調整めんどくさいのであいてるカラム。
 調整めんどくさくなくなったら何かしら文章で埋まるかも。
 Dec.24.2018
お気に入りの手袋を片っぽ紛失してわれながらえらい落ちこんでた。少し気落ちしてるときにそういうのがあるとてきめんにシュンとしますね。
調べ物の途中、いまの「あ、安部礼司」ってどんな感じになってんのかしらと唐突に思いたってウィキを見てみたら、刈谷の渡米=刈谷役である杉崎真宏さんの降板が記されてた。漠然と時の流れを叩きつけられた感じで結構シンミリ。昔聴いてたときはいちばん好きなキャラだったな。安部&刈谷のかけあい、刈谷の声芸で死ぬほど笑ったな。一桁年代時分は本当にきっちり毎週聴いて、MDに録音してってのをやってたっけ……ロケットマンショーや福山雅治の番組とあわせて楽しみにしてた日曜レギュラー番組だったっけな、とか。つべに上がってた刈谷最終回を聴いたらさすがにホロっときた(ラジオ過去分のアーカイブ法的な話は別として死ぬほどありがたい)。単純に時代の変節をあつかう構成にやられたというのもあるし、刈谷が去ったの寂しいというのもあるし、それを時間差で知ったというのもあるし。なんともいえんな。。。
買ったり。
 ゴブリンスレイヤー9/蝸牛くも
 別式4/TAGRO
 伯爵夫人/蓮實重彦
 大砲とスタンプ8/速水螺旋人
 伯爵夫人は買い直し。表紙が単行本と同様、ルイーズ・ブルックスの写真をあしらったデザインで、しかも帯までちゃんと同系統のデザインに収めてある辺りで嬉しくなっちゃった。さながら縮小版。ミニチュアールな良さというのはあるよね。筒井康隆らによる評と瀬川昌久のエッセイが収録されてるのもそんな印象強めてる。新潮社自体には思うところあるけど、しかしこういうのは買ってしまうね……不買運動とかに一切向かない人生を送ってきた……。
 別式、大砲とスタンプはともに佳境。どちらもワイワイした雰囲気がすごく楽しく、出てくる人々の造形が愛らしいから、終わりにむかって進んでいくのが寂しい。別式なんて、もうどこにも帰り着くことが叶わない終端速度に乗ってしまったしな。楽しい時間を過ごしていられた季節が本格的に終わり、仲間が次々と去り、関係が崩落してく。好きな形式ではあるんだけど、読んでてつらいことには変わりないな。こと狐眼の男をめぐる人間関係のもつれと、それがほどかれることなくプツッと糸が切られてしまう感じはTAGRO作品だなぁという苦しさがある。この特有の苦しさが嫌いでない。あと主人公が色覚異常で血の色を認識できないことによって殺しにためらいがない、みたいにさりげなく開陳されるやつがよかった。売り上げの問題で駆け足……というのはTAGROさんがツイター上でも言及していることで、悲しいけれど、それはそれとして、ここからいたる最後にどんな結末を花開かせるかすごい期待してる。大砲とスタンプはいつものペースで淡々と、謀略と恋ですらそのペースで解決するドライさがよかったな。ラストで困った感じに転げてて、最終巻(流れから察するに次で最後ぽい)をどう落ち着かせるのか楽しみ。
しかし講談社、ジャバウォッキー1914でも終盤駆け足問題を叩きつけてきたし、本当にやめてくれそういうの……。特定の趣味性をもつオタクにとって死ぬほど面白い漫画、そういう憂きめにあっている気がする。
 Dec.19.2018
LEO今井のライブに行って身体に音を叩きつけられる心地が超楽しかったりなんだりしてたのがつい先日、と思ってなんか書こうかと案じていたら、一瞬にして時が過ぎ去っているから師走は怖い。あと一気に寒くなるのは構わないけど、指が痛くて動きが悪くなるのは勘弁してほしいもんだな。末端が弱くてしゃーないので今年の冷えっぷりは厳しい。そんな状態でも別に臥せったりしているわけでなく、水面下で諸々の作業を進めてはいるから、まあ、まあ。並行で進める作業がいくつかあって、そのうちのどれかが逃げ場になってちまちま書き進められているから、進捗はそう悪くない気がしている。気だけかも知れないが。そのうち良い具合の成果物出せるといいな、と思います。
 それとコンテンツ整理も兼ねていくつかのお話を一時的に消した。ページ構成し直してどうでもいいテキスト(自主解題的なもの)を追加したら、また載せ直すとは思う。
自分が好きなものとセクシズムの関わり合いとか、自分の好きなものを誰かが誰かを傷つける形で振りかざしている光景とか、なんかそういう感じのキツいものを見かけることがちょこちょこあり、どうにも厳しい心情になるので各所から眼を逸している。それは慈しむべきものではないのか。それを何かをあざ笑うための道具とするのか。それはあなたにとって手遊びするためだけのもなのか。と、そういうふうな……めちゃくちゃ抽象的な話だけど。
買ったり。
 血みどろ臓物ハイスクール/キャシー・アッカー
