chapter3
「coming sweet death」
 高速通行橋索帯の果て――ミクはMRIOへの主搬入口となるトンネルに飛びこんだ。
 出口では隙間なくつめられた装甲車によるバリケードが展開――車両の前では第二層巡回査問官(クレリックス)たちが横並び。
 光学照準と視差検出狙撃補助システムの、精密無比にして針のような敵意がミクをいっせいに狙う。手にしている長物に臆することもなく、ミクは対人自動拳銃を構えた――対迎撃。火力制限B。対人銃撃モードに切り替え、照準を自分に視覚とリンク。同時にかかとを鳴らしてエコーを放射し、己が胴体を狙う銃口を探査――被弾覚悟の感覚的銃撃を敢行。
 ミクはしゃがみ、思い切り地面を蹴りつけた――飛来する銃弾――電磁レールを用いた特大徹甲弾が幾重もの弾道を描出。弾雨を潜り抜ける飛翔の最中にも銃を構え、銃爪を引き、引き、引き、銃身加熱で一時的に使用が不可能になるまで発砲。放った十発以上の銃弾はことごとく第二層巡回査問官の脳天を貫徹。ミクの動作からデータを得て照準修正して第二弾を発射することもできず、二秒足らずで少女たちの死体が一斉転倒。
 弾体は血飛沫を跳ねさせるどころか、背後の装甲車までを裂く――いくつかが燃料タンクを通過。高熱が燃料に点火し、橙の爆炎が盛り上がって出口を焼き尽くした。
 火炎をくぐってトンネルより脱したミクは、駆けつける装甲車に照準。前輪に高出力に転換した拳銃より徹甲弾を射出――ホイールまで掻き回された車体が傾き、続けて射出された対甲炸裂子装填弾で完膚なきまでに大爆発。
 破片を浴びた第二巡回査問官の少女――飛来する鋼鈑で首を千切られて、衝撃に促されるように軽やかに踊ってすぐ倒れた。それに続くまるで現実感のない二次的被害、火災、崩落。どうでもいい光景を無視して、対人自動拳銃を握りなおす。
 まるで無感情。戦況を良いほうへ導こうという意志すらない効率偏重の殺傷。リンが見たらどう思うだろう。そう考えてもなお、技法が揺らぐことはなかった。
 頭上から振られる光の帯――浮遊する機体の機首に備えられた強烈なサーチライト。
 降下するハチドリに似たVTOL小型攻撃機の機銃――轟音を撒き散らす銃火。
 ものともせずステップで避けるミクは、対人自動拳銃の弾種をセレクト――弾倉にて交互に装填されるのは徹甲弾と対甲炸裂子装填弾。射出、射出、射出。数えること各三発。装甲の貫通した直後に爆発力に富む一撃で翻弄。
 二秒以内で穴だらけになり、姿勢制御ができなくなったのかくるりと回った機体が、まっさかさまに墜落――トンネルの構造を抉り出し、爆発する機体もろともに崩落させた。
 うるさく飛び回る二機にも弾幕を浴びせ、墜落を確認することもなくミクは歩き出す。
 横様から迫り来る装甲車の車上からは重機関銃が低い唸りを上げ、大太鼓のようなパターンの銃声を放射。ミクは片手で対人自動拳銃を保持。光をまとった銃弾へ銃爪を絞る――甲高い音を吐いて、五〇口径を叩き落し、それでもなお弾道を保つ弾体は装甲車の表面をバターにナイフを這わせるような滑らかさで削ぐ。ミクは次にどうするかを心得ていた。
 スピードを得て轢き飛ばそうとする装甲車へ右ストレート――曲線を描いていた鼻面が簡単にひしゃげ、衝撃に耐え切れず浮く車体。続く左アッパーを喰らって紙細工のように舞った鋼が空中で爆発――その寸前、ひとつの影が、兵員室から飛び出していた。
 大剣を携えた第三層巡回査問官(パニッシャー)だ。持っているだけで機動力を棄てているも同然の容貌である大剣――印象に逆らう俊敏さで駆け寄る。ミクは分厚い抗弾コートで隠された首から下は狙わず、一撃必殺を求めるカウンターの上段蹴り回し蹴り――頚椎を粉砕。だが欠損を気にも留めず据わらない首をぶらさげて、質量任せに生命を斬断する大剣が振るわれた。
 疾風と化して振るわれる連撃――剛力を孕んだ続けざまの横薙ぎ。
 避けきれない一撃がミクの太腿の中ほどまでを捕らえ、腱を千切り、骨を鈍く切断。
 姿勢が崩れて転倒――隙を狙い澄まし、鋼鉄すら突き通しかねない刺突が襲来。
<opened arm>
<i:カルバリ・クランチャ>
 ミクの腕が展開被鋼――ブレードの側面を拳固で打ちつけ、払いのける。
 揺らぐ分子振動器で切断力を向上する強大な鋼鉄が地面をえぐる――甲高い切断音。
