モノアイチャン的ヘッポコ短編。 eye need you |
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足が重い。重力が八割増になるか、重石を背負うかしたように。重い。ホント重い。 学校中から垂れ流されるざわめき――楽しげで声高なお喋り、校庭を駆けずりまわる運動部の叫び、微妙に下手な管楽器の音色、断片的な音が集まっていた。放課後という音。放課後という空間。本当なら、ぼくもそこに身を潜めて帰宅しているはずなのに。 校舎三階は放課後の人いきれから外れ、よそよそしく、所在なさげだった。 ぼくの心情とちょっとリンクしている息苦しい空気。 足が重い。気も重い。女子からの呼び出し、茜さす放課後、人のいない理科室。このセットは常識的に考えて十代童貞が喜び、童貞をこじらせた二十代が妄想として願望機に叩きこんだような美しくも儚いシチュエーションだ。そのはずだ。 だのに、憂鬱で仕方なかった。 噛み締めるガムには柑橘類の匂いしか残ってない。授業中に含んでから一時間は噛みっぱなしなだけに、軋るゴムの感触だけが際立つ。軽い嘔吐反応――神経過敏になってるのか、ガムの舌触りで鈍い吐き気がこみ上げた。 「帰っちゃおうかな」 でも帰ったら後々面倒ごとに引っ張りこまれそうだ。おとなしくしていたほうがいい。そう思うくらいには例外的な出会いだった。 椎名林檎はとある歌で、出遭ってしまったんだ、と歌っていた。 出遭う。難しい漢字を用いて不可解な恐れすら感じさせる言い回しだ。人との関係が交じることは、忌々しさと交わる、嫌な可能性だって多分にあるのかも、だなんて考えさせるくらいには――中学二年生時代の独り言が多く混じった一考だ。それはいまとなって考えると、やがて訪れる、不当なまでの対人関係不全を示唆していたのかもしれない。 無用な後ろ向きさが功を奏してしまったのか、果たせるかなぼくは不全を起こしていた。なあなあの選択肢をとって、テキトーにやってきたことで。アニメの台詞も連鎖していく。凶兆は三度姿を表すというが、一度見落としたら終わりだ、という台詞。 そうともぼくは何度か凶兆を見落としてきた。 そいでまた、新しく見落としてしまったのだ。 凶兆が訪れた日――十二月初旬の放課後。 夕暮れ時が連れてきた薄闇に北風が泣いていた。本格的な冬の訪れ。日が傾く帰り道。わかりやすく凶兆の第一歩を踏みしめるには充分すぎる曇り空に閉ざされていた。 幼い頃からの日課となったゲーセンでのワンコインプレイを終えたぼくは、ほくほく顔で帰路についた。なにせ格ゲーの対人戦で強者を五人抜きにし、よく立ち寄る焼き鳥屋が持ち帰りに限って半額の安売りをしていたのだ。日々を支えるささやかな喜びってやつにあやかれた。だからかもしれない、浮かれ足で誤った道筋を踏んでしまった。 なんというか魔が差したのだ。 電柱の横でひざまずく女に声をかけてしまった。苦しげに上下する黒いセーラー服の背を見て無視するのは薄情にすぎる。そう思うと足が軽く、親切心も働いたのだ。 親切気取りの勇み足。ぼくは驚かせないよう足音を立てて歩み寄り、 「大丈夫ですか」 問いかけ、かたわらで膝を折った。華奢な体つきが、ぼくの声でぶるりと震えた。 ゆっくりと振り向く顔に、ぼくは絶句した。心臓が早鐘を打ち足許が揺らぐ。 「ええ、持病の癪が……」 艶っぽい声。時代劇かよ、と思いつつもぼくの視線は赤い瞳に導かれて離れない。 紅薔薇の色合いを硝子に滴らせたような単眼が見返してきた。白皙が引き立つ滑らかな頬は薄く汗ばみ、瞼が浅く伏せられていた。常軌を逸した美しい目鼻立ち。日本人とはかけ離れた、ヨーロッパの血脈を上乗せした均整さ。長い黒髪が、寒風に揺れる。 ぼくは得体のしれない恐れを覚えながら、すべてのバランスを逸した、異人の存在感を意識させられた。俗に言う妖怪。かつて人間ともっと身近だったという隣人。地歴の授業経由で、近現代史に国民として計数された存在を知ってはいた。けど実生活上で目にしてきたのはせいぜい河童や化け狸といった連中で、しかも穏当な性格だった。 だが一つ目、それもヨーロッパ系ときたらこれが初見だ。余計、異質に見えた。ぼくの感性は一つ目という容貌を気楽にとらえてくれないくせに、きれいだ、と思わせる。 肩にかける気を失った手の行き先を、どうするやら戸惑って地に指をつく。と、息を吸う音が聞こえ、生白い膚色に反して柔らかな桃色の唇が震えた。 「申し訳ないけれど、手を貸していただけるかしら」 「ああはい、た、立てます?」 ぼくは言い、立ち上がって指先を掴んだ。氷でも掴むような冷ややかさ。 直感的後悔。狢という怪談話がそうだったように、目の前の怪異への怯えに任せて逃げ出すべきだった。そうする権利だってあったはずなのに、またも魔が差した。 「ありがとう」 手を引くと思いのほか軽い。ぼくの背がそれほど高くないのもあるのだが、相手の背丈は頭ひとつ、いやふたつ分は高かった。 「もしあれなら救急車でも呼びましょうか」 「いいえ、それには及ばないのだわ。お手を貸してもらえただけで充分……」 「それはよかった。お気をつけて」 ぼくはしなだれかかろうとする身体を避けて、一歩引いた。不満げな困惑顔――離れ際、女は左手の小指にすべすべとした指先が触れた。触れられたくない部分。寒気と怖気で力が抜ける。焼き鳥入りの紙袋が左手から抜け落ちてくのが、遠い出来事に思えた。 「よかったらお礼を」 「遠慮しときます、急いでるんで」 言い切り早足で逃げる。これはちょっと失敬だったかも知れないなんて思いながら、ちらと振り見ると、女は塀を頼りに頭を預けていた。 整った面差しには、心にとりいって魅せるような微笑。 背筋を這い上がる悪寒。してはいけないことをしたみたいな、形のない危険さ。そいつを振り切るように鋭角の会釈をしたぼくは足を速め、小道への角を曲がると一気に駆け出した。運動不足を嘆いて気管支がぜいぜいと喚いても止まらず、下宿先まで駆けた。そうしないと、悪いことが起きる気がして。 正しく出遭いだった。 本来、人と怪は遭遇するべきではない。怪異は人の痕を這って市井に蠢き、人は怪異を視界の隅に捉えて無視を決めこむ――そうあるべきだ。それの段階が一足飛びになると憑かれるんだろう。人と人の関わり合いと異なる形而上的なアレは、別段関わり合うための意味を必要としない。