chapter2
「dead souls」
 分厚い鋼鉄と樹脂。無機質な外皮で覆われ、内部ではコロイドが揺れて、人工骨格に定着して生命を形成しようと働き続ける(コクーン)。ミクの魂は、そこで生まれた。
 急速に発生して、幼形成熟――少女のまま成長を止めてしまう処置を受け、生命として完全な稼働を始める前に、ミクは、とても長い夢を見た。子供たちが草原に居並び、寂しい目をした女の教えを聞き続ける。長い夢。青い空や揺れる草、風の匂いが思い出せるほど鮮やかな夢。それが終わると、生命保全の最終段階と記憶の差異規定をもって人造人間(EMETH)を作り出す(コクーン)から排出され、ミクの意識は規定現実において脈動を始めた。
 第二層巡回査問官(クレリックス)――およそ残虐で、活動が明文化されることなき法の執行人。
 そうした存在として生まれたときから、ミクは臆 病 者(チキンハート)だった。いつでも簡単な任務が好きだった。痛いことはキラいだったし、いつも相棒のリンに隠れていた。小さな背中を借りることは情けないと分かっていても、世界に貯蔵される人間という情報単位・資源の整列を目的としながらも、情けなく惰弱な性格は治らなかった。曲がったままの精神性でリンと共に殺しを続け、血を浴び、気付けば救いがたい泣き虫になっていた。人ひとりに手をかける、その度に延々と泣いてはリンを困らせた。
 泣き――鼻水を垂らし――ひたすら優しいリンの胸でまた泣き――ようやく得る安堵。
 ミクはいつのことだか、自分を守ってくれているリンが他の巡回査問官(インクィジタ)より表情豊かなことに気付いた。ミクもそうだ。
 他の子たちは、その多くが、表向きはにこりともむすりともしてない。
 ご飯を食べるときには味など感じる素振りもみせず、ただ嚥下する。誰かと話をしても口から出てくるのは最低限の情報の羅列でしかない音声。瞳には冷たいというよりはただ漂白された視線。指先が可能とするのは誰かに触れることではなく、殺戮と破壊と抹消というパラダイムの再現。ティピカルにして冷徹だった。
 その典型的巡回査問官らしさを演習するべく、肉体に装填された感情調整ナノマシン。
 笑うリン――それが、さして利いていない子だって、結構いるんだよ。
 柔らかな粛清の種となりかねない事実をさも楽しげに言ったリン。それは本当だった。やがて、リンがミクの手首を優しく握る。あったかくて柔らかい、小さな手だった。ミクの心臓がどきりと一際大きく脈打って、リンが抱いた信頼と不安と愛情で出来た、期待という感情の重みを感じた。それを投げかけてくれるのが嬉しくて正気が溶けてしまいそうだった。
 リンは言葉を繋いで、
「あまりいい傾向じゃないから、もしかしたらぼくたちの立ち位置は危険なものなのかも。でも、消されそうになったら逃げればいいんだよ。なんなら今すぐにでも行こう、ね……。馬鹿なやつらの鼻をあかしてやろうよ。この支配からの脱出だ」
 そして、ふたりは走り出した。
 クリプトンが生み出した巨大すぎるほど巨大な地 下 構 造 体(ハイパーボトムス)の廊下を駆け、何十回も角を曲がって何万段もの階段を駆け上がる。ようやく飛び出したのは地上へ飛び出るためのリニアホール。得体の知れない硬質な建材で形成された異様な六角形――その一辺は五〇〇メートルにも至り、地下と地上、という二つの世界を断ち割る絶縁体じみていた。壁の内側には通信回路を潤滑化するためのナノフィラメントが通され、無数の電子機器と生体部品が蠢いていた。足の遥かな下で奏でられる禍々しい轟音の連なりは、恐らく自律建設機の保守が立てる音色だったのだろう。
 空間の中央には上下に果てなく伸びる円筒が九つ並んで円を描き、そこに向かうための長い橋が伸びていた。見下ろせば真っ暗で底がなく、見上げれば空間の頂点にぽっかりと空いた出口は針穴のようで、小さく光が見えた。それでもなおミクとリンが互いの顔をはっきりと見て取れるのは、太い光条を発するライトが全方位から囲んで照りつけていたから。
 絶対的な科学力への信奉によって創造された、超越的なまでの神殿から逃れるため、ふたリは大急ぎで橋を渡った。途中、ミクは息を切らし、
「でも、こんなことをしたらルカに怒られるよ」
 怖かったのはルカの存在――第二層巡回査問官(クレリックス)を統べる、第三層巡回査問官(パニッシャー)にして法に従順なる惨殺官吏(トーチャーメイツ)。かつての上官は顔を合わせると、いつも楽しげにミクのツーテールを引っ張って遊び、調子はどぉ……(ワッツアップ)、と訊いては笑う意地悪屋(サディスト)だった。ミクは手荒いルカのことがあまり好きではなかった。そんなルカもまたナノマシン調整の利かない感情を持ちあわせていた。他者を嬲る至高の歓喜(ジョイマックス)によって形作られた感情。
 その女が自らの友人を嬲り、そして決闘の刃を交えるとは、考えもしなかった。
 リンは笑顔で不安を打ち消し、
「ふたりなら大丈夫。ぼくたちの絆はダイヤよりも固いのさ」
 ふたりの身体が包み込んだ力なら、ルカにだって勝てるはず。それが過信、傲慢だと知るのは、それから数年――今に至る日のこと。超高速で地上にすっ飛んでいくリニアケージ。地面に脚を押しつけられるような、独特の感じに身を任せ、自由への揺りかごは深みより少女たちを押し出した。太陽の下に出たふたりは、査問官のIDで追跡する巨いなる眼(ビッグブラザー)の角膜を引っ掻き回しながら、ひたすらに走った。そして偽りの身分と、執拗な追跡を欺く網膜を手に入れた。遠くの街に潜った。闇に潜むふたりを追うものはなかった。
「もう誰かに命じられて殺しなんてしない。ぼくとミクの指は、絶対に血で濡らさない。いつかまた第二層巡回査問官の力で戦わなきゃいけない時が来ても、それはきっとぼくの戦いじゃない。ミクの戦いでもない。ぼくとミクの、互いのための戦いだよ。ぼくが危なくなったらミクの名前を呼ぶ。ミクが危なくなったらぼくの名前を呼んで。ぼくは遠く離れていてもミクを助けに行くよ。でもそうならないように祈ろう、誰かを憎むなんて、不毛だもんね。そうならないよう、いっしょに、静かに暮らそう。ね……」
 始めて柔らかなベッドの上に寝転がったふたりは、いっしょの布団にもぐり、指切りを交わした。そうして手に入れた自由という欺瞞――死に揚げ足をとられるまで偽りとは気付けない――と、リンとミクだけが得られた、安らかな数年という時間。もちろんそこに油断はなくて、常に世界を見回して追跡に気を払っていたのだけれど。
 だけれども、本当に心の底から警戒をしていたのだろうか。
 内心、脅威から逃げ切れた、と迂闊にも考えてしまった。
 犯した間違いを悟るのにも、時間がかかってしまった。
 殺戮の申し子である、ルカの到来を許してしまった。
 そして、輝きを秘めたダイアモンドは砕け散った。
 最初から逃げ場なんてものはどこにもなかった。
 残されたのは、復讐という氷雨が吹く心だけ。
 現実の硬質さにはいつだってはが立たない。
 考えるだけで、情けないくらい気が沈む。
 短絡化する思考を遮る、(あしおと)
 独特の残虐性を秘めた重みと恐怖を誘発する音の波は、間違いなく第二層の証。
 瞬間的に自らの失策を意識――足音に不安のパターンが混じっていた。ミクは市街に巡るネットに飛び(アクセス)、街頭カメラや個人端末への介入により特定の波形パターンを検出する、物理検索エンジンの作動を認知。査問官は、痕跡を確実に捕らえている。
 ミクも状況がまずいと解らないほど無能ではない。
 臆病さが加速する判断力が応じて、人々の間に筋道を見つけ出し、ミクは走った。
 とたん、膚をざらりとした疾風が撫ぜ、周囲の空間が赤く揺らいだ。
 ミクの目前に落ちる球体は、人間の頭蓋だった。