 乱歩城 人間椅子の国/黒史郎
 波が風を消す/ストルガツキー兄弟
 マフィアの興亡/タイムライフ
 連続殺人者/タイムライフ
 モリアーティ秘録上下/キム・ニューマン
 どこに転がっていくの、林檎ちゃん/レオ・ペルッツ
 タイムライフの実録犯罪シリーズがどんどん蓄積していく。あとは猟奇殺人のを買えばコンプリートか。ストルガツキーはこっ恥ずかしいことにストーカーくらいしか読んでいないので読んでいきたいな……と、思いつつもっとも惹かれる蟻塚の中のかぶと虫がそこそこ入手しがたくて悩ましい。野村亮馬さんがたんぶらでやっているイラストコラムが好きで、そこに描かれていた蟻塚〜二次創作絵がめっちゃ恰好良くて惹かれてしまったのだけど、タイミングとしては明らかに遅すぎるな。あとモリアーティ秘録はただのラノベだった。
 Nov.28.2018
資料読みが多く特に外出もしてないと書くことがない。ちなみにひと月何をしてたかというと木偶戦線(ドルフロ)で遊んだり、甘皮を処理してマニキュア塗るのにハマったり、KMNZの動画を見まくったりしていた。
来月はちょっと刊行される書籍のラインアップがヤバいことになっており、並びを見ると気ィ狂っとるんでないかと思えてくる。十日にペルッツの「どこへ転がっていくの、林檎ちゃん」、十二日にニューマンの「モリアーティ秘録」、二十一日に小林泰三の「C市からの呼び声」、二十二日には蓮實重彦の「伯爵夫人」。すごい。
メグリム・ハルヨさんのとこで売り子をすべく、先だって久々にコミティアへ行ってきた。とても好きな作家さんのところにご挨拶に行ってたくさん(当社比)話せたし、売り子に入ってからもツイッターで見知ったナイスガイたちとドーモドーモできたし、正直、珍しく心中で消化するのにちょっと時間がかかるレベルで楽しい一日になってた気がする。ほとんどサークルチェックしてなかったにもかかわらず良い本たくさん買えたしな。いやそれにしても、イベントで一回興が乗るとひたすらにテンションの上昇幅がすごいことになるな……数年分の握手とフィストパンプをしまくった気がする……。思い返すと当日の構成からして、ティアで買い物→売り子→売り子しつつダベる→閉会後もダベる→新鮮な無限ジンギスカン→酔っ払ってちょい寝る→歩きながらダベる→ロイホでダベる→散開と大変な流れになってて最高だった。乗りに乗ってむべなるかな。何より大きいのはうちの子の一人、墨洲ちゃんのママ(Vtuber的表現)であるパリングさんに会ってワチャワチャ話せたことだな。樋口楓ちゃんぽいナイスガイ。Plastic spectreの原稿を見せていただいたりしたのだけど、よく見たら血の部分が絵の具のテクスチャで禍々しいことになってる点や設定画のディテールが楽しいったらなかった。前者なんかはマジで凝固した血みたいで、絵面の死臭がすごい良かった。やはり絵は実物見んとわからんことがたくさんあり、それはハルヨさんから見してもらった今回のテック本原稿もそうだった。線の細さがすごい。新刊コピー誌も、町田康ラヴァーとしての足つきにガロ系漫画やデヴィッド・リンチじみた不穏さが漂う不条理ノワールで、もう非常によかった……。こういう筆致がやりたいというのがわかる作品好ましい。
 もろもろ、思い返すほどにフフッとなる。みなさん本当にありがとうございました。改めておつかれさま。
買ったり。
 性への自由・生からの自由 ポルノグラフィの歴史社会学/赤川学
 日本の歴史をよみなおす(全)/網野善彦
 のみじょし5/迂闊
 犯罪王カームジン あるいは世界一の大ぼら吹き/ジェラルド・カーシュ
 堆塵館/エドワード・ケアリー
 穢れの町/エドワード・ケアリー
 肺都/エドワード・ケアリー
 東京の空間人類学/陣内秀信
 大量殺人者/タイムライフ
 ジャバウォッキー1914 4/久正人
 マーティン・ドレスラーの夢/スティーヴン・ミルハウザー
 違国日記3/ヤマシタトモコ
 SHOAH/クロード・ランズマン
 ケアリーの本、全巻セットが安く売ってたので買ってしまった……。大戸又さんいわく、跳ねっ返りヒロインがわたしの好きそうな感じらしいので楽しみ。ジャバウォッキーは掲載誌の休刊によってゴリゴリに話を削って短く詰めた感じがわかり寂しいかぎりなれど、未来を守る戦いへの終止符の打ちかたが恰好良すぎる。漫画史に残る殺陣もやっているから、もっとたくさんの人に読まれてほしいな……。単純に影響を受けている作品だからという以上の、この輝きはすさまじいぞ、という話。
 Oct.28.2018
風邪は行ったり来たりしつつ、味覚はそこそこに戻ってきてモンゴル料理のお店に行ってワンサカ羊を食ったり、中華料理屋に行って鴨やら羊やらを食べたり、ご機嫌な案件は多い今日この頃。躁状態と鬱状態も行ったり来たりしつつ、体は意外なくらい元気なのでこのままうまいことやってきたい。