誰であるかという必然性を問わない。ただそこにいたから、ただそこを通りかかったから、ただそいつを認めたから。偶発的で、捉えようによっては不条理に等しい無差別攻撃を果たすとらえどころのなさで、人を縮み上がらせる。 体格に見合わない運動量のせいで脛が鈍い痛みを訴えていた。こうなるなら体育の授業を真面目に受けてれば、という後悔はシチュエーションに似合い過ぎてるか。典型的なリアクションは典型的な結末を招きそうで怖い。いまは考えないようにしとこう。 下宿先――安普請のアパートに帰り着くと、ぼくは各所の鍵をしっかり閉めた。換気扇も止め、カーテンを隙間なく閉め、二七型テレビに光をともし、こたつに滑りこんだ。 「なんだったんだ、あの妖怪」 言いながら左手の小指をさすり、ぞっとした。小指に糸が巻かれていた。 よく見りゃ糸じゃない。髪がゆるく巻かれ、ささくれた毛先をだらりと垂らしていた。 「いよいよ洒落んなんねぇ……」 爪でちぎった髪の毛。枝毛がはみ出てたそれは、感触も艶めきもキューティクルの完全さを物語ってた。ミョウチキリンだ。トイレに行くと洋式便器に落とし、水流にのって円を描きながら水道管に吸いこまれてくのを見ながら、なんとなく思い出した。あの女の瞳に、鍵穴が見えたな、なんて具合に。 ぼくにはいくつかの特技があって、そのひとつが一種の読心術だった。生まれつきなのかなんなのか、物心ついた頃から世話になってた冴えない特技その八、超常的読心術。瞳の中を覗くと漢字一文字が浮かんで心を透かせる、という卑俗すぎる能力だけど、それがこんな形で写ったのは初めてだった。ただでさえ漢字の字義をいちいち考えにゃあならない半端さなのに、この上、謎かけみたいな鍵穴を見せるとは。意味を考えたところでよくわからない。さらに、憑かれるというのはあまりよい経験じゃない、なんてこれまで多方面から聞いてきたような曰くが一斉にさえずりだす。脳みその小さい部分がパンパンに膨らんでた。 もうイヤン。 ぼくはこたつに戻って天板にほっぺたをぐいと押しつけ、 「役立たずめー」 と、こぼす。瞼には浅い眠気と、あの赤い瞳が、ちかちかと光の破片めいて溶けた。 忘れよう忘れよう。考えてどうなるもんじゃねえもの。そう独りごちるのがコタツカタツムリの精一杯だった。でも焼き鳥を落としたのは手痛いし忘れられそうにない……。 ねぎま、鳥皮、つくね。愛おしい鶏肉たちが小腹をなじる。ぼくはあきらめの悪い食欲をなだめるためにストックから一番高価な即席ラーメンをだして夕食とした。晩酌で友人がくれた純米吟醸男根崇拝の三分の一ほど開けて、どうにか脳を隅のほうまでちゃんと酔わせ、空っぽにすると、十時を回った頃にはコタツで眠りに落ちていた。酔っ払いの柔らかい意識を貫いてくる赤い光は夢に散って砕け、ほんの短い間ながらあの笑みの麗しさだけを引き出し、そしてまた溶けた。 ニモカカワラズ。あるいはダカラコソか。 忘れることもかなわずに、再会は二十四時間以内に訪れた。朝一番のホームルーム――担任が紹介したのは、正しく昨日の女だった。 うちの制服である白のセーラー服と絶対に交わらない黒色のセーラー服。 黒板には莫辺亜子とあった。 教壇の横に立つ莫辺さんとやらは薄笑いで教室に眼球をさまよわせ、ぼくを見つけるとにっこりと笑みを深めた。ぼくの背から腕に鳥肌が走る。 「えーと、今日からみんなのクラスメートになる莫辺さんです。イギリスから来たばっかりらしいのでみんな親切にしてあげてください」 教室のみんながざわめき、そして潮が引くように静まった。担任の女教師ときたら目を四方八方に泳がせていた。まるで細かいことを何も聞いてないという目付き。ことば運びが速く、挙動は不審。これで頼れると思うのは相当な楽観主義者だ。 「異議ありッ」 大声で言って挙手したのは当クラスの委員長だ。三つ編み眼鏡、記号的真面目少女。 当学年で一番勉強ができて、勉学やちょっとした問題で困った連中は揃って声をかけ、案外どうにか解決し、しかも性格ときたら頑固で真剣だからアフターケアもする優等生だ。外見上は教師受けがよく、その実ウザがられてる。有能すぎて。まあいくらウザがられてもこの学区で、およそそれらしい委員長を探せば、彼女に行き当たる、委員長の女王なのは代わりない。なにせ常時、本名ではなく委員長と呼ばれてるくらいだ。印象操作とは怖い――スタイル固定された彼女の名を、ぼくはまだ知らない。 委員長はきっちり背を伸ばして、臆することもなく担任の顔面を直視する。 「異議認めません」担任は素早く制した。 「なんで妖怪がわがクラスに?」 「だから異議認めないっていってるでしょー。大声出す子は芸者の子」 「極めて差別的な表現だと思います先生ッ」 「特に差別意識はないけど委員長をウザいと思うので全力で用いさせてもらいます」 「それでも教師ですか」 「まことに遺憾なことですが先生はあなたの担任なのですよ」 不毛の窮みにある応酬――担任と委員長の喚き声の間を縫って莫辺さんはお辞儀し、 「不束者ですがよろしくお願いします」 「あ、じゃあ、その、席はご要望通りに勅使河原くんの隣で……」 唐突にぼくの名が挙がり、思わずビクついてしまった。しかも女教師は明らかに下手に出ているしもう道理が掴めない。わたしは認めない、と指差す凶暴な委員長を無視して、莫辺さんは悠々と歩み寄る。影が映えるような音のない遊歩。空っぽの席に腰を下ろし、莫辺さんはガタゴトと音を立てて椅子と机を寄せてた。顔を落として木目を数えるぼくを覗きこみ、 「よろしく、勅使河原くん。仲良くしてね」 鳥膚をこらえて首を縦に振った。嫌ですとは言う勇気がなかった。 二限:現国の時間、お互いの机をくっつけ教科書を見せていると、莫辺さんは不必要にぼくの方ににじり寄ってきた。ぼくは近づく分だけ離れ、距離感を計る。そしてふっかけられたのは、意味朦朧な質問の嵐だった。頬杖をついて退屈そうに教科書を覗きこむ瞳は、こっちを一瞥して、 「勅使河原くんは世界征服とか好き?」 「嫌いです」 「格闘ゲームは何派?」 「ヴァンパイアセイヴァーです」 「レイレイとか好きそうだよね勅使河原くんって。なんていうか、ちょっと天雷破」 なんでそれを知っているんだ。下手なことを言うとよく使う技のコンボまですらすらと暴かれそうな予感がしてぼくはおののいた。