嘘んこミリタリ風ゾンビ小説。
DEAD WITHIN:IN WITH DEAD 後編
 隙だらけの二人が行き着いたのは、中心街から離れた六階建てアパートメントだった。軍事拠点のように外部からの攻撃を避け、カモフラージュする必要のない瀟洒な建築物。白骨死体のような白い壁が夜に浮いていた。この手の施設で重要なのはふたつ。いざとなればヘリで飛び立てる広い屋上と、あるていどの視野を確保できるカメラだけだ。腰をすえるのは市当局との折衝となる営業担当や、無人兵器の管理担当者あたりだろう。街角に座りこんで追跡対象を玄関に見送るあいだにも、拾った段ボール箱は体は包み隠し路上に溶けこませていた。立てば下っぱから覗く脚でジョークとしか思わせない風体ながら、この手の潜伏手段というのは存外に効果を奏するものだ。箱があっても不自然でない場を選ぶ。相手の視線が交わる前に立ち止まる。空間のパターンに身を溶かすコツさえ心得れば、扮装は相応の意味をなすことを、ヘルガは遠きアフリカで学んでいた。
 ヘルガは段ボール箱をかぶったまま、大急ぎでアパートメントの側面に回りこむ。途中、門柱や庇に付け焼刃の監視カメラが首を振る一角もあったが、わずかな隙の小径を編んで、するりと通り抜けた。工程としては完璧だ。物陰で周辺に意識を巡らせても察知された気配はない。箱を脱ぐと丁寧に畳んで壁に立てる――世話になった道具は丁寧に接するべきなのだ。卵状に描画された猫、丸いフォント、ポップルスとの日本語が記された箱をひと撫ですると、指先を頭ひとつ分上にある窓に伸ばした。鍵と動体センサの有無を慎重に調べたが、見事な無防備さだ。窓枠を滑らせ、ゆっくり開ききると、階段の踊場へ滑りこんだ。蛇さながらの速やかさ。世界最古のスパイもまた、アダムとイブに忍び寄ってそそのかした蛇なのだから、工作員に近しい仕草が相似してもおかしくはない。
 階上(うえ)から、先の請 負 人(コントラクタ)たちの会話が筒抜けだった。人跡未踏の洞窟と思えるほどの、不自然なまでの静けさが、二人分の声で透明度を深めていた。一歩踏み出せばそれだけで足音がすみずみまで響きかねない。
 人の手が触れない物体は急速に古びていく。その規則性を表現する廊下には、わびしい匂いが薄く漂っていた。ヘルガは階段をあがりながら、壁にびっしりと貼られた紙片の数々を眺めた。字で黒々とした無数のメモ用紙はもはや鱗であり、剥げた部分からは、壁に油性ペンで引かれた図形が見え隠れしていた。床には何挺ものカラシニコフが投げ出されて、タイル張りの床を落下衝撃で砕いていた。四階の踊り場をまがると、男たちの会話がよりはっきりとした。身をかがめて階段を一段一段とあがり、ぎりぎりまで近づいていく。
「今日で五日目ですよ」
 と、太い声が吐き捨て、
「イームス本隊と交信が取れなくなってからもう五日が経つんです、もう完全にどうにもならない。外と連絡をとっていい頃合いではないかと」
 ヘルガは眉をひそめた。
 アスタナに駐留していたPMSCs部隊が姿を消してから、それだけの時間が経過している。街の十数キロ手前で見た、逃げゆく装甲車が脳裏にちらついた。
「さっきの見回りでもやっぱり生きた面は見かけなかった。ただ境界に沿ってゾンビがうろうろしているだけ。地下鉄だって動かない列車が寝転がってるだけです」
「まあ、君が僕の身の安全を徹頭徹尾、保証してくれるなら逃げ出しても構わないけど。それは無理でしょう……」
 ヘルガは覗き、奥の部屋に声の主を見た。白衣のポケットに掌を入れて肩をすぼめる、一見して十代後半の青年――そばかすの浮く頬を神経質に震わせてから、フリスクを一、二粒と口に含んだ。これはまたずいぶんと若い子がいたもんだ。ヘルガは思いながら、ナイフとひとそろいに引き抜いたP30の銃爪に指を添え、動き出す。
「仕事なんだよ。わかるかサーシャ。大人しくしてるにこしたこたない。この街から出るったって、契約を反故にしたのがバレたら散々な目にあうぜ」
 と笑って言うのは、二人組の片割れだ。眠たげに語尾を濁らせながら、バラクラヴァ帽以外の装備を外しては床に積み上げるとベッドに寝転がった。
「仕事仕事仕事。これだから現代っ子は。そら人が片っぱしから消えたって仕事だ仕事だって言ってられるわな、お前さんがた……。良いことを教えてやるよ。昔々の大戦争で我が祖先であるところのユダヤ人をブッ殺しまくったナチスドイツの武装親衛隊(シュッツスタッフェル)もな、好き好んで人体実験や皆殺し政策をやらかした人間だけじゃないんだよ。仕事だからしかたないって、山ほどの我が祖先をガス室送りにしてきたんだよ。老若男女がいっぺんに悲しい目をむけてきたって関係ない。政府というシステムが推進していた絶滅政策に尻をなでなでされてるのってのを大きな道理にし、殺しという大仕事を単なる作業として、無関心を気取って、進められるようにしてた。ミルグラムの御本を読めば細かい話が全部書いてあるぜ」
「ブコウスキ、インテリっぽいことをいうのはいいけど、そいつはもう四回五回くらい聞いてるような気がします。話題、他にない……」
 と、白衣の青年が退屈そうに言った。
「ほらほらほら、そういう無関心もいけなかったんだ。嘆かわしいね。ゾンビが蘇ったときは心配したけど、まだ対処が追い付いてたから気にしなかった。次に科学者がゾンビ研究を初めて不安になったけど、別にそいつが世界平和のためなら気にしやしない。今度はどうだい、人間が消えちまった。そいでもおれは黙ってた。そしたら今度は博士が逃げちゃ駄目と仰る。こうなったらもう行動に移そうが遅いってなもんだな」
「コピー・アンド・ペースト。ニーメラー牧師だっけね」
 歴史のまめ知識(トリビア)を繰り広げながらの馬鹿馬鹿しい問答に、ヘルガはわずかながら安堵すら抱いていた。いつの間にか、薄笑いすら浮かんだ。
 ヘルガは壁にぴったりと張りついて、ドアに寄りかかった大男から二フィートの間合いから素早く動き出した。織りなす芸当が完結するまでは時間にしておよそ二秒。背中に密着すると、左手の指を絡めた刃を首筋に当て、あらがえば容赦なく頸動脈に無残な切り口を引ける姿勢へと引き入れた。もう片方の手で構えた拳銃は、口許をもごつかせて明白な困惑を示すバラクラヴァの眉間に直線を結ぶ。
 筋肉を俊敏に暴れなたら、一秒以内で二人同時に無力化してしまえる。天性の勘と業の順応がなせる鋭さだった。軍時代に教官が伝えた獰猛さが、呼気を固形化させたように誰もにことばをつまらせていた。放り出してある装備に、眼差しがちらと揺れていた。身じろぎも許されない大男の背筋がうごめくが、抵抗は許さない。しなやかな蛇が絡み、骨を一斉に締め上げるも同然だ。刃で冷静に膚を押し、血の滴を浮かばせた。
 はじめまして、お三人さん、とヘルガは告げた。にこりと微笑み、
「一応、お仕事できただけだから、あなたがたを殺したくはない」
 と首越しに言い、
「これから手を放そうと思うんだけど、大人しくしてくれるかしら」