先だって赤羽深夜散歩をしてきた。人と遊ぶついでというか、せっかくの連休を活かさいでかという。目的は具体からするなら記憶の整理というとこ。もっといえば記憶の残骸拾い。結論から言えば、風景を永遠に失ったという事実を固定させるための散歩になった。
 その昔、住んでた頃がかれこれ二十年前か。赤羽はそれなりに好きな町だったのだけど、そこを離れないとならない面倒な事情のせいで、小学校の友だちを含めたすべてと乱雑にぶった切られる形でお別れしており、愛着と宙ぶらりんなままのなんらかの気持ちの補完をしたがるわだかまりがずっとあった。だから何年かに一回訪れては近場を歩いてたり。そいできちんと処理したいからこの度、時間をたっぷり使っての散歩と相成ったのだけど、どうやら大いに手遅れだったみたい。前回それなりの時間を使って歩いたのがかれこれ八年ほど前で、その段階でさえ都市空間は大きく変化していた。いまの形態となれば、中間を埋めるものがない人間からしたらほとんど別物と認識してしまうもんで、当惑させられ、とはいえそれもそれで楽しくはあった。
 現着はいつもなら終電にギリ間に合うか否かのタイミングである十一時半。そこから駅前を中心にウロウロした。昔住んでた駅前近辺――赤羽一番街が商店街というか飲み屋街の趣を強めているのは十年前の時点でも知ってたけど、それが当時住んでたマンションの直前にまで迫ってるとは思わなかった。パブやキャバクラの客引きと思われる人々がたくさんおり、治安の悪さこそ全然感じないけど雰囲気は大違いだなあれは。建物もずいぶん様変わりしてた。ガソリンスタンドがなくなってたり、コンビニが潰れてたり。そうしてフラフラ歩くうちにどこかの家からはお風呂のにおいが漂いだし、情感過多で眩暈に包まれたのは笑った。嗅覚の情報喚起力はすごいものがある。視覚は写真を経由して保存できるけど、こういったにおいは保存のしようがないのはどことなく寂しいな。それに、ささやかながら強烈さとバリエーションに富む感覚質に名前をつけて、ディテールとして共有するおこないもしづらい。お風呂のにおいとか機微がすごいのだけど。それと、幼い頃にショートカットとして使ってた建物の隙間に扉が取り付けられ、通り抜け禁止になっているのに気付かされてなんともいえないため息が出た。ゲームの続編で過去ステージが出てきたときみたい、というのはツイッターのほうでも書いた修辞だけど、本当にそんな感じ。動線を制御する演出みたい。横道にそれて友だちと日参してた駄菓子屋、種屋のそばに出てみれば、ズラッと並んでたガチャポンが撤去され、煙草の自販機と灰皿が配置されてたのを見て、まあそういうの流行らん時代ですもんね……と誰にともなく小さくうなずいたりした。すぐ近くにある当時通っていた小学校はさすがにさほど変わっていなかった。
 その後、こちらもよく行っていた模型店(当時はミニ四駆ブームだった)の横を抜け、すずらん通りへ行った。掲げられている名前はLaLaガーデンとなってるけど、三井不動産と関係あるのかな……。ここもまた店の並びの全然印象が違い、というか完全な別物になってた。ここの一角に入っていたレンタルビデオ屋によく行ってたな。自宅の至近距離にあった非チェーン店系のレンタルビデオ屋とあわせて、趣味性の多くがここらで形作られた気がする。もちろんその跡形とてあるはずはなく、通りからいくらか横に逸れたところに店を構えていたゲーム屋、TVパニックもなくなっていた。ここは昨年まで営業していたようだし行くタイミングをまずったな。
 また少し寂しさを蓄積しつつ、すずらん通りを横切って赤羽公園へ。扉取り付け現象ふたたびとばかりに、公園の謎オブジェクト(たしか中が空洞になっている滑り台だった)にも扉がはめこまれてて少なからぬ衝撃があった。なにより「大空の門管理用扉」という字面に。きみはそんな名前だったのか……。周囲を取り巻く高層マンションのたぐいや妙に巨大化した印象のあるダイエー(ウィキいわく二〇一〇年建て替え)を除けば、公園はそんなに変わってなくて、なんだか安心するやら。片隅にある造形があまりに謎な遊具……遊具……?も健在で、いま見ても遊びかたがわからないのすげぇな、と思わされたね。幼い頃はよく母親と遅い時間、九時十時くらいに散歩して、ここに腰掛けて何かしら飲み物を飲んだりするのが好きだったな。ここに隣り合わせる会館内の赤羽図書館では乱歩の少年探偵団シリーズをよく借りたし、一時期は下校時にジュースを買って飲むのが好きだった。ポケットに忍ばせた小銭と紙コップ式自販機という組み合わせに謎の大人感を感じていたものです。当時親友であったKくんとよく一緒に飲んでたな……(そういえばKくんは一番街の只中に住んでいたのだけどまだあそこに実家があるのかしら)。