 瞬時に脚が修復すると、ミクは跳ね起きブレードを踏み――衝撃的な回し蹴りを顔面にヒット――にわかに浮遊する肉体へ追い討ちをかけるワン・ツーの連携。肉を打つ鈍い打撃――骨格が粉砕する手触り。
 恐るべき速度で顔面を二度の打撃が捉える。とめどない勢いでジャブのコンビネーションの最後に、右アッパーが侵徹――第三層巡回査問官の腹を突き上げコンマ一秒で皮膚脂肪腹筋内臓背骨脂肪皮膚と一連の層をまとめて貫徹。
 大穴はミクが腕を引き抜くさなか、右腕部被鋼から展開するブレードで損傷拡大。
</opened arm>
 女の体は爆発的な衝撃にもてあそばれて低空飛行――ショートの茶髪から垣間見えるモカブラウンの虹彩が印象的であることを殺傷完了の間際に認知――骨片が抜け落ち、内臓片がこぼれて散る。
 落下で大きく体をひねって上半身と下半身がさよなら。断面から内臓を吹き散らして、生命として原型を欠いていながら、しかし女は両腕を脚のように使って姿勢を変える――カエルのような跳躍。
 最小限の隙で飛躍した肉体を狙い、ミクは引き抜いた戦闘指向性ナイフを投擲――額に突き刺さる。見計らったように、ナイフのタングに充填されたサーメットに信管が点火。
 パァン、とガラスが割れるみたいな音で広がった閃光が女を包囲。焼灼された肉体が地面に墜落。
 昆虫並みの生命力――頭蓋の内側から鋼鉄を溶かすほどの高熱を生む焼夷剤で燃焼され、激しくのた打ち回る人体はおぞましいほどの生々しさに溢れていた。
 ミクは無感情に、MRIOへ振り返る――見上げた機械の城は、伝説上の存在であるかのように頂上が見えず、無慈悲に佇もうと務めて平坦な壁面で矮小な人間を圧倒していた。象徴とは常にそういうものだ。象徴を形成しようという人間の性癖を突きつめて遺物のような無意味さ、記念碑のような機能とは相反する臭跡を含んでいた。あとは上るだけだった。ミクは内部を目指し、エントランスのガラスに突進。打ち破った勢いで転がるもののすぐさま立ち上がって、中央の超高速エレベータに駆け寄る。
 MRIOの中心に至る前に急停止――ミクは足を止め、息を呑む。
 集中する無感情過多の攻撃的視線。
 対人自動拳銃。
 対人狙撃銃。
 ロケット推進式榴弾。
 VTOL小型攻撃機の機銃。
 一方的な虐殺に慣れた攻撃システムが、全方向からミクに狙いをつけていた。
 螺旋状の階段、各階層で装備を携えた警備オペレーターや第二層巡回査問官(クレリックス)第三層巡回査問官(パニッシャー)が数百人、入り口と壁面を機銃でこじ開けてまで屋内に押し入るハチドリが、ミクを取り巻いて殺意の渦の中心に押しこめた。
 一方通行の死を叩きつけようとする気配。
 ミクはブリードピーンによる加速で脱出するかとも思案するけど、それより早く第三層巡回査問官に取り押さえられるのは目に見えていた。なにせ数だけは多い。
 不意に意識する未使用兵装。視界に表示される文字は使用可能――回数制限二。
 ミクはそれに託すことを胸に決め、意識に起動を反映。
<opened arm>
<i:ライジング・ローリングサンダー>
 空気が帯電する不穏な感触――とたんに転送表示が視界に溢れ、ミクの背後で伸張する鋼の音。包囲網がざわめき、戦闘のために生み出された者に相応しくない声を上げる。
 手にした対人自動拳銃の組成が置換される。
 グリップを残して分子レベルまで解体された物質が、再構成され、それは銃とは程遠い形状へと変わり果て、しかしミクにはそれの使い方を認知することができた。
 真っ黒でのっぺりとした、銃爪のついた拡声器(メガホン)
 ミクの後ろうず高く積層した、五メートル足らずの電気仕掛けの塔。虚空には配列転換によりクリプトンの造環転送システムより剥奪し、再転送した、ミクの髪と同じ色をしたレンズ状の装置――LRAD致死性音響兵器が浮遊。
 全方向へ突き出されたスピーカー群が、主の声を待望して低く鈍いノイズを囁く。
 致命的な撃滅の示唆――阻止すべく大量の銃撃・ロケット弾が容赦なく飛来。
 幾千もの飛翔経路を刻み音速で舞う特大徹甲弾。爆発力を秘めて追随するロケット弾。迫る死を阻むように指向性の音圧――共振効果によって推進エネルギーを抑止。
 軌道を惑わされる弾丸、音波に揺籃され圧電素子が狂い爆裂するロケット弾。続々と粉塵が湧いてミクの姿をかき消し、それでもなお、今や架空の打撃力しかない弾幕が追う。
 片っ端から音の壁が遮断――死の中心点で、ミクは大きく息を吸い込む。
