読みさしも読了済みも問わず、本棚に開いた隙間に突っこんでいく。腹いせとばかりの勢いと駒鳥もかくやというせわしなさで空隙を埋めた。ひと区切りをつけると、満足感が私の爪先から下腹部までを満たしてくれていた。ある精神科医曰く「部屋の乱れは心の環境を照らし出しているのだ」というから、こうした片付けにもいくらかの意味はあるはずである。 獅子奮迅と洗面所に突入すると洗濯カゴから制服をとった。角度によってはだいぶイカガワシクとれる皺がついたスカートとポロシャツである。盛夏服と呼び習わされるこやつらの使用感は薄く、有用性を果たさぬことで生活の不毛さを評していた。 道具は長らく用途を果たせないと、あっという間に劣化して古式蒼然とするものだが、制服はまた別の時間軸にあるようだ。ポロシャツの精白な生地が「学生生活という楽譜にあるがままのテンポ良い生活を営みやがれ痴れ者め」と責め立てた。「乙女の柔肌を包むべきあたくしを何故こうも無碍にほったらかすのか」とスカートが憤怒していた。 そんなもん私の持ち物になったが最後、期待できんのぢゃボケい。私は憮然として壁掛け時計を見上げた。およそ六時過ぎ。 「この時間から洗ったら、さすがに間に合わなかろうて」 どうにか間に合わせるにはコインランドリーに頼る他ない。なおも喚く衣類を黙れや黙れと手早くメッセンジャーバッグに押しこめた。ぎうぎうぎうぎうと圧縮してバッグの底に敷いてやる。これで気が晴れるのだから私の器の大きさはかなりのものだ。 準備万端で外に躍り出ると愛用のクロスバイクにまたがり、ご近所を疾走した。 夕映えの空は、不気味なほどに深い橙で如月の町並みを照らしていた。 古くはこの時間帯を雀色時と呼び、また逢魔ヶ時とも呼んだのだよな。連想するとともに満ちる静けさで得心した。なるほど妖怪が現れ出て脅かそうとしてもおかしくはなく、誰何すれば顔のない何者かが振りむきそうだ。「おーい誰かー」と茶番めかした一声をあげたくなるが馬鹿らしいのでやめておいた。八方からやってくるのは、恋に身を焦がす蝉の鳴き声だけだ。人の営み。車の走る音。これらの雑多な音がなかった。車通りがない裏道を抜け、暗々する民家の間を縫っていくうち本当に怪談めかした気分になってきた。 今日はいやに人通りがないな。ぞっとして大通りにそれる。 暮れの赤みを吹きつけられたアスファルトは日差しから吸った熱をこもらせ、鉛筆を走らせたような鈍い黒から陽炎の揺らぎを生んでいた。 いよいよもって怪談めいてるではないか。怖いではないか。変な汗が背を舐めた。 一つ目小僧やのっぺら坊と出会ったらどうしよう。いや大昔ほど怖ろしさはないはずである。後者は人口に吸収された妖怪のなかでも、ことさら人と密接なのだから。 古く第二次世界大戦に多くの一つ目が参加していたことからも、それは明らかだ。聞くところによると、かの血筋は比類なき眼力を有しており、戦中にはサンパチシキとかいう狙撃銃をたずさえ活躍したそうだ。たしか母方の祖父がそう言っていた。もちろんただの伝聞だけではなく、事実として、ソ連赤軍を恐怖に陥れたシモ・ヘイヘなる北欧の狙撃手とともに江頭某という、単眼の狙撃手が記録に名を連ねているのだから真実味は深い。柳田國男翁曰く、一つ目とは山の神が零落した姿ともいうだけに、人ならざる者による八面六臂の大活躍のそばには霊的な加護もあったのかもしれない。 四方山話を聞かされていただけでなく、我が下宿がおかれているこの如月の地には数多くの妖怪がいた。今更、異物感を訴えるでもない。 そういえば母方の祖父は生前、「一つ目さんと河伯様には敵いやしねぇ」と呻吟していた。初恋で河伯、つまり河童に煙に巻かれ、インパールで一つ目に命を救われ、戦後には飲み屋街のろくろ首姐さんに二度めの恋をした。なにかと妖怪に縁深い人だ。まあ、結婚したのは人間である祖母なのだけれど。 祖父の血に連なる私もまた、幼い身空、一つ目に思慕を抱いていたという。 なんでも、ご近所のお姉さんに、恋情めいた感情表現をしながらついてまわっていたというのだ。中学生になって母に聞かされるまでは、それをすっかり忘れ去っていた。過去の委細を引き出せないのに我ながら感嘆した。お姉さんへの好意は漠然と想起できたが、声、姿形、瞳の色は記憶の抽斗に鍵がかかったままだ。綿に包まれたような昔の出来事。人は忘却とセットで新しい環境や思いを蓄積して生きていくというが、それはちょっと寂しいことである。 そんなことを考えながら、ぐったりとペダルを漕いでいった。気温か、はたまたまとわりつく湿度によるものだろうか。じんわりと眩暈を覚えた。前傾姿勢をとっていると前のめりに倒れていき、そのまま一回転してしまいそうな平衡感覚の危うさ。 いよいよ赤みが増した光に包まれて、そこかしこがオーブンで焦げつく焼き菓子の色合いをしていた。熱に甘やかさはない。芯へと熱を通し酩酊させるのみだ。 喉が渇いた。私は通りの反対にある自販機を目指し、ペダルに力を籠めた。 静々とした横断歩道を渡ってもう一度自販機を見たとき、女の影があった。想像力が邪魔をしてなんてことない後姿すら、いささかおどろおどろしい。妖怪さん自体は物珍しくもないがこのような環境で出会うのには不慣れだった。心構えをして進んでいると、ふいにしゃがむのが見えた。小銭を落としたようで自販機の足許に手を巡らせていた。 「きみ、大丈夫かい」 私は自転車をスタンドで立たせた。 「あ、はい、なんとも、大丈夫、お構いなく」 悲鳴混じりに振りむいたのは一つ目だった。艷やかな黒髪と目玉の数に合わぬ人間用の眼鏡。度の強いレンズを通した、白目と黒目の境がくっきりした綺麗な眼。 なんてことない、同級生である。しかし咄嗟に伏せられた面差しは見慣れたものとは違った。いくらか話したことはあっても、正面から視線を結んだことばかりは一度とてなかった人――焦点を絞って見るとあんな面差しをしていたのか。弱々しいとも表現できる細作りの愛らしさに魂消るとともに、脳の深い皺がほどけてツルンツルンの茹で卵質になってしまった。私は何度か唇を開いては閉じを繰り返し、彼女もまた息を呑んでいた。これでは会話など切り出せたものではない。わざとらしくならない程度の深呼吸で緊張をひと拭いしてから、「いや大丈夫とは思いがたいんだけども」とごく紳士的に苦笑した。 「ああんと、きみはたしかアレか、同じクラスの」 私の問いに、一つ目の彼女も安心で綻ばせ、顔をわずかに伏せた。名前は確か、 「都々目さんだよね」 「都々目櫻織です」 異口同音の頭韻を揃えた。和やかな笑いが喉から転び出た。 「そうだそうだ、うん。驚かせてしまったようで申し訳ない」 「いいんです、気にしないでください、はい。えっと」 詰まる都々目さんの語を継いで「小烏丸だ」と手短に名乗った。理知的な顔をすまなそうにゆがめて、困ったように笑った。 「ど、ど忘れしちゃって。なかなか人の名前と顔を覚えるのが苦手で」 「どっちやねん。まあべつにかまわないことで。私なんてあんまり出席していないですしね。それよか小銭を落としたんじゃ」 「はっ。そうでした、最後の十円玉を落としてしまって」 都々目さんは自販機の足元、側溝の蓋に目をおろした。その隙間は小銭を落とせばうまい具合に入ってしまうだろう、腹立たしいほど適切な隙間だった。私は肩をすくめて小銭入れから銅貨を出し、自販機に突っこんだ。百二十円ぴったり。 「ああそんな、駄目です」 「何を買うつもりだったんです」 「あ、烏龍花伝を」 都々目さんは反射的に云った。次の瞬間には断るタイミングを失って少々気まずげな顔をし、お腹の前で指を組んでしゅんとする姿がなんともいじらしい。 しかしまた、奇特なものを飲む。私もドクターペッパーを買おうというのだから人の好き好きに文句をつける資格はないが、物珍しいものには違いない。都々目さんに投げ渡すと私は冷え冷えしたペットボトルを首筋に当てた。染み渡る冷感に身震いをした。 都々目さんはぺこっと頭を下げて、 「ありがとう」 「たかが十円じゃあ感謝されるにも値しませんよ」 「でもありがとうはありがとうです。いただきます」 都々目さんは謝辞とともにプルトップを上げた。律儀だ。 「ご丁寧にどうも。しかし、なんだか今日は妙に静かですね。ただでさえこんな景色だってのに、気味が悪いったらないです」 「あれ、小烏丸さんは知らないの……」 と、眼鏡を押し上げた。どこか心配げだ。 聞けば川むこうの三丁めで強力な不発弾が見つかったのだという。大爆発したら地脈がどうこうするというので事前に人間も妖怪さんも人払いされてしまったのだ。 私の脳裏には昼前、激しく扉をノックする音がよぎった。どうせNHKの集金人と断じて不毛な格闘を避けるため半寝で居留守を決めこんでいたのだが、お役所の人だったのではないか。とすれば納得がいく。黄昏時が分厚い虚ろさを重ねるのも当然だ。