 そんなことを考えて歩くうちに南下し、神谷へ足がむいていた。駅近くから引っ越して一時期住んでたここらは九八年前後でもだいぶ古びた印象があり、路上にやたら色あせた電池自販機があったり、昭和のにおいを残していい味出してるボロアパートが連なったりしていた。いや、アパートと言うか団地か。区別が曖昧な感じ。こと記憶に残っているのがそれらのアパートの一階に入って通りに面していた、御老体の営む過度にボロっちい駄菓子屋や、ハリウッド映画に出てくる個人経営のコンビニみたいな食料品店。それらは消え失せて真新しいアパートに置き換わり、自分が住んでいた都営住宅も真新しく、昭和をにおわす部分は削ぎ落とされていた。だだっ広かった運動公園も遊具の追加で手狭な感じになっていたな。近隣で唯一変わらないというか変えようがないわな、というのが清掃工場の無骨でインダストリアルな煙突。家並みのてっぺんによる穏やかなスカイラインをたやすく乱す煙突は本当に違和感バリバリ。この風景が好きったし、フリクリから最近だとペンギン・ハイウェイまで、町を見下ろす大きなオブジェクトに抱く愛着はここにベースがある気がする。駅前から引っ越したばかりで学校からの帰り道がわからなくなりがちだった時期、これを頼りに帰ってたな。その後、トイレ借りようとミニストップに行ったらトイレなしタイプの店舗で、買おうと思ったソフトクリームは機械清掃中で買えず、しかも紅茶豆乳買ったら袋要らないって言ったのに入れられるとの各種トラブルでションボリしつつ尿意に怯えたりもした。こういうときに限って手頃なコンビニがない。つらい。



 二時を過ぎれば客引きもおらんだろうと(何だあいつ的視線が怖い)かつての自宅周辺を見て回ってからは、駅西口へ足を延ばした。改装中と思しき石造りの階段を昇ってくと駐輪場。過去に来た際の印象に反し、ほとんど自転車のない空間には物音もほとんどなく、お、超伝奇でバトルやる舞台じゃんとのオタク臭垂れ流しな感想が洩れた。さらに小さい階段を上がった先の団地もこれまた空っぽで、完全に消灯された部屋がぞろぞろと無数に並ぶ光景は、少しの踏み込みだけで沈黙の質がのしかかるような趣に転じてた。昔Wiiであった呪怨のADVゲームにおける団地ステージみたいな、穏やかでない明暗。調べたところによるとUR都市機構が「ヌーベル赤羽」なる都市計画を進めているらしい。なにせ団地の建設が六〇年代だし、この整備もまた当然なのだろうね。昭和モチーフが取っ払われる予感を勝手に惜しむのは、ポルノとしての旅情をもてあそぶようであまり良くない、とは思いつつ、でもやっぱり抱いてしまう。ともあれ、片っ端から処理されてしまう前に訪れることができてよかったかもしれん。


 この辺りで流石に疲れてきたし一旦手近なジョナサンで飯食って軽く寝てから、荒川沿いをぶらぶら。こっちは特に収穫なし。夜が明けてきた六時頃、赤羽を発ちましたとさ。
 まあなんだ。あったのは徹底的に整備されていく感触だった。地場は生きた記憶装置なのだから当然だけど、頭で考える以上に代謝は早く、いざ触れたら当惑するし、狼狽する。そこでは十年、五年、というかたぶん一年単位の区切りでも手遅れになると身をもって感じるには充分だった。当たり前だと思っていることは自分で思う以上に実体をともなっていないよな。と、そんなことを漠然と考えるお散歩で、なんだかんだ十一キロくらい歩いてた。運動不足の人が休まず歩くと、足の裏がボロボロになり足腰筋肉痛になるのがお約束というもの。帰路についた時点でデロデロに疲れてたし、家ついて寝て起きたら歩くの難儀した。つっても翌日にはほとんど回復してたのは、まだ二十代である証拠か。
ダラッダラした何か考えてる風の長文を書いて写真を雑レイアウトすると、オールドスクールインターネット感がそれなりに高まるな。自分がやるということの面白みはさておき、他人のこういうのを読むのは好きだったりする。少し昔の赤羽の写真を探すうちにたどりついたブログの過去語りとか相当愛おしい。あと流石に写真が見づらいのでクリックしたら元サイズで表示されるようにした。
買ったり借りたり。
 ゴブリンスレイヤー1〜5/蝸牛くも
 日本人はなぜ切腹するのか/千葉徳爾
 アナキズム・イン・ザ・UK/ブレイディみかこ
 ゴーストタウン チェルノブイリを走る/エレナ・ウラジーミロヴナ・フィラトワ
 リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン/アラン・ムーア&ケヴィン・オニール
 続リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン/アラン・ムーア&ケヴィン・オニール