立て続けにぼそぼそと脇腹を小突いてくる、生活や趣味履歴をさらうような問いの数々。回答拒否権を行使する前にぼくは流されていった。まあ、甘やかな声に応じるのもそう悪くない――けど、赤眼で見られるたび心臓がドキドキドキドキ拍動して、ヤバイことが裏で進行している気配を全身に循環させて息苦しい。 「コーヒーゼリーを食べるときには何を飲む?」 「コーヒーですっていうかこういうの困るんですけど。授業ちゃんと受けないと」 「ひとつ不真面目をしたってすぐには響かないよ」 「人でなしなことをおっしゃる」 「ふふ。だって私、見るからに人間じゃないでしょう」 莫辺さんは鼻にかかった言い方をして、哂い、 「直太くんったらイケズ」 チラ見した瞳には大きな中黒がかぶさり、底のない洞穴が開いてるみたいだった。ぼくは背を丸めると小声で、 「下の名前で呼ばんでください馴れ馴れしい」 「膚と膚が触れ合う関係なんだからいいでしょう、それくらいは。ね?」 得体のしれない低い声ですっかりペースを持ってかれた。どうにかしてとばかりに国語の担当教師に視線を送ると、伊武雅刀似の顔に硬い笑みをつくって、ぼくの名を呼ぶ。 「はい先生なんでしょう」 「莫辺さんとのお話に集中してください。ああ、声もそんなに落とさなくていいから」 国語教師は語尾を曖昧に濁した。 「どんな判断だぼくの時間をドブに捨てる気かッ」 クラスの半数くらいから視線が飛んでくるが、ぼくは怯まず感情優先で叫んだ。反論はなし。不満を認めながら恐恐した表情でスルーとはどういうことだ。ざけんなよおいぼくの泰平不満なしな生活を砕いたこの女をどうにかこうにかしろよ。思えども思えども、どうにもならない。ぼくは今日という日を捨てる覚悟を強いられる。 莫辺さんの細い人差指と中指が、ぺたぺたとリズムをとる。浅いあくびをしたり、机にうつぶせてみたりと恐ろしくマイペース――そのどれもが悠然として、鮮やかで、ぼくはふいに綺麗だなと思ってしまう。相手に同調したらいかんぞ。 と、指が動きを止めて授業の書き取りを全然できてないノートに触れた。莫辺さんは頬を下にうつぶせたままでノートの段をなぞり、上目遣いで、 「ねえ知ってる、男の人の性欲って十月がピークなんだよ。あと豚のオルガスムスは半時間続くんだよ」 「知りませんよそんなの」 脈絡のないことばに顔が熱くなる。 「サリンジャーと岩本虎眼って多指症だったんだよ」 「シグルイと文学の大物を並べるのはちょっと失敬すぎやしませんか」 わざとらしく頬に冷笑をかかげるぼくの首筋に、くすぐるように嫌な寒気がすがる。 「わたしが世界を変革する力を持ってたとしたらどうする?」 「唐突だ。んな力があったらヴァンパイアシリーズの新作が発表されて、ロックマンDASH3が発売される世界を作って欲しいもんですね。じゃなきゃSEGAが一流企業になるか。……こういうのに真面目に答えてるのも馬鹿らしいかもだ」 「正直さぁん」 それが質問への回答か、はたまた後半の愚痴への返答なのか。ぼくには判断がつかなかった。据わりが悪く、落ち着かない宙ぶらりんの感じ。 こんな調子で訊かれてたら質問がなくなるぜ、と思ったけど話は尽きないもんだ。昼休みも気を抜けなかった。莫辺さんは惣菜パンを食べるぼくを眺め、豆乳を吸いながら問う。しかも隅っこの席に座った委員長がカロリーメイトをもそもそと噛みながら、敵意に満ちた目でぼくを睨む始末。逃げ場なしってわけか。 気苦労は耐えなかった。隣席の転校生に教科書を見せる。変な質問をされる。怪しく微笑まれる。目を合わせないようにしても視線を引っ張られ、それを自分で引き戻す。毎日続けば生活と心の軸がぽっきりいくんじゃないかと思える負荷だった。そんなもんだから、六限の授業が終わった頃にはいつもと違う種類の疲れが出ていた。 これが普通の女子なら安心して受容できる。 でも、だが、しかし、相手は妖怪変化で、しかも単眼なのだ。 それは異様すぎた。ぼくは狭量でこそないが、寛容との間には越えられない壁がある。 ふと浅いあくびがこみあげる。このあくびごと、明日また莫辺さんが登校してくる可能性を噛み殺せりゃいいのに。思いながら、数学担当教師に頼まれてノートを回収し、教壇に積む。奥歯の裏にひそませたガムを剥がすと、眠気と一緒に犬歯で噛んで転がしながら、席に戻った。 と、背を撫でられる妙な感じがあった。飛び上がりそうになったのをこらえて顔を向けると、ぼくの肩口に「の」の字を書く莫辺さん――ぼくは反射的に身を翻して机を背にする。 莫辺さんはにっこりと笑った。汗ばんだ頬。色素のない膚に薄い朱が浮いていた。初めて会ったときと同じ顔つき。 「直太くん、ちょっといいカナ?」 「今日の分の会話構文を使い果たしてて全然よくないですけど、なんですか」 莫辺さんは噛みつかんばかりにぼくの耳許に顔を寄せて、 「放課後にね、第二理科室に来てもらえるかしら。ちょっとお話したいことがあるんだ……主にラブずっきゅん告白とか性交渉とか」 「一足飛びなことおっしゃりますね」 「待つわ、わたし待つわ。いつまでも待つのだわ」 「ぼくの話を聞けよー」 あまりに一方的じゃないか。声を聞き届けることもなく、背の高い後ろ姿はふらりと教室を去っていった。こっちの都合は関係ないってか。つうかホームルーム出ろよ。 喧しいチャイムが、放課後の始まりを告げる。 結局ホームルームで莫辺さんの不在は言及されることなく、手早く連絡事項を告げた担任は逃げるように姿を消した。いつも通りを装ってる同級生たちもいそいそと去った。異常への無関心。触らぬなんとやらに祟りなしなんてメンタリティ。反応はクラスの中心にいるたぐいの連中がわかりやすかった。ぼくをおかしむ態度を隠すことなく、チラ見し、笑いと小声が入り交じった音をクスクスと沸かせて出ていった。日常に侵入した怪異がぼくに引っついてることで、上辺だけでも安心してるんだろう。 不可触賤民でも扱うように、底辺にいる、と規定したぼくを見て安堵を得る。 茶飯事だ。私たちはこんなに恵まれてるとかいう嗜みはまったく不愉快だけど、大きな声で反論するのも行動と結果が釣り合わない。ぼうっとしている方が割りを食わずに済む。それにカースト上部にいるやつらだって、いくら勘所が悪く、想像が浅はかろうとも、すぐに気づくはずだ。あんな怪異が這入ってきたらただじゃすまないって。 いや、だがしかし、気づくか。