<decision>
 簒奪される側に甘んじる気はない。私は私の思いを胸にとどめることはない。
</decision>
 メガホンを振り上げ、ミクは声高に叫ぶ。
 頭上を仰ぎ目に抱える前髪を払うこともなく、心のままに絶叫する。
<fury>
  <hate>
「私は諦めない。私は止まらない。迎撃準備、死で私の歩みを止めようとする全対象に物理的撃滅の矛先を向けろ。パターン・エネミーレコニング。殲争のように、悲壮を奏でるように、一切の敵意を残すな、大っキラいなすべてを蹴散らせ――灰燼にしてやんよ!」
  </hate>
</fury>
 始まりは憎しみ呟くように、最後は容赦など微塵とてない全方位への憎悪へと膨れ上がる――自分から何かを奪おうとする人間は許さない。皆死んでしまえ。ミクは目を見開き、叫んだ。声を聞き届けたスピーカーが駆動――阿鼻叫喚(ハウリング・オブ・デス)
 増幅される声。MRIOの構造に最適化された音響パターンを反射し、破壊的なまでの分子振動が巻き起こっていく。瞬時に発生する蛋白質で構成された正常な生体が耐え難い高熱。
 さながら巨大な電子レンジと化した空間は人体と攻撃機への超高密度指向性によって阿鼻叫喚――それを最高潮にまで高めるのに必要な時間は一秒にも満たない。
 銃やロケット弾発射筒を抱えた少女の群れが、綺麗に輝く火で着飾って灰燼を真似る。
 ハチドリは二秒ほど耐えたけど、じきに墜落して派手な炎のレイヤーをいや増した。
 メガホンの銃爪を放す――禍々しい残響を残したスピーカーは声を静める。
</opened arm>
 ミクは虚ろな気持ちで歩き出した。死臭に嫌悪の思いも表さず、灰となる屍に目を落とさずにまたいで、エレベータのケージに乗り込んだ。
 もう戻れない。もう約束を取り繕うことなんてできはしない。思案が頭の中で駆け巡り、二度と帰れない涯に来てしまったことを心の底から痛感した。ただの人殺しである証となるのは憎悪に駆られた愚かさ。リンのくれた正義の定義――破棄するなんてもってのほかの、大事な大事な概念。それを踏みつけて、血で濡らしてしまった。拭いきれない虚無と孤独感。胸で温めてきた友情を汚したのは自分で、それを謝ることが出来る人などもういはしない。
 思い知るのはそうした現実だけ。
 醜さだけが際立つ、生まれついて(ナチュラルボーン)の人殺し。
 人殺しが到達する場所にはなにがあるんだろう――失墜と這い上がれない深み。
 誰かに罰して欲しい。大好きだったリンの声で、目で、指で、拳で、多くの人を殺害した事実を咎めて欲しかった。私は他人を踏み潰した脚。私は銃爪を絞った指。私は殴ることしか知らない拳骨――欠片が端々から罰を望んでいた。ミクは悪い子だ。酷い子だ。叱責してくれさえすれば、心の奥底に溜まった罪悪感が掬われて、気が安らげる気が、自分が自分であれる気がしたから。でもそんな道理はなかったし、何もかもが遅すぎた。あの子はもういない。ミクは胸にしまった識実に手を添えると、鼓動が聴こえるように思えた。
 あの子の鼓動という欺瞞は自分を戦いに繋ぎとめるための嘘。
<dialogue>
<d:あの子という理由があれば踏み止まれるから>
<d:あの子、あの子、あの子。心の真ん中はいつもリンにあった>
<d:あの子の罪を聴いてもあげられなかったくせに>
<d:都合のいい姿しか知ろうとはしなかったくせに>
</dialogue>
 ミクは初めて、自分の大罪を知った気がした。大事だと思い込んでいるリンという子を、自分を守るためにだけに利用していたなんじゃないか。そう思えた。
 頭を振って考えを払拭――違うよ。私はいっしょにいるのが楽しかったから。そうする以外に、生きていく意味を見つけられなかったから。あの子が大好きだったから。
 どこまでが本当か分からなくなってく。空っぽの胸に詰まっているのは一番単純で強い感情――憎しみだけである怪物が、何を思案できようか。自己正当化するみたいな感傷だけがお腹の辺りで糸を引いて、心と身体を内側から腐食させるみたいな欺瞞で満たす。
 怖かった。身体を支えるものがなくて、倒れてしまいそうだった。リンの背中の力強さ。それは力強さじゃなかった。いっしょに支えあっていたんじゃなかったのか。ひとりじゃ頼りなくて倒れてしまうとしても、ふたりなら大丈夫。そうだったはずだ。
 あの子もまた自分を頼ってくれてた。
<flashback>
