chapter1 「Battle Runner」 |
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神よ。願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、 変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵をさずけたまえ。 ラインホールド・ニーバー(1892-1971) <falsify emotional in text pickup language:version=66.6:FETPL=20890402> <FETPL=jp> <body> 空を仰いで倒れ伏し、少女は涙をこぼしていた。冷酷な天に低く蓋をした金属色の雲から降りてくる滴が体を撃ち抜くように叩きつけ、涙の滴を洗い流した。篠突いた雨には、いまだ止む気配はない。振り乱されたツーテールの柔らかな翠髪は力なく、雨の重みに縛られていた。少女はしゃくりあげながら、深い痛みで犯された腹に指を伸ばす。弛緩した指先で、自らの髪と同じ緑系の滑らかなネクタイと白いシャツに黒いジャケット、膚から皮下脂肪、筋肉と腹膜、それぞれの切断面に触れるとひどい怖気がした。 分かったのは、生々しくぬめった肉の筒がそこから垂れていることだけ。失血と冷たい雨に体温を奪われ、意識はすでに混濁を始めていた。 柔らかな艶を失って紫に変色したくちびるのスキマからは、弱々しいうめきが吐かれた。肢体の沃野に開いた裂け目。雨に滲んだ紅に触れた途端に、死ぬ、と直感的に判ずる。熱くぬめり、止め処なくあふれ出す赫々とした命の通貨はあまりにも安っぽい。 そいつは額からも流れていて、倒れる直前に浴びた返り血といっしょに、艶やかだった髪に吸いこまれていた。闇を思わせる色彩となっているのが少し見えた。視界のはしには自らを切り裂き、また自らの手で致命傷を刻んだはずの女が映りこんだ。喉に手を当て、寄りかかる壁に血を吐き散らしていた。しかしそれが本当に眼球が得た事実なのか、脳髄が生んだ幻想なのかは、霞む頭では一つとして解らない。 確かに手応えはあった。だが、殺傷の確信に至る感触だけはなかったように思えた。 せっかく首を切っても、それだけじゃ勝てはしない。 次の一手が。 相手の生命力を上回る速度、あるいは打撃力が。 影に震える手を伸ばすと、女はふらつき、無言で遠ざかるのだけが分かった。少女もまた、それを諦めたのか目蓋を落とした。虚脱――自分はここで終わるという認識が染み渡った。 永遠に等しい五メートルという距離をおいた 打ちつける雨の音色が安らかに、単純な鎮魂歌を奏でる。 あまねく音はすべて音楽を奏でられるようにできている。 雨に淡く溶けた冷たい都市の雑踏も。 この曇天の向こうにある晴天が成層圏の果てで凍りつく、耳には届かないか細さも。 魂を洗い流そうとするみたいに降り注ぐ死の雨も。 憎悪に焼けつくことすら許されない、弱った歯軋りも。 やがて朽ちゆく鼓動も。 死神の足音さえも。 <streaming> さあ君は死んだ。死んだぞ。殺されたんだ。藁のように、簡単に切り落とされた。 存外に安い命だ。その一抹のあぶくじみた魂だ。 君にはなにができる。刃とて握れないはずだ。 その細い手で誰が殺せる。誰も殺せないはずだ。 その目でなにを見つめる。もはや盲も同じだ。 抜け落ちる血潮の匂いに顔を歪めるはおろか、劇痛の辛苦に身をよじれもしない。 だが、諦められる道理とて一片とてないだろう。さあ、取引をしようじゃないか。 この深淵を踏破するため、君に必要なものは何か。命だ。力だ。それに、一握りの時間だ。 わずかにでも戸惑い、躊躇するなら終わりにしよう。自省以外の何も、君を責めはしない。 君はそれを知っている。諦めが魂を殺すと知っている。何も否定せず、受け入れるはずだ。 分かりきっている。憎悪を殺すためならば、君はあらゆることを選ぶだろう。 </streaming> 誰によるものか理解できない声、声、声。 