カーストの上と下じゃ、弄することばの量と質が絶対的に違う。やつらは笑い、愚痴り、企み、嘲笑うためのことばを外に向ける。低きに下るぼくのような人間は考え、心の中で罵り、例え話と自分を納得させる詭弁をリピートする。その感覚というのは当事者間でテッテ的に分断されて、ぼくはやつらを理解できない。あっちもそんな考えを滑稽としか思わないだろうし、意味も道理もわからず、だからカーストできっちり区切られてんだろう。互いについて考える必要もないように。 最新のアーケードゲーム事情記事から、目が滑る。 ゲーム雑誌――アルカディアのページをこっそりめくって考えてる間に、居心地の悪い静けさが、我が物顔で教室に居座っていた。ぼくだけ世界から切り離されたみたいだ。有名な演劇の、この世の関節が外れてしまった、なんて大げさなセリフが当てはまりそうな静寂。 アルカディア誌をショルダーバッグにしまって廊下に出た。 「勅使河原くん」 ふと、委員長の声が呼び止めた。珍しいもんで、いつもなら多くの人にスルーされるのに、今日はよく名前を呼ばれる。日誌でも書いてたのか、手には安からぬデザインの万年筆が握られてた。消しゴムでの修正を許さない、決定的な文を記す細い指先。 委員長はさしこんだ日差しを照り返す丸眼鏡のブリッジを押し上げ、 「言っておきたいことと聞いておきたいことがあるんだけど」 「あー……雑誌のことだったら、先生には言わないでくれると助かります」 「それもだけど、もっと大事なこと」 切実なトーンだった。深く息を吸った委員長は一歩半まで距離を詰め、 「まずは聞いておきたいことから。きみはアレとどんな関係なの?」 名を呼ぶのも不快とばかりの指示代名詞――反問するまでもなく莫辺さんのこと。 「どうもこうも魅入られたようで」 「そう。じゃあ次は言っておきたいことね。危ないから、ああいうのとはつるんじゃだめだよ。身の上に不幸が重なって取り返しがつかなくなるわ」 「それを言われても遅いような。ご忠告はありがたいですけどもはやクリティカル」 「クリティカルヒットで即死しないよう気をつけることね」 「できる限りどうにかはしますよ」 「絶対にだよ。私、その……できれば勅使河原くんを助けたいけど、きみに物事を解決する気がないと何もできないわ。思うところがあるのなら言ってもらえると手を差し伸べやすいし、助けるのにも遠慮がなくなる。困ってるなら、困ってるってはっきりと言って」 だから睨むだけだったのかな、と思った。委員長としての仕事はともかく、他人と関係することに受動的な人なのか。だから人に問題を持ちかけられてから動くのかな。そんな性質は二、三度話しただけでは掴み取れないし、実際そんな性質かもわからない。そんなら早い段階で話しておけばよかったかも。いや、いまになって考えても無駄無駄無駄。 後悔したって、今更もう引き返したり、助けてもらえたりはしないだろ。 冷笑的な考えが声に出ぬように努めるのに失敗したぼくは、 「なんつうか、委員長らしさに忠実なことで」 「そんなんじゃないわ。人を心配するのにお仕事だからなんて理由はいる?」 「時と場合によるとは思いますけど」 と言いながら、ぼくは上履きの底を擦って二歩分の間をとった。委員長は明らかに返答を気に入ってくれずに腕組みで睨み返してくる。 「あ、そうだ委員長」 「なあに」 「委員長は、電車の吊革に水風船がぶら下がってたらどうします」 「見つけたらすぐに外して片付けるわ。割れ窓理論みたいに、誰かが便乗して新しい水風船をぶら下げられたら不愉快だもの。夾雑物があると耐えられないの」 「ぼくはそれから視線を外せないような状態でして。あとまあ、心配してくれてありがと」 会釈をすると、踵を返して歩き出す。 委員長は、ぼくが何を言ってるのか理解してないんだろうな――とても怪訝な顔だ。 なんというか、ぽつんと現れた異物は、目についた瞬間からしっくりこなくて少なからず心に残る。残尿感にも似ている。意識したら、引力に導かれたまま。そうなったら他人にどうこう言われても致命的に遅い。他人が何かを差し挟むときは大概そういうもんだ。間に合わない。間に合わせたかったって希望があるだけだ。 だから、ぼくは手前でどうにかせにゃ――何か選択をするのは、怪異に惹かれてる手前自身だ。委員長に頼るのはちょっと違う気がする。 「手は、つけられないのかな」 遠くからそう聞こえた気がした。唇の裏に忍ばせるように、でも鮮明な声。まあなんというか自分で無駄だって規定しちゃった以上は誰にも手はつけられませんよね。ぼくは聞こえないようにして渡り廊下を通って、隣の棟に向かった。 重力が増したような足の重さ。 放課後がおりなす音を聞き流しながら、ガムを噛み締めた。ゴムらしい感触に軽い嘔吐反応――味がなくなり嗅覚に絞られたせいで、ただでさえ作り物っぽい柑橘のにおいがより作り物めいて、胃の震えを誘う。ちょっとした神経過敏だ。 帰っちゃおうかな。声に出してすぐに、それはそれでまずいと否定した。どうまずいかはわからんが。ぼくは深呼吸をして、平常心平常心と唱えて理科室の戸に手をかけた。 あとは流れ次第だ。 戸をスライドさせると、窓辺に立つ莫辺さんが見えた。電気もつけず、夕暮れに沈んでいく校庭を見ていた。妖怪だから暗いほうがいいんだろうな、なんてふと思う。影のように沈んだ背中が翻り、赤い瞳とまともに視線が合ってしまった。 すんなりと踏み入るには勇気が足りず、ぼくは戸に肩からもたれかかる。 「ちゃんと来てくれたんだね。偉い偉い」 「すっぽかしたら後々なにされるか分かりませんからね」 「そんなにおっかなびっくり構えなくていいんだよ? 言いたいのは、直太くんわたしとラブしてつかぁさいってことだけだもの」 莫辺さんは言って、ぼくに歩み寄った。刮目した瞳の奥――絡まった糸みたいな模様。ぼくの掌を引っ張る冷たい指。理科室へと引きこむ足取りに歩調を奪われた。 ぬほぉ、と悲鳴を漏らした拍子にガムが喉に転がって、飲みこんでしまった――消化に七年もかかるってのにどうしてくれる。ぼくは反射を抑えきれず手を振り払った。莫辺さんは伏目がちに軽やかな後ろ歩きをして、長机に腰掛ける。ぼくはバッグを下ろすと手近な丸椅子をとって座った。許容できないとばかりにコートのポッケに両手を入れ、 「お断りですよ」 「年上は嫌かナ?」 莫辺さんは不思議そうに小首をかしげた。 