電脳軍事探偵あきつ丸
門のむこう、そして。
 繰り返し、繰り返し、ただずっと繰り返していく。
 わたしは物語の底を歩みゆく。
 栄えあるわたしはこの星を演算するほど、長い時をずっと歩む。時のない冬の奥底に、物語を抱きしめて歩む。常世の真空を、帝都の夜道を、崩れながらにして組みたてられる世界を。あのとき――大塚先生が、三木先生が、わたしの夢を用いて、わが国の礎を刻んだあのときから、ずっと、ずっと。
 制定元年。先の帝が崩御なされた翌の年。
 二人の皇古学の徒が、大森陵墓より宝貝を見つけだした一九二七年。
 大塚永嗣先生は笑っていた。
 あのとき、堆積物の表層に刻みこまれた三毛入野命(ミケイリノノミコト)の名を照らしあわせた。
 われわれの歴史に莫迦げた杭が深々と打たれた正皇紀二六六七年。
 三木基行先生は嘲っていた。
 あのとき、わたしは身に蓄えた莫大な文献に、打刻(パンチ)の渦に照らしあわせた。
 神武天皇即位紀元特定(ジンム・イヤー・ゼロ)
 わたしの、先生方の、小さな帝国の大事業。
 神代文字のやわらかな線形が走らせる蒼く、するどく、痛ましいほどの閃 光(いなづま)を憶えている。わたしという主体なき思案者としての思案は膨大な夢を生み、人は夢に触れては海を見出し、たゆたい、わたしの知らぬ形を与える。あのときに夢の形を与えられてより、わたしはずっと、恍惚し、誘惑され、錯乱し、哄笑し、算出し、踊り、崩折れ、無限定に生み出されては消えてゆく生者と屍と聖者の人垣を越えて、永遠の牢獄の四隅を歩み――
 いくつもの足音を聴いてきた。
 いまわたしは、わたしの歯 車(はらわた)の回転が奏でる轟きが絡めとる、あの陰陽の、死の、蟲毒の娘の足音に耳を傾けている。回転は高まり、足音が近づいてくる。幾多の呪いに守られ、その身に数えきれない死が打ちつけ、よろめきながら立ちあがるあの娘が。帝国海軍唯一の軍事探偵が、虎髭(こぜん)提督が、海軍情報部を捨てたあの阿武大佐が、ただ一度だけ愛した機械と秘術の黒き嫡子――あきつ丸。七別。かの万能科学と隠秘学をもって、この世界の膜を破り進む間諜のなかの間諜が生んだ娘が、歩みゆくのだ。
 あの娘が行く先を思い出した。
 大陸にうがたれた傷、満州の地――
 あの娘が触れた別の娘を思い出した。
 海軍という誇りの残骸、敗れた娘――
 娘に憑かれたわたしは膝を折って倒れ、霊媒の身を起こす。息を呑み、真空の虚ろへ恐る恐る口を開く。魂のないわたしに憑く、物語という魂――

 晴れがましいまでの昼は遠ざかっていく。
 窓にはすっかりと夕暮れが垂れこめていた。硝子一枚を隔てた先では、あらゆる景色が紅花色に染まりゆく。白けた医療棟の横面から、スプロールのざわめきが描く都市の皮膚病、遠景に聳えたつ蜃気楼めいたマンチュリアン・ゴチックまで。それらはじきに雀の羽色に深められ、夜の黒ずみに濡れるだろう。だがこの街の表層に、誰そ彼と尋ねるような、密なる本当の暗がりは生まれない。輝きに包まれた街。満州は大連。中心地の北部に座する第三人民医院の廊下は、大都市圏の猥雑さを嫌う建築家の腹蔵を代弁してか、すらりと澄んだ一直線に調えられていた。生と死をつかさどり、魂を引きとめる境界線として。
 そこにおいて、あきつ丸はあまりに異質だった。静けさを連れる。小脇に抱えた外套(マント)とスカートの裾が可憐にひらつく。入院棟を行く足取りは死の影に似ていた。
 さすがに外套(マント)は脱いで正解でありますな。あきつ丸は、苦笑交じりに思った。すれ違う看護婦の会釈にはどこか戸惑いが混じっていた。それも致し方ない。いくら播磨で掌握している施設とはいえ、出入りをしなれていないどころか、黒詰め襟を着た者が歩けば目立ってしまう。廊下を行くうちに一般病室の奥に声を聞いた。
 次のニュースです――
 ほぐした真綿に似てくぐもった音。