しかし、それなら都々目さんが人気のない町中にいるのも不自然ではないか。声をかけたときの驚きようというのは火事場泥棒のそれではないか。 私が首を傾げ、 「はて、では都々目さんはここで何をしていたんですか」 ぽつりと問うたら、都々目さんは缶に口をつけたまま唸った。 「それはまあいろいろ理由がありまして。いろいろ、と」 都々目さんは声を濁した。烏龍花伝の缶をぎゅっと握り、側面が凹んだ。 ふと、野太い呼びかけが飛んできた。「まあどうでもよい」と告げかけた途端のことだ。まったくタイミングが悪いものだと目を馳せると、通りの曲がり角に爽やかな青の制服を着た警官が立っていた。これはヤバい。ヤバさは共通了解だったらしく、都々目さんが瞼をぎゅっと閉じられるのを視界の隅に捉えられた。 「あちゃー、見つかっちゃった」 「云ってる場合ですか」 と、私は自転車のスタンドを蹴った。ペットボトルを自転車のフレームにくくったホルダーに突き刺すと、都々目さんにむき直り、 「こいつはヤバい、ヤバヤバだ。乗りたまえ」 私は後ろを指差す。慌てふためいた都々目さんはそばに駈け寄り、 「感謝至極っ。あわぁでもこれ荷台がないですよ」 「ホイールを固定してるボルトに脚をかけて。あとは私の肩につかまるがいい」 重みが後輪にかかるが、想像していたのとは比べ物にならない羽根のような軽さだった。肩に冷たい手先が触れた。人とは違う、異質な薄さ。 近づいてくる胴間声を無視し、ペダルを漕ぎだす。加速していく自転車を追い風が押してくれた。生ぬるい風をかく。呼び止めようとする声が遠ざかり、背後では銃声のようなシャッター音がけたたましく鳴っていた。 都々目さんとは入学当初から同窓に属していた。誰かと話しては微笑み、間隙に馴染む、一般性があるように見える人。それが第一印象であり一時期までの固定観念だった。意思疎通に多くの語を用いず、人の袖ともあまり触れぬ私であるからして、本来ならば見むきもしないような人――のはずだった。なのに記憶にきっちり刻まれるようになったのは、都々目さんと他人の関係性は、欺瞞に近しいものではと疑念を抱いたためだ。確信ではないが、確率高き推測である。 あれは一年生の冬だった。昼休みでざわめくクラスにおいて、お一人様分の静寂をもって窓際の席で頬杖を突く、私以外の唯一の人がいた。誰かと話すでもなくふて腐れた様子の女の子。文庫本と菓子パンの間からちらりと見てみれば、それはいつも誰かと誰かに挟まれて無口に微笑んでいた都々目さんだったのだ。寂しげともいえぬ、かといって退屈に倦んでもいる横顔はおいそれと声をかけられるのを許さず、なんとも意外だった。以前の印象はやはり印象でしかなく、裏付けとはならない。当然のことであった。 耳に当てた、頑丈そうな黄色いヘッドホンが無口さを際立たせた。 あの人も孤高をこじらせていたのかと薄い敬意を憶えつつ、誰にも聞こえぬよう呻吟した。まさか私と同じ人種だとは考えもしなかった。私が文庫本でまだ見ぬ神世界への旅に出るように、彼女もまたシリコンオーディオの普遍性でその他大勢の生徒を区切り、不可視の孤城を机という岸壁に築いていたとは。 意図せず誰かが同類だとわかった際の、胸の鼓動が高鳴る感覚というのは説明しがたい。単純に心臓が跳ねるだけでなく、妖しげな共感などが混じるものだ。友達になれる予感がそこはかとなく訪れ、それが結実するか否かのいかんに問わず、じんわりと浸透してくる。それは観察力にも影響をあたえるのだ。 私は都々目さんを気にし、ぼうっとして虚空を睨む姿を認めるようになった。これまで知らなかっただけで、あの子はべつにその他大勢たちに混ざってはいなかった。 ただし、そこ止まりである。 日本人らしい奥ゆかしさが私を止めていた。 ヘッドホンで隔絶しているところに声をかけられても困惑するやもしれない。私が読書中に誰かに話しかけられれば不愉快千万と歯をきしらせるように。察しよさを発揮し、ゆえに深い黒を湛えた眼を持つことすら知らなかった。 壁高く掘りが深い城塞都市の攻略は簡単ではないのだ。 義務教育というは集団生活により、子どもにさまざまな教えを、残酷な切れ味でもって突き刺してくれるものだが、なかでも大事なのが「友達百人なんざ容易にゃ作れねぇんだよ」との真理である。よほど馬が合うか、突発的な縁結びでもない限り、人間関係はお堀を埋める細やかな作業が必要不可欠なのだ。一朝一夕にはならず。さらに私にはお堀を埋める力も岸壁をよじ登って銃眼から顔をのぞかせ「よっ」と挨拶する余力もなかった。 だから、この突発的な出会いは僥倖といえた。お話をできたし、都々目さんは好意的な面差しをしていた。それどころか城塞に隠された色合いに気づき、ましてや後ろに載せて走っているではないか。 繊細微妙な私のハートは大異変を起こした大陸プレートの如き心拍と、捕まったら痕が面倒との心情が、それはもうゴタゴタと入り交じり、頭もふらふらだった。 逃げおおせた私たちは、 木々の枝葉で薄暗い小道をなす参道は人目につかず、葉擦れで少々のお喋りもかきけしてくれるだろう。下手にご利益のある境内に忍びこめばおいそれと大声を出せないけれども、縁もゆかりもよく知れず、そこはかとないというには有り余る場末感を漂わせた神社であれば、罰が注いで泣きを見る心配もないだろう。八百万の一柱に失敬ぢゃと罵倒されかねない云いぶんではあるが事実そういう様相を呈しているのだから仕方ない。焼け落ちた洋館を思わせる煤けた外観、参道から幾本か連なる色褪せた紅色の鳥居、それらは異空間めかして不気味ではあったが、二人でいると案外気にはならなかった。 境内へと続く石段に腰を据えると、息を整えた。それから、墨色が染み出す空の下でいくつかの話をした。例えば人の顔を覚えるのが苦手と延べつつ、私こと小烏丸夛視予という、しがない同級生の顔を覚えていたことがその筆頭にのぼる。 私が都々目さんを見るように、都々目さんも私のことを見ていたのだ。 「小烏丸さん、かっこいいから」 微笑が頬を飾った。しかしかっこいいとはこれいかに。怪訝に問うと、にっこりと正直な笑いが返ってきた。なんでも私の鹿爪らしい面差しから凛々しさを導きだしていたのだという。優等生であった頃の名残りを見ぬいた慧眼か、あるいはただの買いかぶりか。どちらにせよ惜しまず褒められると面映いことこの上なかった。 レンズの数が合わない眼鏡をかける理由も教えてもらった。単眼鏡を作るよりか安いからという単純な理由だ。どうせ金をかけてもせいぜい見栄えが変わる程度。それに拘泥せず視力を調えるだけなら、値段が安い二枚レンズのほうがいいのだとか。 それから人払いされた町中にいたのは、趣味のためだということも聞いた。なんでも彼女の趣味は猫のふぐりや人のいない景色を、デジタルに切り取ることなのだという。 文化的な素振りに冒険と稚気を混ぜこんである趣に感心した。なにせ見せくれた風景写真の、町の影を切り取るアングル選びが、遊びと割り切るには勿体ないほどに達者な腕前だったのだ。ふとした瞬間に人足が途絶えた景色。ピントをずらした隙に消える、闇のハレーション。町角に散らばる影。背の低い山の際を輝かせる暮れの橙と空の濃紺。何度か挟まれるもこもこした猫ふぐり。数々の砕片はディテールではなく「様子」に狙いを澄ましていた。モリオンめいて深く澄んだ瞳で見通してそのままぷつりと切り取り、デジタルに変換しているのではないか。そう思える深い詩情にあふれているのが、素人目にもわかった。 そして一枚一枚が、古きものの好む夜の気配を探しているように見えた。人曰く、市井に姿を現さず、いまだまつろわぬままに過ごす古き妖怪というのは多くが薄暗闇や深林の茂みに、ひっそりと身をうずめている。そうした人の世をもてあます者、単に輪郭がかすれた者の足痕を探しているかのような写真がいくつかあったのだ。 闇の隠遁者たちの末路は様々であり、ただ一個の共通項としてうら寂しいことが挙げられる。人の世の明るさが度を越えた昨今、そういう気配を求めて写真に収めるのは難しいのではないだろうか。私が尋ねると、都々目さんは眼を細めて、 「隙間には絶対に影が生まれるから、追いかけていけばそれなりに撮れます」 と、烏龍花伝を含んだ。汗の伝う喉が上下する。 「それに運がよければ今日みたいな景色にも出くわせるのです」 「あとは観察力次第というところですかな」 「うん。カメラを買って自分の足でうろうろするようになってからは、小道をほっつき歩くだけでも色々と見えるようになりました。継続は力なりというやつでしょうか」 「なにごとも続けるべきですなぁ」 勤勉どころか、怠惰すらもそう長続きせぬ私が云えたことではない。落ちるときはとことんまで落ちたほうがよいと記したのは山本周五郎だ。私はまだまだ半端である。 空はゆっくり暮れゆく。薄暗い町並みはのっぺり顔を晒していた。