嘘んこミリタリ風ゾンビ小説。
DEAD WITHIN:IN WITH DEAD 前編
 それは闊歩する葬列だった。
 本来、人々に送られるべき屍の数々が、降りしきる雪を肩に積み重ねて行進し、数百対の跫が、白く濁った雪原に痕をつけていた。行き先がどこなのか知るものは多くない。胸郭の奥にわだかまって欠落を嘆く冷たい飢餓を満たすため、遠いどこかを目指して、列の先端に踏み固められた道を茫洋と歩んでいた。凍傷を負うこともない死肉で包まれた脚を突き動かしていた。空白を満たす。その単純な望みを達すること以外に何もつまっていなかった。葬列は雪原の終わりから、都市の外れへ、乱れなく行進していく。葬列の果てに極限まで延長された、忌まわしい仮初めの生の終わりがある。
 あたえられた予感だけを頼りに。
 その日、ロシア南部のとある街から、一切のゾンビが消え去った。

 ヘルガ・クロエネンが見下ろす世界はとても静かで、命が息を潜めていた。
 輸送機外面にセットされたカメラが得る映像――無数の深い穴ぼこがぽっかりとあいていた。半数必中界がおそろしく狭められ、一メートル単位にまでなる精度の砲弾とミサイルがあけたあばただ。掘り返されてから何年も経て、草が芽ぐむクレーターは、グレースケールによる塗り分けで月面のようにしみじみとした眠りにふけっていた。
 草木は生えていても、木々が立ち並んでいても、死臭がきつくて人を受け入れない。
 荒涼として、無限につづいていく穏やかな終わり情景だった。
 この時代、あらゆる場所が世の果てだ。
 そこがどういう場所であったか、と考えさせる余地もなく平坦な印象がひしめく。終わってしまった場所というのは、どこもそうだ。
 カザフスタン。
 誰かしらが気づいたときには、この平原で形成された安全圏に灯る命の流動なんて、蝋燭を吹き消すようにあっさりと消失していた。かつて、ソビエトという巨大な帝国の解体にあわせて生じたこの国に、いまこのとき、光源はさほど見当たらない。何かが燃え、烟を上げて潰えゆく、寂しくて妖しげな輝きがせいぜいだ。塊ごとに切除されたレゴブロック風情のポスト冷戦の大地。あるいは城壁をなす石塊を懇切ていねいに取り除く細々とした解体で立ち上がった土地。ここは人が形作る国家共同体としての顔色を失っていた。
 なにせ、人がいない。ある種の戦場は情報が非常に流動的だと言われてきた。だから誰もが変化を常に観察し、戦いに敗北しないために、そのなりゆきのあたえる影響を調べつづける。この国の首都を中心に拡大した変化は、そうして動向を探る活動の精度を疑わざるを得ない異様さで、自然とは言いがたいものだった。
 それなりの平穏を保っていたはずだ。
 少なくとも、ヘルガはそう書かれた報告書に目を通していた。
 同時多発的に世界を焼いた神様の世界的爆撃――屍が蘇るという大規模災害――をものともせず、大量死時代のさなかを生き抜いてきた国家だ、と。
 倫理の通じない現象を相手にして、みずからもまた倫理を失いかねない戦いのなか、混沌にはまらず、人の住まう土地たらんと保ちつづけきた。真っすぐに筋道を見すえてきた。足場を守るのは大変なことで、そのためにたゆまぬ努力してきた国だ。
 と、国連の公式見解は申し立てていた。それがどうしたことか奈落の底に落ちた。近隣諸国は非常事態が現在進行形である可能性に、当然、例によって、根気強いスルーを決めこんでいた。いまこの時代ときたら、ゾンビなる脅威がぼろきれ同然に引き裂いた国土の復興に全力を尽くす時代だ。脇目を振らなければ安全を確保できた。他者に構い、直視して救済してやる余裕や義務はもちろんのこと、義理もさほどない。