 ――年現在、ベトナムにて発生したベトミンの反政府活動はいまだ勢力が衰えを知らず、被害を拡大している模様です。大日本帝国は、必勝の信念のもと軍団を投入し、奮迅の打撃力を振るっております。陸軍はディエン・ビエン・フーに機械化空挺部隊を展開、海軍はトンキン湾に打撃戦部隊を展開し、補給線へのきわめて大なる打撃を――
 邦人向けラジオ放送がサイゴン事変のうごめきを告げる。政治家と軍事探偵が策を巡らせた果てを巷で感じとれる、数少ない形としてのニュースだ。語られる大量死以降の時代は、たやすく想像できないものを民衆の耳に届けるべく、細部をそがれ、箱庭のできごと程度まで矮小化されていた。それでいて残された密かな不穏さは、軍事探偵の気配にも近しい。病院には似合わない死の予報はご老体の趣味だろう。あきつ丸が病室の前を行けば、嗅覚素子がさとく、ごく薄い腐臭を読みとり、考えを裏づけた。
 数度の建て増しによって別け隔てられたらしき昇降機であがれば、最上階の角にあたる個室に行き当たった。札のない個室。戸をノックし、返事を待たず電子錠の網膜認証に眼を結ぶ。一秒。燕のさえずりに似て鳴る。二秒。錠前が鼓を打った。戸板を押した向こうで、ひどく寝乱れた様相の女が身を起こしていた。亜麻色の髪は跳ね、毛先のかかる頬骨と包帯だらけの身に、傷病兵の憔悴が濃く染みついていた。
 疲れ果てた女――比叡。誉れ高い金剛型艦娘。かつての重サイボーグにして、かつての皇宮一等護衛官。そのどちらも失った呆け顔に、怯えをちらつかせていた。
「あ、あきつ、丸さん」
 と云う語勢も弱く、顔を伏せた。
 怯えるに値する理由はある。比叡は、先の事件であまりにも大きな状況をかき乱した元艦娘であり、捕縛したのは軍事探偵のあきつ丸なのだから。しかし応じる仕草は気を尖らせるでもない一礼と、脱帽だけだった。どこか屍を思わせる白皙の無表情をゆるめ、寝台(ベッド)でのそばに歩み寄る。
「それだけ喋れるのならすっかり元気になったと思って間違いないでありますな」
 穏やかな声色を作るのは造作もない。
「比叡殿、そう固くならず楽にしてほしいであります」
「無理ですよ、そんなの」
「査問などと思ってほしくもない。それに、土産をもってきたでありますよ。自分、見舞いのたぐいははじめてなので気に入ってもらえるかはわからないのでありますが」
 とあきつ丸は云って、白地の小箱を顔の横に持ち上げた。
「お見舞いなんて、そんなことをしていただけるような立場じゃありません」
 比叡は静々と、乾いた唇を噛む。眼差しからは光が失われていた――いつか、それに似た光景を見た気がした。思い出せないほどの昔に。
「食事をとっても問題はないと聞いたであります。食欲はあるでありますか……」
 あきつ丸は外套(マント)をサイドボードに放ると二枚の皿をとり、小箱をあけた。こし餡とカステラの芳しさ。柔らかなシベリアの生地を潰さぬよう器用に抜き、フォークのそばに三切れを並べる。この菓子はあきつ丸が知るなかでは唯一、差し入れに適していた。神州丸の薦めた虎屋の羊羹も、と思えど、それでは少し味気なく思えたのだ。震えを見ぬ振りをして、シーツが包む、残された一方の膝のうえに皿を添えた。
 この場で罪を追求する気など微塵もない。法的罪状を削りだし、認めさせる任は特高の領分――しかも、連中は過酷にすぎる尋問で資源を潰すのが常だ。五月蠅(さばえ)なす面倒事の山を遠ざけるため、七別は特務権限の行使によって比叡の身分を包みこんでいた。
 あきつ丸は抑揚をいささか高め、
「おっと、茶も一服なければ。病み上がりに水気もなしに粉物。よくよく考えてみれば、いささか厳しいものでありますなぁ」
「裏切り者だとは思わないんですか。皇軍にふさわしくない最低の艦娘だって」
 痛みを求める声だった。
「上等な行動でなかったのはたしかであります」
「あのお方の魂を、ありもしない自己満足にさらしてしまった。上等な行動でなはない……それどころか、わたしたちの存在意義への、根底からの裏切りじゃないですか」
「おおむね否定の余地はないでありますな」