「それ以前の問題です。つうか同級生なのに年上ってどういう」 「…………わたしちょっと留年してて」 妙な間は何なんだ。 赤い瞳を覗くと、今度は×マークが独楽のように回転していた。オカルト的な読心術がオカルト存在によって撹乱されてるのかどうなのか、甚だ解釈に困る。ぼくがあまり凝視していたからか莫辺さんは頬を両手で挟み、恥ずかしげに身をくねらせた。 「やだやだ、睨む顔もすてきでなんだか面映ゆい」 人目が外れたせいか、莫辺さんは脳内のなにかがフルスロットルらしい。ぼくも応対のためなら暴言も辞さない構えをとるべきか。 「論点が定まらねぇな」 「折角ぐるぐるしながらゲロした気持ちだからよかったらゴックンして」 「そんな趣味は持ちあわせちゃいねぇ。衛生倫理観をなめてんのか」 「お望みなら白いのが出なくなるまで前立腺もぺろぺろ。やだわたしったら超ビッチ!」 「舐めんな! とにかくぼくはごめんです、全滅ノーフューチャーです。一般的観点でいうと死ぬ前に恋したいとかは思ってますけど妖怪はちょっと」 「舐めるついでに見えない場所のほくろも数え上げてあげるよ?」 「喜ぶ層がいるのかそれは!?」 ぼくは腹の前で手を組み、左手の小指をさする。 俯いた莫辺さんが身じろぎ、瞳がぼくの輪郭をなぞるようにさまよった。 埃っぽい放課後の匂いが、ばつの悪さを増していた――人の告白を蹴りつける感じはちょっとキツい。そもそも対人関係自体をうまく保てないのに、どうすればこの間を取り繕って、家に逃げ帰れるのだろう。蜘蛛の巣に絡まった気分。 「わたしと付き合えば世界も滅ぼせるよ? 居心地悪いところをゼロに返せるのだわ」 上目遣いで追加した文句は告白にしちゃ、あんまりにも物騒だった。 「実際バックベアードだから世界を三度核の炎で包めるよ?」 「バックベアードって名乗らなくても名前と外見が一致しているから普通にバレますよ」 「じゃあ説明不問だよね。問答無用だよね」 「曲解だなおい。説明を端折りすぎててなにがなんだかですよ」 「ぶっちゃけ、わたしはきみがいないとね……」 「ぶっちゃけの部分でだいぶ端折ったな。告白云々するなら説明義務くらいあんだろ」 ぼくは肩口で顎先をかき、吐き捨てた。 莫辺さんの声が脳内で震えていた。キミガイナイト。唐突過ぎて、現実味どころか説得力だってないことばだった。莫辺さんは片膝を抱え、 「しょうがないなぁ」 本性を晒すように、そうでなけりゃ大妖怪としての自分になりきるように、傲然とした笑いを浮かべ、莫辺さんはヒストリー講釈を始めた。バックベアードが変幻自在にして凶悪であり、自分はその子孫であること。ソ連と魔女と戯れて大戦に暗躍してきたり、枢軸国の悪魔的なおこないでかき集めた金銀財宝を奪ったこと、その他オカルトを嫌うローマ法王とはあれこれ揉めてきたということ。 それぞれ聞き覚えのある単語、知らぬ単語を交えて、質問の余地なく、楽しげに語られた。過去という大言壮語。歴史の内側でいくらでも逸失してきた物語は、女の子の声で語られることでこじんまりしたサイズに収まり、壮大さがかすれてた。 なにより、ぼくにはこう思えた。話し慣れない人間特有の、取り留めのない話だ、と。 やがて、莫辺さんという歴史は収束する。バックベアードなんて大物がどうして取り巻きもなく、孤独にぼくの周りをうろうろしているのか、という最後の一節まで。 「でもね、みんな、みんな、いなくなっちゃったのだわ」 莫辺さんは目を細め、膝に顎を乗せた。 「みんなって」 「首なし騎士も吸血祖もミミックも、誰も彼も。私たちは「イマ、ココ」という世界観に根付いたサイエンスの亡霊に蝕まれちゃったんだ。知ってる、妖怪とか怪異のたぐいってね、誰かに望んでもらったり、怯えてもらったりしないと”此処”に在れないんだよ――私は、私たちはね、そのどちらも満たせなかった」 尻すぼみにほのめかす、ゆったりとした破滅。莫辺さんは長机から飛び降り、背を向けた。 「気づいたらひとりぼっちになっちゃった」 「どうしてそんなになるまで気づかなかったんですか」 「いつも通りにあるっていうのは、じんわりと感じるだけ。終わっちゃうまで、破綻するまで、あんまりわからないんだよ。私ってば、うっかりしていたみたいでね」 元ナチ親衛隊のアイヒマンがモサドに処刑された、なんてのと同じくらいのショボさ。既に終わってしまった物事の色あせ具合が、莫辺さんの背を煤けさせていた。ぼくはどうしようもないくらい黙ってしまった。散漫な寂しさの印象で揺らがない平静さを装うだけだ。 「それでね、わたしはひとりでどうすればいいのかなって、猿の手に訊いたの。そしたら教えてくれた。日本のニニシッポリっていう街で、六本指を探せって。そうすればきっとわたしという存在の素因に歯車を足して、モウ一度、大きく回転させてくれるかもしれないって、教えてくれたのだわ」 少なくとも妖怪独特の、自己完結した無差別攻撃がぼくたちを結んだわけじゃない。何故か安心感があった。それに、ぐらつく足許に土台が据えられたようにも思えた。 「猿の手って願い事をかなえてくれる呪具じゃないですか。なんか使い方が違うような気がする。しかも、ぼくは多指症じゃないし」 声が上ずる。そう、ウソだった。 六本目は母がもいだ。 ぼくは無意識に左手の孫指――仮にそう呼べるなら――の、引きつれた痕跡をさする。手術痕を薄く残しただけの膚。女ルチャドールにして精神不安定女でもあった母が、息子たるぼくの行く末を儚み、ささやかな畸形の証たる指を引きちぎった事実を裏付ける、忘れがたい証拠だった。リングを舞う暗黒騎士カバレッロ・オスクロとしての膂力を持ち出した柔らかな掌は、あっという間もなくぼくの指を奪った。メキシコ興行から帰ってきた冬のことだ。小学一年生の記憶が、骨が外れて肉が破けて肌が剥げる激痛を喚起する。 物理的恐怖のフラッシュバックが、右瞼を痙攣させた。 下手くそなウソは弁明するまでもなく見透かされてたようだ。口許に手を当て、莫辺さんがくすりと慎ましやかな笑い声を立て、 「ウソつきね。直太くんったらゆるゆるのウソつきさんね。でも上手なウソは人生を長引かせるサプリメントだから綺麗に使い分けるといいのだわ」 クスクスと笑われる――出会ったばかりの人間に言われると、嘘が含んだ罪の匂いがどれほどのものか言い聞かされているようで嫌だ。 