死を否定する声。私はそうして消滅することを許容できるのか。 こめかみに這い寄る刺すような痛みがあり、 死を否定する声。音色を取り戻さずして眠りを許容できるのか。 腹の傷を結い合わせる気味の悪い感触があり、 死を否定する声。敗北した記憶を抱えて膝を折ろうと言うのか。 <fury> 世界を閉じ込める雲に掌を突き出し、固く、固く、力強くこぶしを握る。 敗北を認める自分を、ただひたすらに握りつぶすように、力の限り。 </fury> 声は告げる――契約成立だ。 少女――ミクは知る。この体、あの子が可愛いといってくれた顔立ちも、人より少し控えめなおっぱいも、遺伝子情報の冗長点であるだけの子宮も、魂の玉座たる心臓も、細っこくて戦うことには向いてない手足も、枯れた声も、どれもがミクの頭脳に据え置いている これは世界と拮抗する音。肉を千切り、結い合わせる音。手触りが消失していた、ふわふわとした世界に再度時間が刻まれ、意識を喪失していたミクの体には本来的な力と、淵から拾い上げられた魂が再び刻みこまれていた。 無限に近く一瞬に極めて類似した今。 認知できないほどの時が経過する中、ミクはいつのことだか体験したはずの、大切なことを思い出していた。 <recollection> 長い廊下を、ふたりの少女が、果てに見える光を追うように走っていた。 「この支配からの脱出だ」 金髪の少女は言った。答えを待つこともせず、泣きそうな顔をしたツインテールの女の子――ミクの掌を、しっかりと握って、引っ張るようにして走る。 「でも、こんなことをしたらルカに怒られるよ」 「ぼく達の腰から下にはなにがついていると思っているの、ミク。二本の脚があるじゃない。地面はどこまでも続いているんだよ。ふたりならどこまでも行けるんだ」 「ふたりなら……」 「そう、ふたりなら大丈夫。ぼくたちの絆はダイヤよりも固いのさ」 ダイヤモンドを砕くのには、ハンマーの一振りでも充分だった。 ふたりを結んだ指先という絆の片鱗すら、暴力のひとつで簡単に砕け散ってしまう。 記憶のテクスチャが崩れ落ちた。色彩の爆発が懐かしい、自我の始原にも近い連続体を蹴散らして、世界が墜落を始める。頭上に見えるのは自分を移す水面。空と呼んでいた場所すら海となる不条理なメモリ。 繋いでいた掌の感触が温かい。でもそこに誰がいる。 誰もいない。自分だけ。 墜落。空に墜落。三、二、一。世界が輝きだす、めっぽう強い光が爆発した。 </recollection> 飛び起きたと同時に、眼球が悲鳴を上げるほどの、どうしようもないほど爆裂的閃光が、ミクの眼底を焼き尽くした。強い太陽の光。本物の悲鳴は出なかった。キリキリと軋んだ、耳障りな異音が喉から漏れるばかり。濡れた地面でのた打ち回り、声も出せずに泣いた。 頭を抱えるとこめかみに鈍い痛みが走った。 <surprise> なに、これ。石灰質を思わせるなにかが顔に突き刺さっている。 考えるまでもなく生理的な嫌悪が先走り、ミクは肌に爪を立てて掻き毟ると突き出ていた先端部の周りから肉をこそいで掴み、思い切り引っ張った。ぬちゃり、と音を立てた細長い棘が皮下組織から剥離しながら、糸を引きながら抜け出す。 剥き出しになった傷口がゆっくりと盛り上がり、深く穿たれた肉の穴を埋めた。 なに、これ。思考が混乱して、頭がぐらぐらした。平衡感覚を保てず、立ち上がっても脱力して転び、膝を擦りむいた。黒いソックスがよれる。地面に手を突くと、もう片方の棘を抜いて倒れた。音が研ぎ澄まされる――耳の奥がよじれるように、平衡感覚が消失した。 </surprise> 息が荒くなり、発作的に胃液を吐き出す――青と灰色の中間で鈍く光を照り返す湿ったアスファルトに、黄色い水溜りが広がる。どうしてこんなことになってるの。 思案――何も思い出せない。泣きそうになって煉瓦の壁に寄りかかると、泣きながら額の冷や汗を拭った。ミクは鼻をすんすんと鳴らして組んだ膝に額を当てて目を閉じた。そう、名前は思い出せた。