遠景で、低い雲に罫線を引いた送電塔は、行き場を失った巨人のようでどこか侘しい。柔らかに微睡む、こういう景色のために都々目さんはリスキーな行動に及んだのか。大人しげな風貌に相反し、アクロバティックかつ、勇気が満腔に溢れた人だ。私は改めて感心しつつ、その勇気を吝嗇しないがために負っただろう肘に這う擦り傷の痕が気になった。いかにも痛そうだ。 細い体つきを盗み見てるうちに沈黙が落ちてきた。私は炭酸の抜けたドクターペッパーを飲み干した。へっぽこ極まる喉越しに顔をしかめ、雲に映える残照を凝視する。 「今日みたいな人がいない景色って」 都々目さんは、身体をゆったりと左右に揺らした。 「あたり前のことなんだけど、普段はわからない色んなものが見えたり撮れたりして楽しいです。本当の空っぽというか。うちの親は、あまり好ましい趣味だとは思ってないみたいですけども」 と、細腕がカメラを構えた。シャッター音が耳をかすめる。 「趣味なんてものはおおむねそういうものだよね。我が目にはコレコソと心ときめく趣味であっても、他人からは幻滅してしまうような云い方でこき下ろされたり。でも、すごく素敵な写真だと思いますよ」 「ありがとう」 「しかしあれですよね、それにしたってふぐりばかりはやはり、ねぇ」 私はどう言及するやら迷っていたふぐりに話題をむけた。 都々目さんは愕然として、世界の終わりでも迎えたような顔で私を見た。 「だ、駄目でしょうか」 「悪かないけど一般受けする趣味ではないかなって想います」 「にゃんこたちが折角ぷりぷりとエンターテイメントを提供してくれているのに」 残念そうな口ぶりおかしかった。私は笑いをこらえ、 「彼らは別段提供している心積もりはないでしょうて。しかし、かのロッカー、大槻ケンヂ氏は猫のお腹には薔薇がいっぱいと歌っておられたし、大きなものが詰まっていてもおかしくはないかもしれませんな。いやおかしいか」 「きっと小さな宇宙が詰まっているはずです。誰かが胡蝶の夢が連なりのなかで夢中夢をみるように、ふぐりの内のふぐりの内のふぐりの内の宇宙でわたしたちは生きているのやも知れぬ。そうやってイメージを広げると浪漫ティックがとまりません」 「気が遠くなるほど規模がでけぇなぁ」 と私は片膝を抱えた。静かな笑いがお臍の裏側をくすぐってくる。まずもって都々目さんの小振りな唇からこぼれる、ふぐりという云い回しの面白みからして真面目っぽい語調と結びついてくれない。彼女の扱う光学装置が備えた、あの厳ついレンズをとっても本意気であり、それもふぐりと結ばれないではないか。 一層に脱力して密かに笑い声を漏れた。まったく面白い人だ。こういう人が近くにいるなら、きちんとしたリズムに戻るのも吝かではないな。夕闇に溶けていく雲と等しい曖昧な考えながら、真っ当な生活を約束されたような気がしていた。 「ねえ、小烏丸さんのことも聞いていい……」 小さな膝を抱えた都々目さんは、そう尋ねた。 「ええ、うん。まあ、私の趣味とかそういうのでこれっていうのは、そうだな、本を読んだり、小説を書いたりするぐらいかな。大層なもんじゃありませんが」 「お話を書くんだ。すごい」 「ほんとに、大したもんじゃありませんよ。妄想の範囲を出ない。それにひとつとて満足のいく実にできたことはありませんで、一から十まで徒花です。自分では面白い面白いと信じて書き進めてはいるんですが、なかなか形になってくれない。難しいもんだ」 「そうなんだ」 蝉の声が不意に途切れる。静寂に、さらさらと葉音が染みた。 私は破けた会話を繕うように、脳内机上にある物語を舌に乗せて語った。日常のふとした隙間から、世界の歯車や、それに近しいものを見て徐々に位相がずれゆく怪奇譚を。 普段なら胸の奥に秘めたる話題を誰かに聞いてもらうというのは、じつに新鮮な出来事だ。長々と語るのはすっきりとするが、退屈していないだろうか。創作云云というのは付き合わされるとたいへんな話題である。しかし熱心な頷きと相槌はこの不安を杞憂に変えて、「悪い予感しかしない展開だ」とか「それでどうなるんですか」と先を促してくれた。語り終えると、酸欠気味の心を沈めようと深呼吸をした。 「触らぬ神に祟りなしもなにもないんですね、陰謀の気配とは恐ろしや。なむなむ……。いやでも面白そうだなぁ」 「いつか完成したら、読ませて差し上げましょう」 私はうなだれて「いつになるかわからないけど」と低い声で続けた。 「約束ですからね。待ってます」 いつの間にか、町に光が戻っていた。残照を頼りに階段を降りていく。しめやかな風が撫ぜる涼しげな音が取り巻き、どこかで発つ鳥が激しい葉ずれを鳴らす。ふと「お話、楽しかったです」と呟いて私を追い抜かし、とてとてと段を下った。 「ちゃんとお話したのは今日が初めてなのに、なんだか前からの友だちみたいに喋れて。なんだか妙に浮かれちゃった。あんまり人と面と向かうの、得意じゃないんだけど」 「ほう、そんなことをおっしゃるとは。なんだか初めての経験やも知れず」 「そなの」 「話しづらいと思われることが大半でしょうね。この仏頂面のせいで」 「そんなことないですよぉ」 いかにも意外そうだが、私も実際については知らない。口数多くやりあってこちらに意見する人間はそれほどいない――せいぜい、中学から付き合いがある奴が一人いるくらいである。参道につくと「帰り道、気をつけてね」と告げた。都々目さんの身のこなしは蒲公英の綿毛のようであり、見ていて心配になったのだ。 「小烏丸さんもね。じゃあまた明日、学校で」 「うん。また明日」 すんなりとした別れ。自然と「また明日」という挨拶が出たのがすこし不思議だった。今日という日まで、誰かと別れの挨拶を交わすことはないにも等しかったのに。 からりとした熱気がお外を焼いていた。げんなりするには絶好の天気である。しかも敵は暑さだけではない。夏めく天気のもと、通学路を揚々と往く同級生やら上級生の精気溢れる顔にまで包囲されてしまったのだから始末が悪かった。 夏服のセーラーや盛夏服の白が集まって額がチカチカとし、そのせいで私のまともに生活しようという志は早くも打ち砕かれようとしていた。これでは心の外堀に地雷を埋めてくる気だるさと戦うこともままならない。 右足を踏み出し左足へ続けるにも、那須与一さながら、遠くの的を射るような集中力が必要である。この一極集中を生かせば生き馬の目の二つや三つはたやすく射抜けるだろう。凄腕確定である。そのように歩行に総力を尽くす私が、二重の思考を抱えられようか。天地がひっくり返って世が冬にならぬ限り不可能。断じて無理。茹だる頭はベラボウにぬるい辻風が吹こうとも、もはや気にもしていられない。よってスカートの裾がさらわれては太股がチラリとし、天衣無縫とはかくやという思春期らしい一抹のセクシーが衆人に目がけて舞っていこうとも気には留めなかった。 ただただスズチイどこかへいきたい。その一心であった。冷却欲求は羞恥に勝る。この事実は一行知識として銘記しても損はない。 考える間にも太陽光線はやる気を切って切って切りまくり、裁断機にかけるより細かくした。人間性をも捧げかねぬ。どうして熱気とはこうも狭量なのか。人を受け入れてくれないのか。考えども答えは出ず、出たってどうせ受け入れちゃくれんのだから詮ない。 「地球のサーモスタットがブチ壊れているのではないか」 などとうめきつつ、自販機でポカリスエットを買った。 ごくりと胃に下せば、冷ややかさで喉から頭までキンと痛んだ。ぷはぁと息を吐くと額からは瀑布となった汗が伝い、顎に散る。いくら花も恥じらう女子高生の汁気であろうと、こう垂れまくると貴重ですらない。西の空を見れば、普段なら一糸乱れぬY軸飛行のフライングヒューマノイドが縦にふらふらと揺れていた。ああなるともはや末確認飛行物体も蛾も違いが曖昧だ。まったくもって異常な気象だと感じ入る。 どうにか校門をくぐってコンクリート製の校庭を突っ切り、茹だる昇降口をあがり、教室に馳せ参じると、自分の席に崩れ落ちる。よく効いたクーラーに冷やされた机が心地いい。脱力感を気化させてぷすぷすと抜いてくれた。 隣を通る同級生に挨拶をしつつも突っ伏し、そして、天板に顎を預けたまま教室の一角を見回した。意識してクラスメイトのなかから他人を探すことなどない。都々目さんの横顔は、存外すぐ見つかった。教室の隅っこでヘッドホンを耳に当てている。ふと視線があったので会釈を交わした。 授業が始まっては終わっていく。じりじりと距離を測る私たちはいくどか目を合わせては頷いてを繰り返し、手旗信号による交信がごとき迂遠さで気を通じ合わせた。何の気か。そんなもんお話はしたいんですよという気である。おたがい廻りくどい足踏みをするたちであったし、タイミングを探っていたら昼休みになってしまった。 休み時間よりかは話しやすいはずである。私は意を決した。 