 この頃あんまり新刊買ってないな……。LoEGはメルカリで二冊セットが安く売ってたから飛びついてしまった。ゴブスレさんは存外に面白くて、先入観を吹き飛ばされた。リョナ(忌まわしきことばよ!)文脈への釣り餌に辟易しつつ、そこを越えて読めばがんばり屋で無愛想な爪弾き者が仲間を得て、少しずつ少しずつ前に進んでいくお話なのが好ましい。あと登場する人々が意外とみんな良い人っていうのも、個人的な好みにぴったりはまる。TRPGネタはもちろんとしてジョークの仕込みかたや、テキパキとした敵の処理も楽しいしな。陰惨さなんておまけもおまけ。
 Oct.10.2018
ここ数日、味覚障害になったかと思ったら風邪で嗅覚までバカになってスーンとしてた。こうして塗り潰されると、五感のうちどれを主として現実を認識してるか強く意識するもので、どうやらにおいへのフェティッシュ(本来的な呪物崇拝としても誤用としても)とかそういうのの自覚以上に、どうも嗅覚を頼りにしているっぽい。においわからないだけでもろもろの欲求が一気に削げるし落ち着かない。そこに物食べて鉄みたいな味がするとかになると、情緒面の回復を食事に頼ることもあってもう感情面がどうにもならん。ここにいることのテクスチャがここまで薄っぺらくなるかーという。知覚がどこか鈍く、五官を総合した形としての第六感みたいなものにも実感が湧く。いやそういうのどうでもいいから早く元に戻ってくれ、治る兆しは見えてるんだから。
バイオ2の新しいプレイ動画を漁るとともに、バイオ1.5のウォークスルーを見たりしてる。
 『バイオハザード RE:2』クレア編プレイ 警察署を探索
 Resident Evil 2 Remake BRAND NEW 10 Minutes of Claire Redfield Gameplay 8/10/2018
 Resident Evil 1.5 [Leon] - NEW 2018 Patch / FULL Playthrough + DOWNLOAD
 手榴弾の導入は1.5開発の時点から計画されてたのだな。ひと通りステージをめぐっていくウォークスルーしか見てこなかったから、実際に武器を使う動画で若干テンション上がった。過去作ですでに採用された要素とはいえ、ゲームデザインとして1.5がやれなかったことを処理していこうとする印象がどんどんと重なり合い、なんだか妙にドギマギしてしまう。あと手榴弾のアイコンに「仮」とついてる図には笑う。リメイク2の警察署地下のディテールでも1.5から引き継ぐようなとこが見受けられるし、期待通りのものになっている予感がすごい。実現されなかったプランをうまく流用していく……みたいなものに、あまりにも弱いのだよな。
 リメイク2の新規動画ではリッカー戦が確認できた。明らかに敵クリーチャーとしての出会いたくなさが増強されていて、ホラー力の強さとともにイージーモードでやりたいなとの気持ちが湧く。死体安置所も出てきたけど、まさかのラージローチが不意打ちしてきてヒッ……て声が漏れた。あれを高画質で再現されるとちょっとテンション下がるな……7のムカデとかは大丈夫だけどあれ(Mother2的表現)は無理だ。あれはどこまでも苦手。暴力描写が強化されたところも新たに確認できたな。死体にナイフを振りつづけると部位切断が生じる、デッドスペースを思い出すようなエフェクトはZ指定でもいけるかギリだな、と思ったり。大丈夫なのだろうか。相変わらず鉄砲関係でも嬉しいポイントはあり、ブローニング・ハイパワーがのちのち入手するよう変更されている点の正しさに拍手を送りたい。最初はリボルバーで、乗り換える先として多弾数の自動拳銃(旧作の主装備)が来るとかね。いいよね。
 ここんところのカプコンは勢いを取り戻してて、それがバイオどころかDMCからもうかがえるの本当に嬉しいな。DMCは過去作のヒロインが再登場して仲良さそうな雰囲気だし(4からひきつづきらしいけどそっちは未プレイ)、そもそもダンテがチバユウスケっぽいビジュアルになってる時点で面白すぎる。こっちも楽しみ。
 Oct.08.2018
この頃、なんとなしにYMOのテクノデリックを引っ張りだしてよく聴いてる。全体的に灰色だけど、ことGRADATED GREYは途切れることを知らないゆるやかな憂鬱にピッタリあうのでやっぱ良いなと思う。一方で体操みたいな曲も好きだけど(なんとなく塊魂思い出す呑気な狂気)。
やっとこさログ整理した。別に見やすくはないなこれ。そして背景を黒くしたらだいぶオールドインターネットっぽくなる気がする……したい……しないけど……尋常じゃなく見づらくなるから……。
 Oct.03.2018
フリクリプログレを公開初日に見てきたのだけど、予感的中と言うかそうでもないと言うか。半々。オルタナと違い、フッツーにピンとこない感じのやつだった。見てから数日経つし印象もちょっと薄ぼんやりしてきてるけど、一応文面に書き留めないと落ち着かないので書いておく。