 救えなかったことの証左たる死の瞬間の痛ましさが蘇って、眼球の裏側で瞬いた。
</flashback>
 でもそれだけじゃない。自分を構築していた最小限の要素――絆を奪われた者の、埋葬への道。ふたりそろって朽ち果てるための、死への道。
 さあ、行こう。
 ミクは真っ白い無人の廊下を進んで、大気圏外の研究施設へ人間を送り出す軌道エレベータに乗り継いだ。最大三〇〇人を積載する人員輸送ケージは列車に似ていて、縦に伸びた長大なレールの側面にへばりついて這い上がっていく。
<sentiment>
 上昇を開始したケージから見えるのは、もうすぐ夜明けに至る深く暗色を讃えた紺碧の空――終端にたどり着く、終わりの色だった。
</sentiment>
 MRIOに導かれてレール切り替えがおこなわれ、やがて内部誘導電磁ユニットのライン上に乗ったケージは微細な振動をやめて到着を知らせた。出入り口が左右に開くと、ミクは思い足取りでホールに出た。ミクが来るまでは完全な無音状態に保たれていたホールを抜けて、ラボへ続く廊下に視線を投げる――真っ白な廊下へ、手前から順々に光が灯っていく。ミクにようこそと伝えるかのようなライティングだが、歓迎のニュアンスはない。
 幸か不幸かまだ“生きている”ルカのデータで認証してラボの区画に進むと、思いもよらないことに、内部はそこらじゅうが赤々としていた。倒れた研究員は揃って首がもがれ、傷口から噴出した血液が塗りたくられていたのだ。何故そんな――見渡せば、理由はすぐに分かった。自分で力任せに首をねじ切ったのだ。連中の手に首が握られるか、周辺に転がっているかという二種類の様相を呈している。死人に口なしと見過ごすべきではない。
 ミクはラボのメインバンクに残された研究員の精神情報――視覚的なデザインはカリフラワーか、もしくは枝が咲き誇る枯れ木という体裁――にアクセスして、キャッシュを漁る。出てきた異状報告(イリーガルケース)によれば、研究員の分割心理にFETPLがアップロードされ、そこに挿入された偽の情動と、身体能力の限定解除によってこの眩暈がしてくるような惨状は作られていた。
 どうしてそうなったか、については、アップロードされた情報の閲覧が義務付けられていたから、との説明にならない説明しか返ってこなかった。アップロードした人物――驚くべきことに、情報の中枢たる総主(エルダーゼロ)とあった。
「どういうこと……」
 とだけ呟いて、屍から目を逸らす。
 ミクは嫌悪と怯えをペルソナアリスで隠匿――対人自動拳銃を手に、屍の渦中を抜ける。
 なぜだか、どこへ行けばいいのか、どう進めばいいのかは知っていた。
 脚は止めず廊下をまっすぐに進んで、延々と続く階段を上がると、その階段の果てに扉を見つけた。中央記述室(セントラルドグマ)。かたく閉ざされた扉には、赤い文字でシステム使用上の注意や記述ユニットの回収方法などが事細かに書き記されていた。
 ミクは対人自動拳銃を操作――出力低減――マナーモード設定。
 メインロック部に銃口をあて発砲――貫通した弾体は黒い床パネルに中って跳弾。
 施錠ユニットを撃ち抜くと重い前蹴りをヒット。
 細かな火花を散らして倒れると乗り越え、目の前に銃口を振るう。
 黒い玉座に座る漆黒のドレスを纏う、自分と同じ顔、髪、背丈をした女の子へと。
 自意識が認知するよりも遥かに上をゆく速度の既視感――白黒のパネルが敷き詰められて、チェス盤に酷似した間。奥に据えられた、クリプトンが犯したあらゆる残虐行為を具現化したみたいな人体骨格の玉座。そこに座る子の顔は、いまや波打ってなどいない。記憶の連続性が不確かになって、対人自動拳銃の照準が大きく揺らぐ――照門が捉えた総主の姿が左へ右へと振れて、とらえどころがない不安感と緊張が掌を湿らせた。
「始まりと終わりが重なる、クロスホエンにようこそ。クレリックス・ミク」
「お前が、総主(エルダーゼロ)
 何故――Xの偶像がここにいる。無条件で信じこんできた情報の陥落。
 失われる現実感に、自分が基底・仮想――どちらの現実にいるのか解らなくなっていった。
 総主はミクの言葉に首肯し、
「あなたの行動は、都市の端々に仕込まれた眼を通して視てきた。時に奪われ、時に悲しみ、時に望み、時に恨み、設定された心というシステムに法りこの果てまで辿り着いた。あなたがそう望み、(わたし)もまたそう望んだように」
「何を言っているの」