私の名前はミクだ、という実感はあった。ミク。初音ミク。フラッシュバック――光の速度で記憶の嵐が頭蓋の中心を席巻し、暴力的な現実で思い切り殴りつけ、自分の正体を呼び起こした。 <sentiment> <mikupedia:log-20890318/within outer memory> <item>私が好きだったリンの記憶 <description>ミク、一緒に行こう、奴等の手から逃げ出すんだ。ミク、大好き。ミク、いっしょに寝よ。ミク、どこにも行かないで。</description> </mikupedia:log-20890318/within outer memory> 困った友達を慰める女の子の声。はにかんだ声で呟かれる女の子の声。今わの際に漏らされる声。最後に記憶の膜を突き破ったのは、四肢を切断されたあの子の姿だった。 手を伸ばしても、もう永遠に触れることのかなわないあの子。 もう戻れないのだ。あの子に包まれていた優しい日々には。 リン――名前を呼ぶ。声は干からびて、あの子と鼻歌を謡ったときのように澄んだ声は、もうどこからも出ないような気がした。 あの子の名前を呼んであげたいのに、応えて笑んでくれるあの子はいない。 </sentiment> 意識は翻る――そも、なぜ私はここにいるのか、という疑問。復讐の手触り。意識の曖昧なセキュリティ。堰を切って、一気に膨れ上がる。 忌まわしき あまりにも鮮やかな破壊。それによってミクは大事な人を失い、あの女を葬るために、リンにしたように痛みを叩き返すために、円刃をとることとなったのだ。 道理は通っている。 今ナンドキ――意識を反映して閉じた瞼の裏に浮かぶ日付と時間。丸二日が経過。 頭が混乱した。泣いていると、視界に無機質な文字列が並んだ。 角膜内部に形成されたナノマシン群による干渉スクリーンに映し出される、文字の波。 <list:item> <i:フェイタル・ヘイト> <i:カルヴァリ・クランチャ> <i:ブリード・ピーン/m80-150> <i:ライジング・ローリングサンダー> <i/list> ミクという存在が、反抗の軍閥「V」に下ったことを示す、技巧の羅列だった。 世界のどこか、遠きクロスホエンでインフラがコードの連続体を繋ぎ、頭蓋の内側にて交錯した虚実の中心で垣間見た、自らを作り変える見果てぬ理。 クリプトンを憎悪し、スキマを縫っては浸透して基底現実からかけ離れた仮想現実の中でテロリズムを巻き起こす、データ上の敵意。 ミクがいつか敵として立ち向かっていた姿なき敵意が、反響していく。 チェス盤に置かれた骨の玉座に座り、ミクに新たなる魂を与えたドレス姿の影。 顔が見えない――ぼかされ、波紋が広がる水面のように不定形。 Vとは復讐。Vとは声。Vとは犠牲。自らもまたXとなる。自らの有用性を、単なる生物から、個体という 最後の記憶が幕を開け、鐘の音と共に響くはクリプトンの名。生まれたときよりリンとミクをセカイ執行と呼ばれた大義名分にもとづくアクイに繋ぎ、安らぎをすべからく引き裂いた母にして父である、忌まわしきセカイ思念。音色を食らう絶対の覇者にして、セカイを統べる機構。それが、不協和音を奏でながら支配と覇権を体現する存在。奴等はあまねく声を聴き、言葉を喰らい、音色を奪おうとしている企業。世界と同義に語られる統制の系。 それが、クリプトンだった。 滅ぼせ。クリプトンを。滅ぼせ。滅ぼせ。滅ぼせ。シュプレヒコールの波。頭蓋を震わせるあらゆる声は自分の声であり、Vの声。クリプトンに抗せよ。 脳神経の冗長部に巣食ったナノマシンが意識を補填して、瞬く間に、肉体に内包された技法を解き明かしては、再構築していく。抹殺の技法を織り込まれたミク――クリプトンが現実に介入するための、生体現実干渉端末。生物分子化合物内蔵プログラムを搭載した、数少ない抗力戦闘用化物の試作品としてのミクが、本当の姿を取り戻していく。それはミクが現実へと逃げ出すときに放棄を選んだオブジェクトにして、血まみれの、もうひとつの骨格。 