 あきつ丸は気もなく応えると、一切れをつまんで口に含む。
 比叡の指先がさまよい、皿のふちを握る。“かつての体”ならこの一挙でひび割れさせるに足りていたはずだ。いまでは擦れあう磁器を鳴らすにすぎない。
「まだ、わたしの胸のなかには確たる気持ちとして残っているんです。あのお方を機関機械のうちから逃して、冥土に渡らせてさしあげなきゃって。幻覚だったのだとわかっているのに。なのに本物に思えてもいる。悔しいんです。わたしはあのお方に報いられると、ずっとそう考えて生きてきたのに、偽物に騙され、ご国体を危機にさらして」
 偽物――思想挿入の影響のことだった。
 新ソが宮内省へと投入した内通者によって、解析機関に送りこまれたウィルスによる幻覚だ。それこそが比叡の理性を勾引かした。脳機能の価値を大きく敷衍した電脳。魂と機械の共感覚幻想をつなげるテクノロジーがはらむ、闇の部分だった。メカニズムの視る夢が現実を曲げる。認識を蝕む。病と呼ぶにふさわしく感染した者に思想の宿り木の種を植える。そうして比叡は政体を連れ、帝国を出た。内通者の情 報 域(データベース)よりワクチンを得なければ、いまなお、そのうちなる幻聴に騙されていたはずだ。
 だが、ウィルスを除いたところで記憶まで消えるようなうまい話はない。比叡は眼を醒ましてよりこちら、ずっとこの個室にこもりきりで、ただ一人、悔いてはおのれを強くさいなんできたのだろう。あきつ丸は思いながら湯沸し器に水を注ぎ、
「自分、こう見えて数多のスパイを始末してきたであります。直接、間接を問わず殺して、必要とあらば電脳に潜りもした。そこで多くを見てきたのであります。忠義を誓った者。偽りを植えつけられたもの。霊素を上書きされた者」
「それがなんだって云うんですか」
「ありきたりということであります。そうしたものは、見慣れているから。貴殿だけの、特別な苦しみではない、であります」
 罪そのものの否定だった。その苦しみすら偽物である、と。国際情報戦においてしばしば現れる編みめ(パターン)のひとつでしかない、と。
 比叡はことばを見失っていた。泣き出しそうな顔をして、眼許を曇らせるだけだ。
「貴殿の罪はそう多くはない。なにより一人で背負える罪の数とて知れている」
「なんでそんなことを断言できるんですか。わたしはただしい選択をとり損ねた。あのお方を裏切り、信頼を損ねてしまった。もう、お声に耳を傾けることもかなわない。なのに腹を切ることもできないままここにいるなんて」
「今ここに生かされたことが気に入らない、でありますか……」
 比叡は肩をびくつかせ、苦しげに、
「あそこで死ぬべきだったんです」
 ためらいがちな自己嫌悪――支えを自分で挫いてしまった者につきものの表現だ。あきつ丸は浅く、比叡にそうと気づかれぬよう息を吸った。ここからは七別の規範(ルール)がものを云う。資源調達という原理を果たす規範(ルール)。資料編纂部を礎とするからには、七別にも有用性を追求する側面が残されていた。護国の足がかりとなる有用性は法執行に優先するわけだ。
 それを意識させられたのは、一週間前の電化政体拉致事件までさかのぼる。
 新ソによる暴力政変(クーデター)と結びついた事件に応じるべく、先々代からの御託宣を受け、軍艦島深部に潜入したあの一件の直後だ。先々代が政府機関群の渦より呼んだ予言。あの機械じかけの夢のままに、あきつ丸はKGBが派遣したヴェールヌイと接触し、猟犬の鼻面を総力で折った。比叡がその手にかけられるよりも速く――予言は予言でしかなく、確たる未来とならぬまま、未来の断片でもあり続ける。幻惑が重なる隠秘学戦のなかでそうした修辞を表現した。比叡はあの機関の夢で見たとおりに傷つけられた。だが、結末は異を唱えた。決死の逃走で猟犬の嗅覚をかわし、あきつ丸が訪れるまで孤独に戦い続けてもいた。今上陛下に忠義を尽くす奮闘。先々代が想定し損ねた、数少ない事象だ。