 ミクは疼きを宥めようと額に掌をあて、銃を下ろさぬまま総主へと向かう。
「あなたの語彙を借りるなら、怖い夢の終わり、ということだ」
 交わる視線――透徹した眼光を包む総主の瞳にあるのは、深々として純度が高い狂気でも浅はかで倣岸な正気でもない、現実を透徹して「自分」であろうとする理性。総主の黒いドレスだけが、居心地の悪い空間に浮いていた。
 基底現実の形跡に仮想現実の色彩を上乗せするように、玉座の隣に現出した陽炎(ゴースト)。見間違うはずのないリンの姿。ただその姿は曖昧で、リボンや髪型という最低限の記号で形成された白黒(モノクロ)の偶像。
 現実味皆無で、憎しみと敵意を煽るためだけの戯画だった。
「やめろ、死んだ者を踏みにじるな」
「ねえミク、どうして自分が見たものを簡単に事実だと思いこめるの。目の前で起こるすべてを基底現実と決め付けて、簡単に信じることができるの。疑いもせず殺すことができるの」
「言ってる意味が分からない。やめてよ、その声を真似ないでよ」
「判ろうとしないからに過ぎないでしょ。人に類する個体の眼に映る全てが、必ずしも現実である時代なんて、もうとっくの昔に終わっちゃったんだ。魂すら調律される。ぼくたちが基底としている現実は、すでに現実であるという実体を失ったも同然なんだ。人間機械論が行き着く先のような、電子調律された得体の知れない「セカイ」にあってはね。ミクだって、それの破片は見ているはずだよ」
 リンはこんなこと変なことは言わないよ――歯を食い縛って、心の中でミクは叫ぶ。今にもこぼれようとする涙を抑えきれないまま、一種の激情に抗議して流れる鼻水を袖で拭って拳を固く握った。まるで落としてはいけない何かを持つように。
「ならどんな情報がぼくって個人を規定していたの」
 心を見透かすような幻影の声を、総主が冷たい声で継いだ。
「答えられる道理があなたの中にはあるか。都合のいい解釈と情報の置き換えで恣意的にリンという個人の偶像を作り出し、ただ夢見ただけではないと、何故言い切れる」
「言い切れないよ――でも、一緒に生きてきた大切な人が、本物か偽者かくらい分かる」
「欺瞞に過ぎない。それはあなたの信仰に過ぎない。他人の存在を規定するには足りない」
「そんな言い方をしたら自分が見たものも聴いたものも嗅いだものも味わったものも、何一つだって現実だとは決められない。現実なんて存在しないのと同じじゃない」
「その通りだ。ここに明確なる現実などというものは存在しない。現実に繋ぎとめている、数え切れない細胞の連鎖によって構成された肉体。世界を認知する感覚。思考と自己の規定をする意識。あらゆる要素を、現象を発生させる「装置」として解体した論理が蔓延する世界において、現実は脆く、すぐに壊れてしまう、薄氷でできたモニュメントに過ぎない」
 総主はガラスの玉座に身体を預けて、悲しい顔をして続けた。そして、それを支配するためにいるのが我だ。ミクはその意味を飲みこむまでに時間がかかって意識が停滞したし、エルダーゼロもまたそれを否定せず、会話が再開されるのを待った。
 ミクの視界では文字列が散開と集合を繰り返していた。最後に表示される、欺瞞の証左。
<falsify emotional in text pickup language:version=66.6:FETPL=20890403>
 それは偽りの情動を語るコード。
 それは個人に介入して書き換える饒舌なるタグ。
 それははじめからミクの思いを制御していた偽りの意。
 無条件に信じさせるに足る、感情の入った壷がミクの脳を猜疑に漬ける。
 自動でアップロードされ、物語(セカイ)の方向を決定する要因につきまとう疑惑はいやに強固で、道理が分からなくなってく――先に得たルカの記憶ですら本物ではないと思えてきて、そのまま現実まで退色していった。境界線が溶けていく。
 ミクは膝を突いて、総主をうろんな瞳で見つめた。
 どこからが本当で、どこからが嘘だと思う……。
 ミクの隣に現れたリンの幻影が、慰める者の声で問う。内心で望んできた自分を咎める言葉などなく、犯した罪を戯れとあざ笑うような問い。
 現在と過去の連続性が揺らぐ中で、自らの実在すら疑わせる言葉と記憶とフラッシュバック。不愉快さすら誘うような口ぶりだけど、ミクは口を閉じたり開いたりするだけで、何も言い返せはしなかった。
「私の記憶になにをしたんだ……なんで、どうしてこんな」