「そちらが銃口をどかしてくれるならね」
 と功 夫(クン・フー)そっくりに身構えた白衣姿が男を指差し、
「まずは銃とナイフを下ろしてください。ふたりとも、生きてお国に帰りたいなら変な抵抗をしないほうがいい。こういう場合、映画だと、われわれの側は皆殺しだ」
 ヘルガは首を傾げ、もういいかと問う。
 青年は無言で二度、頷いた。
 艶めかしく鼻を鳴らして解放した――とたん、ヘルガは呆れ面をしいられた。分厚い掌が肩の鞘に収まったナイフにかかり、大振りな炭素鋼の刃を抜いたのだから。振りむきざま、定石通りの弧がきた。ヘルガは素早く叩き落とす。筋肉の動きを流れに任せたまま、顎へ掌底打を打てば、衝撃が肩に伝わって適切な勢いだとわかった。脳震盪は確実だ。
 倒れた男に照準をすえて一度、躊躇いなしに発砲した。減 音 器(サプレッサ)越しの銃声に付き従う硝煙臭さ。後に尾を引いて残るのは、いたたまれない沈黙だけだ。
「忠告ってのは聞くに越したことはないわ。次は容赦しないから、覚悟して」
 と、ヘルガは氷の微笑を浮かべた。目を剥いて大男が両手で包んだ金的から数センチのところに、九ミリ口径が深い弾痕がこじ開けていた。十全の威嚇だ。
 ヘルガはちらと注意を転じ、
「わたしはヘルガ・クロエネン。UNウォッチメンプロジェクトから派遣されてきた査察官です。ここらでひとつ、歓迎していただけるかしら」

 シド・マドセンと名乗る若い科学者から椅子を勧められて腰を下ろしてすぐ、ヘルガは自己紹介と、要点を省いた来訪目的を早口に告げた。職業上の身分証明となる手帳を示すと、大男が咽喉の傷をさすって唸り、申し訳なさそうに顔を歪ませた。
「それでまあ、この土地で動いてるPMSCsの査察に来たんだけど、他の請 負 人(コントラクタ)を見かけなかった。まったくどうなってるやら教えてもらいたいの」
 とヘルガは尋ねた。
「どこから言えばいいものか。ここ一週間ほど面倒事が立てこんでて。端的に言えば実験の結果で、ここが駄目になってしまったというか。話すことに問題はないんですが、その前に保護対象としての指定をお願いしても……。ひとつ話すとなると全部、かたっぱしからフタを開けなきゃならなくて。すると会社の内規に触れちゃうので、ね」
 マドセンは眉根を上げて笑った。機密を記憶野にびっしりメモした人間にありがちな、真意をはかる眼差しだった。瞳の動きは、この空間に散らばった生存率の切れ端を集めて秤にかけていた。頭に筋肉が詰まっていそうな二人も、同じ扱いなら文句はないらしい。
 ヘルガはバラクラヴァ姿から煙草を拝借し、
「こちらもその準備はととのえて、いまも通信で会話を録音しているしね。そうときたら仕事の話、しましょうか。ナシ・モロトカ・クロリカはこの街ではなにをしてたの」
 前のめりで訊くと、マドセンは眉間をぎゅっと寄せて唇を一文字に結んだ。それから気まずい沈黙を十秒ほど漂わせ、考えを決めたようだ。
「そもそもの起こりは、ゾンビの研究です。ああ、長くなるのでできれば遮らないでください。ゾンビをどうすれば簡単に、安全に、そして低コストで処理できるかとの問題えお研究してたんです。それとともに、一度は細胞間のつながりが失われていながら、それでも生きているぼくたちを模倣するようにこの世界を歩く、ゾンビという存在そのものの研究もしていた。ぼくの場合、ゾンビがなす集団単位(マス)の脅威スケールが研究対象でした」
集団単位(マス)……」
 と、鸚鵡返しにするヘルガの瞳をじっと見て、マドセンは深く頷いた。
「例えばの話、それっていうのはフィクション上のゾンビっていう意匠のベースになった吸血鬼と、ゾンビの違いを考えるようなものです。クロエネンさんは、その二種を隔てる要素の違いはなんだと思います。片っぽは架空の怪物だから現実感がないかもしれませんけど、どんな些細なことでも構いません、挙げてみてください」
 ヘルガは話に耳を傾けつつ、煙草が燃えつきたことに気づく。大男が差し出すマルボロの箱からさらに一本、拝借した。軍を退いて数年、自然と離れていた習慣だが、また手をつけるのにためらいはない。烟を呑み、咽喉のざらつきを懐かしみながら考えた。
「吸血鬼は能動的に喰らいつく相手を探して、ゾンビどもは存在を感じとった相手だけを追いかけるだけで、能動的ってところかしら。後者は突っつかなければ無視してくれる」
「惜しいところだ。ヒントは、呼び方の違いにあるんですよ」
 ヘルガは弓なりになった煙草の灰を汚れた灰皿に落とし、
「吸血鬼とかゾンビどもとか、そういう呼び方……」
「そう、まさにその言い方。『ども』。単数形か、複数形か。数少ない偉大な化物か、世界を脅かす集団単位(マス)の災害現象か、という脅威スケールの違いです。これは映画の話になりますが、まだゾンビがフィルムの中の絵空事だった時代、ぼくたちが身をもって恐ろしさを体感しているような現象は、吸血鬼から派生して生まれたんです。それ以前のゾンビというのは、ヴードゥ教の舞台装置だった」
「ヴードゥ――カトリックとアニミズムが混じった奴ね」
「そこで使われる、永久に魂を囚われた奴隷という、労働システムとしてのゾンビ。この醜い方法論の基盤となるのはコンゴで信仰されていた神的概念たるンザンビで、のちに、中米などへ売却されたコンゴに出自をもつ黒人奴隷たちによって、神から怪物へと認識が変わり、西アフリカを発祥とした毒薬の存在と混じる。それによってヴードゥの呪術師(ボコール)による社会的制裁の方法へと固着した」
「今の概念とは結びつかないわね」
「そこで出てくるのが生 け る 屍 の 夜(ナイト・オブ・ザ・リビングデッド)って映画です」
 穏やかな、はるか遠い前世紀のモノクロ映画。失われた時代のメディアでありながら、名を聞けば多くの人が、窓に打ちつけた板切れを破ろうとして腕を突き入れるゾンビたちの脅威と執拗さを思い浮かべるだろう、古典ホラー映画だった。
 窓と死者の腕。このモノクロームの一枚絵というのは、PMSCsの民間防衛PR誌などで散々、引用されつくしたものだ。物語単位の意味を失ったワンカットだった。ポスト災厄になってゾンビ映画を見るような物好きはそうおらず、世界に横溢した屍と人間の戦いが物語に代入されたたことで、意味が消失するのに時間はかからなかった。いまとなっては誰もがよく知り、誰もが体験をしいられた瞬間を表す断片でしかない。
 ヘルガは相槌のかわりに右の眉を吊ってみせ、先を促した。
「あの映画に出てくるゾンビは、監督のジョージ・A・ロメロが、地球最後の男っていう終末SFの映画版から着想を得たものなんです。つまり、その映画を元ネタとして構造を大きく変えたんです。死体が甦り、自律性をもって人の肉を貪り、噛みつくことで死を伝染させて同族を増殖させるゾンビにね。甦って歩きまわる屍に、地球最後の男に出てくる吸血鬼のイマジネーションを重ね合わせた怪物です。これによってゾンビは操作される怪物から、集団単位(マス)の現象、災害という状況そのものに変わった」