 続けて甲高い音色が耳朶を打ち、咄嗟にしゃがむと周辺の物体が一斉に切断――空気を引き裂く音は何度となく響く。人々は叫ぶ暇もなく死に至り、肉片が弾ける。ミクはステップを踏み、縦横に疾駆する目に見えぬ軌道を躱していった。
 前面の音源に耳を澄まし、強く足を踏み鳴らす。
 ブーツの底が発する反響(エコー)の直撃に応じて、鋭く走らせる視線――舞台を歩むように堂々たる姿勢で闊歩する、惨殺官吏(トーチャーメイツ)、巡音ルカに宿る殺気と絡んだ。
 長身――鋭い目つきと桃色のストレートヘア。
 天性の対人技術屋は、皮肉げに笑っている。
 裾が地につくほどの黒衣――防弾防刃耐爆性を備えた、完全防備のコマンドコート。腹の周りには一挺の対人自動拳銃・予備弾倉、執行IDなどといったツールを収納された簡素なリグが巻かれ、左右非対称にクォーターの裁断が施されたスカートも、一揃いの印象を高めるまっさらな黒色。束縛の色彩が濃厚なブーツが、膝までを保護し、俗悪に具体化されているサディスティックさと、破壊という審問官らしい文脈をただしく紡ぎだしていた。
 まさしく審問と浄化のために派遣される、強力無比なる粛正の徒。
 敵としては二度目の邂逅。
 ミクは記憶の中で膨張した、恐ろしい人という端的なイメージに、身がすくむ。
「先日は世話になったわね」
 とルカは猫なで声で、
「あらあら、なんたるおぞましい姿だこと。あれからなにがあったのかしら、足音を聴いただけなら査問官であったころと大差ないのに、ひどいひどい。まるで屍だわ」
 突きつけあい、咎めあう視線――戦闘の最尖鋭部(エッジ)
 ルカの首筋に引かれた桃色のラインは切断の痕跡(ワウンド)
 相打ちという、惨殺官にはあるまじき屈辱の痕跡(シェイム)
<rage>
「ルカ」
 名を呼ぶ声に感情が溢れて潤み、筋肉が怒りに震えた。歯の根が合わず、カチカチと耳障りな音が口蓋を占め、ルカの名を打ち消した。奥歯を固く噛み、無鉄砲な殺意(バレット・マインド)へと還元されそうな呼気を飲む。不用意な動きをしては駄目だ、その瞬間に死が訪れる。
</rage>
 ルカは頬をねじ上げ、
「あなたがあんなに力強い指使いをするとは、知らなかった。ただの臆病者(カワード)だと思ってたからねぇ。泣き喚いて、リンの低い背に隠れることしかできない子だったのに」
「黙れ」
「強気だこと。今度は、あのときとは大違いの良い目をしているわ」
 ルカは、残虐な微笑を浮かべ、指先に舌を這わせた。鋼鉄で鎧じみてコーティングされた細い指より伸びる、ナノ粒子の変成によって形状を線形に揺らめかせる液体金属が、固体から液体へ移り変わり、滴り落ちる。粘着質な舌の動きが、とろりとした銀色のひと滴を受け止めて、糸を引く――性的なイメージを内包する醜悪な所作――扇情的な目つき。
 ミクが奥歯を噛みしだく刹那、この空間が凪いであらゆるものが停滞して見えた。
<opened arm>
<i:フェイタル・ヘイト>
<i:ブリード・ピーン/m95>
 無意識の開放。
 戦闘のために極限まで高められた無意識によって、自動選択された得物。
 鼓動が高まり、頭蓋の内側で血管が膨張する感触があった。指先がじんじんとして、右手に硬い手触りが凝縮していく。分解されていたフェイタル・ヘイトが掌で再構成されているのだ。指を入れる穴が開いた、薄い円盤が構築される。
 熱を孕んだ金属の外円に鋭刃が再現され、暴力が速度を得てミクを補強した。
 きっと
       殺しても
              誰も
                   悲シマナイ。
</opened arm>
 ミクはいくらでも戦える気がした。倒せる気がした。
 加速――人々が立ち竦むだけのように見えるのは、自分が超音速へ突入したから、と判ずるのに時間は要らなかった。一ナノセカンドの理解。超音速(ソニック)の機動に人々が吹き飛ばされるのを見ないようにし、次の一瞬で驚愕に顔を歪めたルカに肉薄していた。
 ミクは跳躍と同時に旋回――凄まじい速度で遠心力を獲得――ルカの頬を裂いた。
 失敗の感触。退歩を踏んだルカが歯噛みした。敵意の視認。ミクはまたも地を蹴り、感覚が最高速まで至るとき、必殺の速度を得た踵落としをルカの肩に叩き込んだ。
 信じられないと言いたげな顔が凄まじい衝撃でアスファルトに直撃し、浅くクレーターを生んだ。砕け散るアスファルト片が一点に纏まった撃発の威力を物語る。
 ミクは頭を踏み潰そうとする――右足首を捕まれて失敗。
 ルカの指先が再構成で極厚のブレードを生成――ブーツの繊維を裂き、皮膚を破る。筋肉・腱・骨を一気に断裂する鋭い痛み。ミクは絶叫した。
 ナノカーボンチューブとセンサーで凝り固まったニーソックスが収縮――アクティブさを補助する緊急止血。皮一枚で繋がった足首をぶら下げ、残る足で地を蹴り離脱するミクは、涙をこらえ腕を振るう。投擲――フェイタル・ヘイトが軌道を記述。
 疾風となってルカを掠め、右の耳朶と一房の髪を奪う。
 ルカははらりと舞う桃色の髪を横目に、
「貴様、よくも――」
 流体金属が叫喚。
 ルカ――自分を抱きしめるように腕を交差させ、同時に振るう。縦横無尽に狂ったような軌道の連続体が周囲の人間を細切れに変えてミクを追尾。
 ミク――円弧の軌道で舞い戻るフェイタル・ヘイトを掴み拡張視覚で複雑な軌道を測定。必死の形相に汗がざわめき、緊張感が感覚を研ぎ澄ます。
 最初の一撃の苛烈さはまるでツバメ返し――動的に対象を追い詰める疾風怒濤。ミクは体勢を崩しかけて地に手を突き、合間を潜り抜け、鋼鉄の指でラインを掴み捻じ曲げる。複雑で、幾何学的文様の組み合わせじみた連鎖をくぐり抜けていく。だが最後の一撃だけをかわせなかった。空間に線引きをするだけのブレードの連なりに生まれた刺突。
 避けようとしたミクにすがる針は、脇を貫徹して肋のスキマを貫いた。
 貫通した一撃は肝臓を擦り、複雑な動きをすると、二つの肺に切先を通し、いかなる意図によるものか、上向きになり鎖骨と頚骨の間に針先を通した。
 ミクは自分が失速し、世界が速度を取り戻したと理解する。
 ルカの微笑み――勝利を掴んだ、血まみれの艶笑。
「無様ね。自分のはらわたを捕まれて動けもしない。操り人形の死に姿に相応しい滑稽さ。貴様には小娘相応の力しかないのよ、たなごころにいかなる願いを、思いを掴んだって、所詮まがい物の魂が選んだ、願望の模造でしかない」
「うるさい。私があの子と積み上げてきた時間は、それはニセモノなんかじゃない。こんなところで死ねるもんか。こんな下らないことで」
 ミクはうめき、膝を突いて踏みとどまる――針を思い切り引かれ、血を吐いても変わらない。流体金属が流れ込んで針の太さが増していく。悲鳴を殺す。涙がぽろぽろとこぼれようと、決して抵抗をやめない。それどころか、針を掴み、ルカの引力を遮っていた。
 ルカの表情がよどみ、苛立ちが目の奥に宿る。
「大人しくおっ死になさいな。出来損ないらしく」
「イヤだ。ぜったいにイヤだ。死なないもん」
 と、ミクは歯の隙間からこぼし、
「―リンが苦しんだ分を、突っ返すまでは死なない。簡単に死んだりしない――」
「好きなだけほざきなさい。それが終わったら二度と口を利けないように、泣いたり笑ったり出来ないように切り刻んでさしあげてよ」
「この指はお前の指とは違う。すぐに屈したりしない。脚も、腕も、五官も、意志も、私に流れる血には、お前が奪ったあの子との記憶が通っているんだ。力負けして堪るもんか」
 ミクは、肺胞をずたぼろにされ、血反吐を吐きがらも、流体金属の針に指を伸ばす。鋼鉄の指が流体金属を逃さぬように鷲掴み――ナノマシンが拮抗――分子の結束が緩む。ミクはその瞬間に拷問具じみた得物を引き抜き、つぶれた肺胞でなお酸素を求める。