「いっしょにお昼ごはんでもどうですか」 山崎製パンのランチパックを手に声をかけると、都々目さんは大きく笑んだ。 「ぜひとも。あ、でもわたし、ごはん買ってくるの忘れちゃったから、ちょっと購買部に行ってこなくちゃ。すこし待っててもらってもいいですか」 「甘いのがお嫌いじゃなかったら、一個二個ほどいかがですか」 と私はランチパックを差し出した。都々目さんは眉根を下げ、 「ううう、ありがたいのですが、でも昨日もお茶をご馳走していただいたばっかりだし」 「ご遠慮なく。こういうのは独りより、人と食べるほうが美味しいもんですから」 都々目さんは考えるように一拍おいて、 「では、ありがたくご相伴に預からせてもらいます」 いかにも恐縮という所作でこっくり頷いた。 ランチパックの心内流行は定期的にくるものだ。一時期はバージェス動物群を発掘したチャールズ・ウォルコットがごとき集中力で新種の探索を心がけていた。そうでなくともランチパッキストを自称する私であるからして、人生において四度めの大山崎製パン期を迎えたことで四、五個はたずさえていた。朝餉。昼餉。三時のおやつ。いつでも腹を満たせるよう、味も各種取り揃えていたのだから人に差し上げるのもわけない。 私がサクラモチ味のビニールを雑に破る一方、都々目さんはブルーベリー味をiPhoneで撮っていた。ぶら下がるモノリス・ストラップともども何事かと眺めていると「ごはんは毎食記録しているのです。特に意味はないのですけど」と何故か恥ずかしげな声がこぼれてきた。昨日食べた夕食すらおぼろげな私は文明の利器に目がくらんだ。 分けあってもそもそとパンくずをこぼしていく安らぎは無類だ。昨日より言葉少ないものの、ゆっくりと昼食をとるのも悪くない。わずかな沈黙をアクセントにしてたがいを知る会話は、相槌ひとつをとってもしっくりきた。パンの甘みは午前の頭脳労働で中だるみした繊細な心を癒した。小うるさい教室の喧騒に破かれることのない平穏である。 「あ、そういえば云い忘れてました」 そう云ったのは都々目さんだった。私は疑問符をぶら下げ、 「一体全体なんのお話……」 「昨日、おまわりさんから助けてくれたのに、お礼を云ってなかったなと」 「あれはなりゆきというかなんというか。別段押し売りをしようとも考えちゃおりませんし、礼などいりませんよ。ほら、世にいうところの旅は道連れ世は情けみたいな。一蓮托生。呉越同舟――いや呉越同舟は違うや」 都々目さんは成分無調整豆乳のパックの角を人差し指の腹でさすりながら、 「でもね、いかにもアタリマエのことをされたって顔をしてるんじゃないかって思われるのも怖くてですね。お礼はいくら云っても減らないではないですか」 「ならば私の場合は例外としてください。見ての通り、そういう些事を気にするような肝のちっちゃい女ではない。心持ちは軽やか。いっそ軽佻ふはふはです」 「おお、なんだか頼もしいやもしれず」 都々目さんは胸の前で手を組んだ。 頼もしいかは甚だ疑問であるが、私はいかにも偉そげに頬を吊って、 「それに礼というのも、意外に消耗品だから気をつけたほうがよいですぞ」 「その心は」 「えーと、考えてませんでしたな」 私は虚を衝かれてがくっとうなだれた。警句を吐けるくらいの人間性があれば頽廃的生活などしていなかった。それくらいは己を客観視するまでもなくわかる。 頭を抱えるまでの芝居がかった動きの数々は、都々目さんのツボを世紀末拳法よろしく突いたらしく、イシシシと妙な忍び笑いがあった。片頬を吊って控えめに、しかし本当に楽しげだった。唇の隙間から覗く、小粒でかわいらしい前歯を見るにつけ、うっかりの投石で城塞を崩したような、ゆるい達成感があった。 「まあ流れでやったことなんだから、その流れのままにするっと受け取ってくれたら気楽ですわ。世のなかはなあなあが一番だ」 私は講釈ぶって締めくくった。 それから気分任せに「なあーん」と猫の鳴き真似をしたのだが、これが失敗だった。我ながら慣れない興が乗ってしまい、恥ずかしくって動悸がした。吹き出した都々目さんが声を真似て「なあーん」の一声で和してくれたおかげで頬に熱がさすことはなかったが、いやはや板につかぬような所作はとるものではない。冷や冷やと肝に銘じた。 「あらあら楽しそうじゃありませんこと」 そこに横槍をいれて一時をしのいだ羞恥を再来させたのが、伊那白モヨ子だった。気取りに気取って気取らない口振りを忘れたような鼻声が、首筋を粟立てたせる。 振り見た私に応じてか、尖った耳が頭頂で器用にはためいた。 伊那白モヨ子。 なにかにつけてちょっかいを出してくるこやつは中学からの同級生である。自称するところによると私の好敵手なのだというから相当厄介だ――内実を端的にいえば、テストの点数を競いたがるのだ。そしてときに世話を焼きたがる。伊那白の相手が面倒で自主休校とする側面も否定はできない。だがしかし人間はある種の物語塊だ。多角的に見れば、色々な理由が見つかるのも当然だろうし、ことあるごとに転嫁していてはのべつ幕なし言い訳だらけになってしまうに違いない。私はお利口なのでその愚かを犯さない。 ちなみにこの女も多角的に捉えると、捨て置けない一側面が見える。 俗にいうお稲荷さんであるとの事実だ。 由緒正しいお家柄でありながら、遠くニニシッポリの地から如月に飛んできたお稲荷さん。化けてか素の姿か、その見かけにおいては一朝一夕では太刀打ちできぬナヰスバデヰの持ち主だった。締まった四肢。豊かなお乳。爪先から狐らしく尖った耳の先端まで、色気を吹きつけた風体であり、白いセーラーと短めのスカート丈、黒ガーターベルトがいっそ嫌らしい。校則に抵触どころか大激突しそうでしないのがおかしなくらいである。中学においては物静かなご令嬢の趣であったのを憶えている。 反動と慮っても、いささか酷い風体だ。指さしてやぁい伊那白のエッチッチ!と叫びたくなる。そのエッチッチの艶姿たるや、私が登校の際にうっかり振りまいたようなセクシーがいくつあっても適わない。クラスの男子から受ける視線を用いて視力発電に転用できる弩級セクシーだった。古今を問わずして狐は人を惑わすものである。伊那白もまた人を惑わす。それでいて浮ついた噂を聞かないのだから芯が通った優等生ではある。訳がわからぬ。 「相変わらず素っ頓狂な声のかけ方だな。なんだの用だコンコンチキ」 「その呼び方やめてくださいましッ」 「人様の横でコンチキチンと鳴き散らす癖を直したら考えんでもないぜ」 私は珈琲牛乳を吸い、鋭く右目を眇めた。 伊那白は堂々たる腕組みをして鼻をふんすと鳴らし、 「まったく大口の減らない人。あたくし、不慣れな道化ぶりが甚だしいから忠告しに来てあげましたのよ。なあーんですってよなあーん」 その口ぶりにやられて頬に血がのぼった。やめろ、それ以上つっこんでくれるな。私の意図に反して伊那白はとどめを刺すように「この大根役者ッ」と云い放ち、叱責の矢が胸から背中へ貫通した。私は痛みを吐いて捨てるように、 「本当に失敬な狐だな。先祖さんの後光をでかい尻尾で遮ってるから、お脳にも影が差してそういう礼節を欠いたトークがひっきりなしに出てくるんだろうな」 と、私が指差せば、尻より垂れた立派に太い尻尾が毛羽立った。おうおう怒り心頭を発しおる。だがすぐかっとなる性分においては私も伊那白とどっこいで等しく阿呆であろう。毛の逆立ちを麦色の髪まで及びかけるが、伊那白は鼻を鳴らして怒気を収め、 「ご先祖様は関係ありませんわッ。何日かお休みして英気を養ってなお、あたくしの素晴らしき色味がおかしな風に見えてるのね。この目曇りッ」 「うるせぇ。思春期なめんな。ダイアモンドの輝きもガラス玉の艶も等しくキラキラして見える年頃なんだからな、たかが狐一匹の毛色なんて、全部同じに見えるわ」 「なんとでもおっしゃいな」 「黙るならなんとでも。質的視力のひとつくらい魔道に捧げてやる」 「わりあい品がないですわよ」 「品があった最初からこんなボケナスビまるだしの会話なんぞしてない」 「締りの悪い話ね」 「まったくだ」 「とにかく下手な小芝居はやめることですわ。それとこれはついでだけれども」 「なんだこの野郎」 打って変わって気軽な手つきで差し出したのは、数枚のルーズリーフである。 「いつも通り、休んでいた間の授業内容、要点だけまとめておいたわ。お読みなさい。そしてあたくしに感謝なさいよ」 「いつも通り余計なお世話だ」 「そう怖い顔をせず、受け取りなさいな。ここのところの疑似科学、教科書から大きく外れているのだから。小テストもそこから問題を採るそうですし、油断大敵ですわ」 ちまちました字で疑似科学に留まらず各教科を拾い要点を付けたルーズリーフ――紙面を睨んだ私は、眉根をぎゅぎゅっと寄せた。 色情莫迦っぽい風采ではあるが伊那白ではあるが、内実をはかってみれば、小手先とも断言できぬ勉学の才もそれなりには持ち合わせている。人並み以上にしっかり者だ。