 気にかけたのは国連ではあるが、それにしても結局は、同時発生していたより慌ただしい別件へ、すぐに目を移してしまった。道理が通った無関心。言い訳はいくらでも。だが、事態が仕事の領分に深く食いこむとわかれば話は別で、歯車はすぐに動き出した。大規模な危機を、ある地位のある人間がほのめかして、ようやくちゃんと動いたわけだ。この国で起きたことを探ろうと思いたつと、悲鳴を忘れたくせに、今更むきあった。
 そして、この国の深部へとヘルガが送りこまれることとなった。
 輸送機のベンチに腰掛けて、轟音に囲まれながら、この、闇の奥へと。
 草原の上空を抜けると、画角がひらけた土地にうごめく人影をとらえた。左右に揺れる不安定な影がひとつ、ふたつ、みっつ。
 やがて数えるのが面倒になる数になった。
 作戦地域への派遣前に提示された情報では、カタストロフ以降で首都近隣にある生存圏はゼロとしめされていた。付近には廃村が広がるばかり。浄化した都市部にまとまり、外部にはなるべく出るな、と現代の生存原則を考えれば、人影の正体はおのずと判別できた。まずもって挙動ひとつをとっても異様だ。片足に重心を乗せすぎていたり、直線を歩けなかったり、どこかしらパフォーマーのように地に足がつかず、人間離れしていた。
 考えるまでもない。
 画面上にぱらぱらと散らばる黒い輪郭はすべて、一度死して蘇った屍だった。
 ゾンビ。誰も指摘しないが、この間抜け語(Zワード)が普遍化するとはおかしな話だ。
 十一年前の冬、ヘルガが二七歳だったあの年、蘇生は、なんらかの事象を引き金として、全世界でほぼ同時にはじまりを告げた。呼び方はゾンビに食人鬼(グール)クソ死体(ファックボディ)不 死 体(アンデッド)と地域ごとに多種多様で、蘇った理由への推論もまた多様性このうえなかった。軌道上での衛星爆破の影響。どこかの国から漏洩した生物兵器。アメリカに落ちた隕石に付着していた蘇生細菌。辻褄あわせをやろうとして失敗する、映画や小説と地続きになった想像力に踊らされたのは、なにも巷間の人々だけではなかった。アメリカでは慎重な左派新聞にして高級紙であると聞くところのニューヨーク・タイムズから、安ピカのザ・エグザミナーまでが同列の話をあつかい、噂と嘘は、またたく間に、とめどなく増殖していった。事態が起こった最初の一年ときたら低俗か、高級かの問題で頓着したのは言い回しだけで、兎に角、握ったことばを錯綜させてばかりだった。
 そういう不確実性に反して、誰もが体感して真実と認識したのが蘇った屍の性質だ。死体が歩く。人肉を喰らう。噛まれた者もまた、同族へ変わり果てる。このみっつは全世界、都市でも田舎でも共通して、いまでも有効だった。フィクションのなかでもおなじみの基本的ルールにしたがって、怪物たちは動いている。
「まったくもって厄介な怪物どもだこと」
 ヘルガは呟いて、こめかみをさすった。たび重なる脱色でナイロンじみた感触を帯びる錆色をしたボブカットに、白い指先が沈んでは浮上し、毛先を絡める。
 森林地帯を抜けて閑散とした平野になると、数は一気に目減りし、文明の破片のように横転したトラックや尻の破けた装甲車が姿を見せはじめた。脇に這いつくばる灰色の筋は、道と呼ぶには獣道の趣がいささか濃く、ただ踏み固められただけだった。道筋を考えれば少し前までは請 負 人(コントラクタ)を載せたトラックがひっきりなしに走っていたのだろうが、現状はすっかりと寂れていた。衛星リンクを呼べば、交通頻度の取得に三秒とかからなかった。