 うろたえたルカが次の瞬撃で応じるより速く、大地を強く踏む。
<trance>
 駈け出した刹那、世界が、ルカが、完全に静止。
 放った華奢な鉄拳が、鉄槌じみてルカの頬骨を砕く。
 意識の純化と加速で突き動かす、感覚が許す限りの身のこなし。
 紫電が空を走って闇を切り裂くように、凄まじいエネルギーの唸りを巻き起こす。
 目に見えぬ速度で浸透する二度の殴打と前蹴り。
 脆弱点を打ち砕く撃発。
</trance>
 ミクが肉体の限界を迎えて倒れた数瞬の後に、世界が速度を取り戻す。
 頭蓋の内側が沸騰するような気分で、アスファルトに、溢れ出す血をすべて吐き出した。鉄味の唾を飲むと、這いずり、無理して立ち上がる。脳髄ユニットに損傷を負ったのか、ルカは身体を痙攣させている。破壊を求めて歩み寄る足つきはふらつく。
 ルカを押さえ込んでマウントポジション――拳を振り下ろす。
 弱々しく、頬を叩く。
 もう一度振り下ろすと、呼気が漏れて濁った声が鳴って顎が割れ、鼻梁が潰れた。
 軟骨が割れる。捻じ曲がり血に塗れた鼻を押さえようと手が動けば、ミクは見咎め、掌を掴んでひねり潰した。奇怪な声を吐き出しているのを無視して三度四度と拳を打ち下ろす。絶望感は拭えず、復讐の感触は重く爛れ、爪のスキマから体内に染み入るだけだ。
 ミクは涙をこぼし、割れて、潰れて、破れて、裂けて、折れて、ひしゃげて、千切れる感触に囚われないよう、ひたすらに拳を落としていく。
 自分を慰める欺瞞のために。
 形を失っていくルカはそれでもなお喘ぎ、生命保護力の高さを示していた。千切れ飛んだ赤い繊維の断面、蠢動がうかがえる頬からこぼれた血に浮く白い歯で、ミクは指の付け根を切った。手の甲から溢れた互いの血液が交じり合う――ミクの手に展開した生体電子デバイスがルカの体内を流れる情報を回収し、にじむ汗と血に含まれたナノマシン群は傷口から侵入してルカの脳に誘導されていく。記憶野に作用していく。再生を始めるルカの肉体を再度殴りつけ、歯を食いしばり、怒涛のように送信されてくるパケットに耐え続ける。直接的な情報の吸収と、都市のネットインフラを中継点として分割心理に処理を割り当てた情報の集積によって、脳内で騒々しい記憶のレイヤーが一から十まで順繰りに一瞬で組み上がっていく。億単位の現実感と色彩のテクスチャーが凄まじい速度で張りついて、脳が揺蕩した。
 瞬間――ミクの意識は基底現実から切り離され仮想現実へと跳ね飛ばされていた。
 剥かれる白目――意識がホワイトアウト――生死のすり替え。
 ミクとルカの生体情報が変質。混乱と静止。それから体感時間にして数秒の空白が生まれたのは、数値化された重圧が一斉に脳髄を責め、浸透する予兆だった。ぶつ切りの声。
 認知するのは巨いなる球体の中心で交わされる、機械言語に酷似した性質を持つネット端末言語の交信――非端末化個人には認識し得ないほどの高速で、大量の単語と、ゲルマン語派の言語をいびつに改竄したような難文法とが繋がりあう。
 第三層巡回査問官に与えられた隷属言語のパターン。
 かさかさとした樹の洞みたいな、硬く乾いた語幹の連なりだった。
 ルカの情報が脳髄に馴染むと、それらの異様なまでに掴みづらい情報が認知できるようになり、気付けば言語として解せるようになる。
<log:Media=eyecamera:talksession-ks2dgsz4hs>

 無機質な声。いかに汚穢なる手段をもってしても、逃亡巡回ユニットを排除せよ。可能ならば、個体L3683を捕らえ最も残忍なる手練にて砕け。そしてM3689に絶対的な悪意の狼煙を焚きつけ、忘却した本質を思い出させるのだ。

 ルカの声。しかし、何故今になって。あの子たちの追撃は凍結となったはずでは。

 無機質な声。我の命令に疑問をさしはさむ行為は、猜疑の意と同等。今の言葉は、貴君の反逆を示すログとなりかねない。我の意識だけにと留めておくので、以降は慎むように。

 ルカの声。ですが、あまりにも。

 無機質な声。策定コード88873258732。読み込め。

 ルカの声。これは――了解しました(コピー)総  主(エルダーゼロ)。貴女が下さった惨殺官のあざながままに、この手を血に染め、ご随意のままに立ち回りましょう。願わくは我が総  主(エルダーゼロ)の胸に、深く安らかなる眠りが訪れんことを。

</log:Media=eyecamera:talksession-ks2dgsz4hs>
 会話の消失に伴い、視覚とも聴覚ともつかない情報の寄りあいが消え――やがて去来したのはリンの恐怖、ルカの歓喜、溢れる苦痛と快楽が交互に現れる記憶の波だ。
 小さな身体をもてあそぶ、不愉快な拷問手続き。
 神経作用のナノマシン送信が痛覚を際立たせ、さらにショック死を遠ざける、イヤみなやり方。ルカはそれぞれの工程を、几帳面な丁寧さでとりおこなっていた。
 ルカは、下着姿でベッドに拘束したリンを撫で、指から流体金属を滴らせた。菓子細工のように華奢な脚を撫でた。太腿から爪先までの緩やかな線を擦り、踝に手を当てた。
 ワイヤーの先端を硬化し、体内に注入していく。軟骨を切断しながら、筋繊維をプツリプツリと一本ずつより分け、徐々に切断する感触。怖気の伝導。柔膚の下で繊細な無数のワイヤーが震え、ざわめき、神経をやすりで舐めるような狂乱を加えては筋肉を断った。ミクは虚像を生み出す空間で立ち尽くすことしかできなかった。
 手を伸ばせど何もできない。
 リンは涙ぐみ、
「殺してやる――殺してやる――殺してやる」
 低く、獣っぽい唸りを漏らしながら、唇を噛み耐えていた。
「こうした手はずは古くより、多くの人々の手によって深化と発展をもって、美しいくらいに高められてきたの。医療の形式を持ち出すことで、その精度は単純で麻痺しやすい苦痛をもたらすだけの作業から、的確に正気をノックアウトして情報の引き出しや、後遺症を残さない処罰といった構造も取り込むこととなった。どのような目的であっても素敵よね、洗練された手業というのは」
「変態が言うと、板について、るね。こんな、下らないこと、を、高尚ぶるなんて」
「声に力がなくってよ。悪態をつくならば強い言葉を選ばなくてはだめね。さて、この場合は、先に言ったような意味は含有していない。どういった目的があると思う……」
「知りたくも、考えたくもないね。ミクが帰ってきたら、お前なんか」
「お前なんか、なに……」
 とルカはくすくすと喉を鳴らし、
「聞き飽きたパターンに用はないわ。あなたは見せしめの人形。いけにえの羊(スケィプゴート)。始まりの狼煙とすることが、いまこの行為における、最大の目的なのよ。あなたは単純なのと複雑なのどちらが好き……」
「どっちも、くそくらえだ」
「子供みたいな口ぶりはやめなさいな。折角の苦痛が台無しよ」
 微笑んだルカはリンの頭を撫でた――腹のうちで沸く単純で直情的な苛立ち。壊してしまいたい衝動を鎮めようとする感情が働こ、そこに安らかな口笛が重なった。
<media quotation code>
<item>Here's to You</item>
 優しげな鎮魂のメロディが皮肉に満ちた唇から漏れ出し、リンは憎悪に瞳を燃やす。
</media quotation code>
 分断を実行する精緻な流体金属は小さなミキサーとなって這い、やがて骨以外を細かく断裂して一周すると、足の甲へ通ってモグラが頭を出すように親指の爪を破って出た。リンの目玉がぐるりと大きく回り、白目をむき出しに、四肢の付け根を無力に震わせた。右脚をじっくりと潰すと、ルカは流体金属のブレードを抜き出して、先ほどよりかずっと楽しげに歌を口ずさむ。痙攣する太ももを掴むと軽く口付けしてから、股関節から八センチの位置に止血帯を巻いた。そして刃でくくり、キリキリキリキリ、と無気味に呟いて挽きはじめる。