「余計なお世話だ。自分の生き方もままなってないくせに」 「そうね。うん、本当に、そうね」 噛み締めるように、莫辺さんは言った。振り返った赤い虹彩が、夕暮れの逆光を背にしてもなお赫々と閃いていた。瞼がそろりとおりて、紅が下弦の月に似て絞られる。しまったと思うけどもう遅くて、悲しい顔は、もう取り返しがつかない。 ぼくは自分にそれなりの傲慢さと、最低さがあるのを知った。 相手は仮にも女だってのに上から目線でそんなことを言ってしまえるのか、と。自分のことしか考えてない。当たり前だ、心情の欠片を知れただけの怪異を気遣うことなんて――あるかもしれない、だって女の子だぜ? 不可解な妖怪なんて認識が印象の外堀を埋めたあとにきた、少なからず相手がまともなことばで、意思の疎通を成立させようとしていることが、ぼくには大したことに思えていた。それってのは救いがたい油断でもあった。 油断したそばから湧き上がる厄介な情感、同情とか憐れみ。俗世間らしい、ヒトリボッチなんつう境遇にスイッチを押されたドラマチックな憐憫? だとしたらパターンに入った考えと現実を切り離してやるべきだ。 気を抜き許せば取り入られる。 考えで自分をつなぎとめようとする。 けど、だめだそうだ。 一度間違えた文字を書き直してみたら、また間違った文字を書いてしまうように、際限なく自分が動かされていた。莫辺さんは後ろ手に指を組んだ。 とても小さな声で、だから、と呟き、 「わたしを望んでほしいのです。ここに在るために。ただ、ここに在るためだけにね」 「ちょっと荷が重いかもです、というか、それはラブ関係である必要性がどこに」 「一番手っ取り早いかなって。とって食べてしまおうなんて気はないんだよ」 ぼくが呆けていると間を察したのか初めて慌てた様子で、 「あのさ、その……思いと役割っていうのは存在を強く縛って、規定してくれるんだよ。信じるっていうこともね、ことさらに強い意識は世界っていう力場に結びつけてくれるのだわ。私を縛る概念はことばとなって私を縛り、ことばは紡がれ、重ねられて、怪異って物語の礎として形作られていく。ふと生まれた怪異は人と結ばれて、口碑伝承としての物語の体をなし、私たちの居場所は生まれ拡がる。始めにことばありきって、言うでしょう? だから私は誰かに語り継いでもらえないなら、誰かの心に刻みつけてもらえないなら、私は望んでもらうしかないのだわ。ラブとかね、ハートとかね。それにね、もし付き合ってくれたら子宮にギリギリアウトなこともさせてあげるよ?」 ギリギリアウトなことってなんだ。 果てしない性器末感にぼくは歯噛みする。 見返す瞳に歯車――赫い色素が錆つきめいて映えていた。莫辺さんが声に出した以上、なんの象徴化はもはや明らかだったし、莫辺さんという妖怪は、その歯車を動かすためにぼくの前に現れたのも自明だった。 「道端に落ちたガビガビの週刊ダイヤモンドレベルの色仕掛けはいいですよもう」 「今日の下着は上も下も縞柄だよ。男の子って縞柄好きだよネ」 「フランクに下着の話されると男子はテンション下がるって知ってます?」 「えへへ、わたし処女だからナニブンそういうところはわからなくって」 「処女脳ったら超面倒くせぇで済ませるつもりか!」 「なにしろ処女歴数百年ともなると手も伸びるしテレポートもできるわ」 莫辺さんは自慢げに、そして力強く言った。 またしても右瞼が痙攣した。とっさに押さえつけ、嘆息する。考えろ。なんとか良いバランスをとる方法を、穴を埋めて、どうにか日常に復帰する鍵を。鍵? 「しかし一番手っ取り早い、ねぇ。誰でもいいんだ、生存する担保になれば」 「そんなことはないよ。きみのことは、わりと本当に……」 ぼくは致命的に油断していた――後ろ手を組んだまま、莫辺さんが一歩二歩と距離を詰めてきた。にっこりとした柔らかな笑みが迫ってくる。無条件に引き止めてしまいたくなる生命感の薄い笑みから、無意識に目を背けた。 「口先だけならなんとでも」 「でも口先以外でどうやって伝えたらいいかな。もっとぴったりより肩と肩がくっつくくらいのほうが、考えてることは伝わるかな。好きって言って抱擁すれば伝わる?」 「知りませんよ、そんなの」 「じゃあ、どうすればいいんだろう」 なにせ他人の心を透かしてなお次の一手がわからないボンクラだ。ことり、と音を立てて丸椅子がすぐ隣におかれた。 衣擦れの音を立てて莫辺さんが座し、 「私もよく知らない。みんなが気を遣ってくれてね、それでずっと好き勝手できたから」 「周りが気遣ってよくしてくれるってのは贅沢ですよ」 「まったくだね。でもイマはもう違う。ひとりじゃあ、きみと、人間と上手くお喋りすることだってできない。ネジコンくらい駄目だね」 さりげなくナムコ製コントローラーをバカにしつつ、莫辺さんは誰にともなくうなずいた。落ち着きない指先は、枝毛が走りながらも艶やかな髪を絡めとっては放す。 「いやネジコンはだってもう十五年以上前に出たやつですもん。ほぼグランツーリスモ専用ですよアレ。でもそう言ったら、バーチャロン専用コントローラーとかガンコンだってそうだし。とにかくキリがないっていうか」 「バイオハザード専用コントローラーも?」 「無用の長物ですよ、しかも標準の操作コンフィグじゃないと使いにくい! つうかそんな純正品外のドマイナーな周辺機器を挙げるな!」 誤魔化すように、というよりかは、完全に誤魔化す調子でそう言い切った。 沈黙――不穏なまでの穏やかさでつまびらかにされるのは、身じろぎをすれば肘がぶつかってしまう距離感だ。浅い鼻息と瞬きがたしかな存在感になる。においたつ石鹸に似たかおりが存在感に目鼻立ちをつける。ぼくの好きそうな気配。匂い。計算されたなにかが、当たり前のように取り入ろうとしていた。 どうしていいやら思考がこんがらがる。一番いい答えを頼む。がっちり閉じたジャムの瓶を開けるときように、爪先を力ませる――上履きの底が床に擦れて、キュッと鳴った。 ぼくはポッケのなかで拳を握り、 「妥協しましょう」 舌の根でもつれようとする言葉をどうにか吐く。 人間なりの譲歩をかなり煮詰めた提案を、頭のなかでまとめあげる。 と、わずかに前のめって上目遣いに見る莫辺さんは、「うん?」と疑問符で喉を鳴らす――この仕草で頬から額までが熱くなっていく。居心地悪く身をすくめながらも、 「強攻策で段階を飛ばすんじゃなくて……その、なんていうかな。