 マドセンはここからが本番とばかりに掌を打ち合わせ、
「ぼくはゾンビが持つそういった集団性、人間を捕食する目的、そうせざるを得ない飢餓という物語を、一定の個体数で集まった群れでシェアしていると考えて研究してきたんです。ほら例えば、イワシの群れがかたまりになるようにね。ゾンビたちが行動背景としている物語はどういったものなんだろう、と」
「それがナシ・モロトカ・クロリカのお眼鏡にかなった、と」
「どうだか。いや、ええ、気に入られたからこんな仕事を押しつけられたんでしょうね。まあもっとも、ぼく自身の仕事はそんなになくて、実際は自殺した前任者が作った機器類を運用する、顧問として呼ばれたようなものです。こうなったからには、自殺したくなる気持ちもわからなくはない代物だ。会社側の規定で誘導体って呼んでる装置なんですが、そいつの機能は、有り体に言えば再設定の一点にあって、さっき言ったゾンビの行動背景に影響を与えるんですよ。どういえばいいか――電磁波を使った、ある種の送信アンテナだ。誘導体に内蔵してある、象徴(イコン)となる「原体」を中枢として、食欲に代わって思考体系を塗りかえられる擬似目的意識(シャムビジョン)を機械的に引き伸ばし、発信する。するとゾンビどもの各個体が有する人体電場に届く。そしてこう思うんです、これが自分で望んでいることなんだ、とね」
 マドセンはこめかみを指先で叩き、
「ここにイマージュを植えつけ、むりやりに行動指向性を変化させる。集団単位(マス)でセッティングする、いわば洗脳装置のようなものです。これらの基礎技術は冷戦期にKGBが研究していた超能力がベースでしてね。知ってるでしょう、昔まだロシア連邦がソビエト連邦だった頃、KGBが超能力を西側へのスパイ活動に利用しようって企んでたのは」
「スターゲート計画のソビエト版。てっきり都市伝説だと思ってたわ」
 と、子どもっぽさに調子を狂わされて肩をすくめるヘルガ――国連がアメリカ全土を爆撃できる黒ヘリを持ってるってのと同じぐらいのね、と言い足した。
「ぼくも細かいことを知るまではそうだった。でもね、人体電場を通じて影響を与える実験の数値なんかは、だいぶ世話になったんですよ。実動時のパラメーター制御のためにね。当然、運用するからには生きた人間に影響を与えない範囲に落としこんじゃいましたよ。身奇麗なモーションでもって採用するには、ざっと見て罪のなさそうな機械でなければなりませんから。効果は、さっきいったイワシの群れに言い換えれば、よくわかると思います」
「群れの行く先を、ひとつの方向に決定づけることで漏れなくどでかい網に追いこむ。そういうことね……」
 うんざりと瞼を落とすヘルガに、マドセンが力強く頷いた。
 想像力の破片が糸に引かれるようにまとまりを見せ、ヘルガの脳内には市街に開いた大穴にゾンビを叩きこんでガソリンで焼き払うミニチュアができあがった。意のままに動かされる死者の間抜けさときたら、システムにぴったりの醜悪さだ。
「そう。誘導して一箇所に集めて、銃なり火炎放射なりで袋叩きにするんですよ。そうすれば現場の請 負 人(コントラクタ)と、限られた兵站、その両方に損失を出さず、さくさくと、それはもう東洋の火葬みたいに始末できる。そんな具合だ。殺傷効率を上げられるはずだったんです。殺傷効率なんて言い回しをするといかにも脱臭されて味気ないですが、まあ殺す方法の簡略化と節約だ」
 と、マドセンは言う。下唇を舐めて気づいた毛羽立ちにリップクリームを塗る間に、テニスのラリーでも眺めるようにしてことばの主を追い顔を振っていたバラクラヴァが、咳をこらえるように唸り、
「ああんと、あれだ。営業担当に言わせりゃあ救済の技法ってところだ」
 救済の技法。冗談のようなことば選びで苦い味が舌にしがみつくが、マドセンがその通りとばかりに指さし肯定したので笑えもしない。代わりに曖昧な相槌を打って、それぞれの単語が導いてくれる想像力に心を委ねた。
 汎用性がある死の具現であるゾンビが消え去る。
 大昔の静かさを取り戻した街。
 ブリーフィングで告げられた生ける屍の大量消失が意味を含み、ヘルガの前にひとつのプログラムとして全容を現そうとしていた。意志なきままあてどなく流れる死の列。制動が本来あるべき景色がとり戻すはずなのに、どうにも決まり悪く、屍を操る技術には受け入れがたい違和感がつきまとっていた。
 深く行きを吸ったヘルガはマドセンを見据え、
「対症療法には過ぎないにしても、お手軽な救済ではあるね。死んだらゾンビになる理由を探すよりかよっぽど建設的。ただグロテスクにすぎる」
「どんだけグロかろうがエグかろうが、効率的に処理できるに越したことはないでしょう。だけどそうは問屋がおろしてはくれなかった。臨 界 量(クリティカルマス)を突破してしまったんです」
 臨 界 量(クリティカルマス)――街に入ってすぐのテントで見た、苛立ちをつのらせた一文が、フラッシュを焚くように再生され、意味がつながった。核分裂によってすべてがだめになっていく、黄昏の色をした死の余波(アフターマス)が浮かんだ。
「誘導できるゾンビの分量なんぞは最初から決まっていたんですよ。設定された量を超えると、誘導体が行動背景と接続していた精神ルートへの、そう、逆流がはじまる。群れを圧倒しようとこっちが設定した目的意識が、集合的無意識に秘められた行動背景に圧倒されて、オーバーフローが起きてしまうんですよ。そうすることによって、情報の決定権が変わり、指定しているのと別の情報が発信されてくる。そうした事実をわかりきらないままに、ここの操作担当は、バルブを全開にしちまった。折角、説明をしてやったのに。他の連中の口車に乗せられちまったようでして、困っちゃうな」
 と、マドセンは恨み節に舌打ちを乗せた。
 運用するための論理をしつこくていねいに説明したことで運用判断を任された街区警戒担当から不評をかい、動作時には保安担当の指示で軟禁されていた。マドセンがうつむきで自分の言い分をこぼす。二人組は、その護衛についていたそうだ。
 ヘルガは椅子に深くかけ直すと、
「じゃあ自爆みたいなもんね」
 窓辺に立つブコウスキは中指で窓を軽く叩き、
「でもって、オーバーフローとやらが起きたとたん、これだ」
 人の声を欠いて急激に綻んでいく街の景色が夜闇に冷えていた。フェンスの先で惑う者たちの声すらも這い寄るような静寂を、偵察観測網の厳かな歌が不吉に染めていく。ヘルガの質問と誘導体に、不条理なイメージを合致させるようにして。
「この街に住んでいた多くの人に、そいつが発せられたってこと……」
 ヘルガは言い、唇の下に指を当てた。
 マドセンは声のトーンを落として腕を組み、