 直径が、ナノからミリ単位に引き上げられた刃――切れ味の配置パターンが粗く変質。
 濁った湿り気を含む音を立てて回転を開始。印象はさながらチェーンソーを使った外科手術。肉を削ぎ落とす手触り。ルカは笑っていた――白い皮膚と真っ赤な筋肉繊維、薄く黄色がかった脂肪が混じって噴き出すのをものともせずに。
 柔膚を削り取る粗雑な切れ味。笑う刃が大腿筋に達した時点で、リンは耐え切れずに悲鳴を漏らす。短い叫び。長く、後を引く叫び。息切れ。低く命乞いする叫び。裏返った声が部屋中に反響して、リンが浮かべた死に物狂いの叫びがミクへと伝い、恐怖が感染する。
 我を忘れてミクの名前を呼び、助けてとすら言う。
 何度も。助けて、助けて、助けて、助けて。
 何度も。痛いよ、やめて、殺さないで、助けて。
 何度も。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
 繰り返していた。何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。何度も叫ぶ声を水っぽい切断音が塗りつぶす。
 しかし淡々とした作業に救いはない。
 止まることもない。
 骨の髄まで痛みを注ぐ。
 同じように時間をかけて、もう片方も切り落とされた。出血量を適当に抑えるために流体金属で傷口を縫い合わされているから、死は遠く、しかし足音が聞こえる場所にあった。
 ルカは息を荒げるリンの左乳房に頬擦りをし、汗が浮いた膚に鼻を当てた。
 緊張と苦痛で汗ばんだ矮躯――立ち上る体臭と、顎から伝った吐瀉物のにおいが、濃密な怯えとなってミクの頭を突き上げる。ルカは荒ぶ鼓動に聞き耳を立てる。
 大きく跳ね上がる心臓の音色。
 どくん、どくん、どくん、と大きく脈打つ音。
 ミクの心臓も、そして不思議なことに、拷問手順に慣れていたはずのルカも、激しい心拍を感じていた。筋肉の収縮と血液の流動はリズムを刻んで、ドラムンビートのように重なり合い、ミクの内側で爆弾めかして膨張していった。
 どくん、どくん、どくん、どくん。不気味な音に合わせて世界が揺らめく。
<terror>
 <hate>
 消えろ――消えろ――消えろ。
 飛びこんできた記憶の消去すら忘れて見入っていたことすら否定する衝動的拒絶。血の臭気が途端に現実味を失うことだけが、ミクを正気へと導くが、それも憎悪なる深々とした感情の前では打ち砕かれる。
 </hate>
</horror>
 思い出す声――最後に聞いたリンの呟き。見えないよ、ミク、どこにいるの。ミク、そこにいるの。聞こえないよ、見えないよ。
 リンがどれほど怖くて、痛くて、悲しくて、ミクの救いを望んでいたか。
 考えるだけで胸が張り裂けそうになって、高鳴る憎悪。この悪夢の始まりを耳にして、抱かずにはいられない感情。記憶への没入から一秒で帰還した基底現実。
 助けて上げられなくてごめんね、リン。
 ミクは歯を食い縛り、拳を振るい続けた。
 新しい対象を見つけ、胸をすり潰すように膨れ上がった感情。
 総  主(エルダーゼロ)
 否定の余地なく自らに噛みつくそれを棄てることはできなかった。
 今や骨も肉も関係なく、ただの黒々としたすり鉢状の空洞となった、顔のない肉。絶命したそれを残して、ミクはきびすを返し、ふらふらと歩き出す。ナノマシンが飛び散った血液を養分として取り込んで処理――身体を光の粒子が包み、衣服の再構成で血液の痕跡を分解・再構成し、無に返す。
 足音が、数え切れない屍の河でぴちゃぴちゃと鳴った。
 遠くからはサイレンの音が重なり合って、不安を煽るパターンを形成――仕事を果たすために、この場所へと迫っていた。共同体警備会社の上部にある執行隊だ。ミクは顔を上げ、脳髄の奥から湧いてくる眩暈で転びそうになりながら足を速めた。 <flashback>

 不意に脳裏を貫く、記憶と言葉のクラスター。
 ごめんね。ごめんね。ごめんね。
 言葉とともにクロスする記憶――ミクのツーテールを掴んで、いい手触りだと笑うルカ。遠くから不思議そうな顔で、手を繋いだミクとリンを眺めるルカ。
 しかし閉塞するミクの意識は、流れこもうとするそれを拒絶し、欠片とて残りはしない。

</flashback>
 メモリの処理が追いつかず立ち止まりそうになっても、無理やり脚を進めた。
 催眠のトーンを打ち鳴らし、人波が響く方へ出ると、そのまま巨大建築群から逃げ出すように運河を囲う土手へと逃げゆく。夕暮れに浸った道ばたには人気が少なく、運河沿いの背が低い民家の色相には旧時代的なものがあった。人間味がある彩度に合致するように、監視システムの露骨さもここではいくらか鳴りを潜めている。とはいえ、コントラストはすさまじい。幅が広く、橙色を照り返す運河をまたげば、一〇〇メートル単位の背が高く扁平な印象のマンションが横一列に連なり、その奥では更に大きなマンションが見下ろす。
 ミクは醜悪な差異に目を向けることもなく歩き続ける。
 歩調は、何者の意識とて引かない。
 常に警戒を這わせ、何も考えていないようでその実、誰よりも賢しい無意識。
 何故、ルカはあんな命令を受けたのか。自分とリンは残酷な仕打ちを受けなければならなかったのか。理不尽な言葉――最も残忍なる手練にて砕け――理解不能。
 燃え上がる――復讐を終えるための冷静さを蒸発させる臨界値(クリティカル)の憎しみ。
 ミク。リン。ルカ。巡回査問官というユニットの上にある、見知らぬ何か。繋がった糸の頂点、最終的な目標、それが生まれることの示唆がミクの敵意をいや増す。直感を補うのはルカから零れ落ちた情報――命令の実行、命令を受諾した地点、命令を下した者の居場所。
 それぞれが脳神経で交差して、光点を放ち、記憶から記録へと移り変わったルカの情報の第一層から第三層までをリンクしていく。
<loglink>
<l:クリプトン準進化推進センター・軌道上最重要研究施設(MRIO)
<l:軌道繋滞アウターラボ>
<l:現地の俯瞰図、及びにアクセスポイント>
<l:軌道エレベータ起動システム概項・ベーシックアーカイブ>
</loglink>
 行かなくちゃ。
 たったその一言がミクの感情を支配した。増長される使命感は、本心から外れた場所で、拡張し、膨張し、坂を転がり落ちていく。
 列挙した混沌が秩序を迎えてから数時間――マンションの連なりが消え、海にさしかかって運河は終わりに至る。道に沿って足を伸ばすミクの目に映るのは、生産と処理の構造が縦横に際限なく広がった工場が、無公害煙突と、角ばった施設の軒を延ばす埋立地だ。
<impassive>
 ミクは足を止め、夜気を孕んだ工場を見つめた。
</impassive>
 吐き出される白い煙がライティングに色づけされ、ところどころで寂しげに灯る航空障害灯が、時折、赤いレイヤーを加えた。その背後に聳える海上高架道路のおぼろげなシルエットがかぶさり、無機質な幻想を煽りたてる。それから、どこをどれだけ歩いたのか、ミクの身体から疲労が脱落するに伴って失われた時間を意識する機能を、視界の中に浮かんだデジタル表示で補った頃――日付が変わる前後、空は新しい始まりに向かい静かに囁いていた。ミクは道を引き返し、街並みに足を戻しながら、超高層建築をはべらせている都心に目をやった。夜気にまみれてたたずむ、超高層建築群の頂点にかかった星が秘める無礼な高潔さ。それはクリプトンが声高に叫ぶ偽りの高潔には届かない、強い光をもっていた。