それがどうして私なぞと下らない張り合いをするのかはよくわからない。おそらくは優等生の鍍金が剥がれていなかった時期をしつこく憶えているのだろう。甚だ困る。 伊那白本人から「あなたが本意気を出さぬうちに勝っても、面白くありませんもの」との直言を受けたこともあるし、この紳士ぶりたるや余計なお世話の塊だ。だからといって変に抗して不毛な対話を続けていても仕方ない。 私はため息をぶすりと吐き、 「体面上、受け取ってはやろう」 「そぉの態度、いまに、後悔、します、わ、よ」 伊那白は節をつけたキンキン声で云った。 同じように脅されて一年以上、まだ辛苦を舐めてはいない。手をつけたルーズリーフに、力をぐぐぐっとこめてくるせいで綱引き状態となった。 「ほいだらその一言もついでに受け取ってやるよ。捨て台詞としてな」 「意地が悪いのね」 「人のことをどうこう呼べるタマじゃないだろ。同じ穴の狢だ」 「狸風情とならべないで頂戴ッ。まったくもう知らないんだから」 と、伊那白は手を離してぷいと顔を背けた。堂々とした腕組みをしながら踵を返す。なんたる暴言。大正時代には「たぬき・むじな事件」なる裁判があったように狸と狢は似て非なるものだ。かといって指摘しても頭でっかちエッチッチに通じないだろう。 「おいコンコンチキ、ちょっと待て」 伊那白を呼び止める。 怒りをぷりぷり尻尾を振り振りとさせる伊那白は、背をひねるなり、 「なんですの、このまざぁふぁっかぁ」 「下手な横文字で応じようとするな色ボケ狐。ほんの気持ちだ、とっとけ」 私はランチパックを放った。 黄粉餅があしらわれた袋を、細い指がひしと掴む。 「ふん、珍しいわね。こんな安っぽい感謝の気持ちはありませんわ。でもこのまま突き返すのも具合が悪いですものねぇまあ受け取っておいてはあげるけどそれにしてもまったく常々その殊勝な態度でいれば不機嫌にはならずあなたとおしゃべりできますのにこのすっとこどっこい次からは気を払いなさいおわかりになられて」 などと一息に言い放ちながらビニール包装を破る。 一枚を口にくわえ優雅に去る姿は、狐が油揚げを食む姿さながら。男子諸君がさっと道をあける様など十戒が如しだ。崇拝者の何人かは「閣下!」「どうなさいました閣下!」「閣下が顔を真っ赤にしておられる!」「熱中症ですか閣下!?」などと叫び、牛乳パックや冷却シートを差し出して、伊那白がそれを颯爽とさらう姿が見えた。そのくせ頬から人耳が湯がいた沢蟹の色なのだから不恰好である。 さておき、あの世話焼きのせいで、好奇の耳目が集まっていた。私は努めて知らぬ存ぜぬと無造作を気取り、唖然とする都々目さんにむき直る。「お見苦しいところを」と私は云い訳がましく切り出した。静かで楽しい昼餉を、こんな阿呆の所業で無意義にしてどうするというのか。辟易はすれども益はない。 都々目さんはやはりイシシと笑った。 「いえいえとんでもない。いつものことながら仲がよいのですね」 いつもということはあの間抜けなやり取りに耳を傾けられていたということだろう。というかあんな大声を出せば衆目を集めて当然だ。恥ずかしい。 私は恥ずかしさあまって、 「何をおっしゃるやら何をおっしゃるやら何をおっしゃるやら」 と、錯乱気味に同語を繰り返した。 「一方的に突っかかられているだけです。私がきちんといなせず事を荒立てているのは間違いないですけども」 「楽しそうだったけど」 「楽シクナイヨッ」 「そなの……。でも、わたしもあんな風に云い合いしてみたいな」 都々目さんはちょっと寂しげに、大きな黒目を右下に落とした。 「おすすめしかねます、阿呆の極みですからね。正視に耐えませんし普通におしゃべりをしたほうがよほど愉快だ」 私は唇のはしを噛んで呻吟した。すると都々目さんは困ったように「ううん」と答えた。正直かつ至極まっとうな反応である。世間一般には調子をあわせて人を悪く云う、吐きだめの悪魔じみた人間がいるものだが、そういう有象無象とは似つきもしない。こちらが二の句を継ぐのをじっと待ち、粛々とランチパックのブルーベリーペーストを舐めている。その様子はいっそ清冽だ。伏せ気味の目許で睫毛が羽のように上下し、「長いなぁ睫毛」と私は口を半開きにして見入ってしまった。 彼女の受け身がやたらと健気に見えるのはナニユエか。悶々と考えているうちに昼休みは終わってしまった。迂闊である。 巧遅は拙速にしかず。これはかの孫子がおっしゃったことだが、人間関係にまで語義が通じるかといえば大いに疑問である。焦れば失態を演じるのが世の常。私もまた世の範疇から脱することがない一高校生であることを鑑みれば、じっくりと攻めるが吉であろう。無闇に多くを語れば、戸が立たぬ口から珍言が垂れ流しになってしまうだろう。そんなの恥ずかしいったらないではないか。 警戒して日々をすごそう。都々目さんが親しげに歩み寄ってきたのは、決めた矢先の放課後だった。しかも「いっしょに帰りませんか」とほんわかした声で誘われては、決意をうっちゃらざるを得ない。私は頬を引き締めて応じた。 家が同じ町内だと知ったのはこのときだ。晴天で満遍なく焼かれた路面に、ほてほてと往く影が二つ。小学生が駈ける賑わしい通学路から外れ、静かな住宅街を歩んだ。 都々目さんは路傍の石ころをローファーの爪先でちょこちょこ蹴っていた。不器用な足つきが角の取れた黒灰色を踊らせ、前髪も拍子を合わせて揺れている。スカートから伸びる細い足には擦り傷の痕と、大小様々な絆創膏が広がっていた。多くの景色を廻るための代償か、膝小僧の青あざなぞは見るからに痛々しい。足から首筋まで骨っぽく華奢な体つき、睫毛を瞬かせる横顔へと目を移す。そうしていると夏日にあてられてか、気が遠くなりかけた。潮騒めかしたざわめきが胸を覆い、ぼうっとしてしまう。 「小烏丸さんは、お休みの日とかなにしてるの……」 と、都々目さんは問うた。 ふいに横をむけば目がばっちりあい、私はどうしたものか少し考えこんだ。 というのも、私の心は書籍を読むことで稼動する、果てしなき大六畳クロスホェンの中心に囚われているのだ。日々を鑑みれば休みらしく振舞うでもなく、あるいはひなびた古本屋でのバイトに精を出すくらいか。ことさら胸を張れる部位は皆無であった。 一言で表現するならだらしがない。私はせめてもの小ぎれいな部分を選び、 「そうだな、だいたいは本を読むかバイトです。たまさかに外へ出て、喫茶店で読んでみたり」 「なんだか恐ろしいほど似合ってますね」 なんだか感心した風だ。しかし考えてもみれば昨日話したこととほぼ同じことを反復しているだけのようでもある。転がってきた石ころを蹴って返した私は、 「かっこつけだから似合ってないと分が悪い。それに私がよく店はね、ケーキと紅茶が無類の旨さなのですよ。気取りを抜きにして、暇があれば入り浸るくらい」 興味深げな都々目さんは石ころを受け止めた。ふむふむと首肯した。 短い指を後ろ手に組んで、ほんの小声で「いいなぁ」と口走るのを聞き逃すほど私は魯鈍でない。だが待て。今ぞ今ぞとやおらに伏兵を立たせ、誘いをうかと口舌に乗せるというのも、思慮の浅さが見え透きそうだ。考えたときには脊髄が喉を操っていた。 「なんなら今度の休み、いっしょにどうですか」 「あ、行きたいです。でもせがんだみたいで申し訳ない」 「いっそせがんでもらえたら頼られているようで嬉しいです。都々目さんが嫌でなけりゃ行きましょうよ。思いついたが好機の掴み時だ」 「行きましょう行きましょう。わたし、喫茶店にいくのはじめてかも」 「ほほう」 「いっしょに行ってのんびりするような友達もいないから」 と、俯いた。独人特有の自虐はなじみ深い。恥ずかしながら、私もごく稀にうっかり自虐が口をついて出るタチだからだ。 私は軽く伸びをし、 「孤独に歩め、森のなかの象のように、なんて具合ですよね。きみも私も」 「お釈迦様みたいに高尚ではないんですけどね」 「大方誰でもそうでしょう。空気の読み合いとか疲れていけないからね」 「うん。それにね、わたしの場合は目ヂカラ強すぎで怖いってよく云われるから。お母さんに、お話するときは人の目を見なさいって教わったんだけどね。イシシ、なかば癖だから直すに直せないし、それで嫌がられるなら話さないほうがいいかなって」 どこか悲しげだった。たしかに一つ目特有の眼力は他に類を見ず、実際のいかんを問わず、心の浅瀬を覗く厚みを含めかねない。必ずしも万人が心地良く応じられはしないだろう。都々目さんは立ち止まって、人差し指で眼鏡を押し上げる。 私はまた地面に目を泳がせる都々目さんの前へ行き、 「話を聞くと楽しいですのに」 と私は顔を覗きこんだ。意外そうに、眼が見開かれた。都々目さんは気息奄々という様子でささっとわずかに後ずさり、 「こ、小烏丸さんは物好きですよね」 「一概には否定できない。