後書き。あと言い訳。
DEAD WITHIN:IN WITH DEAD:PostScript
 適当に二次創作の案として企画してから一年ちょい。再構成してどうにか完成してみれば案外どうとない話であり、地味な短編になったように思えます。
 元の案ではヒャッコのキャラクターをPMSCs魔改造しよう、というのが目論みだったのですが、見事に手元が狂った挙句にご破算。その後考えあぐねてネタを練り直し、ここに至る次第です。キム・ニューマンの短編小説「モスクワのモルグにおける死せるアメリクァ人」を中心として、陰謀論やゲームのネタを細々と仕込む予定ではあったのですが、素人の性ゆえかしら――簡単にポッキリと中折れしてしまいました。ひとえに、ボクが他人様のキャラを動かすだけの無責任さが足りなかったともいえましょう。もしかしたら、その無責任さがあって二次創作への熱情が長続きしていれば上下山虎子&風茉莉冬馬のバディによる、アクションものが完成していたかも知れません。最後が空爆で終わるド派手な奴が。
 要するに原作への愛情が不足していたのが駄目だったんでしょうね(現にこのテキストを書いてる時点でヒャッコ6巻を完全に積んでいるじゃないですか!)。
 とまあ言い訳から始まってしまってなんですが、「DEAD WITH IN:IN WITH DEAD」はお楽しみ頂けましたでしょうか。ボクとしては世界単位でゾンビという状況を終了に導くための物語を、ある種の冒険小説に近いやり方で組み立てたつもりです。
 状況を終わらせる――これはここ数年考え続けている、ゾンビが「化け物」である以上に世界を固定する「大状況」である、という考えに基づいてのことです。
 劇中でマドセンが語ったように、奴らは多くの場合、無感情な怪物であり(バタリアンやデイ/ランド・オブ・ザ・デッドなど大々的例外もあれ)、それゆえに個性を持ったキャラクターとして確立させづらい部分があります。拡大して人々を飲み込む虚無、わらわらと歩み人肉を求めるその他大勢(モブ)。たとえばジョージ.A.ロメロはゾンビ/DAWN OF THE DEADで資本主義に溺れる衆人のメタファーとして扱っていて、ゴアシーン以外では、奴らの群れに抗う人々の、実に陰気なドラマを描いていたように。あるいはロメロ自身は劇中で、様々な人種がゾンビへと変化した姿を描いていたりもしますが、それも味付けていど。生前の物語を、うっすらと匂わせるに過ぎない。フラットに均された、化け物となった誰かには代わりがないのです。
 奴らはひとりひとりが個性を発揮できるようには設計されてはいない。そういう使いづらさに関して色々と考えながら構成してきたのが、このお話です。
 結果として残虐描写はそれほどなく、大状況も解決できないのは人類としては不本意(笑)ですが、終末SFとしてのどうしようもなさは楽しく書けたように思えます。人が人のなしたことで滅ぶ、自業自得インガオホーな状況は大好物! 同時に、心内で密かにこじつけた911以降のあれこれ(シーン単位では露骨な映画パロであるガントリープラザ周辺とか)も、少しは影を落とせたんじゃないかなー、とか考えたり。
 まあ他にも言いたいことは色々あるのですが、このへんで。そんな事を考えて書きました、というおはなしでございました。
 ボクの考えはさておき、あなたがほんの少しでも楽しんでいただけた幸いです。

 ぼんやりしているボクに返信で啓示をくれたTwitterのフォロワーさん、いまいち曖昧だった主人公の外見を固定してくれた友人の吉良くんに心からの感謝を。


 二月某日。窓の外で喚く鳥の声を聞きながら。

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