 手をかざして星を掴むように掌を握ったミクは数秒だけ目を閉じ、そしてまたしても都市の監視網に没入。職務遂行を終えて帰路につこうと都市を循環するさらりまんの群れをかき分け、時に情報の波に乗り、そのときに初めて自分の個人コードがルカのものを取りこんで欺瞞に使っていると気づいた。そうして認識システムをくぐり抜け、目指したのは地下鉄。地下空間への階段を下りて最初の通路で、アイキャッチに視線を這わせ、網膜認証。
 個人コードの認証がここで完了し、ホームへと向かうと、視線に合わせて自動案内が拡張視覚に飛んできた。目指す先はこの国におけるクリプトンの拠点――臨海管理区域だ。ログリンクと拡張視覚の情報を合わせると、細かな乗り換え情報が表示された。
 プラットホームへ降りると、黒塗りの車列が速度を落とさず突入――二四時間体制の輸送機関。定位置でロックされた電磁レールで鉄が叩き折るような激しい音を響かせて急停車。
 無人のプラットホームに降りる影はなく、ミクだけがたった一人の乗客だった。
 個室になった座席に入って腰を落ち着けると、扉がいっせいに閉鎖されて車両が加速を始めた。それから数時間――もう終点へと至るという頃になって、ミクは無人のはずの車両に物騒がしさを覚えた。足音、鋼鉄の刃が空を切る騒音、展開を指示する声の残滓。
 クリプトンの管理区域警備オペレーターが看過しなかったことの証左。
<surprise>
 ミクは少なからず怯えを含んだ顔をして個室から出るべきかここにいるべきか、あるいは窓から飛び出すべきかを悩んで、右往左往とした。そうしている間にも迫る足音。列車内で唯一の生体反応――居場所は明白で、あと数十秒で到達するのは分かっていた。
</surprise>
 手段を思案――そこでようやく覚悟がついて、ミクは下唇を噛んだ。
 ミクは窓に手を添えて拳固を叩きこむ――ガラスが夜闇に散り、強い風が流れこむのが分かった。窓枠を掴んで車外に出ると息をするのが辛いくらいの風が吹きつける。ミクはなんとか天井によじ登ると、アクセス権を使って列車の制御システムを書き換えた。管理システムが文句を言っても無視して挿入する最優先事項――ブレーキ無効化と限界までの加速。
 遠くに見えるテクノホリックで凝り固まったターミナルがぐんぐんと接近――車上に追従するVTOLが焦ったように離脱し、降下しようとしていた警備オペレーターの一人が落下し、悲鳴を残して線路の闇に消えていった。VTOLが上昇する一瞬に閃光のような投光器の光がミクをかすめた。地上プラットホームまで十秒。内部では焦りのパターンが溢れていた。
 四秒――三秒――二秒。限界点が到来しようとしていた。
 ミクは跳躍に備えて、体勢を低くした。危機感を抱くほどの超高速――ミクは見切りをつけ列車の天を蹴りつけた。悲鳴を上げた一両目がレールの終端に衝突し、車体が派手な火花を上げてひしゃげる。二両、三両と続く壊滅の中で幾人ものオペレーターが潰れ、千切れ、肉塊と鋼鉄が混じって一からげの残骸へと変わる。それはやがて脱線に至り、プラットホームを埋め尽くした。飛散する列車だった鉄片、削られた建材、吹き飛んだ人体の欠片、コンクリートの塊を空中で回避したミクは開けたターミナル前に着地する。
 貫くように駆けつける敵意の嵐。狙撃要員や汎オペレーターユニットが次々と集結――いくつもの装甲車が荒々しく疾走しては急停車、数え切れない銃口がミクを狙っていた。
 精密機器も同然の意識は遠距離から照準する大口径狙撃銃はもちろん、至近距離で効果を発する突撃銃のダットサイトを通した視線をも感じ取る。
<whisper>
 怯えるな。お前の力があれば、ただの人間に過ぎない連中など烏合だ。
</whisper>
 ミクは逃げ出したくなる自分を拘束するシステムに気色の悪さを感じながらも、それに頼って恐怖を飲みこんだ。
 副現実展開――攻撃目標が青いキューブで縁取られる。
 虚数転炉の現体化――体が沸々とざわめく。
 視界に文字列が展開。
<opened arm>
<i:カルヴァリ・クランチャ>
<i:ブリード・ピーン/m120>
 戦闘対応システムの緊密な理論体系が、ミクの内部で膨張、浸透。
 痛みのない破裂の感触――肘から先が割れて弾けた両腕。
 白い膚を裂いて現れるのは、深い色彩の血にぬめった、黒く、鎧を思わせる硬質なる甲殻。そして腕の諸所に隆起する刺々しくも細かな凶刃。甲殻の内部に折り畳まれた刃の塊が、呼吸に合わせてゆっくりと立ち上がっては伏せった。ナノマシンの高速分子化合で実体化する、被鋼された腕――人間味など微塵とも見えぬ怪物の証左。
 ミクはぞわりと背筋が撫でつけられる気分だった。自分のことだというのに。
 恐怖が食い殺される――ミクは、ああ、と了解とも嘆息ともつかない声を漏らす。自分の感触。復讐のために蘇った肉体に秘められた本質であり、認めたくない色彩。
 刃が鳴らす恐ろしい音が、ミクの中にある人でなしを育てていく。
 もう戻れないなら、突き進むしかない。躊躇い、湧き出す涙を押さえもしない。ペルソナアリスは黙ってミクの心を支えようとしていた。感覚の針を振り切るのは理性ではない。こみあげる、衝動的な敵意が吹き荒れた。踏みしだく大地――加速する肉体は瞬時に亜音速へ。
 更なる超越を重ねて音速にまで至る。鼓動の速度(BPM)が人間の到達できない領域にまで跳ね上がり、血液はまるで沸騰するかのよう。
</opened arm>
 駆け抜ける肉体が巻き起こす衝撃波で、停車されていた装甲車が震えた。跳躍により飛び乗った車体が大きく軋み、鋼鉄の殻がひしゃげる。上半身を出して重機関銃を構えていたオペレーターの体が潰れた――加速された意識の中は飛び散る血と骨が花のようだ。
 ミサイルと化したミクの侵徹から十秒で死傷者は十名を数える――二〇秒で三〇名。それからもっと増えていく。殺戮の速度は留まることを知らない。
 ごみでしかない車体を踏みつけ、直線的接敵――わずかな接触だけで頭蓋(カルヴァリ)を砕く衝撃を振るい、ミクは警備の群れに吶喊した。飛び交う五・七oの弾雨。単調なリズムを躱すのはさほど難しくなどない。ジグザグに走って空間を自在に泳ぎ、次々とカルバリ・クランチャの破壊力を振るう。
 叩きのめされ、切り刻まれる肉体。
 コンクリートの地面は脚力により踏みしだかれ、こぼれる血と細かな砕片が入り混じる。
 宙を泳ぐ影。投光器の交錯――薄汚れたツーテールが流星じみた輝きを帯び、体勢の微動で弾道より身を逸らす。隊列のど真ん中に侵徹――着地と同時に両腕を真横に振るう。
 カルバリ・クランチャに仕込まれたブレードの嵐が機能を発揮。
<attack points>
<a:頚骨を中心とした急所>
<a:眼窩を透徹して頭蓋骨を破壊>
<a:胴体をかき乱す速度重視の切断>
<a:脚部を狙った機動力の損壊>
</attack points>
 殴打・粉砕・切断。初撃で走った幾条もの死線。黒々とした鋼の甲殻の指先から腕までに内包された高分子ブレード群は、銃弾の疾風怒濤が通過するみたいに乱舞。空間を裂く。縦と横の複雑なラインを描いて人体を断裂。銃撃が放たれようとも鈍重な弾道が見えるそれぞれはミクの前に意味をなさない。腕を振るうだけで銃器を粉々にしていった。
 各角度が鋭利な切断力を発揮し、いちいち肉体を斬断。たかが六秒足らずで、突撃してくる一五名もの警備オペレーター全員が、生命の残骸となって転がった。精密すぎるほど精密なほどの技巧によって切断した部品の数は、実にその五倍にも及んだ――その場には防弾素材と肉、プラスティックと金属が混合した、赤い破片が広がった。
 敵勢の殲滅――まだだった。ミクには聞こえた。最高位にまで高められた聴力が感じる、小さな装置群が噛み合う音が――視線を飛ばす――監視塔に赤い煌き。