ご覧の通り、そこかしこにいる人よりか戯け者でして」 「手の施しようがない物好きですよ」 ぼそっとした一言に、腰に拳を当てた私はもっともらしく顔をしかめた。 「酷いことをおっしゃるなぁ。でもこの物好きと帰ろうという都々目さんもまた、相当なものではありませんかな。仲間仲間。ダブル戯けだ」 「そう、だね」 相好を崩した頬には朱がのり、こくこくと頭を振る様はどこか安心した風だった。 かくしてしばらくぶりに学生らしい生活を踏みしめた。訥々と流れていく学校という川へと道連れを乗せて漕ぎだしたのだ。人生も船乗りも等しくひとたび帆をかけて風が吹けば、いい加減に構えても案外進む。わが心の洞穴へと不健全な逃亡を図ろうとも、尻に帆をかけているのだからすんなり漕ぎだせるという寸法である。規則正しい生活にはなあなあで馴染んだ。 なにより、都々目さんとつるむことで日々の色合いにある、隠然たる面白みに触れられたのだ。行動をともにするようになって退屈したことは一遍ともない。液状化を起こし地の底に沈んでいきそうな生活を比してみれば雲泥の差が現れるほど、遊び呆けた。 あるときは学校帰りに遠出をした先の洒落たカフェで休憩した。これまた洒落たカプチーノを口にしては、二人揃って舌に合わず苦味に咽びながら飲み干した。本格派の苦さは残暑が促す発汗から身を守るには適さない、というのは、このときまで存じ上げなかった。コンビニで買っている珈琲牛乳とはまったくの別物なのだ。きっちり学んで後に活かすのが私と都々目さんの立派なところであり、それからというもの手堅く紅茶で口を潤すようになった。あの子は香り高いアールグレイにレモンの香りを添え、少々の砂糖をば溶かした紅茶を好んでいた。瞼を伏せ「すっきりしたニホヒが好きなんです」と可愛らしい小鼻をひくつかせる様子が脳の皺に深く挟まっている。 町を練り歩いているのだから、同年代の女子たちが揃いも揃ってプリクラを撮りまくる様子に遭遇したことも数知れない。あの一辺倒にシンクロした遊びには戦慄した。 一枚撮れば文庫本一冊に近しい金銭が飛んでいくではないか。そんなものに小銭を投じる集団遊戯というのは、いざ見かけると奇矯であり、そら恐ろしかった。何が高飛車な財布に発破をかけて安くはない遊びに興じさせるのか。都々目さんは「魂を抜かれてそうだよね」と不気味がった。デジカメを操る人らしからぬ発言であったが、私は心から同意を示した。あんなもん妖怪が手ぐすね引いてると考えねば合点がいかぬ。 肌寒い秋日和には、近所の公園前に構えられた駄菓子屋にも通った。元は写真を撮りに行くのに同行した道すがらに見つけたのだが、いつの間にかそちらが主題となっていたのだ。私は栄養価をうっちゃらい、奥ゆかしい甘さでくるまれた麩菓子がたいへん好きであり、あのときも腹に貯まらぬ歯ごたえに酔いしれては口腔の水分を奪われた。気高い舌とあってもあればかりは拒絶できないのだ。 駄菓子の魅力には歳を重ねても抗えない。むしろ細かなものに侘びと寂びを見出す、理知的なメンタリテイを嗜むことで、より世界観の色味が増した年頃にこそ美を見出せるのだ。私はブツブツと唱えて己を丸めこみながら、麩菓子の角っこにかじりついてはラムネで喉を潤した。甘味に甘味を重ねる。至極であった。駄菓子を食べたことがないという都々目さんはモロッコヨーグルのぱさついた酸味に、通過儀礼と歓喜を見出していた。 小指の先程度の小さな木のへらを握りしめつつ、背を伸ばしふわりふわりと横揺れしていた光景は忘れ得ない。夕暮れのなか店の前のベンチにちょこんと座って、子供っぽく足を伸ばす姿はご機嫌極まりなかった。 「こんなに小さいのに愉快が詰まっているなんてすごいです」 「子供相手の商売ですからね、愉快なくしては立ち行きますまい」 「ほんとほんと。素敵なことだよ」 都々目さんは木へらを前歯で噛み、頬をぐいと上げた。夕闇をえぐりとる、駄菓子屋のしょぼついた電灯が、眼鏡をキラリと輝かせていた。 いざ思い返すと意想外に安っぽく、年頃を慮れば見るに堪えない部分もある。駄菓子にいたっては十円単位の幸である。もうすこし飾っても損はないかもしれない。だがまあそれはそれ、美味しいのでよいではないか。 かの晩秋、にゃんこの腹を撫で回してふぐりを写真におさめた件も忘れがたい。エノコロ小路と呼ばれる町外れの路にあふれた猫を相手取った無双だ。淡黄色に色づいたもこもこが揺れる路では、数十匹の猫が出迎えた。 無双は至って静かに始まった。まず舌を鳴らして「何某ぞ」と睨む猫の注意を引き、軽く伸ばした食指を差し出す。すると一匹がちいさな爪に鼻を近づけ、においを嗅ぎ、舌先でちろりと舐めるのだ。あとは喉をちょいちょいと撫でていくのみである。猫心掌握を心得たその手つきは、福々しい毛玉たちを、まさに手玉にとった。次から次へと痴態――猫からすればだが――を撮っていったのだ。風に吹かれたようにころりころりと腹を出すのは見ものである。私も真似したが、どうしたことか総スカンをいただいた。 私は納得いかぬまま、 「脅威のテクニシャンですなぁ」 「小烏丸さんも手玉にとりましょうか」 都々目さんは、猫のふぐりを人差し指で弾いた。えらく縁起の悪い、妖怪らしく装った笑顔だった。うっかり頷き返しそうになるが、それで逆にドン引かれてもつまらない。奥ゆかしく遠慮した。がしかし、それで御せぬのが都々目さんであった。 興が乗った手先はまんまと私の敏感な脇腹をさすり、笑いの経脈を突いたのである。くんずほぐれつとはまさにこのこと。くすぐりに負けた私は余韻が残って痙攣する腹を押さえ、猫たちが一斉に見やるなか、塀によりかかってぜいぜいと息を切らした。 「なんてことをしてくれるんです、なんてことを」 「ちょ、調子に乗りすぎましたね」 都々目さんが申し訳なさげにぺこりと頭を下げた。 「しゅんとしないでください、珍しい体験だ。非常に珍しいというか」 「はい、なかなか体験できませんよぅ」 「曇り一転、自慢げなお顔だ。しかしこんなところで操を散らすとは恐ろしい」 私は演技がかって己の肩を抱く。すると都々目さんは刮目し、 「やだ、小烏丸さんったらワイセツな顔してる」 「そんなバカな、私は乙女ですよ、そんなはしたない風采なわけがありますまい」 「破廉恥汁出てるよ」 「すわっ、けしからんけしからん」 私は口角から破廉恥汁と称する事実上のよだれをごしごしと拭った。そして都々目さんは掌で口許を押さえ、意地悪げにイシシッと嗤うのであった。 そうこうとしょーもないことをしていると、秋が過ぎて冬が訪れた。シベリアにて悠々自適の休暇を過ごしていた冬将軍が、今まさに暖冬だった昨年の雪辱を晴らさんと我に返り、寒波に乗ってやってくる十二月である。季節の移り変わりのなかで、ささやかながらいくつかの変化があった。私は鬱陶しい髪を落として凛としたショートカットを取り戻し、バイト代でピアスと中古のデジタル一眼レフを買った。使い方は都々目さんが親身に教えてくれたお陰か、すぐに手際として馴染んだ。 都々目さんは伸びた黒髪を三つ編みにし、眼鏡の種類も増やして、愛らしさを増した。それから、どうしたことかなにかにつけて私と景色をひとつのフレームに収めるようになった。私が撮る暇がないほどであり、ときとして絵中絵の気分になった。 行動範囲も一気に伸び縮みして縦横自在に巡った。一度などはお隣、神奈川県の大雄山最乗寺に遠出したこともある。電車に飛び乗りバスを駈って馳せ参じ、奥の院へとある長い石段で息を切らしては、無数の下駄の写真を撮りまくったのである。こと大量に高下駄は圧巻であった。二メートルを越える紅の高下駄など圧巻を通り越して冗談沙汰である。天狗殿の石像が異様をかすませるほどだ。 そのときに都々目さんが撮った写真、参道をあがる私の後ろ姿と紅葉を写した一葉は、高級印紙にくっきりと描き出され、我が下宿の壁を飾っている。 遊び廻る日々のなか、都々目さんは別れ際にいつも「今日も楽しかったです。ありがと」と云った。歯をむいてイシシと笑いながらのありがとうである。礼を言われることなど一寸たりともないのに、まったく不思議なものだ。しかも家に帰って風呂に入っていると、毎度のように得体の知れない嬉しさがこみあげて困った。 ほっとしたような、胸がざわつくような、筆舌には尽くしがたい思い。それはやがて、凡々たる生活が特別なものであるとの底知れぬ確信となり、お手軽でお安い遊びの後味となって心の大半をうめつくした。 生活は変わった。灯りがつくように気づくとは然り。暗い夜にやおら灯りがつき、すぐそばに遊園地が広がっていたと知るような変化だった。誰かと歩き、気構えが傾くだけで、世界の見え方は変わっていった。 いっしょにいると退屈な日常が大きく膨らみ、愉快な宝物に見えた。 かといってときにサボタージュに心傾くのもまた人情である。 冬の昼下がり。いつぶりだろうか、昼遅くに目を覚ます心地よさに私は酔いしれていた。