 総じて、再構築の態度が見えて自分なりのお話を作りたいとの行動も確認できるオルタナと比較すると、プログレは本歌取りを狙いつつ、行動の芯がしっかりしてないので全然およばない感じがなんとも言いがたい。続編なのに。というか直接の続編だからこそ。ことによってはひとつの区切りさえつけるような、続編だからため息がでてしまう。
 作画に関しては、演出担当を六人に分担して各話のテイスト変化――フリクリのキーアニメーター芸とでも言うべき転調を真似て、ガイナとIGがやっていたことっぽさへの接近にそこそこ成功してる。後半エピソードがその良さの大部分を担ってて、との但し書きはつくけども。ひとまず味付けはオルタナより濃いことはたしか。前半に関しては、第一話でカンチvs手ロボめいた大暴れの風情を引きだそうとして、盛り上がるむかう予感を憶えつつも、それは第二話、第三話と失速し、腰砕けになってくことを指摘しとかないといけない。正直、絵の強度はさほど作画パワーのないTVアニメレベル。二話は飛びぬけてひどく、カットを多く切って疾走感、重力感の欠如した空中戦とでろでろと腰の入ってない板野サーカスをやる「OVAだったら見たくない」たぐいの作画がつづく。ラハル/ジンユと二人のハル子が物理的衝突をするにもかかわらず、えらくのんびりとしてて安っぽい。見てて誰が楽しいのか、これ、と眉をひそめてしまった。キーとなる人々の独特の味わいを引き出しつつ、スピーディでときにピーキーに畳みかけていく演出の速度はフリクリの特色とも言える部分だろう。それこそわかりやすいとこを挙げるなら、吉成曜(第一話)や今石洋之(第五話)のそれぞれ種類が異なる躍動から小倉陳利(第四話)のカッチョいいレイアウト、そしてさらに言うなら大平晋也(第二話)がやってた独特の省略が効きすぎて説明しがたいアレまで――兎角、芸風がバラッバラな人を集めながら、ひとつのまとまりを作っている。そこへ比肩できよう勢いを妨げる部分が目につきがちだった……前半は……。さておき後半では、こと末澤慧が演出担当の回なんかは水彩風の作画を躍らせ、絵作りでもって心を動かそうと戦いを試みてて、あ、楽しいな、と思えるところが多数ある。演出引用にしても、漫画のコマ割りを使いつつ、少女マンガ風にアレンジするやり口がリリカルさとしてきれいに作用していた。バトルシーンにおけるダイナミズムでは昔ながら/現代っぽさをクロスさせ、予告において確認できる強度の高い描写はだいたいここから切りぬかれてるほど。欲しがるだろう映像に応えようとする勢いの、要は、ガイナ直系な手触りを、てらいなく投げかけてくれたのが嬉しかった。作画で首を傾げたり、翻って感心したりする余地が多いのはオルタナより良いことかもしれない。でも、お話がどうかはまた別。何かを引こうとすると、何かが引っこむ。そういう難しさがプログレに反映されてて、お話は本当にひどい。
 得ること。失うこと。ごく単純化して言ってしまえば青春の痛みみたいな、そういうものを描きたいのは、見ててわかる。わかるけど、そこにいたらしめる語りがあまりに粗雑。人間関係。設定。状況。結論へ結びつけてくための開陳にかかわる手つきへの、意識のまわさなさ加減が段違いといえるかもしれない。リリカルさ(それがどんな色彩であれ)への手つきは大事で、オルタナがどうかといえばそれを大事にしようとして、でもしきれず、だから良いポイントをしのぐ数の粗雑なポイントを残してしまった。それでも順序を追って人物の思いを積みあげようとはしていた。視線をいくつも重ねようとしていた。では、プログレはどうか……と問いかければ、そういった感情面での動きをほのめかす部分を結構すっ飛ばし、「なんとなく」だけで片付けようとする雑さが否めない。云ってみれば、それはいまそういうことになってるっていうアレなんで(漠然)、とお話の構造だけで無理に押し流す。フリクリを振り返ってみれば、なんとなくで進めているように見るのも簡単だけど、実際のところ、お話の動きと同時に感情面の動きもわかりやすく超大事にしている。主人公であるナオ太の増長を経た成長に沿い、他人の感情が動いている。ハル子は道具として扱っている子に多少の移入があれ、死ぬときゃ死ぬわな〜との視線を贈り、ミステリアスな態度をとり、醒めた眼差しを見えないところで据える。そのはずが、素直に好きのことばに本気で頬を染めちゃったりする。マミ美は好きだった人の代用品としてその弟である男の子を大事にし、でもハル子の登場がその子から「男の子」という括弧つきの概念をはずし、男になってしまう感触に違和感を覚えたりする。ネタバレ的説明をつづけていても仕方ないので割愛するけど、ニナモリだってカモンだって、アマラオだって、お話のバックでは一定の距離というものがあり、主題としてピックアップされない瞬間にも何らかの思いが交わされ、感情が動いているように思える(それは注視すれば感情の破線を結んでけるよう要素が適切に配置されてるから)。その物語にまつわる感覚がドラマとして独特のリアリズムを宿してた。プログレは、それがないというのも違うけど、そこかしこで脱臼している感が非常に強いのだよな。各話でそれぞれ異なる演出担当がいる都合、うまくまとまりを制御できてない部分もあるのかな……いやでもプリプロダクションとかちゃんとやるだろうし、とか首ひねっちゃう。