「蘇って仮初めの生を抱くゾンビに効くものは、同時に、いまここで生きている人間にだって効く。範囲にいた連中は横溢した行動背景に押しつぶされて、死ぬまでもなく、ゾンビになっちまった。それで、その、誘導体から引き継がれた情報と混ざって、にごって、もうぐちゃぐちゃにね。そうなった人たちはこの街の土台になっている。この街のアスファルトの下で、基礎の下で、なんというか、ひとつの塊になっている。どこかから地中に消えて、ひとつの集合体(クラスタ)として固まっているんだ」
「ミンチより酷ぇ。それでも少しくらい生存者はいると思ったんだがな、いやしねぇ。完全にどいつもこいつもクルクルパーにするんだ」
 と、バラクラヴァがもごもごと言った。
 ヘルガは意味が掴みきれず、相槌すら思い浮かばないまま口をあんぐりと開け、唸り声をこぼした。声が途切れると浅いため息が喉を伝って、歯と唇の隙間から、ガス室に吹きこまれた毒ガスの冷ややかさを連れて漏れていった。
「夜と霧って、アラン・レネの記録映画があるでしょう……。あれを、ホラー映画にしたようなっていえばわかってもらえるかな。脈絡のある悪夢ですよ。本当の悪夢と違って、道理が通った上で起きるからとても恐ろしいんだ、最後までね」
「最後がどうなるかは、よっぽど狂った人間にしか想像できないわ」
「そんなのイメージしなくたって、目前に転がってますけどね。現時点だって、いまだにビジョンの送信はおこなわれている」
 ヘルガは腕を組み、設置地点がどこかを訊いた。行動プログラムの焦点がさだまる――輝く夜空をバックに立ちすくんでいた、超高層建築物へと。
「もうひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「なんです」
「あなたたち、どうして生き残れたの……」
 どんな抜け道が屍の抱くがらんどうに逆らい正気を保たせたのか。素直な疑念は口にしたそばから、凝集した記号としての、穏やかでない予感を抱かせた。
「簡単な話ですよ。あれはいまあることへの無関心と虚無感に作用する。例えば、慢性的な屍との戦争状態を受け入れた精神状態や、虚無感で倦んで疲労したシビライゼーション。こいつは、つけいる隙に満ちていますからね――くらべて僕らは、考えが状態の克服、どうやればこの終わりがない戦いを打破できるかってのにむいてますから。それに、なによりもですけどね、擬似目的意識(シャムビジョン)モデリングを組んだのは僕ですから。それに抗うだけの認知というコードが、脳に入っているんです」
「じゃあ、壊すには」
「原体をさっくりと殺せばいい」
「殺すって……」
「そのままの意味でとらえていただければ」
「なまものを素材に使ってるわけ……」
「違いますってば。いや、違うわけじゃないんだけど。厳重に脳を焼いたクローニング人体を素体にした健全な機材です。少なくとも、法的には問題のない形での」
 言い切ったマドセンは、その平然とした口調が背徳的なおこないのひとつであるかのように、気まずげな顔を床の木目に落とした。
 冗談でしょ。ヘルガの声に、返答はなかった。
 胃のむかつきを覚えたヘルガに耳打ちするのは、国防軍にいた頃の記憶だ。ほんの数秒の思案のなか、紫煙の香りを残す吸い殻を指でもてあそび、
「行くわ。ことが終わったら迎えに来るから」
 とヘルガは告げ、部屋を出た。
 異変が起きたのは、気まずげな見送りに首をすくめて階段に足をかけたとたんだった。魚眼レンズを通したように視界がたわんだ。
 足場を踏みしめる感覚が不安定で、鼻腔の奥がずきずきとした。地下鉄で味わったあの幻覚の淵に、地表で足先を浸し、覆いをかぶせられない記憶が点滅しだした。かすかな硝煙のイメージ。ばらけて広がる記号の数々は、現在から過去となることで、ある部分を淘汰し、またある部分だけを残し、色が褪せたフィルムみたいだった。
 視界辺縁にぱらぱらと記号がはめこまれていく。足を踏みだす階段の、歩みの不確かさに耐えかねて手をかけた壁面。見下ろした段差。夜に浸る窓ガラス。蛍光灯の黒ずんだ表面。それぞれの平面上から元来の質感が、ゆで卵の薄皮をむくようにゆっくりと、ぼんやりと剥離して、映りこむのは重力と肉体の力学的関係たる形式だ。ぴったりと型にはまった首吊り自殺――首に索条痕を描く縄に大動脈と気管を絞めあげられて、顔は安らかでも苦しそうでもない。過去の再現。苦痛からの自主的で破滅的な解放は、しかし直面したヘルガを屈させた。想起することでいまと昔の仕切りが溶けていくのはヘルガにもわかった。薄暗がりが部下の屍衣となり、もう手をつけられない事実にひるみ、なにより、つい昨日までともに戦っていた人間とことばを交わすこともできない事実にいままた戸惑った。
 と、幻影に屍がびくりと震えた。ああ、とヘルガの息がいまとなく過去となく漏れる。世界中を支配する不条理が動き出していた。神の気まぐれで許されてしまった法則が、肉を求める口蓋にぺちゃぺちゃと湿った音を跳ねさせた。
 口腔から飛び出そうとした舌が唇を押しやり、喉の奥からもつれた声がこぼれ出し、はじまりを告げる。異物(ゾンビ)への変貌。そこらじゅうで乱反射する記憶のなかの、不思議と俯瞰で見るヘルガは、なすべきことをなすべく太腿のホルスターへ手を馳せた。しがみつくようにとるグロック自動拳銃(オートマチック)のポリマー質が、いやに頼りない。
 気づいてやれんで悪かったね。
 耳小骨受信器を通して囁かれた、かつてヘルガの発した声を、いま現在の声帯で一度だけ繰り返した。昔と同じ。無感情に後悔を隠した罪の抑揚。
 首をくくった理由は、死相を見た時点で考えがおよんでいた。度重なる戦闘のストレスに耐えられない。話題や職務上の管理項目として知りながら、実際に起こりうる物事として認識できていなかった。ある程度はわたしが悪いんだ、とヘルガは思い返す。部隊付きのカウンセラーに告げられたのだ。心に大穴をあけてしまうな人間は、きみの隊においても無縁ではないはずだ、見落とさないよう気を払って、と。なのに看過し、もっとも信頼していたと思いこんでいた部下の死に殴りつけられた。兆しはそれまでにいくらでもあったはずだ。凶兆は三度姿を表すというくらいだ。だがヘルガは、欠片を目に留めることもできないどころか、アーロンが精神的負担を追っているとすら知らなかった。親しいつもり。信頼してたつもり。いい上官であったつもり。
 全部なにかをしていたつもりでしかなかった。
 引き返せない。そうなった以上は。
 スライドを後退させて弾薬を薬室に放りこみ、銃爪を引き絞る。ひとつに固まっていてしかるべき仕草が、どれも別々に切り離され、ぎくしゃくとした。瞼が開かれた。アーロン、と名前を呼びかけ、人間性のあるコミュニケーションが二度と叶いやしない、生ける屍に銃口を差し出す。それが唯一無二、九ミリ口径による意思疎通だった。反復される銃声と銃口炎。時間の結び目をほどかれた緩慢な映像から、凝縮された一瞬までの振り幅で、世界が明滅した。脳の深淵に住まうイメージの数々は軍を辞めるにいたった間接的な理由だ。ひとつの過去として、無関心たろうと決めこんできたエピソードの、あからさまな色合いが蘇っていた。増覚パネルの異常は絶え間なく表示系をゆがめる。視神経がきしむほどに。細かく分割された後悔の情景で、正気のまま苦しむべき、ヘルガの意識を呼んでいた。