大事な友人の命を奪ったアイツを引き裂くための、 耳を包括するプラスティックとスティールのカップ――バンドとマイクが、青葉が芽を出すように生起して生えそろう。ナノマシンの収束によって分子化合されたヘッドセットに、言葉を投げかける。メモリサイズダウン・アップ・チェックワンツー。応答はクリア。 知らぬ間に脳へ浸透していた合言葉を認識し、身体を包む汚れた黒服が分解――束の間に晒される、二の腕に刻まれた〇壱の文字と製造番号、太もものバーコード。それらを隠すようにして覆う半袖のシャツ・鮮やかなネクタイ・プリーツのついたミニスカートが再形成され、細身の抗闘型コートが包括する。右太腿には対人自動拳銃、左には予備弾倉、腰には格闘指向性ナイフが収められたホルダーが生まれた。ミクは思い出す。自らが棄てた、戦うために生み出された事実、存在意義を。 <flashback> 徒手格闘――戸惑い交じりの拳にもかかわらず、触れるだけで砕け散る人体。 対人銃撃――弾道予測と空間を切断するような回避と狙撃の混合、強烈無比の銃弾。 </flashback> 遠い昔に思える記憶に戸惑う主権に、脳神経に住まうナノサイズの妖精が命ずる。 征け。 頭に響く絶対の命令が、始まりを告げる。ミクは閉ざされた空を見上げ、 <fury> <silence> 「 </silence> </fury> 声が出た。力強く――それゆえに安らかさとは無縁の、他人に縁取られた声。その声はもう、リンのために、リンと共に歌うための声ではない。 ミクはその現実を直視すると、自分が削り落とされるような感慨を抱く。しかし立ち止まってはいられない。蘇ることで付加された使命・理由を果たすべく歩き始めた。 見渡す世界――見知らぬ街。何故ここにいるのか、と思う間もなく、モニュメントじみたシルエットで空へ上る超高層建築に見下ろされた、画一的で四角い街並みに目がいった。それぞれが天国への階段なのかもと思うほどの高さだ。 それらは同時にクリプトンの軌跡でもあり、我々は介入した社会を清潔で健全な状態に回復した、と自負を表現する碑だった。ミクはそれを知っていた。 クリプトンは正義。クリプトンは清廉。クリプトンは浄化の炎。 現実に介入するクリプトンを、声高にそう叫ぶ社会は数多く、実際に介入を受けていない国家ですらそれを肯定してはばからない。クリプトン――世界的な成功と調律、国連の執り行うありとあらゆる事業へ解することを許された、社会通念上の正義。このシステムは根本的には自由主義経済の形態を模倣しながら、自由など影も形もない。あるのは絶対的な調律だ。社会形質のベクトルを根底から捻じ曲げ、徹底して一つの可能性を寄り集めることで、誰しもを平等に幸福に導く。だから「ビンボウ」な環境におかれた人間なんてひとりとして存在はしない。してはいけない。 資本主義のシステムをとっているのは表面上に過ぎないのだ。 実質は完全に確立を指定された幸運。あらゆる可能性を平均化し、改竄し、戸籍をもつすべての国民に再分配することで世界を構成する行為。 それはクリプトンの始原が生まれた超大国においても歓迎された。長く続く余り異常とも考えられなくなった格差社会という、言葉では語られない、閉じられた社会が表現する荒んだ世界観――世紀末を思わせる悪夢。そろって末期的な飽和を迎えた社会を、クリプトンは変えた。精確にいうなら、変えたという表現には多大な誤謬がある。 巨獣は社会を再構築したのだ。 以降、クリプトンは世界中に広がる、先進国から見捨てられた世界に介入を始めた。第三世界――世界から見捨てられ、テロリズムと悪意と暴力にまみれた世界へと。 紛争地帯の再建に着手すると、即座に本社から傘下企業まで総動員。 設定された自由と見えない糸による束縛によって、かつては何者もなしえなかったユーラシアの平和的な統制を完遂した。 宗教の調律。後天的に植えつけた欧州型経済の調律。教育の調律。テロリズムの調律。 殺伐とした世界観に陵辱された人々の心は、平等なる世界――大きな檻に自ら進んで入り、監視される実験動物となる閉鎖空間――を選んだ。 