すごい月並みな言い回しにすると、友達から始めましょうっていうか。一番手近なところから」 一番手近で、ぼくが安全圏にいれるところからだ。 友達。抑揚を真似て、莫辺さんが口ずさむ。その表現にうといかのように。 「私のことを信じてくれる?」 ぼくは首を横に振った。赤い瞳が憂いで少し細められた。 「信じるもなにもない。初めて顔を見てからまだ二十四時間と経ってないんですから」 「うん、まだそんなにお話もしてないもんね」 「いや授業中の質問攻めでだいぶトークはしたと思うんですけど」 「それでもたかだか五千文字だよ?」 「初対面にしては相当なもんだと思いますけどね!」 「まだまだ足りないよ。まだまだずっと足りない。これからもっともっとお話をしていこう。私とお友達からはじめて、もっといっぱい。よろしくね」 勢いよく立ち上がる。目の前に立ちはだかる莫辺さんの顔に浮かぶのは、にっこりとした笑み――複雑な気持ちが混ざることのない、まっさらな笑みだった。 「これがセイコウね。サクセスね」 「違うニュアンスが混じってるような気がしてやだな。とまれ、まあ、そのよろしくです」 手を差し出すと、莫辺さんは両手で包む。 温かな指先。はっと我に返る――見返した赤い虹彩に映る歯車が、回っていた。気付かず悪いことをしてしまったような薄い背徳感が肋骨の裏側で糸を引いてうごめく。 が、それはすぐさま断ち切られた。 窓ガラスが外から割られて、床に注ぎ、さらに細かい破片となっていく。 おおよそ超現実的なものごと――ぼくの読心術も莫辺さんの存在も――を、完全に通り越す物理的な一撃だった。大打撃に肝を抜かれ、すっかり意気消沈したぼくは、椅子から転げ落ちて掃除不足の床に尻餅を突く。それでもどうにか、教室の後ろの方から電光石火の突入を図った赤い影が奥のほうの戸にぶつかり、猫の悲鳴みたいに叫ぶのを見とることはできた。机の脚による鉄の林の隙間――赤い影がうごめき、姿がちらつく。 当高校の制服である白いセーラーと、それを包む赤マント。甲冑の刺々しさを切り出して固めたみたいな篭手をはめる右手には、一直線に伸びた刀身に、こまごまと字が刻まれた長剣。頭を隠すのは血に染めたような赤い頭巾。 まったくどうにかしている格好だった。 頭をすっぽりと覆う頭巾の裾から出ているのは、きっちり編まれた二本の三つ編み――ぼくは自分をだいぶニブチンと信じてるが、それでも扮装の奥は見破れる。 「まさかのときのスペイン宗教裁判アットジャパンッ」 赤マントがビシリと莫辺さんを指差す。 異様なテンションで声は裏返ってる――声音、抑揚が正体を決定づけた。 「なにしてんスか委員長。つうか腕から血が」 ぼくが指さした袖は赤く濡れていた。 「ノン、アタイは通りすがりの異端審問官につき心配はご無用ッ。血がウェット・アンド・メッシーでも問題ないのさ子猫ちゃんッ。さぁてさてさて我が武器は驚愕、恐怖、その他いろいろ、そんなアタイの前に現れたからには年貢の納め時ですよバックベアード。潔く地獄に堕ちなさいッ。そっちのアドゥレッセンスボーイも同じ所に堕とすからご安心をォッ」 「トートツ!? 全然安心できねぇっての」 「すぐに絶交宣言すれば法王庁条約第二十五条三項に基づいて保護も辞さない構えですッ。ほらこの回勅にも現教皇猊下の氏名もちゃんとあるんだからッ。べッ、別に心配だからチラつかせてるんじゃないんだからね!?」 ツンデりながらマントの裡から取り出すのは、見知らぬ文法で記された文書――内容は計り知れない。けど、古びた紙面にはいかにもな説得力があった。 相手が法王庁と称する辺り、さっき聞いたヒストリーの延長戦なのか。 というかなぜ委員長が。 「ちぇっ、せっかく友達になれたばっかりなのに」 拗ねたように腹の前で指を組んだ莫辺さんが、椅子の足を爪先で軽く蹴った。なんとまあ呑気なもんだ――年季の入った処女は一味違う。 「こううまく接敵できるとはァ……預言に従い待っていた甲斐があったというものッ」 ぼくは新しいガムを口に含み、 「やめましょうよーそういうのー」 「シャラップ・ザ・ネイティブ・バッボーイ、即判即決の処刑法廷においてはアタイが六法全書にして聖書にござる。異議は許さぬッ」 「いや剣をぶん回すのはまずいでしょ。委員長がそんなことしていいのか」 殺意満点で長剣を肩に担いだ委員長が、大きく震えた。 「勅使河原くんの馬鹿ッ、この期に及んで馬鹿ッ」 何故にそんな力強く罵られにゃならんのだ! 顔をしかめるぼくに長剣をぶんぶんと振って、 「もう遅いもん、ほんのひとりでもあれこれ関係を結んじゃうと駄目なんだよ。殺さないと大変なことになるんだよ。エゼキエル書四九章二節に預言として秘めてあったんだからッ、世界を滅ぼしちゃうかもしれないからッ、それを止めるために私は選ばれたんだからッ」 「なんだその陰謀論みたいなの、シュワちゃんもびっくりだ!」 「細かい話はあとでェッ。汝ら罪なしィ、勝利の栄光を神にィッ」 いまは聞く耳持たずってことか。頭巾が歪み、口を曲げたのがわかる。 前傾姿勢となり、歯の隙間から息を漏らすのが聞こえた。ああ、こいつはやばい――莫辺さんへの恐れとは違う、物理的な恐怖がぼくの前進を鷲づかみにした。母に指を断たれたたときと同じ、本物の恐ろしさだった。 「直太くんはさがっていて。私が守ってアゲル。大長編のジャイアンみたいにね」 と言い、ぼくの胸を軽く押した。 胸が悪くなる笑みが浮かぶ横顔とすれ違う。大長編ドラえもんのジャイアンと言うより、のび太くんを激しくボコるときの、それだった――目の中には、無数の文字が浮かんでた。 破。 びっしりと、破の文字が浮かんでた。 「殺しちゃだめですからね、同級生なんだから。絶対に駄目だ」 莫辺さんは頭の横で人差し指を立て、左右に振った。都合よくいかない、わかっているとも――どちらを指しているのか意図が掴めなかった。そして、低い囁きが耳朶を打った。致命的に重々しいことばは音の波に淀みを乗せ、詠唱として成り立っていく。細かい文節に秘められた、長い時代を経たおぞましさが訴えかける。 ぼくのうなじの毛が逆立つ。ちょうど、宮崎駿のアニメ映画めいた大袈裟さで。 床が沈むほどの勢いで、相対する委員長が第一歩を踏む。 シィィ、と夕闇を切り裂く吐息。 委員長の細い体が数メートルの距離を断ち切った。