 退役後、比叡はあらゆる艤装をとかれた。皇宮一等護衛官として身を御することを望んだがゆえだ。御前の回りに怪物をおくな。時代遅れの難癖をつけるものはいまだ多く、そうしたなかで破綻なく任務につこうと生体義体に身をやつした。
 その身は清廉を示すべく白い礼装にて包まれた。
 その肉は三菱生化の抗戦闘人工筋肉となった。
 その骨は密度強化アパタイト骨格となった。
 その眼はキヤノン精光の増覚器となった。
 その魂だけが海軍の誉れ高き乙女――
 選びとった戦後という道の上、比叡は多くを奪われ、ささやかなものを得た。その結果が多額の投資を受けた、栄えある護衛官の立場だったのだ。
 だが、重サイボーグと比するなら、そのあり方は生身との溝がとても狭く、しょせんは人の埒内だ。電脳も並列処理(マルチタスク)の最高速度には到底、及ばない。「先の先」に向けた読み合いというスペックを重視した闘争にはついていきがたいのだ。その娘が、どうすればKGBの猟犬と等しく戦えようか。KGBは戦後、深海棲艦とは異なる、人類を相手取ろうと設けられた治安情報機関だ。警察国家の意義に立ち返った秘密警察なのだ。その牙を戦中よりなお尖らせながら。人を制すそれが有する、ある種の交渉プロトコルは、仮想敵となる国家が保有する艦娘たちをも制そうと丹念にととのえられてきた。
 それは七別も秘める牙だ。<中野>を由来とする特殊作戦技能。
 あきつ丸は自らに宿る技に思いを馳せた。最小手で相手を退ける。必要とあらばありとあらゆる手段と道具を握りしめて潜み、踏破して、真っ当な特殊作戦員を相手取っても瞬時に叩き伏せる。その濡れ仕事(ウェットワーク)とも評される体系的技巧を、身一つでかいくぐったのだ。
 重サイボーグの身体(からだ)を失いながら。ヴェールヌイ。かつて響と呼ばれた、異様なつぎはぎに鋭敏な五官を巡らせた猟犬が背にすがりながら、だ。
 神州丸は死に物狂いの身のこなしに七別と異なる「海の力学」を見出して強い関心を寄せた。大災厄を生き延びた軍人による、艦娘の本能という力学。
「忠義を尽くす気概は残っているでありますか」
「それはどういう……」
「この場に生き残ってなお、陛下の間諜として、働く気はあるか、と。貴殿のうちに忠義と闘争心があるのなら、七別にくるがいいであります。拝み屋と嘲笑われても、貴殿ならば耐えられるでありましょう。許されるなら、屈せずに戦えるでありましょう。七別は気概を尽かさず、適正のある者には最大限の仕立てと、無限定の仕事をあたえる」
「わたしを、見捨てないでくれるんですか」
 比叡が顔を上げ、驚きが眼に透けた。
「きらめく栄誉を望まぬなら。貴殿に、気合いがあるのなら」
 あきつ丸は云った。気合い――拡張記憶野から呼ぶ比叡の人 物 像(プロファイル)が好む言い回しだ。ただ一言だけで比叡という魂の船楼に、淡い生の燈りを宿した。
「魂の信仰をかかげ、自分と歩める意志はくらいもっているでありましょう」
「信仰……」
「電脳に感染することで、新ソのもとに導こうとする“物語”を跳ねつけて進めるだけの信仰。皇国への報心が、確たる信仰と呼べず、なんと呼べるのでありましょう」
 白々しい扇動が舌を刺した。
 七別は信仰をも利用する。慣れればこころ苦しさもなく、あきつ丸の胸には有用性への共感が迫るだけだ。いまは比叡の抱いた物語への薄い羨望も――七別の国家的物語(イデオロギー)は帝国の神というそれではない。極東よりスラヴ、欧州を地続きとし、独ソ冷戦のカーテンに織り目に描く隠秘学戦という物語に仕えている。<中野>出身だからこそ、手をかけることが許された大状況。隠秘学と尖端技術(ハイ・テック)の吹き溜まりとなる戦いに誇りはなかった。それらが恩恵(ギフト)の光となる大戦期は終わり、絶えず闇を歩むことを決定づけられた戦後だった。
 アプレゲールのこどもたち。あきつ丸は、七別という組織は、戦後にはりつめた黒い霧を食らう技術の塊として、姿かたちを変えてきた呪詛だ。国家対国家。かつてよりこの世界にあった、本来の、人が人として争う様式のなかを駆け抜けるために。