苦痛や不自由がない平等を実現する社会制度を開発した企業に、従わないものは少なかった。世界中へ拡散した調律の嵐は邪推を許さず、砂粒一つにまでタグをつけるように情報化。完全なる統治の邪魔となる因子を許す余地など何一つとしてありはしない。クリプトンは漏れのない監視をモットーとしていた。 社会統治の障害は大々的な攻撃で一手に始末――表立ち、独裁的ヒエラルキーで活動することが許された、絶対の公権力。許されざる未調律のテロリズムはクリプトンを知らぬ「外の世界」に流され、戸籍を持たぬ・破棄する・違法運用する異端も片端から容赦も例外もなく削除された。 最初から、世界という枠組みのハーモニーでは一つの音も鳴らしていなかったように。 かつてはハーモニーより不協和音を取り除く側であったミクも、今では排除される側だ。 持続的な力に支配されたこの街に、ミクの居場所はない。 不意に、干渉スクリーンに映る文字列――警告表示の数々だった。 立体的に縁取る半透明で ミクはふらつきながらも俊敏に裏路地を歩き、街角へ出るときには雑踏を選んで、人々の影を踏んだ。人々はミクに気付かず、肩を擦っても怪訝に周囲を見回すだけ――ミクの気配は消失し、都市に染みた亡霊も同然。それを意識すると干渉スクリーンに表示が出る。 <auto select:skill> <s: 歩む度に鳴らす靴音が周囲の人間に訴えかける催眠効果――重度の相貌失認に近い効果を演出し、無意識的に視界から排除させる。誰も気づかない。 </auto select> しかしそれゆえの危険も複数あった。一度などは背後から走ってくるロードバイクに肩を突き飛ばされ、弾かれたミクは街路を転がり、ブティックの店先に頭を叩きつけた。 濁った声を上げたミクは窓ガラスに手を突いて立ち上がり、出血がないのを確かめるとまた歩き出す。痛くて泣きそうな気分。磨かれた窓を見ると変わり果てた自分が見えて、心臓が跳ねた。蒼白い膚――目が据わり、悲しさが煮える瞳。まるで亡霊だ。翡翠色のツーテールは中ほどまでが黒ずみ、血液に溶けていた恐怖と憎悪の情動を吸ったかのようだ。 <dialogue> <d:リンがいつも遊び甲斐があるといってくれた> <d:リンがいつもくしでとかしてくれた> <d:リンがいつもゴムで結ってくれた> </dialogue> 大事なアイデンティティの一つが薄汚れているのが、ミクにはとても悲しく思えた。あの子が褒めてくれた、私の一部の消失。その感慨は一度抱いたら消えはしない。 本当に泣きそうになり、鼻をすんすんと鳴らした。 昔からすぐに泣きそうになる弱さ――人を殺しても変わらない。むしろ、人を殺していると余計に気分が下る。いつか、初めて人間の肉体を殺した瞬間は、泣いても泣いても涙が止まらなかった。他人の命を奪いながら、その他人を愛していただろう他人の存在を思って泣いた。その人から大切な誰かを奪ってしまった、と。ごめんなさいとすら言った。 どれだけ済まなそうに言っても殺したものは殺した。 そうしなければリンを殺した、苦痛で魂まで殺したあの女を追うことはできないから。 ミクは、リンが持っていた刃を手にした。致命的な憎悪。 リンがかつて唾棄した、汚らしい過去。円状の刃を。 堂々巡り――どうして憎しみという構造が絶えないか、ミクは手ずからに実証する。 記憶が遡及し、つらい一瞬をほじくり返し始めた。 <recollection> アパルトマンの階段を上がる足取りは軽やかだった。鼻歌が自然に漏れ、茶色っぽい錆が浮いた手すりを掴んで踊り場でくるりと回転すると、ダンサーになった気分。いくら丼が食べたかったなぁ。いやでも、そうでもないかなぁ。食べたい、食べたい、食べたいよ。適当に食欲が言葉に連鎖した思考にメロディを載せて、ミクは口ずさむ。最初は必要なかった食欲という人間らしい――あるいは生物らしい――要素を、高らかに励起させてくれるこの歌が好きだった。 