ストゼロのガイが使う縮地が脳裏に浮かぶ――それに似て、鋭く、予断を許さない。低い跳躍とともに朱のマントがはためきスカートもはためいて純白のショーツが明らかになるけど、ぼくにはそいつがお得なものとは思えなかった。Vゾーンから一本の毛がはみ出てて性的ファンタジーを砕くほど生っぽかったし、最良のフォームで迫り来る斬戟の予備動作は、驚くほどの殺意に満ちて、色気の介在を許していない。滑稽なまでに大仰で、澄まされた殺傷スタイルだった。殺すために澄み切って、怯えろおののけと言い募る。 互いの距離がゼロへと至る寸前。 長剣が振り下ろされる寸前。 莫辺さんのそばだけ、空間にヒビが走っているように見えた。 ただ髪が宙に広がって、枝毛がはためいているだけなのに――版図を広げる毛髪が太い闇の帯になって目隠しした刹那、弾けるハレーション。机も椅子も黒板も水道も窓も何もかもが白濁して、塗り潰され、白に溶け尽くす。 ぼくは、また尻餅をついてたし、ガムも飲みこんでしまってた。頭を振って、目のなかを泳ぐ光の粒を払う。なにがなんだかわからないまま、金属の塊が床を滑る――篭手だ。 視野の奥で、残照が生む影にまぎれた莫辺さんがうごめいていた。影そのもの。逢魔が時に液状化した姿が起き上がって形をなし、指先は三つ編みを掴んで、委員長を引きずった。 「ちょっと待っててね。それと、篭手は預かっていてほしいのだわ」 「なんですこれ」 「わかりやすく言うと、イーンチョーさんの言動を握ってたモノ、かな」 全然わかりやすくなかった。 そう言い返そうとしたけど、喉が引きつった。莫辺さんは、軽々と、委員長の首を、がしりと掴む。そして、造作もなく窓から放り捨てた。 ポイと。ゴミを捨てるように。 外からは遠慮がちで他人ごとっぽいドサリって音と、女の子の悲鳴が聞こえてきた。誰も巻き添えを食ってなければいいな、なんて漠然と思う。 「ひっでぇ」 ぼくは言い、想像していたよりも重い篭手を胸に抱え上げた。 「ダイジョーブ。あれなら十メートルやそこらじゃ死なないよ」 「そんな馬鹿な」 言いつつも、なんとなくそんな予感はしていた。委員長のことだから。それに、拾い上げた篭手の重厚さが予感を後押ししていた。 ぼくたちは理科室を出て、教室に寄った――篭手をバッグに入れるため、教科書類を机に突っ込んでおきたかったのだ。大騒ぎしている教員や、部活動を遮られた上級生、下級生を無視して昇降口に下りる。騒がしいもんだ。まあ当たり前か、変態じみた格好の委員長が宙から降ってきたんだから。 渡り廊下をうちの担任教師が慌てて走ってく。 ぼくは肩をすくめ、マフラーを首に巻いた。 それまで気づかなかったけど、莫辺さんはローファーのままだった。自由だな、なんて思いつつ上履きを下駄箱に叩き込んだ。遠雷みたいな物騒がしさへ意識を注ぐように、首を傾げる莫辺さん――体が一度、ぶるりと震えた。冬物のセーラー服を着てはいても、上にゃカーディガンの一枚も羽織ってないんだから、そりゃ寒いだろう。 「寒いね」 「師走ですからね」 「死が走ると書いて死走だものね。死の寒々しさが乗っかっているわ。冬の日やあの世この世と馬車をかりって言うもの」 「わざわざ忌みことばみたいな字面に変えないでくださいよ。マフラー、使います?」 微妙に間違った一句をきちんと訂正する気にもならなかった。ぼくはマフラーを差し出して、コートの襟を閉める。こっちはちょっとぐらい寒くても支障はない格好だ。受け取った莫辺さんは布地に頬をうずめて、黒髪ごと首許を覆い隠した。 「直太くんのマフラー、あったかいね。なんだかこういうのって恋人同士みたい」 「やっぱり返してください」 「やーよ」 ぼくが言って手を伸ばすと、莫辺さんはひょいと避けて、意地悪く笑った。 「やっ。人に意地悪をするのが妖怪の本分だもの」 「どう立ち回っても結局は妖怪か」 消え入るようなつぶやきをこぼす――まあ、あんまり忌々しい感じはしないけれど。 莫辺さんはお構いなしに、足を早めた。 「そういえば、昨日焼き鳥を落としたよね」 「鳥皮とつくねとねぎま」 「あれはとても美味しかったよ。あのさ、驚かせちゃったお詫びにね、おなじものをご馳走してアゲルのだわ」 「意地悪するって前言を早速すっ飛ばしちゃうのも妖怪独特のアレなのか」 「人間とおんなじで気まぐれなのだわ!」 鼻歌交じりに軽い足取りで校門を出て行く後姿を、駆け足で追いかける。 なんともいえない怪異のたぐいと出遭ってしまったもんだ。悪い化物と遭遇してしまった、そう悪い妖物でもないのかもしれない――二種類の考えがもたもたと入り混じりながら、それでも目先の欲に脳みそが動いていた。 細かいことは話しながらどうこうすればいい。 相手は存外にことばが通じるんだから――割り切れる程度には御しやすいらしい。 「ねえ知ってる、この国の伝説によると男女ワンセットで焼肉店に行くと大変ねんごろになって夜も捗るらしいのだわ」 「まあ、有名な都市伝説ですね。焼き肉に同伴できるほど気楽な仲ってことなんでしょうが」 「私と一緒に焼き肉しませんか」 「いえいえあなたと一緒はいやじゃ」 ぼくは言いざま、首を横にぶんぶんと振る。 「焼き鳥はいいのに焼き肉はだめなのね……直太くんとならメラノイジン的に肉肉棒棒肉棒棒に猛る一夜を過ごせると思ったのだけど。残念ね……。おっぱいもお尻も一晩中もませてあげるよ?」 「そっちから一方通行のエロはお断りだってんですよ。つうか友達云々からまたそっちに飛躍させないでくださいよ」 「こういうことを言えるくらいには仲良くなれて嬉しいな。ピロートークフレンド?」 「字面が最悪だ」 前途の雲行きが怪しくなっていく。さっきまでの油断と許容が、試験紙に浸けたみたいにさらりと許しがたいものに変わる精神的化学反応。ぼくはちょっとうなだれる。莫辺さんはマフラーで口許を隠して、静かに笑う。 まあ、どうにかなるさ――体の一部をもがれてどうにかなったんだ、妖怪と出遭ったところでそう大きくは変わらない。この季節も過ぎ去るように、怪異もまた過ぎ去るかも知れない。テキトーにやり過ごすのもまた手だ。それもだいぶお手軽な。 ぼくは左手の小指をさすると、両手をぽっけに突っ込み、莫辺さんの隣に並んだ。 |
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