 オルタナが女子高生四人組のお話を通して結末へいたるのに対して、プログレは、二人と二人のお話を通して結末へいたる。二人と二人。スプリットされているのはラハル/ジンユという二人のハル子だけでなく、主人公もまた、ナオ太という人物像からヒドミとイデくんという二人に分かれたような造形だ。そういう意味では、一人につき一話で描いていくオルタナは作劇を順当に模倣して、プログレはテクニカルなことをやろうとしている。それはヒドミ/イデくんにはほどほどに作用し、だから二人周辺のモロモロはほどほどにかわいく見える。ただ、それだけでは到底、足りてないんだよな。とってつけたような要素がいくつかある。特に顕著なのが、三話から登場して同時進行していく、「得ること」に関連付けようとしているんだろうなとうかがえはするアイコのエピソードで、うまく噛みあっていない。プロット上そういうことになっているから、という以上のことがない。アイコがやっているレンタル彼女が透かす援助交際とか、うまくやれば、それこそ村上龍のトパーズ(あるいはラブ&ポップだったか)とかでやってたような感覚とかにまつわることの前時代的になった部分を、現代なりに組み直していけもしたんじゃないか。そういうことも思えたんだけど。ただ要素として置かれている。要は、構造というか入れ物を用意したからって、それをうまいこと動かせてるかといえば動かせてないじゃん、という話。
 物語としてのいびつさのしわ寄せは、オルタナがそうだったように、当然ハル子にもきている。ヒドミ/イデくんをそこそこに普通に扱いながらも(まあ普通の話なので)、ラハル/ジンユの配分が絶妙にダメというか。ラハル=本能の先立つテキトー要員。ジンユ=理性の先立つマジメ要員。この書き分けにおける手際はお世辞にも上等でなく、ジンユはギャグキャラとして動きながら、ラハルだけは、各話で微妙に遊離してる。アトムスクをめぐる永遠の追っかけっこ――お話の根幹にある設定をフォローして「フリクリの向こう側」に手をつけていて、本歌取りを狙っているわりに、驚くほど「ハル子」が魅力的でない。時を重ね、歳を重ね(外面は変わらなくても内面は変節を迎えていくものだろう)、「いまここに立つハル子」を描く気がない。オルタナの突如として超絶ダサいラップをはじめる超絶ダサいシーンみたいなのはないけど、逆に良いシーンも用意されてはいなかった。本来ならヒドミ/イデくんと並行して大事に描かれてくべきなのに、外周で、とりあえず配置しましたという演出で描かれていくばかり。しかも、まったく魅力のない台詞まわしを重ねながら。アトムスクを閉じこめる鳥籠をこさえようとするところや、サイズを見誤るところも噛みあわない。こうして齟齬が連なっていった結果が、「ハル子が泣く」というシリーズを通して一切想像できないような唖然とさせられる一瞬だった。決定的なくらいの乗っかれなさ。ただ「泣けばいい」のだろうか。「泣く」という行動さえ構造にはめこまれていれば、軽からぬ思いを抱いて、ずっと追いかけつづけてきた事実を回収できるのか。そんな安っぽい演出をしてもいいのか。何かを致命的なくらい超越してしまった執着すら秘めて、ガキに何か言われたところで次の瞬間には忘れて、超然と巨大なモノに睨みを据え、笑いをこぼし、しつっこく追いかけていくんじゃないの、とか。たしかにフリクリでのハル子は「メディカル・メカニカからアトムスクを取り戻す」を目的として、アトムスクに突っぱねられる可能性を含んではいないから不敵な笑みを構えて突っ走れてたのかもしれない。でも、謎多き内面に、そこから仮構した「弱さ」のピースを半端にはめて、わざわざフツーの土俵に引きずり落として描く必要あったのかね、とか。自分なりの「ハル子の外側」をやって、それがズレていた上村監督のほうが、まだ下手な踏みこみかたはしていたかったからマシだったなというか。いろいろ思ったわけですよ。プロット上、そこへいたるまでの積み重ねがあれば何か違ったんだろか。相当の積み重ねがないと違わない気がする……承服しかねる気持ちを、見てからずっと抱えている。そういう意味では心のかき乱されっぷりが尋常じゃない。