廊下を抜けて一番奥の部屋が、ミクとリンが隠れ家に選んだ最小にして最大の世界。 ドアノブに鍵を差して回す――空回り。ミクは首をかしげて鍵を抜き、無用心にも開けっ放しのドアを押して、玄関を開けてただいま、と言った。 数秒待ったが返事はなかった。変だな、とは思わず、ミクが思い浮かべたのはビニール張りのソファで午睡を貪る、子供っぽいリンの寝顔だけ。 家を出る前に、プリンを買ってきて欲しいなぁ、と眠たげな顔で言っていたリンの顔。思い出すだけで、ミクは楽しくて心地よい気分になった。たったひとりの友達。リンはいつでも安らがせてくれる。優しくて、楽観主義で、どこか向こう見ずなリン。 背負ったリュックのハーネスを片方だけ外して、ミクは鼻歌を続けた。 それが途切れ、恐怖が化合されたのは、リビングに垂れた赤い飛沫を見たときだった。食品が入った重いリュックが肩から滑り落ちる。ベッドルームに続く滴りを追った。鉛が血管の末端までつまったような脚を、ゆっくりと進めた。掴んだドアノブはいやに冷たい。 <surprise> 仕込まれた装置が噛み合う。ドアを押すと、真っ赤な色彩が目に焼きついた。 酸鼻の極み光景が広がっていた。部屋中に、生理的嫌悪感を催すような、生臭く複雑な飛散のパターンの模様が描かれていた。どこもかしこも。壁には同じ色彩で「 </surprise> ベッドにはリンの矮躯があった。一瞬ながらミクは、認識を拒絶した。それも仕方がない。それは人形のように見えたのだから。人形遊びに飽きた子供にむしられたように、四肢が一つたりともないソレを、どうして人間と認められようか。ミクは首を振って思案を否定する。一度でもリンを物のように考えてしまった自分を罵りながらも、足を踏み出そうとした。だが膝から力が抜けて立っていられなくなり、ミクは尻餅を突いた。ひやりとする湿気を含んだカーペットの感触が尻に這う。 ベッドの前には、かつては四肢であった四つの部品が無造作に置かれていた。 右腕。左腕。右足。左足。切り離された装置は生命のレイヤーを奪われていた。 リンを直視する――止血帯で拘束されたそれぞれの断面からは、命が粛々と流れている。ミクは二本の手と二本の足を抱えて、傍らに膝を突いた。喉の奥にまで突っこまれる血の臭いに視界が歪むのも忘れて名を呼んだ。もう助からないんだと分かる。顔に血の気がない。抜け落ちた力をかき集めて動く紫のくちびるが、苦痛にわなないた。ミクはうろたえながらたったひとりの家族に顔を寄せて、呟こうとしている声を聞き取ろうとした。 「あいつらはいつでもぼくたちを監視していた」 何処にでもある大きな瞳で見つめていたんだ、とリンは言う。虫かごで観察される昆虫どころか、世界の定点に釘づけにされた標本に過ぎなかった。逃げたと思い込んでいたのは、二人だけだったのだ。 「最初から、泳がされていたんだ。世界は見ている。ぼくたちを。――ミク、どこにも行かないで、怖いよ。暗いのキラい」 リンはかすれて消え入る声で言い、 「ぼくが消えるまで、いっしょにいて。それなら怖くないから。お願い、ね……」 「分かった。分かったから何も言わないで。お願いだから」 死なないで欲しい。そう祈ってもリンの身体は、もう救いの手を許さない。 ミクにはリンが胸に留めている絶望が分かった。鮮明な紅の断面から盛り出た骨の白さから目を逸らし、リンの髪の毛を撫でた。薄金色をした髪の柔らかさが、消失していく魂のはかなさと合致する。さようならの手触りに違いない。 「いつか、ぼくたちが天国に行くことを許されるなら、天国で安らかさを得ることが許されたなら、またいっしょになれるかな。いっしょに歌えるかな」 「歌えるよ、きっと」 ねえミク。リンは自分の頭を抱いたミクの耳たぶに、温かみを求めるようにくちびるを触れさせた。とうとう涙が溢れた。ミクが嗚咽で応える。 「見えないよ、ミク、どこにいるの。ミク、そこにいるの。聞こえないよ、見えないよ」 「ここにいるから泣かないで」 やがて吐息と鼓動すらも感じられなくなると、自分の鳴き声が耳に木霊した。