 そして、その苦しみが「作り物の虚無」へ落ちることを許さない。正気を喪わせず、病巣から痛みだけを溶かしだす。
 怯えや罪悪感と神経をつないだ関心の拡大。アーロンの破片がなければどうなっていたんだろう、とヘルガは思った。苦痛に救われるなんて――救いなる言い回しを選ぶ都合のよさに嫌悪感を抱きながらも、否定しきれなかった。
 厭味ったらしい過去のコラージュはどれも幻覚ではなく、拡張現実として、景色に貼りついていた。見る者の想像に呼応する七色の幻影。つぎはぎでいまにも脳へと忍びこむてんかんじみたぐらつきをこらえながら、ヘルガは段差を踏み外さぬよう駆け降りる。証拠はないが、道理は呑みこみかけていた。作戦最終目標として破壊すべき、マドセンが呼ぶところの誘導体なる存在が影響を及ぼしているのだろう。まだビジョンが送信されている。なによりもこの物言いこそ、正解だと告げるようなものだ。テクノロジーが良識を焼きつくす劫火となり、その悪意を顕著に現す最たる面が、この幻覚と通信仲介機器の悲鳴なのだろう。情報断片はとんでもない数で押し寄せていた。処理に限界をきたし、視界へ当時られる立体モデリングはむごいほど処理落ちしていた。
 片目をとざすような遠近感のひずみに惑いながらも出た駐車場で、見知った顔と視線を結んだ。アーロン。影のデスマスク。その虚ろさが何かを表するでもなく、空からの即興曲にあわせて揺れ、地面へ溶けた。
「死人の面を借りるなんざ、とんだ陰湿な悪い子ちゃんだ。ちくしょうが」
 頬の裏側を奥歯で噛み、苦笑をこしらえた。
 口にじわりと広がる錆のにおいが、陰気さを痛みの酷薄さで笑い飛ばす。
 片隅の駐車スペースでキーを差した装甲車を見つけられたのは僥倖だった。すぐさまエンジンをかけ、放り投げてある煙草の箱を拝借した。酩酊するほど強いニコニンに揺られながらアクセルを踏みつける。増覚パネルからは最短ルートを検出し、路上にラインを引いて導いて、その通りに、大きな図体に反して繊細なステアリングを切った。人気のない街角を曲がり、橋にはられた臨検の設備を遠慮なくひき飛ばしていく。やがて、距離感が切断されたように盛大な異物感を掲げる超高層建築物が、実体として迫ってきた。
 ヘルガはひと際、大きく有害物質を呑み、瞬く間に吸殻になったフィルタを座席に押しつけた。思い出したようにランスに連絡をとろうとしたが、通信回線がつながらない。オフライン表示が出るだけ。誰も出やしない。
 ふいに膨れる怒りに、拳を壁へ叩きつけた。
ク ソ 地 獄 め(ヴィトゥン・ヘルヴェッティ)
 どこまで影響が出ているのかが曖昧で、また自分が心にあいた穴から幻覚を注ぎこまれている気すらしていた。目玉からパネルを剥がしたとき、想像の産物が居座っていたらどうすればいいのか。心臓の裏側にある隠れ家で、弱々しいもうひとりのヘルガが考えつづけていた。過去を思い出すいささかセンチメンタルな行為だ。正気の埒から外れていたら。戦争の後遺症と呼ばれる一連の順列にのっとり、わけのわからない行動を指先や足の動きに忍ばせて作戦規定から外れていたらどうだ。ヘルガは、連想した狂態に歯止めをかけて咳払いをした。狂気がすぐそこまで迫っていると認めてしまえば、狂気に浸っているのと大差がない。いまできるのはひたすらに否定し、振り払っていくことだけだ。
 それができなくなった先に待つのは、カウンセラーという科学式の呪 い 師(シャーマン)が垂れる、おそらくは絶え間ない人格弁護の数々に魂を漬けこまれる日々だけだろう。
 君は大丈夫だ、話さえきちんとしてくれれば。君は現場に復帰できるよ。君が、君が、君が。薄気味悪い優しげな受け答えに嫌な顔をするだけの、想像するだけで苦々しい日々だ。
 それに比べたら、頭蓋骨に内側、思考器官を正常と信じ続ける方がよほどいい。
 頭をすっきりさせるためにも、さっさとブチ壊しにしてずらかろう。陰気な土台を蹴倒せば、ことは終わる。それをなすのが仕事であり、戦場に身をおく資格だった。仕事をしている限りは、繊細な電気信号の細工である心と、物理的に負荷をもたらし続ける状況のギャップに悩む暇なんてない。善事と終わるまでは冷血であれ。小声で一文を噛み砕いて二本目の煙草の烟とともに呑む。ヘルガは苛立ちを踏み潰すように、アクセルを深く踏みこみ、アスファルトを切りつけるような高速度で一直線の道を駆けていく。

 超高層建築は近づくにつれて、スタイルをはっきりとさせていく。ホテルのむかいあわせに建ったそれは面構えこそゴシック様式を混じえた教会のようだが、やはり遠景からの印象に逆らわず、いびつな槍だった。石造りだろう黒々とした外壁には人体のディテールをばらばらにして飾りなおしたような過剰な装飾がほどこされ、見つめると拡張現実の目標データ強調で醜さがいや増す。ヘルガは足早に正面の入り口へと駆け寄ると、背が高く重い門扉を押し開いてホールに踏み入った。
 最初に膚を撫でたのは、淀んだあたたかさだ。間近で吹きかけられる何者かの呼気の、しめったあたたかさだ。張りつめた静けさは音を許さず、かろうじてペースを保っている拍動が増して、踏み締めている石畳の下で巨大な臓器に血が通う音のように思わせた。想像の余地がすべてを不安定な水面に浮いた足場へと変えて、落ち着きを妨げる。
 暗いホールを照らしているのは厚みのある雲から放たれ、儀式的な配列によって開かれた窓から差しこむ月光だった。ヘルガは短銃身小銃(SBR)に手をかけ、どこから攻撃がきても応じられる体勢で正面に伸びた階段を駆け上がる。足元では領域適応カモが、集中力を乱されたような振る舞いでカラーリングを灰から白と変えて、ノーマルパターンの黒色へと遷移した。そこは色がない空白部分だ、とでも割り切ったように。
 やたらと奥行きのある階段を、大広間まで登りつめた。平たくどこまでも殺風景な大部屋の中央に鎮座する一塊の装置が目についた。歩み寄るほどにその異様なディテールが明かされていく。前面と側面の三面に吊るされた真空パック――内包されるのは四肢を失くし、表皮はおろか、脂肪の黄色すらひと粒も残さずに肉の赤みを呈した人体だった。頭蓋前面には侵襲性のケーブルが深くうがたれていた。痛々しい造形は、精神浸透性をもつ装置、という物語性を見るものすべてに納得させる陰惨さだった。それぞれのパックに伸びた太い赤色のカテーテルは体腔を貫くおぞましい装飾を加え、生きた素材を機械的に生きながらえさせながら、装置と呼ぶのがはばかられる、ひどい生々しさで、降下スライダーを彷彿とさせた。パッケージの樹脂フィルムにはうさぎ印の刻印。わが社の製品です、というようだ。ヘルガは忌々しげに片頬を引きつらせ、床に目を落として歩いた。
 体をゆすって固定フレームを震わせる生体素材から意識を背けるつもりでも、人間としての属性を奪われた所 有 物(サブジェクト)は無視を許してくれず、横を通ると震えを強めていき、周辺視野で衰えた筋肉の動きがわかった。