窓からさしこむ外光は連日の快晴に疲れきったのか、ひどく濁っている。電線にとまった鳩の機械的で不気味な声も悪くはない。 私は感慨深く欠伸をこぼした。昼過ぎの静けさを乱すのは、外を走りゆく車の騒音くらいのものだ。その騒がしさとて部屋の左右に大柄な本棚で講じた戦線に揉まれ、じんわりかき消えてしまう。版図が足りぬとはみ出して積まれ、熟成と腐敗を重ねる書籍の山脈が、その役割の大半を負うところである。彼らをじっと見ていると、「早く我らを読み倒せやい」と生来よりの大絶叫を投げかけてきてじつに鬱陶しい。バイト先の古書肆で購入した古本であるからして、怨嗟の深さも一般書籍とは段違いであり、触れたが最後、よく浸かった糠漬けに似た旨みで虜になってしまうだろう。しかし本日は諸君らに愛想を振りまく日ではないのだ。 ベッドから降りた私はぺたりと床に座りこみ、ふたたびやってきた眠気をむにゃむにゃとこらえた。冷え冷えしたフローリングは尻に悪いのでヒーターをつけたら居心地良く、本格的に二度寝へ落ちかけたが、そうこうしている場合ではない。私は冷蔵庫から珈琲牛乳をひっぱりだしてから、取り急ぎテレビをつけた。画面には午後のロードショーが照った。自主休校にしたのがこの度放映される映画のためであることは、まったく否定できない。 なにせ放映内容はマウス・オブ・マッドネスである。 放映を知ったのはつい先日のことである。バイト先の古書肆にて店主が読み終えたばかりのテレビガイドを眺めていたところ、剣呑な題が載っていたのだ。思わずタイトルを叫んでしまった。眠りの舟をこいでいた店主はひどく肝を冷やして私を見た。 「マウス・オブ・マッドネスッ」 感激していま一度高らかに云った。 「マウス、オブ、マッドネスッ」 節をつけるほどのことではない。とはいえマウス・オブ・マッドネスなのである。画面に輝く白々とした映像を見つつ、私は今一度、題を呟いた。この作品ときたら、今時はレンタル店でもなかなか出逢えないことも多く、私が最後に見たのは小学生あたりであり、VHSの低画質だった。見逃す訳にはいかないのだ。 クッションを抱き寄せて、三角座りで背中を丸める。目を皿にして真っ白な精神病院の図に食らいつく。次から次へと流れこむ、失踪した作家を巡る目眩く魔と暗黒と幻惑で酩酊した。コマーシャルが流れている間、手すきだからと油断したのが運の尽きである。買いおきのポップコーンの魅力ったらなく、野蛮な手早さであけたが最後、一袋をやすやすと空にしてしまった。行き先は吹出物転炉である。 学生の本分を忘れる。目脂を脱ぐうでもない。傍らに人がいたならば「えらくぐうたらですなぁ」と謗られかねないが、それにつけても至福としか形容できない午後である。 携帯電話に着信があったのは、そんな風に鑑賞を終えた折だった。胡坐を崩した姿勢からごろりと横転し、薄べったい電話機をたぐる。着信表示は、都々目さんであった。私は咳払いをし、 「アロゥ、小烏丸です」 「あ、こ、こんにちは、都々目です」 少し慌てた様子だった。挨拶にあわせて頭を振る姿が目に浮かぶ。そも電話が得意でない都々目さんのことだから、その慌てようというのも致し方ない。 「どうしたんです、電話なんて。なんか変わったことでも……」 「あの、今日はお休みしてるみたいだから、どうしたのかなって」 「万事変わりありませんよ。ちょっとした用事のためサボタージュしただけです」 「イッシシシ、そなの。悪びれもしないとはぁ。いやぁしかし、そっか、よかった。もしかしたら体調でも崩したんじゃないのかなとか思ったのです」 と、ひと笑いした都々目さんは小さく一息ついた。 「心配をおかけしたようで申し訳ない」 「ううんいいの、わたしが勝手にあわあわしただけだから」 どこか気が抜けたようだった。 悪いことをしたな。私は強く頭皮をかいた。白昼から呑気に暗黒幻想に浸るのと同じくして、学校ではのっぺりと退屈な時間が過ぎていたのではないか。その考えが脇腹を小突き廻して居心地がたいへんよろしくない。「もう休まぬぞい」と誰に誓ったわけではない。だが、都々目さんの愉快げな顔を怠惰の波に乗せて、だらりと流してしまうというのは、あの顔を好ましく感じていた私自身にも不誠実ではないか。考えに側頭部を殴られ、目が回った。こうもぐるぐるとしていると、そのうちバターになってしまいそうである。 「あの、いきなり電話して、ごめんね」 こちらのだんまりを気にしてか、都々目さんは云った。 私は誰にともなく首を横に振り、 「なあに気にしなさるな。明日は行きますよ、ええ、ちゃんと行きますとも」 「うん」 消え入るような応答に、心残りを感じた。例えばパピコの蓋にアイスが残っていると注意を引かれてしまうような、瑣末な語勢である。私は電話を持ち直し、 「もしかしてですか」 「なあに」 「他にもなにがしか云いたいことがあったのではないかと」 「……ううん、なにもないよ」 そう締めて何秒かおたがいに黙した後、静かなトーンで、 「嘘、やっぱりある。あります」 電話機のむこう側で深呼吸をするのがわかった。 「あのね、その、一人だとつまらないし、いざ小烏丸さんの顔が見えないと、いささか寂しいのです。だから、元気なときに休んだりするなら、その――メール、ちょうだいな。くれると嬉しいな。なんてね」 私は頭を殴られたような気がした。自信なさげにささやく都々目さんの声にあてられ、胸の裏側が沸騰した。たった一日とはいえきみがそんな風に考えていたとは。人を寂しがらせるのはいいことではない。「次からはちゃんとします、絶対」と私は強く云い募った。 私は受話口にのらぬよう繰り返す。絶対に。 たった一日休んだだけにもかかわらず、伊那白はコンコンとうるさかった。 「この季節の風邪は長引かせると厄介ですのよ」「すぐ治すにはジュンパイロを飲むのが一等いいですわ」「映画のために休むとはナニゴトッ」「このポンポコリンッ」 これらはすべて、朝のホームルーム後の小休止にて叩きつけられた叫びである。鬱陶しいったらない。うっかりと休んだ理由を話したのを後悔しつつ、私は登校中に買ったウィダーインゼリーの封を切った。ついつい油断してしまうのは悪い癖、心配させてもよろしくないかと気を利かせたのが運の尽きだ。 「そこまで云うことじゃないだろう」 「ふぬん、まあいいでしょう。患いごとがないなら上等ですわ」 「お前に心配なんぞされたかないやい」 「ひどいわね、こんなに心配する同窓生、そうそういませんことよ」 伊那白はふんすと鼻息を吐いて腕を組む。 「おるわい」 と、私は腹ごなしのウィダーインゼリーをずびずび吸い上げた。ふと教室の出入口を見たところ、黄色のヘッドホンをかけた都々目さんが入ってくるのが見えた。すこし遅めのご登校であるう。私が会釈をすると、眠気で宙を舞っている眼差しがぴたりと定まり、お辞儀が返ってきた。ヘッドホンを外し、ぽてぽてとこちらに歩いてくる。私は「おるわい」と云い、不審げな伊那白を見返した。 サボタージュからあがって何日もせぬうちに、冬休みがやってきた。 長期の休みにひたった昼の通学路は、いっそうに鳴りを潜めていた。二学期の終わりを前にしてぐだぐだとした空気が漂うクラスとお別れを告げて二日が経つが、町には早くも師走がでんと居座っていた。師走は毎年毎年いかにも偉そうだ。彼一流のオーラは高い空に曇りをかざし、寒風がびうびうと辻に砂埃を転がしては、人々のコートの裾を傲然とかすめていく。寒さで総毛立たせる。まったく悪質である。しかし一丁前の気をつかってか雨が降るでもなく、曇天はひたすらどっしり構えていた。 私はモッズコートの前をあわせてマフラーを正し、胸の前で腕を組んだ。「さぶさぶ」と意味不明の小声が噛んだ歯の隙間から漏れる。私は待ち合わせ場所を目指してほてほてと歩む。この日、遊ぼうと提案したのは都々目さんである。 通学路の辻から小道にちょいと折れ、雑木林から眠たげな木陰が延びる道にはいった。そこから坂を上がっていくと、公園に面した一軒の喫茶店が見える。小ヂンマリした構えで住宅地に調和する「カフェ・ド・鬼」だ。 名の厳しさが伝わらぬよう、立て看板の店名は洒落たブラックレター書体で記されているが、紛れもなくカフェ・ド・鬼である。先代の店主が鬼であったことを由縁とする店名だ。何故オーガではなく鬼なのかは知る人ぞ知るというが、私はその知る人に一人として出会ったことはない。まあもっとも現在では志を継ぐ影女、隅田川氏が店主を務めているから実情はさしずめ「カフェ・ド・オンブル」といったところだろうか。 いかにも静々と大人びた店ではあるが、紅茶もケーキも美味しくお手ごろ価格だ。私は約束を果たすために都々目さんを連れ立ち、日頃不足しがちな洒落っ気と甘味を補うべくして入り浸っていた。ゆるゆると喫する茶の味はたとえようがないものだ。 ドアに寄ると木枠に嵌められたガラスに目目連が瞬いた。