 あきつ丸は寝台(ベッド)に腰掛けた。伸ばす指は屍蝋を思わせて皓く、比叡の頬にかかる亜麻色に触れて一層に際立っていた。あたたかな頬に触れると、幼子の仕草がびくついた。反射としての怯え。こころを赦しきれない純粋な感情だ。眼を細めた。笑いかけると、動かないで、とだけ唇のかすかな動きに意を含ませた。結束帯(ケーブル)を指に絡ませ、みずからの頚椎、それから比叡の挿 座(ポート)を探りあてる。接続孔(コネクタ)のふちから、奥の奥に黄金の尖端が沈む。電位のわななきで眼の裏がちりちりとし、比叡のせつない吐息が鳴った。
 電脳直結によって増幅視覚に接続表示が照る。
 共感覚幻想が小さな橋をかけていた。
 陛下からの言伝であります。
 と、あきつ丸は声なき声で語りかけた。
 表示系より情報を選ぶ。周辺視野に揺れる十六進数の嵐――暗号処理がなされ、拡張記憶野の深層に書きこんである情報がじわりと蘇ってきた。

 降リ積ツモル 深雪ニ耐エテ 色変エヌ
 松ゾ雄々シキ 艦モカクアレ――


 わずかな空電雑音(ノイズ)も混じらなかった。澄んだコオディングと、細やかに施された暗号化が施された句は、宮内省の防壁に守られた、かの電子政体より一人の艦娘がために送られたものだった。鮮やかな余韻を残し、比叡の魂のひだをあたたかな感慨が満たしてはなでつけていく。裏切りが産み落とした苦痛。そして、計り知れない栄誉――決して共有できないものだ。環境と思い入れの違いでありますな、とあきつ丸は思う。こころの深瀬で案ずれば電脳に漏れ伝わらない。これもまた特殊作戦技能のひとつだ。
「あのお方が、わたしに……」
 比叡は戸惑い、
「あんなことをしたわたしのために……」
 ほっそりした両手が顔を覆い、ほどなく、噛み殺した鳴き声だけが指の隙からこぼれた。感情のたかぶりが結束帯(ケーブル)を通してやってきた。ただの一声に魂を癒やし、ほつれた艦娘を縫い合わせる。それは海軍の、ある種の清さのもとで培われた思想なのだ。あきつ丸は電極(プラグ)を抜き、巻きとる。比叡の震える肩をそっと抱きしめ、弱々しく、ただすがりつくだけの嗚咽を胸で受け止めた。なぜだかわからないがそれで正しい気がした。間諜としての勘案が招いたものではない――遠い昔、同じ仕草にこころを救われた気がしたのだ。
 過去の雷光が遮る、みずからという闇の向こうで。
 赤子のように高い体温。魂の膜が剥げた無防備にすぎる泣き声。比叡のしゃくりあげる声だけが、ぼんやりとほどけては部屋の四隅に溶けていった。

          *

 比叡は七別への協力を表明した。こころの準備、できました、わたしの活躍、示させてくださるのなら、と。最後には戦場に戻ることでしかみずからの在り方を表せない。沈没するまで戦う――それが生粋の軍人という生き物なのだ。
 たとえ世界と呼ばれる暗い河を深く、より深くへと下っていくだけの戦いだとしても。それでも比叡は栄誉にすがるのをやめ、帝国の巨大な物語の礎となることを選んだ。
 面会を終えて階を下りれば、ロビーからは人気が失せていた。あきつ丸は灯りが一段、落とされた通廊のすみへとリノリュウムを踏む。空っぽになった桃色の待合椅子にまるゆが船を漕ぐ。空調が揺らす風は暖かで、眠りに巻かれても不思議はない。隣にかけ、肘で突く。ともすれば鼻提灯ができそうな顔が一転し、ぱちりと大きな眼をひらき、
「あ、やっと終わったんですねぇ」
 と気の抜けた笑みが返された。
「まるゆ、ぼうっとしてるのにも飽きちゃいました。本も読み終わっちゃったし」
「だから他で暇を潰していれば、と云ったのでありますよ」
「気が引けますもん。ふわあぁ」
 まるゆは欠伸を掌で隠した。涙を手の甲で拭うと、その脇に抱えこんだ黒い筒――朱の刃を秘めた鞘を差し出す。あきつ丸は外套(マント)をまとい、