「その問いが、何故自分にそのようなものが仕込まれているのか、このような道筋を歩いてきたのか、ということに通じるのなら、その回答は至極簡単だ。迂遠な筋書きをなぞる経過に不和を生みシナリオに齟齬を見出さないか観測し、セカイなる物語を演算するさなかの誤差として計測されるほんのわずかな隙――いまこの瞬間を具体化するために、この世の中、そしてあなたは描かれてきた。無様に修飾した、崩落する世界を繋ぎとめる言葉という糸によって、三千世界を創造することも叶う五二八七六八〇〇〇秒をゆうに超える救いのない孤独、奇異な長生を得た我を破壊するために。演算する有機体に宿る我を痛めつけるに充分なほど、時の流れは膨大な言葉を費やした。人の生死を統計上の数値として繰ることから生まれる思索は、我を疲弊させる。耳を聾する、まつろわぬ世界の片隅が発する悲憤を聞く苦痛。文明による教化(ノーブルオブリゲート)の名のもとに、あらゆる可能性を抑圧し幸福の再分配を強要するクリプトンの網。それらより逃げ出せぬ、我という文脈の殺害こそが、あなたの物語――この基底現実にある意味だ。偽造した存在もしない「かつての敵」に与えられた力も、我が書き加えた文脈のひとつ。セカイを紡ぐ規範や秩序に混じったあなた(アノマリィ)の存在を活性化させることだけが、我を無に帰すに足りる最後の可能性だった。他の者たちも可能性を高めるために操作を加え、あなたに立ち向かった」
 狂乱に陥ることもなく硬直したミクの脳裏に、言葉がリフレイン――他の者たち。そのためにルカやテト、多くの第二、第三巡回査問官、オペレーターが命を落としてきたというのか。ミクは罪悪感のレイヤーすらも通り越して、気が遠くなっていく。
「そんなことのためだけに、こんな大がかりなことをしたの。私と、私が大切にしてきた時間と記憶の連鎖を蹂躙したの」
「そう。たかがこんなことのために――だけど願いとは常にささやかで、単純な性質にもとづいて生起するとは思わないか。あなたが大切な存在の消失なるセカイの『伏線』によって我の破壊を思考したように、我はあなたの手による終末を望んだ。我は死の囚人だ。呪縛を解くことができる可能性をもっとも持っているのが、あなただった」
「考えたくもない。傲慢だよ、そのために誰かの心を削り落とすなんて」
「では傲慢であらざる生とはいかなるものなのか。人は他者から可能性を剥奪して生きる」
「そんなの詭弁だ。人は誰かと可能性を共有して、いっしょに培って生きるんだ」
「希望と現実は、常時反比例のまま距離を広げている。可能性を食いつぶす連鎖は止まらず、加速と失速を繰り返しているだけに過ぎない。もっとも、あなたが知る領域にいる人間個体は完全に可能性を剥奪されて幸福という筋書きを与えられたに過ぎない、ただの操り人形ともいえる」
「でも私は、リンは」
「何だったと言う。自己が観測する希望が、他人にとっての希望でありえると思うのか。それを妬み、嫉み、憎み、自分の不自由を呪う者がどれほどいるか」
 総主は感情のないでミクの瞳を射抜き、ややあって、
「あなたは他者の内面に溢れる敵意の総計を数えたことはあるか。死と裏切り、憎悪、辛らつな拒絶、終わらない闘争。そしていささかの希望。数知れない感情や行為が、人類の歴史を回転させる歯車だ。だがこのセカイを見渡してみるがいい。まるで煉獄だ。腐肉にたかる蛆虫のような場所にまで、人を貶めている。我は発生してから負の情動、害悪を、クリプトンの外側に廃棄して幸福をより多くに分配する文脈を生み続けてきた。それこそが腐敗の原因だ。人は利己を忘れない。永遠に繰り返すのだ。与えられた幸福を飲み込んで、ささやかな望みを食い潰し、自らを食い潰す巨大な獣なのだ。それを知りながら、狭い檻に閉じこめ、飼い殺しにしている。人間の正体を知りながら不毛な延命を、とめどなくおこなっていくことにいくらの救いがある。我の正気を保つ要素などどこにある。クリプトンは永続的な支配によって、利権と幸福を置き換えたセカイを長引かせることで人類を生きながらえさせようとしているが、愚かしいことだ。それを見続ける者の魂はいかなる場所に落ちるというのだ。大地のない永遠の空を切って墜落し、どこにも落ちず、ただただ落ちていき、汚穢に染まるだけだ。それに付随する我の苦痛は、思念が続く時の数だけ我を苛み、砕き、逃げようのない場所へと導いていく」
「だから、自分といっしょにセカイを滅ぼすの……」