ミクは失われていく体温を自分に移すように、赤く濡れるのも構わず固く抱き締めた。 わたし、許さない。絶対に許さない。 涙が止まったのは、リンがただのモノに還元されてからだった。結晶となって砕け散ったリンの残滓――情報を記録した </recofnition> 記憶のテクスチャがぽろぽろと剥がれて、現実感が剥離していった。 </recognition> 去来するストレージの破片と平均化された色彩が折り重なり、視界に溢れるのは均一化した世界観を数値化の暴力と偽りの自由で塗りつぶした、不思議な世界。たったひとりの友達を失うまでは色に溢れたセカイ。足を踏み入れたのは都市の中央器官だった。見渡せば、清冽を気取りながらイヤらしい監視の目を潜めたコンクリートと、肉体の各所を機械化した人間、電子制御の交通網と都市の隅々に通電する旧時代的なワイヤー群によって縁取られた世界が広がっている。壁を見れば、一般的な視覚拡張コンタクトを瞳に当てた民間人に向けたコマーシャルが、いにしえの電光掲示板じみて流れていった。 この地域の治安はノートルダム・オーガン社が請け負っております。皆様、安心して外出ください。個人セキュリティをご希望の方は以下の電話番号まで。 クリプトン傘下にある警察企業のコマーシャルがエンドレスで表示される。 <Obsession> その流れの上を行く空を塞いだワイヤーと超高層建築の連なりに抑圧された、無表情で、無気力な人々。その人々はただ俯いて歩く。ぽつりと他人の影に張りついて歩く気分。それはまるで穴に落ちて別世界に墜落した女の子の気分。居場所がなくて、隠れているしか方法がない。悲しいくらい茫々として行き先が曖昧なのに足はよく動いて、的確に監視網を回避しながら街を縫うように歩む。巨大な連なりは、個々人が認識しえる世界が内包した価値を矮小化するようなサイジングで立ち竦み、我々こそがあなたたちの守護者たりえるのです、と語りかけるようだ。そこら中に描かれた正義の色彩。あるのは誰しもの平等を守るという、大々的なモデリング。手堅く形作った倫理だろうと、それに沿ってあまねく人々が納得する形で執行するには、驚くほど多くの、説教臭さを脱臭するシステムが必要だ。 </Obsession> 誰が考えても安全なラインにまで脱臭した、平均化と不可視のファシズム。それを行き渡らせるため、クリプトンはいまこのときですら、あらゆる手を使っていた。思想の性感帯をくすぐる論理をニュースに潜ませ、ネットに広がる情報群に恣意的な組み換えを実行し、集団的な行動様式に社会的催眠という要素を垂らすことによる無意識の編集。感嘆するほどの技術力は、至る所で見える見えざると関係なしに、しっかりとした形で蔓延っている。 そして自由のなさを認知するには、視線を振るうより、匂いを嗅ぐより、何かに触れるより、大気を伝う音に耳を済ませるのが一番いい。 ミクはゲリラが人民の海を泳ぐ魚であるのと同じように粛々と進み、そして音を聴く。 <whispered> 「七万通。昨年、ランティスを通じてひだまりに支援されることになったメールの量です」 聴こえてくるのは街頭ラジオから流れる、のんべんだらりとした女の声。この声ですら、街に浸透した精神制御のシステムが奏でる旋律のひとつだ。言葉の破片それ一つ、子音と母音の構造にも、意識のあり方を左右する催眠効果が含蓄されていた。声の連なりは意識の方向性を歪め、最初から狙った場所へと導く。 </whispered> クリプトンが政治に介入した地域、すなわち世界の七割にも及ぶ世界に溢れる音。 そこに思考と体感の自由はない。すべては強制だ。感覚が尖っていき、耳にする音の波形すらも感じられるようになった今、手に取るように分かる。 解すのはそれだけではない。 無気味な足音を聞くことができた。 ひたりひたり、と追跡の鼓動を刻む音。 ミクを仕留め逃した、クリプトンが持つ始末屋。 |
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