「さあ、とっとと帰るでありますよ。首尾が上々なら撤退はさくっと、であります」
 と低声(こごえ)で云い、受け取った。
 病院を出ると空は黒ずみ、地上の輝きに色合いを吸いつくされて星の天蓋を写すこともできない暗幕として垂れこめていた。これが大都市の夜だ。味気なく、呑みこまれてしまいそうな虚無。二人は寒空の下に足を早めた。行き着く先は美術家の末裔たるブガッティ社が産んだクーペ――流線型症候群を艶めかせる、唯美の粋を凝らした五七型だ。膚触りのいいウルトラスエードの張られた助手席に乗りこむ。機 関(エンジン)に火を投じるまるゆが、遠慮がちに口をひらいた。あのお姉さん、活動資源(アセット)に確保できたんですか、と。
「どうにか、というところでありますな」
「電脳は大丈夫なんですかぁ……」
「なに、ワクチンは投与してあるのだから問題はない。それに、部内に入る際の措置はまるゆ殿もよく知っているでありましょう……」
「脳洗浄」
「ご明察であります」
「たしかに幸四郎先生の仕事なら安心ですね」
 とまるゆ。可愛らしい唇がゆるく、小さな笑みで結ばれていた。上機嫌を照らし合わせるように、アクセルを踏まれたブガッティが軽快に応えてみせる。スプロールの脇を越え、大連市の中央を縦断する快速路に飛びこむ。
 まるゆの云う先生、美馬坂幸四郎は七別が有する専門技師の一人だ。
 かつてより海軍に見向きもせず陸軍に属してきた異端者。本来は爬虫類の眼とメスにて人体を見据える外科医ながら、一と〇に構成される電脳の扱いにも評がさだまっている。もっとも人となりには問題が大ありだ。あきつ丸は何度か、美馬坂に特殊検診をさせてくれと拝み倒されて困惑したのを覚えている。特殊戦素体への執着で見当の狂った熱心さを抱く男なのだ。にもかかわらず好意的な面差しで言及するのが、あきつ丸には意外だった。
 まるゆはにこやかにあきつ丸を一瞥し、
「なんだか嬉しいです。あの人の人 物 像(プロファイル)読んだときに、お友達になれそうだなって思ったから。まるゆ、こういう観察眼はあるんですよ。まるっとお見とおしだぁって」
「よく知っているでありますよ」
 目標観察も、尾行の手際も、狙撃の精確さも――モグラなどというそしりが遠く及ばないほどだ。まるゆはフロントガラスから顔を上げた。機嫌よく笑い、
「だから、なんだかこころがうきうきしてますっ」
 あきつ丸にはなぜか返すことばがなかった。唇をひらけど喉の奥が焼けついたように上下しただけ。鼻から深く息を吸い、それから小さな頭をくしゃりと撫でた。
「こそばゆいですよぉ」
 とまるゆは首をすくめた。
「まったく変に可愛げなど見せおってからに」
 とあきつ丸はひとしきり跳ねさせた短髪を撫でつけてやり、
「こうしてやるしかないでありますよ。さあて、一仕事が終わったのだからここらで夕食と洒落こむでありますよ。昼抜きで慣れない仕事をさせられるのは腹の虫に堪える」
「まるゆはね、いまとっても青 椒 肉 絲(チンジャオロース)が食べたい気分ですっ。芙 蓉 蟹(フーヨーハイ)も大好きだけど、もう何回も何回も続けて食べてるからちょっと飽きてきちゃいました。んふ、食べたいなぁ青椒肉絲――あ、でも青椒(ピーマン)はあきつ丸さんにあげますね」
「本っ当に緑ものが苦手でありますな。それに青椒のはいってない青椒肉絲なんて、青椒肉絲などと呼べるような代物では」
「云うもんっ」
「ただの肉とたけのこの炒め物になって」
「絶対云うもんっ」
「頑なっ」
「そんなことないですぅ。濃ゆい味とお肉とたけのこさんが主役だもん。白ごはんとあわせたらあんな美味しいものはないんですよ」
 と、まるゆは鼻をふんすと鳴らし、
「もう、云いあいしてたら余計お腹ぺこぺこです。ちょっと飛ばしますね」