ちらりとした歓迎は、浮き彫りと光の加減でなされる、一種光学的なトリックだった。そういえば初めて都々目さんと来たときにはいたく感銘を受けていたな。思い返しつつドアを押し開くと、暖房がふんわりと肌を撫でる。慣れぬ人は錯視を疑う、外観にそぐわぬ奥行きに、珈琲の芳香が舞っていた。これというのは錯視ではなくちょっとした術によるものだ。 給仕を務める狸のお姐さんはよく心得ている方だ。辞を低く一礼し、 「お連れちゃん、来ておられますよ」 と、微笑み混じりに声低く告げた。ずんずんと進んでは席を四つ五つと越えていく間にお姐さんは「そういや最近は小説を書かないんですかい……」と尋ねてきた。 「はあ」 私は生あくびと大差ない相槌を打ってしまった。慌てて咳払いし、 「あ、いや、書いてはいるんですが、文机にむかうようになりまして」 「あらあらそうでしたか。なんやらここんところ、うちで書いてるのを見かけませんでね、書くのやめちまったのかと心配してたんすよ。ほら、窓際で万年筆をかじってるときなんか、やったらと角ばった文豪ってな感じ、しやしたからね」 「だってほら、そういうのって友達には見せられんような様ですし」 「なんでぃ、出し惜しみですかい」 「それ以前の問題です。乙女らしからぬ面構えだったでしょ。ムキィと」 「いやいや大層、様になってやした。もってぃねぃ」 このお姐さんは田舎から出て二年というところらしく、油断すると伝法な口ぶりが出てくる。私と同じように咳でごまかすと「ま、お客さんの好き好きですな、失敬しやした」と呟いた。 実際己の姿勢を俯瞰などできないし、どの面をさげて書いているのかわからないから好き勝手やれるが、いざ言及されると相当に決まり悪いものがあった。形からと格好つけて、ここで書いていたのだ。それがバレているということではないか。恥ずかしいったらないではないかッ。私はから笑いで目眩をこらえた。 黙って後ろをついていると、徐々に光の厚みが変わる。店にさす陽が遠のく。隅田川氏が好む間接照明がセピア色で板敷の床を怪しく艶めかせる特等席だ。先に来ていた都々目さんはレモンティーを舐めつつ、iPadで画像を眺めていた。 大きな瞳が私を見て細まり、小さく手を振ってきた。私は微笑んで会釈し、 「いやはや、お待たせしたようで」 「そんなに待ってないよ。つい十分くらい前にきたばっかり」 と、頭をぶんぶんと振った。 「そりゃよかった」 私はマフラーをもぎ取り、ミルクティーを注文した。腰をすっかり落ち着ければ、音が絞られたジャズの音色で飾られた、至福の静寂が降りてくる。天気のことを話しているうちにアッサム茶葉からほどけた深い橙色とミルクが並んだ。本題はここからである。遊びとはいいつつも、実情はほんのちょっとした作戦会議なのだ。 休みとは、すべからく満喫すべきものである。仮に無意義であろうとスットコドッコイであろうと満喫すべき。その精神のもと、終業式からの帰り道、冬休み中に写真を撮りにゆこうという約束をしたのだ。今日はそのロケーションについての会議なのである。 都々目さんは「ここなんかどうかなって」とiPadを私に差しむけた。 団地を切り取ったその画像は、ひとつの群れだった。夕暮れで尖った日差しが、集合住宅に窓をきらめかせていた。経年変化を迎えた石灰色の壁は、乾いた色相に雀の羽色を織り交ぜており、横臥した巨人めかした印象をかける。無駄なく生活という物語を行き渡らせる設計のシルエットがまとうのは、静かに瞼を閉じたような穏やかさだった。 広々と土地を食らう団地は、そこはかとない憂愁と規則性の美で飾っていた。 「どうでしょうか」 首を傾げる都々目さんに、私は口角を上げて、 「痺れますな。しんとした構えがいいし、実地を見てみたいな」 「こう具合がよく寂れた団地ってそうそうないよね。夏ごろだったかな、となりの市に出かけたときに通りがかってね、外見だけ撮ったの」 「その折はなかにはいらなかったんですか」 「いやぁ、夕暮れ時だったからね」 都々目さんは首を横に振った。 私はなんとなく、初めて出会った夏日を思い起こした。 「なるほど気を使って入れなかったと」 「そのときは周りうろついてただけで、小学生にびっくりされちゃったんです。あんまり妖怪も住んでなさそうだったから、その日はやめとこうって」 と、都々目さんはiPadを手許に引き寄せた。 「でも二人で行けば、それほど不審がられることもなさそうですな」 「うん。それとね、また小烏丸さんのこと撮りたいの。できれば、お顔も含めて」 都々目さんはカップに口をつけた。眼鏡越しの上目遣いで見られた私は「ううん」といささか微妙な応答をした。鮮やかなアッサムにミルクを注ぎつつ、 「ファインダに収まるっていうのはなかなか慣れませんで」 己を客観視し、他と比していかにも高潔な女子高生としての姿を省みるのは慣れきっている。だが人様の手並みによって写真にぱちりと切り取られることへの照れは抜け切らないのだ。そも写真に写るというのが得意ではない。 意図せぬ隙を見破られて底が浅いやら深いやらな身の内が露わになるのでは、と心がざわめくのだ。愛らしさなら万々歳であるが伽藍堂が顔に映えた日には、心折れて誰にも顔向けできないではないか。だから今までも、撮られるときは大体後姿だった。 「わたしね、小烏丸さんがどこかを見てるときの横顔って、とても素敵だと思うのです」 「世辞をおっしゃる」 頭が照れで焼けた。ぐらついた。揺籃という語があるが、まさしくそれだ。 「嘘とかおべっかじゃなしに撮り甲斐があるんですよ。小烏丸さんは気づいていないのやも知れませぬがぁ」 都々目さんは、両手の人差指と拇指で作った四角形を通して見据えた。何が撮り甲斐となるかの根拠を論ずるでもなく、ただ黒い瞳がセピア色に濡れてきらめいた。 「そこまでですか」 と私は架空のファインダを横にずらした。都々目さんの顔もついてくる。カメラを手にするときの癖で、桜色の唇を浅く噛んでいた。 「そこまでですよ。撮ってて楽しいもん」 「なんか腑に落ちがたいものがありますぜ」 「そうかな……。でもねー」 「珍しく食い下がりますねぇ」 「そんなに嫌ならいいのですけどね。でもなんだか、この機会を捉えてカメラを向けなきゃずっと拒まれそうな気がするんですよ。だから今度こそって」 白い頬が黒髪に隠れた。iPadの画面にむかって俯いたのだ。眼鏡が「ずる」と少しずれた。私は気難しげに押し黙るほかなく、見下ろしたカップでは、濁った水面にミルクの名残が一筋の白を残し、それもじきに、ぬるりと消えていった。都々目さんなら私をきちんと写してくれるのではないか。信じるに値するだけの人ではないか。まだかっかする頬を拇指の付け根でこすり、私はぎこちなく顔を上げた。 「そこまでいうのなら」 と切り出す。都々目さんの顔がぱっと明るくなった。まったくゲンキンである。もっとも私も見掛けほど不承不承とはしていない。きらめく眼差しを受けるのがとにかく嬉しい。 私は脳内の洞穴で盛大に叫んだ。「なんてカワユイ面持ち! 妥協は大事!」と。 チーズケーキやらモンブランやらを二個、三個と食べて一時間ほど話しこんでから、カフェ・ド・鬼を後にした。都々目さんは機嫌よく足を伸ばし、膝下まであるロングブーツの底を高らかに鳴らしていた。 薄曇りのもとを散歩し、駅前の小さな雑貨屋を冷やかした。 私が手にとった土鈴付きストラップを、「あ、かわいいね」と都々目さんが人差し指でつんと突いた。福々しく丸まった萌黄色の団龍だ。実用性があるかも知れぬ瓦落多というのは得もいわれぬ引力があった。ちいちゃな店内が累々と重ねる物欲を、値札に記された手頃な数字が後押ししてくる。私はうかうかと財布の緒をゆるめてしまった。 一方で髪留めを見ていた都々目さんは、鋏を象ったピンを手にとっていた。試しにつけた黒髪に、いぶしのかかった金色がさらりと馴染む。乙女の可愛げを総動員したかのようによく似合っているではないか。いや似合うなどという単純な表現では足りない。 都々目さんははにかみつつ、 「どうかな、変じゃないかな……」 「初々しさ満ち満ちて、こう、いっそ殺人的ですよ。カメラ持ってくりゃよかった」 「そこまでですかッ。ていうか殺人的ってそれはイイ意味なのかなッ」 「私がキルされるだけなのでぜんぜん危うくないですよ」 拇指を立てずにはいられなかった。 都々目さんはピンを外しながら、すべすべした掌に転がしてレジへ向かった。おたがいいい買い物ができると気持ちが弾む、帰り道も脚が軽かった。 「またね。日が近づいたら電話します」 「ええ、じゃあまた今度」 家への分岐点となる交差点で別れる頃には星が瞬いていた。ふわついて横断歩道を渡っていく都々目さんのふわつく足取りを見送ってから、私も帰路についた。 |
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