 パック詰めの裏で隠れた三基のディスプレイでは、ロシア語によるテキスト記述がなされていた。ふたつは既に更新が停止されるなか、中央だけがデータを次々と語彙を記す。瞬くキリル文字に目を凝らすと、増覚パネルが翻訳ソフトを通した。英語の注釈が文字上に重なりあい人名だとわかった。情報の抽出元をたぐると、やはり生体素材に由来していた。人として扱うには機械的で、機械と割りきるにはあまりにも生物的な、中途半端に生かされた科学的ゾンビから。
 左右のウィンドウを埋める無数のテキスト。苦悶や嘆きを短い文節で埋めたものは、改行もされず数百万行に渡ってログを埋め尽くす。幾千、幾万の意識からこそいだ苦痛。誤って汚染された人々の嘆息。想像だけで気がめいる。ヘルガは不機嫌に頬を歪めた。歯噛みし、怖気をねじ伏せて電源を落とした。下ろしたバックパックからはプラスチック爆薬(コンポジション4)をとり、異形たちの前に供えた。炸裂で壊しきれる爆発力を増覚パネルの無線リンクで結ぶと、意を決するように短銃身小銃(SBR)を持ちあげた。
「せめて、命を断つときくらいは人間らしくたっていいじゃないの」
 荒っぽい(クルード)が、機械と同じように殺すよりかはこっちの倫理が許しやすい。ストックをしっかりと右肩に押しつけ、胡乱に揺れている眼球のはざまを照準した。迫る死に抵抗するように三角筋の繊維を伸縮させ、青い瞳が見返したときには、銃爪を絞りきっていた。一度、二度、三度、と減 音 器(サプレッサ)を介した空咳きっぽく白々しい銃声が響く。人数分の額をしっかりと破った銃弾は、どれも魂を含まない脳と頭蓋骨の内壁を削ると後頭部へ抜けていく。もっとも簡単な完全な死の処方だった。
 ヘルガは十字を切って背を向けた。
 と、世界が赤く反転し、ただ一発の弾丸を介して死にゆく意識と結ばれたかのような衝撃が、背骨を突いた。こいつはまずい、とヘルガは思う。左右へせり出した背骨のひとつずつが痺れるように、背筋から体の芯へと打ちつけてくる衝撃で身震いをした。
 人は望むがままに、まっさらにできるとでも思っている、殺すことで。
 耳打ちされた。純粋な声が耳朶をこすらずじかに届くのは骨伝導と同じだ。抑揚なく、語義だけが凝固していた。空電音の響きを真似たさえずりがやってくる。
 だが吾々はどうだ、純然とそこにおり、泥と骨肉を練り合わせながら光も闇も知らず絶えず成長している。たがいを結び、集合へと変わり、お前の足の下で声を聞く。それでも見えないという。見ないふりをできる。
 お前たちは望んで吾々をえぐりだし、吾々を礎とした。
 性別すらわからない声色は徐々に数えきれない男女の声へと膨張した。耳元や頭上、足元まで上下左右となくあらゆる場所からの響きだった。
 無関心で、認めずに、忘れてしまえる。吾々は足元にひざまずき、ひとつとなって虚無を抱き、思いあぐねる。吾々の胸は充たされず、空っぽだ。
 戸惑い後じさるヘルガの足場が、ふいに、ぱきりと音を立てて割れた。呼び水となった音は勢いを増して四方から鳴り、床に貼られていた黒みの強い灰色を含んだ石畳は、内側から蹴られたように、ぼこぼこと隆起していった。剥げたそばから現れるのは、黄ばんだ膚に死斑を浮かばせた体の節々――みっしりと敷きつめられていた。
 まだ床を埋めている石畳を踏みつけて、ヘルガは走りだした。ざらついた壁面にも亀裂が食い入っては粉塵を散らし、細かな細片をこぼし、最後には大きな一塊の壁板が剥がれ落ちる。基礎が明らかにされていく。屍たちが無数の冷めた眼球でヘルガを凝視する。表出していく。PMSCsに任せた現実の層で死を包み隠し、砦に閉じこもって平穏に暮らそうとしているのを揶揄しているかのように。どこまでが元来の意識を保てずに模造品の目的意識に侵された人々で、どこからが殺されるべくして誘われ統合されたゾンビなのか。境界線がはっきりとしないのが、この生の予感をもたない領域の在り方だ。
 生前に体にせよ心にせよコーティングしていた宗教や政治、数え切れないイデオロギーを全て剥奪された姿だ。やいやいと囃し立てるのは、変わらず平坦な(フラット)センテンス。
 無関心で、認めずに、忘れてしまえる。
 吾々は土にひざまずき、虚無を抱き、思いあぐねる。吾々の胸は充たされず、空っぽだ。
 うるさい、黙れよ、とヘルガはうめく。
 お前たちは望んで吾々をえぐりだし、吾々を礎とした。
 それなのに無関心で、認めず、忘れてしまえる。
「ならそいつを根っこから切り落としてやるよ」
 その前に外に出ないことにはどうにもならない――そんな気がした。体を動かすイメージにすら取り入ろうとするような声が高鳴り、平衡感覚が狂っていく。
 足場を探して走り、跳ねる度に、数千の肉を基礎として隙間なく埋め尽くし回路をきずく人体の共同体と目が合った。息苦しいまでの巨大な肉に属した屍は、どれもが驚くほどに静かで、一辺倒な苦しみの顔で、ヘルガを上目遣いに見つめた。この巨大ながらんどうは、地下で根をはった地獄とこの現実を結んだ肉の梯子なんじゃないか、とヘルガは思う。地獄の底から湧き立って、生者の領域を侵略すること、それだけが意義となる橋頭堡。
 ただ現実の表側を突き破るためだけの大きな梯子。
 吾々をどうして忘れてしまうことができる……。
 常にそこにあり、ただたたずみ、充たされない。
 だのにどうして忘れてしまうことができる……。
 全速力で走っているつもりなのに体は重く、すみずみまで鉛を詰められたように重い筋肉ときしむ節々が切迫感で追い立てた。この屍の塔に囚われるのだけはごめんだ。心臓が大きく跳ねていた。あと一分を走り抜けられるだけの興奮作用を振り絞れ。勇気という言い訳を振り絞れ。ヘルガは逃げ出そうとする正気を噛み締めて、表層が剥がれ、くすんだ膚の質感が浮き上がった門扉をすり抜ける。
 力が抜けて前のめりに転んだ。這いずりながらも残った見当識に頼り、拡張現実に水色のコマンドバーを呼び出す。これでおしまいにしてやる。地中深くから脈動すら聞こえる地面にスライドしてきたバーを、力任せに叩いた。
 思い切り打ちつけた石ころが拳の底を裂く痛み。
 一瞬のラグを追い越して爆ぜる轟音が耳を聾し、束の間、屍の焼ける臭いが押し寄せた。しけった土に胃の中身を吐き尽くす。頭のてっぺんまで詰まっていたような濁りが流れだしていく。胃液の一滴まで吐き出し、うっそりと振りむく。
 背後の広場には、ボロ布とフレームに変わり果てた仮設テントと、原型を残さずに砕け散った機器類だけがあった。ぐしゃぐしゃに引き裂かれた肉体は殺傷力を受け取ってそこらに飛び散っている。ヘルガが体を見下ろすと、太ももに分厚い骨片がへばりついていた。途方に暮れたまま座りこみぼんやりとしていると、空が夜明けの青を帯びていった。
 それまであったことをすべて裏切り、虚ろさが夜明けのなかで明らかにされていく。呆然としたヘルガは、髪から土を払い、