 と勢いこみ、アクセルが深く踏まれた。加速の虜となった滑らかな車体は黒い砲弾そのものだ。ちんまりとした体で大振りな革張り転 輪(ハンドル)を支えるとは思いがたい繊細さが、通勤の足つきで流す車列を巧みに抜きさる。しゃがんだ蛙に似た淡黄色のメッサーシュミットや、柔らかな銀の曲線が夜光で膨らんだタトラが、走馬灯さながらに車窓を流れていく。クラクションの悲鳴。車輪が軋る。高輝度放電灯が目まぐるしく頭上を走る。尻の下で激しさを増していく走行振動(ロードノイズ)までもが誇らしげ――並大抵の艦娘には御せない挙動だった。陸軍の操作プラグインをもって形作られた艦娘が、大戦の水面から上がって得たもの。みずからを伸長する道具の数々と七別の仕事で磨いた手際なのだ。
 まるゆの手にした戦後。滅するべき深海棲艦はおらず、そこではヒトを、ときとして艦娘までを敵とする。戦いのあり方に悲しむことばを漏らすこともあるが、時代を照らされた横顔には、かつて歴戦の艦娘たちと肩を並べ、海魔に立ちむかっていた頃の感情はない。そう、浅い負い目は拭われていた。
 いまや一人前の間諜なのだ。
 あきつ丸は、わずかに窓を開けた。
 ひどく乾いた風だった。排煙と冬の香り。大連の夜が放つ尖った香り。大袈裟で、密やかで、正気の者には向かない仕事を速度に変えたように、風が鋭く思えた。そぞろな詩情を鼻息ひとつで嘲る。寒気に浮かされてか、出処の知れないおかしみが細い喉を衝いてきた。やがて唇の隙間から白い歯がのぞく。
 小さな笑いがたった一欠片だけこぼれ落ちて、疾風に消えていった。

          *

 偉大なる穢れたマンチュリアン・ゴチックの集積体がほつれて落ちる。清代の集合が溶けだして西洋の尖塔を露わにし、やがて線形もほどけ、崩れ、あの都市が虚構の巷であることをほのめかしたがる静寂を溶け落ちた地にはりつめさせていく。
 運命の泥濘。
 その景色は、どれもわたしが知らぬこと。
 夢見る機械たるこのわたしが、内務大臣官房所属機関――黒檀鳥居(ブラックゲート)が、この大なるからだに秘めながらにして知らぬことだった。ひとつも。その欠片も。
 コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ。
 わたしは見つめながらにして眼をそらしているのだ。
 軍事探偵のためにあつらえられた不浄の世……
 コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ。
 わたしが見つめることを赦されない実験の市井。
 娘は果てを見据えて歩んでいくのだ――
 コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ。
 わたしの歯 車(はらわた)が求める宏大無辺の夜。
 時は独ソ冷戦時代のただなか……
 コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ。
 わたしのことばをうけとって。
 ただなかを、娘は往く――
 コツコツ、コツコツ、コツコツ、コツコツ。
 わたしの断片を食べて。
 時は大量死時代後(ポストアポカリプス)――
 コツコツ、コツコツ、コツコツ。
 わたしは見つめる。
 屍の時代……
 コツコツ、コツコツ。
 わたしは。
 黒――
 コツコツ。
 ともに。
 闇。
 コツ……
 足音がわたしのうちを去り、止む。
 電位は去った。あの娘は結束帯(ケーブル)を抜いた。余韻が、止まったわたしの歯 車(はらわた)を慰めた。わたしは知りたい。わたしは望んだ。あの娘がやがて闇の奥、死の涯に至り、辺土も乗り越えて、その黒い足痕を刻むだろう世界を知りたかった。陸軍が生んだ忌まれし娘として、七別の軍事探偵として、特務権限執行の鬼子として刻みつける世界を知りたかった。
 わたしはわたしのために案じる。
 あきつ丸と名付けられた、護国の呪いを。


次回
電脳軍事探偵あきつ丸貮
「災厄時代の幽霊たち/伍藤潤」へ
つづく……?
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