 脊髄反射で肉体が加速――ミクは音速で駆けることへの違和を感じなくなっていた。
 両腕が風を切って鳴らす音は聖歌を奏でるクワイアのような清冽さと過剰さ――周囲の物体を跳ねさせる、絶対的な死の渦となった衝撃波で着飾るミクの姿はさながら風神。
 ミクが脚を通したブーツの爪先が変質――硬質化した鉤爪が飛び出す。監視塔の壁面に鉤を食いこませ、駆け上がる。瞬間的に壁を突き進み、最後の一歩に力を注ぎ躍動。ミクを見失った狙撃手には、何が起きているかも理解できていない。
 ミクは狙撃手の頭を掴み、柱に叩きつけた。鋼鉄はわずかにへこみ、吹きつけるのは肉片が混じった血液の嵐。手を離すと、ただ赤くどろりとした物体が残る。
</opened arm>
 それを払って海を見やると、湾外に浮かんだ広大なる埋立地に立ち竦む超巨大建造物(メガストラクチャー)――クリプトン準進化推進センターMRIO。地平線を背後に讃えた畸形的なオブジェクトは、空を目指す螺旋と砂時計が奇妙な形で噛み合った、そもそも立っていることすら危ういと思うような、不思議な構造の塔だった。地上から伸びる光の帯が照らし出すそれは、まるで人類の中心にある信仰の偶像だ。人智を超越した様相で空へと続く構造物から伸びるのは、地球と、人が暮らさざるべき宇宙空間とを繋ぐ軌道エレベータ。地獄に垂れ下がった蜘蛛の糸のような、救いがない一本の絶望で繋がれた空の向こうに軌道繋滞アウターラボが控えている。ミクは塔から飛び降り、警備隊の駐屯区画を走り抜けた。
 ルカのコードで特秘回線に問い合わせて個人認証を済ませたミクは、そのまま脚を進める。入り組んだ監査装置と道路の組み合わせはルカの査問官特務幇助規定によって、次々と解除されていった。防護壁や監視装置の積層によって、屋内か屋外かの区別もつかない施設を通り抜けると、最後の障壁として立ち塞がるゲートが見えた。地響きじみた音を立てて開き始めるそれを越えると、一直線に伸びた高速通行橋索帯が広がる。クリプトンの様式美である技術の積層と、過剰なサイズによって特徴づけられた橋上には通行を禁止するためのバリケードが張られ、路面からは突破を試みる車両のタイヤを破裂させるための、鋭利なスパイクが突出していた。それを飛び越えて、ミクは深呼吸をした。
 この向こうに答えはある。長大な空への階段を目指し、ミクは走り出す。
 違和感――遠近感が狂ったように、移動距離と目標物への道のりがずれた道のり。遠くに見える怪物の住処それ自体が、ミクを拒絶しているような思いがあった。それから延々と走り続け、点々とおかれた道路照明灯が切り分ける明と暗を交互に浴びる。
 三分の一ていどまで走りつめたミクを追う視線――橋上の監視カメラが一斉に収斂。機械ながらの透徹した視線。それを認めて、経験則が語る悪い予感を抱いたのも束の間。
 聴覚がかすかな揺らぎを捉えた。視線を海上へ振るい、猛スピードで迫る影を探る。
 意識せずとも望遠が働く――視界に収まるのは鋼鉄の鳥。
 前守吏(さきもり)級無人戦闘機だった。
 流線型でほっそりとした機体にはパイロットがいるべきコックピットが存在せず、のっぺりとした鼻面には精緻な高次感覚ユニットが搭載されていた。クリプトン傘下の軍事企業が保有する汎白兵無人戦闘機を統御するのは、ミクと同じ人造人間をベースとした、頭脳義入体。風圧や速度を精緻に計算して競い合うように曲芸じみた飛行をする機体に刻まれた文字は「MEG」と「MIG」。ミクは不意に、ふたりでひとりだった姉妹を思い出す。
 飛行し二機は超音速から速度を落として、ミクを睥睨するように頭上を駆けた。研ぎ澄まされた翼からは白いベイパーを引いて、機械仕掛けの姿を誇示する。
 対応武装――対人自動拳銃を出力再計算すれば破壊できる。銃把に手をかけると、視界に複雑な文句が流れた――要約すれば「電力不足につき発砲不可」。バッテリーが要求するのはミクがまとうインナーの発電繊維による充電――まだまだ足りない。
 ミクは苦い顔をして歯噛みした。
 引き返した一機が横切る。すれ違いざまに炸裂する打撃力――爆発的に吹きつける二〇o徹甲弾の雨は、さながらこの世のスプーンとフォークを片っ端から投げつけるよう。
 ミクは素早く掻い潜るが、よけそこなった一発が肩に命中――腕がポォンと飛んでいった。捲れ上がった肉と骨が新たな腕を形成。侵徹する図太い徹甲弾の影響で体が宙に浮き、失った腕が訴えるような痺れに呻くミク。なんとか大地を強く踏みしめて一歩へ繋ぐ。
 無人戦闘機は弾薬の損耗を避けるために弾幕を中断した前衛。そのあとを、スマートな飛翔経路を描く後衛が継いだ。ミクは息を飲む――二発のミサイルが発射、曳光が低空を這う。白い尾を描いてミクを狙う有り余る火力。既に人間を超越したものを相手にしているという意識が、遠隔地にいるパイロットに最大火力の兵装を選ばせたのだ。
 先んじて飛来する一発が矛先を打ちつける前に、ミサイルの腹に蹴り――軌道を変えられた弾体はくらりと天を目指し、地上二〇メートルで爆裂。膨張した火炎が背を撫ぜる。
 破片が飛び散って膚を掠めるけど、無視を決めこむ。そのままさらに膨れ上がる爆炎から走って逃れながら二発目が描き出す軌道を見やった。
<opened arm>
<i:ブリード・ピーン/m140>
 地を踏みしめ、追いすがるミサイルに真正面から立ち向かい、一気に加速。
 感覚を限界近くまで先鋭化させると、世界は完全に静止したように思える。
 到達の寸前に跳躍しミクは空中を舞いながら、前転の要領でハイスピードの回転を加えて、踵で弾体の底部を蹴りつけた。加速から末端失速に至る、フィルムを切り取ったように瞬間だけ足先から展開した刃――外殻を裂いてプロセッサーとセンサーで凝り固まった中枢を斬断。発生した衝撃波が突きぬけ、真っ二つになった弾体は風に揺られて道路と海へ没し、すさまじい爆発力で短い雨を降らせた。
</opened arm>
 高まる轟音を聴覚が拾う――距離はもう何十メートルもない。
 ミクを狙った戦闘機が、無人機らしい捨て鉢な勢いで、しかしタイミングも角度も測りつくして突っこむ――振り返りざま、傾いた戦闘機の翼が腹を殴りつけた。
 肋骨が粉砕する感触。折れ曲がった胸郭が内臓を苛む――衝撃で粉砕した骨が突き刺さる肺腑と胃が破裂、口から猛烈な勢いで血液が迸った。ミクは体内が爆発するみたいに途方もない一撃で気が遠くなった。今度こそ、本当に死んでしまうような気がした。
<opened arm:automatic>
<i:カルヴァリ・クランチャ>
 咄嗟に展開される兵装。意識を失いかけながらも主翼を掴んだミクは、吹き飛ばされぬよう装甲に爪を突き立てる――顔の周囲に発生した抗圧フィールドが呼吸を補助。握力任せに装甲を抉り、歪ませ、血反吐をこぼしながら機首へと這った。
 口から垂れる血が風圧で滴を散らすが、目を瞑って中枢ユニットに右腕を突き刺す。
</opened arm>
 内蔵の電子機器やセンサー類に腕が浸透――ナノマシンが形成するケーブルが割り込み。
 溢れる情報の羅列――情報の分解と再構成。欠損、再生、欠損、介入。
 感覚が時間を失い、意識が電子的な情報に還元されていく。侵入者を弾き出す防御機構が作動してミクの介入をシャットダウンしようと働く――通信中枢と結線された回線を次々と物理シャットアウトするけど、最後のひとつをミクが掴む。Xがもたらした「機能」の群れが総力をもって手管を積んでいくことで、緊急展開した電子防壁もいとも簡単に打ち砕いた。機械の向こうでは無人戦闘機の主が情報の侵入に拒絶反応を放っていた。オートマティックに人格を犯して主導権を剥奪。伝わる嘔吐感。末端が粉砕される痛苦。