「そうすることで世界にガフの部屋が開放され、新たな苦痛と生の充足が返り咲き、我は虚無へと至ることで我を取り戻す」
「あなたに生かされてきた人たちが命を失うことになるかもしれないのに」
 ミクは照準が定まらない拳銃を振り上げる。
 銃爪を引けば総主が語る言い知れない恐怖を知らなくて済む。復讐は終わりを告げるのだ。だけど、礎の下から何かが変わってしまうのが怖くて、撃つことができなかった。
「自身の心が腐敗していくことと、単純な暴力と感情の疎通、そのどちらが身を苛むかは明白だ。他者と衝突することにはなるだろうとも、それこそが人間の本来的な姿だ」
「ひどい。セカイの劣化を決めつけて、純化のために有象無象を切りつけるの」
「否定はしない。調律のもとで、こうも生きるに容易いセカイが、人が数千年をかけて築いてきた物語の本質的な形状とはいえない」
 世界は酷薄な物語を語るためにある。
 だからこそ語り継がれ、人は自己と他者を隔てた摩擦を起こして命を繋いできた。
 かつて人には生きることに“世界を紡ぐ”という意味があった。
 総主が語ってきた生命と技術のリソース化の歴史はそれに反して、絶望的な閉塞となり、誤謬のない意義をミクに刻む――凍りついた風が、かすかな音をもって柔膚を傷つけるように。怒りや暴力を外の世界、つまり非クリプトンに排出することで描画する平和もどきに語り継がれる価値はない。クリプトンは物語を受け継ぎ損ねたのだ。
 総主は俯き、
「偽りを物語ることをやめれば、世界は本能という抗体によって浄化を始める。本当なら互いに打ちつけるべきだった、人間としての感情を取り戻すはずだろう。かつては理解していたそれぞれの衝突による結果、そして自らの恐ろしい本性を思い出す」
「傷つけあうことが本当だと……」
「それは違う。なにが正しいか、なにが間違っているかではない。言葉を、暴力を、その両方を交わし、人々が信じたことを未来に伝えていく。それが人の歴史を紡ぐ」
 何も考えられないという顔で膝を突いたミクを抱き寄せ、
「我のような、ヒトの被造物が語るまでもなく、人々は己の道をゆく。もっとも、それは我が抱く死への願い(エゴ)につけたした、二重の意義に過ぎなのかもしれないが」
 互いのナノマシンが触れた膚から行き来するのを、ミクは実感する。
<shared log≂all>
 抽出されていく心――与えられる言葉。
 臆病な感情――誰も私のことなんて必要とはしてくれてないんだ。誰も私のことなんて知らないんだ。頭を抱えて、ひとりで唱える絶望。孤独な自分だけに唱えた存在への呪詛。
 拒否できないほどの共感――虚構でしかない自分。滅ぶことすらできず、永遠を生きるメカニズムへの恐れもあった。人の意志から生まれた人類の破片でありながら、目標と状況を統計上として処理することを強要された者の恐怖と、それを味わわずには許されなかった者の慟哭。それぞれがミクの心臓に突き刺さり深い穴を穿っていく。
 そして、現実(セカイ)への決別を求める心。
</shared log≂all>
 指先が見えない糸で縛られ、引かれていく――ミクを放した総主は、ささやかな笑みを浮かべた。指は力なく総主の首筋へと伸びた。触れ合う膚。やめて、やめて、やめて。ミクはぎゅっと閉じた。無意識化の同情が死へ誘導される。ゆっくりと畳まれて食いこんでいく指の軋みは虚無へ導くカウント。力がこもり、総主の命を吸い上げているみたいにはっきりと体温を感じた。
 掴んだ喉が苦しげに鳴る。流れてくる思い。
<dialogue>
<d:本当にごめんなさい>
<d:愛している>
<d:お願いだから赦して>
<d:もう一人の自分>
</dialogue>
 無に帰していく幸福な安寧――声帯を振るわせたか細い声の振動は、ミクの掌に這い寄って意味を伝えてくる。ひぃ、とミクの喉が醜い悲鳴を上げた。伽藍堂のような虚無を孕んだ部屋に反響を残して、音が消える。爪の先が柔膚を裂いた。滲む血を押さえつける指が喉を潰した感触に、ミクの背は怯えで縮こまり、薄く開いた眼で白目を剥くエルダーを見る。
 四肢の震え――小刻みに動く手足が、つるつるとした床面を滑り、間が抜けた音を鳴らす。
 ありがとう。
 音吐の内包した、怖気が高まる死の匂い。ミクは今までにないくらい、他人を殺した実感と、命の軽々しさを背負って、魂を失った肉体から手を離した。エルダーの記憶と、受け継がれたデータ認証――記憶の共通化を強制するコードが、バックアップサーバーから零れ落ちてくる。ただなすがままに受け取る大河のような情報量。