「こちらバイパー1、プログラム完了。回収を願う」
 呆気なく、悪い夢から醒める直前のように言った。

 作戦の末端プログラムに沿って回収されたのは、結局、ヘルガだけだった。
 たった一人の生き残りだ。
 待っていたはずの三人の男たちはアパートメントの一室から行方をくらまし、なんの痕跡も残ってはいなかった。できたのは探すことでも嘆くことでもなく、調査報告の役に立ちそうな資料を探すことだけ。自分のあっさりとした無感情、空っぽになってしまった鉄の器のような心に驚きながら、その奥底に見つけた資料を投げこんでいった。
 無人機に乗りこんでからは、ただ大地を見つめていた。機体外面のカメラが撮影する夜が開けた大地には人影ひとつなく、世界が終わってしまったあとの景色に思えた。作戦に身を投じる前とは決定的に違う、本当の本当に生気を失った景色を眺めていると、頭痛がしてきた。街の上空を通過してもそこにはゾンビの姿すらなかった。命の気配が阻害されて、ふんわりとした夜明けの光は、淋しげに差しこんでは世界から命を召し捕る網となり、空っぽの大地に垂れるけど、そこに魂はなく、空虚からすくいあげられるものはない。網は空振りされるだけ。失敗してしまった黙示録だ、とヘルガは思う。大生存圏であるところのロシア南部から国境を超えると曙光は消え去った。それを見届けながら短い眠りについた。
 シェレメチェボ空港でヘルガを迎えたのは、ぱりっとしたスーツ姿のランスだった。空港ロビーで呆けているところにコーヒーを手渡しされたが、コーヒーは苦味が舌で渦巻くだけだった。ヘルガには毒を飲んでいるように思えた。
 飲むことで完全に死に至り、見聞きした忌まわしい記憶を捨てられる毒。
 当然、死は訪れない。弱々しい笑みを浮かべたヘルガは深夜の便でロシアから発った。アメリカ合衆国の国境をまたいでからは、あらゆることがすんなりと進行していった。ウォッチメンプロジェクト上部機関に提出した書類によってはじまった調査は、ロシア政府や連邦軍を巻きこんだ大事となり、喧々諤々と議論がかわされた。設立された各問題への調査委員会は二十におよび、とりわけ大きな「準軍事活動査定委員会」により、ナシ・モロトカ・クロリカ社の責任者や親会社の幹部連中、お歴々が白日のもとにさらされた。それぞれの顔はヘルガも書類で目にして、青白い顔のなかに屍めいた印象を見つけた。
 見せしめに引きずりだされたのはPMSCsだけでなく、連邦軍からも、関与したと思われる部隊単位で証人喚問がなされた。そこで明らかになったのが戦場価格設定、秘匿コミュニティによる対屍戦争経済の操作という大それた目的だった。ゾンビたちの分布を操作して特定PMSCsの自警戦闘活動を促進し、金をせびる。種はともかく、仕掛けは簡単な陰謀じゃないか。話を聞いたヘルガはため息混じりに笑った。
 この他にもカザフスタン軍当局が計画に協力し、ナシ・モロトカ・クロリカと結ばれた士官連は狂乱と混沌の底を尻目に、軍事教練の一環と称して、遊びふけっていたことも判明した。ナノマシン集合体(クラスタ)は陸軍が散布した。実験計画に関与した部隊は、実は早々と撤退していた。そんな風に気が滅入る報告もわんさか。PMSCsとNKGBによる戦争企画――ゾンビ禍の奈落に落ちるまでの遍歴となって、あくまで「企画」としてまとめられた。
 大状況へと拡大したこの事件に、ビンゴの大穴をあけようとする委員会もあった。これも投機というわけだ。どういうことかといえば、調査委員が経営に関与しているPMSCsを調査や救出作戦に使うという目論みで、それは進んでいた。こういった経済的観点をいくらか潜めた潰し合いに移れば、ヘルガのような査察要員に用はなく、長期休暇が与えられた。
 医療担当がけしかけるちょっとしたカウンセリングには、非協力的な態度で臨み、休暇に身を任せる。他人の干渉からのらくらと逃げゆく空疎だ。
 そして、カザフとアメリカの大きな溝(ギャップ)に染み入ってきたのは、やわらかな平坦さ(フラット)だった。
 目覚めとともに平たい質 感(テクスチャ)がやってきても最初はどうとも思わず、あらゆる音が薄っぺらく聞こえるだけだった。アラームをかけたオーディオ機器から流れる音楽、蛇口から水の滴るテンポ、毛布を払い落とす音。幾層もの響きが削れた違和感を無視できた。感覚がまだ休暇に馴染んでいないだけ、と。いきなり実体をともない訪れたのは、散歩の途中だった。覆いかぶさるビル群から這いでたとき、見慣れた景色まで平たくて安っぽい影絵に思えた。ガントリープラザ公園の桟橋から見渡す夕暮れですら。
 波の打ち寄せる音を聞きながら歩いていても、精細を欠いた音のなかでは、その場にいる実感がない。まるでパワーパフガールズのかきわりだ。
 報告書には記さなかった、遠い土地で固形化していた幻影が追いかけてきたかのようだった。歴史という大地の下に埋められている無数の死という地層が、深く、深くから突き上げて、文明の色だけでは埋め立てられなくなってきている。
 欄干に寄りかかったヘルガが煙草をくわえ、コートのポケットにいれたはずのマッチを探していると、横から手榴弾型ライターが差し出された。いつの間に来たのやら、隣に立つランスの大きな手が、明るく照らされる。
「なんの用かね。仕事はしばらくオフと聞いたけど」
 ヘルガは言い、吹き上がる炎で煙草を焦がした。
「お前の様子が気になってな」
 と、ライターをしまったランスは、横目でヘルガを見た。
「だいぶ有意義な休日だよ、人のいる街、薄ら寒い公園、いつもどおりの夕暮れ時。現実の普遍性ったら、それだけで頭を空っぽにしてくれる」
「空っぽなのは頭だけか」
「捉えようによるね」
 長い沈黙があった。ヘルガは電飾が落とす光と水面の模様に意味を見出すように水面を、ランスは欄干に背を預けて暮れていく空を見上げていた。波間の白い紋様が乾いた屍の顔に変わると、瞬きで遠ざけた。長く吐いた烟が夜の気配に溶けていく。
「カザフでなにがあったんだ。お前はあの街でいったいなにを見て、なにを報告書に記載せず、腹の奥に隠してるんだ」
「おうおう単刀直入なこって」
「あの作戦プログラムに参加してから、調子が悪そうじゃないか。気を回して当然だろ」
 ヘルガは煙草のフィルターを噛んで、ごまかすように苦笑し、
「別になんともないんだけどね。単に気が狂ったみたいな科学ジョークを見てきだだけだ」
「委員会もプロジェクトの連中もそれほど気にしちゃいないが、請 負 人(コントラクタ)もゾンビもどこへ消えたんだ。お前が接触した博士、なんといったか」
 シド・マドセン。ヘルガはそばかすが散りばめられた顔立ちを思い出そうとして、ちっとも記憶に残ってないことに驚きながら青年の名を告げた。
 自分を落ち着かせるように、ランスは深呼吸をし、
「そのマドセン博士とやらはどこへ消えた。なにもかもがすっかりと、状況証拠だけを遺してわれわれの眼となる視覚装置の範囲から消え去った。忌まわしいゾンビどもだって、一匹残らずにあの土地から消えちまった。わかる……。一匹も残さず、だ」