 情報の圧力が増す――持ち主の感覚が高まりながら逆流して、頭が潰れそうだった。無理な電子的介入をおこない、情報処理を始めたことへの代償。
 それが止んだとき、電波の向こうにいる者の声が聞こえた。介入の承諾。
<call=MRIO guard fleet2 center254>
「お帰り、我らが友達、ミク」
「お帰り、我らが逃亡者、ミク」
 聞き覚えのあるふたつの声――メグとミグ。巡回査問官として作られながら、細胞分裂制御と幼形成熟に失敗し、しまいにはシャム双生児となって出来損なった姉妹。かつての友達であり、閉塞的な世界から脱するのを手助けしてくれた、ミクと同じように感情をもつことができていた者たち。かつて一つの身体を二つの脳で共有していたふたりは、切り離され、機械の怪物となっていたのだ。記憶の湧出に胸が痛み、いたたまれない感情が漏れる。
「帰ってきたのはいいけど、ここに君の居場所はないよ」
「帰ってきたのはいいけど、君はもう公共の敵なんだよ」
「帰ってきたんじゃないんだ、メグ、ミグ」
「そうだと思ったよ。だからあたしたちも迎撃してるんだもんね、ミグ」
「そうだと思ったよ。楽しくないけどやるしかないんだよね、メグ」
「言われたとおりしないと生きて行けないのは、何も変わってないんだね」
「生命を維持するには忠誠の硬度を示さなければならないんだ。世界を裏切った歯車が、なんで世界の中心地に帰ってきたの」
「生命を維持するには自我の鈍化を示さなければならないんだ。世界を裏切った歯車が、なんで世界を敵に回そうとしてるの」
 ふわふわとした声――ミクは他者の意識の中を浮遊する感覚によって、自我の不安定さを呑みこまされた。訳もない不安で架空の涙を流しながら、
「大切な人を盗られたんだ。もう二度と取り返せないくらい、遠く遠くに連れて行かれちゃった。顔を見ることも声を聞くこともできない。だから、奪った奴を、この手で殴りつけてやるために戻ってきたんだ」
「感傷のために」
「自慰のために」
<passion>
「否定はできないよ。でもね、私は誰かから、世界と自分を繋ぎとめる何かを掠め取ったりはしなかったんだよ。ただ放っておいて欲しかっただけなの。なのに根こそぎ持っていかれちゃった。そんなの許せない。私はそれを命じた奴を思い切り殴って、そんなことをする意味が、必要があったのかを聞きださなきゃならない。引き返せはしないんだ」
</passion>
「殺した人々の骨肉で形作られた果て無き地を進むのね」
「心を預けるべき世界を棄てて最後の最後まで往くのね」
 ミクは短い頷きでふたりの問いに応えた。選んだ答えと意志に偽りはない。
 メグとミグは同時に言う。君の最後を紡ぐために。彼奴の夢を遂げるために。
「どういうこと。あいつ……あいつって誰」
 メグとミグが口々に呟く。総主(エルダーゼロ)。あたしたちに先んじる最初の一人。あいつは安寧をなくした亡者。セカイでたった一人の、とても孤独な人。
「どこにも行けない」
「どこにでも行ける」
 またもや響く名――総主。なぞかけじみた言い様が孕む悲哀の色彩により、抽象化された言葉の形状がぐにゃりとして、際限なく飛び込む。
 憐れまれる者の名は――ロスト。許諾されない表示。いかなるものの存在を示唆する言葉なのか。それは総主なる厳めしい字義から、ほんの少しだけ感じ取ることができた。クリプトンの頂点に立つ者。Xが技術を与えると共に、殺害せよ、破壊せよと命じた存在。意識の中心でXという力の意匠がフラッシュバックする。
 ミクが本質を問うと、メグとミグは口をそろえて、
「あたしからは言えない。それはやがて自分で得られる。道理は倫理に敵わない」
「あたしからも言えない。それはやがて時間が与える。倫理は道理に先んじる」
「分かった」
「たったの一秒にも満たなかったど、楽しかったよ」
「たったの一秒だろうとも、君と話せて嬉しかった」
<sentiment>
「ありがとう」
 他人が漏らす言葉が含んだ人間的な優しさの匂いに、ミクは泣きそうになった。
</sentiment>
「ようこそ、そしてさよなら。ミク」
「さよなら、そしてようこそ。ミク」
 そろって呟かれる言葉。意識がぶつりと途切れたそのとき、ミクは目の前に広がる膨大な情報の列挙によって螺旋を描く、巨大なデータベースゲートが光を失った。
</call=MRIO guard fleet2 center254>
 全機能掌握。基底現実換算でたった一秒にも満たない時間。全工程を経るのに、それ以上はかからなかった。個人の頭脳がぶち壊される、情報の共鳴を聞きながら、ミクは仮想現実から基底現実に解き放たれた。風圧に目を細めたミクは、メグとミグが協力も妨害もせず、ただ目を瞑ったことを悟った。
 まだ残留している電子の感覚を振り払ったミクは、前守吏の主導権を握って加速。
 速度を落としたミグ機へミサイル、機銃掃射を放つ。
 黒い海上を断ち割るオレンジの火線――撃墜――くるくると回転して空中分解。火炎を散らす破片が沈没。爆炎が激しく盛り上がって、海水に呑まれすぐさま鎮火した。
 ミクは鋼鉄の翼を駆り超巨大建築物へ突貫――加速する機体を、後続の前守吏が追う。
 攻撃目標の指定――MRIOに配置された、無人機の火力管制をつかさどる防衛拠点艦艇。無力化の方程式は空対地ミサイルと徹甲弾の弾幕リミックス。メインユニットに両手を突き刺し、ミクは風圧にツーテールをなびかせる。勇ましい姿はさながらカウガール。
 意志に従い機体が失速――ベイパーを引き、追いすがる前守吏の背後へ。
 即時的なロックオン。ミクの視界に映る滑らかな機体が青いキューブで縁取り――ファイア・ファイア・ファイア。ミサイルの嵐が吹き荒れ、邪魔な先陣の銀翼を打ち払って爆散する二つの機体。墜落する残骸をかすめて再加速。吹き荒れる爆炎の幕を突き抜けた。
 目指すは防衛拠点艦艇だが、それを阻止するようにさらに飛来する前守吏。予期せぬ激戦に逐次投入の気配。すれ違いざまに二〇oの火線――トレーサーが夜気を裂く。
 効果的な撃墜。その数、三。
 横並びとなった巨大な二隻の艦艇――黒色のステルス塗装によって夜闇と同化し、海上に寝転がる扁平なる母艦へ吶喊。
 徹甲弾をフルオートで射出――CIWSのキルゾーンに入るのを感じつつミクは兵装を選り抜く。兵装ラックを解除された高精度クラスター爆弾――誘導レーザーが走り、ロックオンと同時に火炎の尾を引いた全六発を発射。
 再度上昇を試みても既に全方位防御のCIWSの、本格的な有効射程に突入。慌てて機首を星がさんざめく天蓋に向けるが、認識の埒外にある連射によって生まれる弾幕をくぐりきれず、打撃をこうむった機体――ミクが機体と接続した腕を切除(パージ)
 蹴りつけて宙を舞った一・七秒後の衝撃波。
 海上では天高くに伸びる炎の花束が盛大に咲き乱れた。
<boming points>
<b:激しくトレースするCIWSに撃墜される>
<b:掠める弾幕に弾道を逸らされ海上に落とされる>
<b:艦首を貫徹して完全に破壊しつくす>
<b:甲板を縦一列に展開する火炎の渦で覆いつくす>
<b:無人機もろともに砕けた甲板を穿ち内部を破壊する>
<b:更なる一撃が基底部を砕き、沈没を促進する>
</boming points>
 パージの直前、メグとミグがいるだろう艦艇に飛翔経路を設定した前守吏が、白々とした煙に月光のレイヤーをまとって墜落――艦橋に飛びこんで粉砕、層をなす複雑怪奇なアンテナ類を巻きこんで機能を無効化。さらに爆炎と飛散する破片によって人員を殺傷。
 落ち着くことを許さず、冷たい風を切り滑空するミクを狙う影――ジャベリンの雨。