 世界と同義の女が蓄積してきた思い――その中に含まれた、“セカイ健全化の最単純シークエンス想定に基づく制御権淘汰計画”。
 めまい。めまい。めまい。額に当てた自分の手――ブレるそれは本当に自分の手なのか。自己認識が不安定になっていき、ああ、ああ、といううめきだけが口から漏れ出た。
 規定された物語(セカイ)世界(ゲンジツ)に変換する、最後の一齣。
 総主が残したのは、ミクへの選択権だった。
 辛い世界なら滅ぼしてしまえばいい。
 自分を苦痛に追いやる世界を蹴散らしてしまえ。
 そう言ってはばからない、一握りの悪意ですべてを消し炭に変える選択権だった。
 もしくはそうした悪意を捨てて膝を抱え、朽ち果てることもできる選択権だった。
 押しつけられた自由――今のミクには、どちらを選ぶ、その選択すら決めつけられているみたいに思えた。認めてきた現実のテクスチャが削れていき、フレームになった自分を、誰かが操っているみたいな気すらした。でも選ばざるを得ない。ミクの心中――人間らしい情動なのか、ただコードに踊らされる単純な脳のパルスなのかに興味はない――にあるのは、プログラムを起動させることだけ。
 自分を傷つける力を持ったシステムは要らない。それが答えのひとつ。
 骨だけになったみたいに力が入らない足で歩き、寄りかかる調子で触れるコンソール――湧き上がる情動と戯画化された思い――ミク――基底/仮想現実の区別をする主観が溶け、世界が歪む。パステル調に描かれた、頭を切断されて瓶に閉じこめられた魚の絵。イタイ。カナシイ――家族を写す稚拙な絵。お母さんもお父さんも笑顔だけど、絵の端に描かれた女の子だけは赤いクレヨンで塗り潰されて、まるで血まみれ。クルシイ。イタイ。同じ色彩の絵――女の子は首を吊り――チガウ。イラナイ。手を繋ぐ温かさが離れる。カナシイ。トモダチ。真っ黒な目を剥いて歯のない口でにたにた笑う女――カナシイ――チガウ。チガウ。チガウ。淡色の草原で腹が裂けた犬が倒れてる。白い肋骨――悲しい――高く高く上るきのこ雲。木漏れ日のベンチに寝転がる。トモダチ。指を握る細っこい手。クルシイ――肉を剥いでいく猛烈な光の嵐。転がるのは骨――イタイ。骨を手にした猿が、他のサルを撲り殺す。砂のピラミッド。蹴散らす足。恐ろしい意匠(イメージ)の点滅。分からなくなってく。闇に浮かぶ光芒でできた扉が溶けてく。ミクは総体を失った時間を走って、孤独の安らかさに満ちた扉に手をかける。チガウチガウチガウチガウチガウチガウ。恐る恐る握った掌。頬にキスする柔らかな唇の気恥ずかしさ。声。いつか交わした言葉。 ミクはぼくのことキラい……。違う、そんなんじゃないんだよ、だけど私たちってそういう関係じゃ――どういう関係だったんだ。関係が変わるのが怖くて認めたくなかっただけだ。今なら受け入れられるよ、だから泣かないでよ。分かり合えた瞬間のリピート――心が通い合う、心地がいい瞬間のパターン。ミク――名前を呼ぶ声――キモチイイ。もっと名前を呼んで。居場所を思い出す安らかな音の波。扉から手を離した。ミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミクミク――リバーブを噛み締めた、もうひとつの答え。私が欲しいのは、こんな疲れ果てた、寂しい場所じゃない。私が欲しいのは大事な人――偽りでも――と静かに暮らせればそれでいいの。
<silent>

 いいの……。

</silent>

 では、あなたはこれからなにをはじめるの。

 私にするのは、私の望みを選ぶこと。大切な子と何もかもをやり直すこと。
 怖いことの一切を否定することを厭わないこと。
 たとえそれで誰かが傷付いても知らない。
 私とあの子が奪われないなら、傲慢でも、いいのかも知れない。ミクは誰にともなく一人ごち、コンソールに自らの意志を伝導した。外の世界に悪い可能性を放流していた牙城は音もなく胎動して、崩落に至るための指令を地上に下していく。ミクは識実を手にすると、ラボへと足を伸ばす。自分の欲しい小さな世界に大切なあの子を、自分のもとへ呼び戻すために。



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