 というか、そういうのをやるのはお門違いだよ、おこがましいよ、みたいなことをね、思うわけです。オルタナにせよプログレにせよ、本人以外に続編をやらせるそそっかしさというのはあるんだけど、プログレにはおこがましさもある。少なくとも、わたしはそれを見てとることを禁じ得ない。
 さらに許せなさを増すのが、岩井秀人の脚本というダメな通奏低音だ。オルタナでは勝手にいじられた云々と悶着を起こした一件があったし一人が負うことでもないのか、と思ってたけど、実際に脚本がダメくさい。構造が悪かろうと、配置が悪かろうと、台詞と演技が絡みあって独特の強さを生む瞬間というのはあると思う。それこそヒドミを演じる水瀬いのり、イデくんを演じる福山潤の演技は、事前の印象に反してフリクリっぽい人物像を作るのに劇中の誰よりも寄与できるだろうものだった。林原めぐみにしても、過度に誇張してギリだな、これはギリだ……と思う新谷真弓トレースを良い具合にかましていた。ただ、どれだけがんばっても、脚本の連ねることばの数々がしょぼすぎる。ことばの間も、テンポもハマらないことばの数々に、演劇人がこさえたとは思えない退屈さを憶えちゃうシーンは無数にあった。学校でのテッキトーな口車でガキンチョたちをそそのかすところとか、もっと強烈にだまくらかすことばだってあってはず。異形と化して大事なものを返してくれとすがるヒドミに、ラハルが告げることばだってそうだろう。
「返してほしぃ。手に入れたい。取り戻したい。自分のものにしたい。もっとぉ。駄々っ子かよ。お願いすりゃ叶うのか。地べたでジタバタ暴れてりゃ、誰かが落っことしてくれんのか。さしだせ。ないものをあることにしたいなら、あるものをさしだせ。それでケツが合う」
 こんな訓示っぽい語感で訓示を垂れるか、と。悪い意味で演劇っぽいというか。カッ飛んだ語彙やことば遊び、マシンガントークはともかく、パキパキとキマっていく台詞まわしくらいはあってもよかったんじゃないのかな、と心底思う。
 あと、選曲に関してはオルタナより良い部分があれば、すごい悪いとこもあったな。冒頭のThank You My Twilightはすごい良くて、そこで大いに煽られるのは否めない。でもなぜにLAST DINASAURとか超良いとこでキメるから超良くなる曲をそんなブッつづけで入れますかね、というのも同時にある。効果の薄れかたが尋常ではない。たぶんサントラで使って良い曲として事前にセレクトされたなかからこれを使おう、というのがあったんだろうけど、限られた要素を使うとリソースの潰しあいになるのが丸わかりで、そこはキッツい。とても。バトルシーンでの遊び(前半のショボショボな板野サーカスと後半のガチ板野サーカスとかね)もそうだったな……。
 怒り散らすでもなく。
 褒めそやすでもなく。
 それはそれとしての受け入れかたがあるはずだ、と思って思案のすえにオルタナはそんな極端には嫌いじゃない、との結論にいたった。でもプログレはちょっとな。まだ据える場所を見つけ損ねてる。見つけられるだろうか。見つけたい。かわいいしね、ヒドミちゃん。好きさ姫カット。
見てるあいだに事実誤認してた点がひとつあって、大倉孝二演じるアマラオだと思っていたキャラが、マスラオという別キャラだった。終盤で御老体キャラから「眉毛がお父さんそっくり」と言われるシーンがあり、これをアマラオの父親も特殊入管で働いてた、というふうに理解してたんだけど……。違った……どうやらアマラオの息子、ということらしい。たしか劇中では「マスラオ」と名前で呼ばれるシーンはなく、公式サイトのキャラ紹介やパンフレットを見ていること前提みたいな雰囲気。今回はレイトで見た都合上、パンフレット買えなかったし、前情報もほとんど入れてなかったのでマジカーッてなった。
 おいプログレ、そういうとこやぞ。
 ちゃんと劇中で情報を制御してほしい……。あとマスラオ、岩井脚本はキャラとして全然生かせておらずそこもまた本当にダメだったな。過去キャラが関連した部分からのポテンシャル引き出せなさ加減がすごい。大倉孝二は顔と声と演技が大変好きなんだけど、それが全然ハマらないのは、正直驚かされた。
今回はメモ帳持ちこんでちょこちょこ書き連ねてたのでディテール憶えてる。やっぱ筆記用具が手許にあると違うわ……(昔はちゃんと用意して映画を見てた)。十年ほど前、細田版の時をかける少女が好きで好きでしょうがなく、上映時には五回くらい見に行ってた気がするんだけど、そのときもひたすらメモとりまくってたな。
買ったり。
夫のちんぽが入らない/こだま
コアゴア/G=ヒコロウ
説教したがる男たち/レベッカ・ソルニット
樹液すする、私は虫の女/戸川純
奇跡の大河/J.G.バラード
衛府の七忍6/山口貴由
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