 対戦車兵器を人造人間に使用する不届き者による、火力満点にして正確な軍事科学の槍衾――ミクは真っ先に突っこんでくる一発に着地し、すぐさま弾頭を踏みつけて軌道を狂わせる。くるくるくるくると回転して推進力を喪失したミサイルに、後続に一発が巻き込まれ、連鎖して夜空に火球が映えた。
 軽い跳躍で推力を孕んだミクは、そのまま飛躍――迫るジャベリンにカウンターの鉄拳をぶちかます。即時展開した装甲で包まれた拳が弾体を抉り、烈火がミクを包んだ。
 煙幕と巻いたミクは風に煽られながらも、コートをはためかせて橋上に舞い降りる。
 着陸――衝撃を直で伝わりクレーターが穿たれ、粉塵が上がった。
 遠く、冷めた照明灯の下で仁王立ちした影があった。
 視覚拡張――望遠。腕を組んで佇み、人工筋肉の腕と火器類管制機能を満載した戦闘支援バックパックシステムを背負う、厳しげな目鼻立ちをし、紅の巻き髪を揺らす少女。下顎から首にかけてが機械的な機甲に覆われる、纏うのは第二層巡回査問官(クレリックス)のコート。ルカのデータと自己記憶が喚起――MRIO守戦対応人造人間――重音テト。
 いつか言葉を交わしたことがある、無口で不器用な女の子。
 背面の戦闘パックの蠢動。本来人体には備わっていない第三、第四の腕がジャベリンを棄て、グリップを握りラックから外したグレネードランチャーの砲口でミクを捉える。
 ミクは横へ歩み、やがて足を速めてジグザグに――瞬間的に風に乗る。
 テトもまたそれを追尾――戦闘支援パックが随時受信する情報を元に追尾。
 発射される弾体――目標に届くまでもなく、ミクの軌道を予測して最適な距離で爆裂。対人砕片が踊り狂い、いくつかはミクを貫いて吹き飛ばす。
 思いもよらない火力の展開にミクは苛立ち、口に入った砂利を吐き棄てた。要撃に適したエアバースト――連続的に送られてくる二五ミリグレネード弾の連射を睨みつける。
 次々と発射されるグレネード。あっという間に二挺に内蔵された一〇発が飛散――弾切れ。数発をまともに喰らったミクは咳きこみながら、首に浅く刺さった砕片を引き抜く。
 投棄されたランチャーが路上を転がる――テトは太腿から二挺の拳銃を抜き、戦闘支援システムもまた同様に銃を抜く。手にされるのは対人戦闘からかけ離れた火力狂いの五〇口径。
 地を蹴りつけ、疾走するそばから弾丸の渦が吹き荒れた。
 必中を望み、次々と踏むステップを読み込むように直線的なだけではない軌道の弾幕。幾何学と統計学の合致により発射される芸術的な弾丸の交錯。
 目に映る弾道――大気に伝導する衝撃波を感じ取り、ミリ単位の精度での回避。しかし弾丸から逃げた先には、既に発射された弾丸――罠にかける狡猾な銃撃。
 回避しきれないミクの脛を穿つ銃弾――特大のホローポイントが着弾、侵徹の瞬間にキノコの傘みたいに膨れた。爆ぜたみたいな射出孔がふくらはぎに生まれ、飛び出る骨と筋繊維。
 追いすがるような二発目が腹に着弾――内臓を手でかき乱したかのような劇痛と不快感で目の前が真っ赤になり、血反吐が食道を逆流してくる。
 ミクは辛うじて機能する片足で地を蹴り橋上から飛び降りた。高速道路を支える鉄骨に身体を打ちつけながらも、なんとか二層下の点検用キャットウォークににつかまり、束の間ながら弾幕から逃げ出す。肉体が急速修復される間にも体内でぐるぐるとのたうつ痛みでまともに動けない。欄干に掴まって立ち上がると、太腿の対人自動拳銃を引き抜く。
 充電は完了――掌紋認証でロックが解除。
 可狙撃域調整――裸眼視差修正による短距離狙撃への最適化が終了。
 キャットウォークが揺れる――振動パターンの波形とリンクする轟音。
 振り返るとバックパックから地獄の業火じみたバーニアを吹かして浮遊するテト――オートマチックを機関銃に持ち替え、火力を誇示するように腰だめで保持。
 背後の火炎を照り返し、銃口がてらてらと殺意に濡れそぼつ。
 刹那、数秒で人体を解体するに足る威力が展開――徹底的な面制圧。キャットウォークを保持する建材を次々と削り落とし、所要時間二秒の早業で足場を崩落させた。
 ミクは弾幕が自らを捉える前に跳躍していた――橋上に跳び、追随者へ意識を巡らせる。
<hate>
 邪魔だ/消えろ/消え去らないなら突き抜けるまでだ/殺して通り抜けるまでだ。
</hate>
 昂進する情動――頭脳の内奥で啓発される殺意。自意識で眠る殺人機械としての機能がもたらす啓示。ミクの意識速度の最大値を記録し、次々と判断が下っていく。
<opened arm>
<i:ブリード・ピーン/m150>
 超加速――真っ当な速度では決して戦えないと分かったから最大限の疾走。世界が色彩を失い、敵の姿だけが鷹の目みたいに増幅された。
 対人自動拳銃の火力制限を解除――対強化骨格出力へ切り替え。
 弾体選択。対甲炸裂子装填弾をロード。対衝撃腱鞘アップロード。ミクの視界に表示される効果的強化――変化していく感触がぞわりと体内で蠢く。筋力増強をスキルに含むと、わずかに痛みが走る。構造変換によって反動(リコイル)への耐性が生まれた。
 ミクの空間を切り刻むような接近――敵の無表情が驚愕に変わるパターンを感じられた。
 ミクは勢いを得た回し蹴りでバックパックが突き出した二本の腕を蹴りつける。人工筋肉の束と強化骨格を粉砕――二挺の拳銃と樹脂製筋肉が吹き飛ぶ。続けざまに格闘指向性ナイフを抜き、少女の肩の関節に狙いを定める。一撃で右肩、ニ撃で左肩を撹拌。切断。加速を解除すると、額に銃口を押しつけて銃爪のストロークを往復。大気を擦る弾体が、死に至る寸前のルカと同じ顔をしたテトの額を貫徹――分厚い額の骨と大脳を掻き分ける。
 炸裂子の点火――後頭部を抜ける前に弾体が爆ぜ、生命力と修復機能を上回る欠損を叩きつけた。

 戦闘の一時的終結。
 銃声の残響、テトが倒れ、人工筋肉が転がる鈍い音が反響(エコー)
<silent>
 生体機能バックアップが停滞。短い落ち着きが、ミクの鼓膜で踊る。高速通行橋索帯に打ち寄せる波の音と、肉体が燃え上がる小さな音が、音のある静寂のパターンを形成。
<flashback>

 不意に脳裏を貫く、記憶と言葉のクラスター。
 こうなるなんて。こうなるなんて。こうなるなんて。
 言葉と共にクロスする記憶――顔になにひとつの感情も浮かべず、でも手つきに感情を込めてお菓子をくれたテト。手を繋ぐミクとリンを羨ましげに見るテト。
 しかし閉塞するミクの意識は、流れこもうとするそれを拒絶し、欠片とて残りはしない。

</flashback>
 過ぎ去る情報の奔流が消えると、バックアップ停滞で発生するペルソナアリスの剥落。
 ミクは湧き出す自己嫌悪を自覚――胸に手を当て、つきたてた指先で掴んだ。人を殺すことを誇らしげに呟いたのを大事な人に見咎められたような、心臓に針を刺すみたいな自己俯瞰。世界で一番大事だったあの子との約束を破っている実感だけが、そこにはあった。
</silent>
 ミクの心で反芻される言葉。
<mikupedia:log-20870225/within outer memory>
<item>リンがくれた言葉</item>
<description>ぼくとミクの、互いのための戦いだよ。誰かを憎むなんて、不毛だもんね。</description>
</mikupedia:log-20870225/within outer memory>
 ミクは涙を目にためて、
「ごめんね。私馬鹿だから、やっぱり約束は守れないよ。約束したのに、自分のために戦ってる。ごめんね。許してくれる……」
 答える声はなく、潮風の空虚な流れだけがあった。ミクは掌を固く握った。そして最加速――ブラックアウトしそうな足つきでMRIOへ。涙は風圧に流され、虚空に消えた。
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