 幻影としか思えない出来事が遠のいていき、触れたことすら夢なのではないかと疑った。当然だ。人に語るにはあまりにも現実離れして、記憶の欠片も作り話めいていった。
「ゾンビを収束するための機械があって、暴走し、人間をひとつの物体へと変えた。それだけのことよ。わたしが報告して、回収した資料にもあったとおり。プロジェクトの調査委員会だって現地に送られて、裏付けとなる書類を山ほど収集したんでしょう」
 皮肉げに、でも自分が見聞きしたことを隠した素振りもなく言った。もっとも、文脈からすればなにかを見たと自認しているようなものだが。
「それを示すだけの根拠にはならないどころか、回収分遣隊との通信が途絶した」
 ランスは言い、困惑を隠しきれない横顔で舌を鳴らし、語彙を探す慎重さで口元を手で覆った。単なるPMSCs査察が規模を広げて人員が行方不明になるざまなら、しかるべき反応だった。あるいは、それこそが証拠じゃない――ヘルガは思案する。へぇ、と興味薄な相づちしか見つからなかった。
「ナノマスの雲が晴れて衛星の追跡があるのに、どうして足跡が消える。見落とす余地なんてないはずなのに。まるで俺たちの目につかない土地の裏っかわで、負の力が形になろうとしてるみたいじゃないか。収まりの悪い話だ」
「だからって、わたしにヒントを尋ねるの……。精神異常でどうにかした人間が、不確かな馬鹿話を始めるかもしれないけど、それでも尋ねる……。ねえ。自分でも折り合いがつかないっていうのに……」
 思わずもれた自嘲に、ヘルガは驚きが隠せなかった。まだ熱が残る煙草を握り、
「悪が栄えるために必要なのは善人がなにもしないことだって言い回しを知ってるかい、ランス……。その悪に代入できるものが栄えていたのよ、あの街の足元でね。冗談みたいな話だけど、あのどん底でゾンビも街の人たちも誰もが統計上の死から外れたものになってた」
「どういう意味だ」
 問いかけは、膜がかかったように非現実的だった。手の柔らかい部分が焼ける自傷的な痛みで困惑を焼き払うと、携帯灰皿に落とすとランスに笑いかけた。ごめん、と言いかけるつもりだったが咽喉はひきつって声が出ず、無言で歩くだけだ。
 変わってしまったのは、世界ではなくヘルガだ。人の目に見えない地層で、この世界の基礎となってじわじわと拡がっていく死を見てしまった。この街が目を当てることのない、闇の地層に広がるものを。あの大地から帰ってきてから心を満たしたのは、沢山のコンクリートと鉄、黙示録の中で生き延び、生まれてしまった人々の肉体で築かれた薄っぺらな煉獄の隅っこにいる感じ、あるいは緩やかな失望かもしれない。
 致命的な落差だ。覆いをとり払う(アポカリプシス)ことによって、ただ世界に堆積していく地獄を明らかにされたことで、見えるものの意味は変わってしまっていた。
 気づいたところで、なにもできない。
 調査分遣隊の追跡性がゾンビの失せた平原で途絶えたのは、予兆かもしれない。幻影は終わってもないのに、誰も彼も幕を引いたと信じたいだけなのだろう。
 大地の下でひとつに混じり合った大いなる屍は、あらゆる魂を巻きこんで、密やかな侵略が、暗幕を破ろうと着実に進んでいく。イメージするのは難しくなかった。逆流した人々の虚無を得て、自律性を得た大いなる肉の集合体(クラスタ)。世界がもう戻れない分岐点を越してしまったと知ったのは、それからすぐのことで、ロシア南部で始まった音信不通はやがてロシア全土へ、東ヨーロッパへと道筋を拡げていった。
 国境を超えて放たれた無人航空機がレンズの目で捉えたのは、ヘルガが見たのと同じ、虚無。住まう人民を失って虚ろな街がどこまでも続いて、人が築き上げた建築物の数々が点在していた。最初の時点では各国の情報機関ネットワークの内側でしか扱われていなかった秘密の話題は、やがてユーチューブやブログを通した、個人単位の報道で病のように拡散し、違法アップロードされた数々の音楽やテレビプログラムと混じって、世界をささやかな混乱に陥れることになった。閉じこもったヘルガは新聞に目を通しながら、コンドミニアムでその経過を眺め続けていた。ニューヨーク・タイムズもザ・エグザミナーも、合衆国大統領の演説も、恐怖を皮下に潜めた筆致でつらつらと事実関係を述べようとしていた。だが、それは最初にゾンビが現れたときと大差なかった。噂と嘘。
 混乱。
 ヨーロッパから音沙汰がなくなり、次にロシアが声を失うまで時間はかからなかった。窓から見下ろした街角は、かつてゾンビ禍が巻き起こったときの黙示録的な騒がしさを取り戻している。今まで演出されてきた終末下のおごそかな平和という砦の外壁が恐れで瓦解していき、誰もが世界に無関心でいられなくなっていた。ねじ曲がった摂理を見渡せる暗視装置はもはや喪われて、PMSCsが生み出す構造も装飾も役には立たない。街並みは計り知れない不安を押さえつけようとしながら、ユーラシア大陸を包んだ沈黙に怯えていた。
 もうなにをしても、もう遅い。
 終わりまでの目盛りはどれだけ残っているのだろうか。
 時間が少ないなら面倒事はごめんだ。
 ソファに寝転がって、そう独り言をこぼすヘルガの目には空っぽの大地が映っていた。
 人工衛星が捉える西ヨーロッパの厳かな空疎が、久々につけた増覚パネルに広がる。奴らはただ、奥底にいて、これからもずっと息を潜め続けるだろう。目を背けても消えず、かたわらで待ってる。意義などもたず、ただそこで見つめているだけなのだから。ゾンビは墓穴から這いでて街を往くだけで、あの大いなる赤の地層たちもまた、ただこれまでの期間に隠されていた、醜い色調を露呈させた過ぎない。
 覆いをとり払う(アポカリプシス)――黙示録の語源たることばが、そう示すように。奴らの声が聞こえてくるかのようだ。常にそこにあり、ただたたずみ、充たされない、と。今までと違うのは、連中の不可視なる侵攻がそこまで迫っているということだ。人智が“死”そのものに与えてしまった自律性のせいで。
 考える気力は萎びている。あたかも人間である自分の脳味噌に住んでいた地獄と想像力が現実に抜け出ていってしまったみたいだ。浮かぶコマンドパッドに触れ、コンフィグを閉じ、まぶたを伏せる。
 衛星が取得する映像が消えると、ヘルガはテーブルに放り出したリボルバー拳銃をとる。しっとりと掌に吸いつく、木製の銃把パネル。ぎゅっと握り、ざらつく撃 鉄(ハンマー)を拇指でなぞり、そっと腹に載せた。シャツ越しに感じる鋼の冷ややかさが痛いほどだ。
ク ソ 地 獄 め(ヴィトゥン・ヘルヴェッティ)、てめぇらに飲みこまれてたまるか」
 撃 鉄(ハンマー)の起きあがる粘ついた金属音。やがて、振り下ろされた澄んだ音が撃針のわななきで叫び声を呼ばい、大脳を壊しつくすに足りる銃弾が放たれた。
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