「最後の車両通行は……と」
 ヘルガの問いに、携帯端末がすぐさま回答を寄越す。
 最新交通記録は一三七時間前。痕跡は、自衛のために戦う民兵や国軍が残したわけではないらしい。解析能の高い衛星の素子はそれを無数の足跡と車両からなると判じていた。次に呼びだす情報は、現場の対人安全指数はいかほどか、敵性対象遭遇可能性はいかほどか、の二種だ。どっちも該当データは未詳ないし要修正。ブリーフィング時とたがわず、不明瞭きわまりない。作戦開始直前にきてもこうとは――いかにもいけすかない状況に、ヘルガは誰にともなく虚空へ睨みを飛ばした。壁面へちらと横滑りすれば、解像粒子群(ナノカラー)の凝集による表示レイヤーが、カウントダウンをはじめていた。降下まであと五分、と。
 ヘルガは、唇でくわえた空のゼリー栄養剤パックを首の一振りで放り捨てた。タンクトップを脱いだ。座席のわきから取りあげたスマートスーツで、筋肉が薄く隆起した体つきを、腰から首の付け根まで刻まれた骨格図に蛇の絡まるタトゥーを、あらわになった砲弾型の胸を、しっかりと覆い隠していく。ジップを完全に閉じると、わずかに四肢がこわばった。この手の装備にはつきもので、一体型インナーと保護骨格、筋肉を柔軟に動かすためのちょっとした補助材が包む感触だ。背伸びをしては肩をぐるりと回し、すみずみにわだかまった軽い緊張感を流した。そのたび、スマートスーツで縛りつけられた胸がひしゃげては揺れた。体つきを際立たせるぴったりとした素材とあいまって、やたらと倒錯的だが、ボンデージと軍事テクノロジーの混交に、本人は気づきもしない。チェストリグを巻き、最後の最後に、赤毛をかきあげて顔を防護マスクで包んで間もなく、カーゴ内の減圧がはじまった。
 鼻歌すらまじえて準備をすませると、空挺降下スライダーを背負いハーネスで固定した。神経系にとりついたナノマシンが機能をスキャンしていく。装備のメカニズム。感覚。それらを順繰りに接続するにつれ、背骨に沿ってひやっとする幻覚があった。目は通していないが、渡されたマニュアルの流れに沿っているはずだ。
 不意に強風があった。軽く跳ねて準備体操に代えるうち、後部ハッチが、真空の虚無たる星空と一体化して粘っこい大空への口をあけきる。
「えらくいい天気だわ。星空がよく見える」
「バイパー1、こちら輸送担当(ランナー)。目標地点への誘導ライナーを敷きました。きれいなお星様に見とれて、最適な降下ポイントを逃さないでください」
 と機長。耳小骨インプラントによる受信器の骨伝導が、声をはっきり伝えた。
了解(コピー)。まあ、どんなお星様だろうと文明の灯りほどにはきれいと思えんけれどね、このご時世じゃ。HQ、これより空挺降下(エアボーン)に移る」
 ハッチのへりでもう一度、軽く跳ね、空挺降下装備が背にフィットしているかをたしかめた。完璧だ。あとは、大空めがけてとびたつだけ。
「さあて、行きまっか(ヒア・ウィ・ゴー)
 勢い任せに虚空へ走る。
 ヘルガは、闇のなかに飛びこんだ。
 ハッチを踏み外した瞬間、あるべき物理法則が体から心のすみまで締めつけた。すさまじい速度での降下だった。重力に引かれ、大地に導かれる。
 後流が肉体の隆起をそぐように滅茶苦茶に吹きつけていくなか、ヘルガは、スマートスーツの保温機構に感心した。さすがは新型だ。風速冷却の冷酷さは素人が考えるよりも手ひどいもので、肌を露出しようものなら、考える間もなく凍傷確定だ。だというのに異様な冷気は体に染みいる隙はなく、霜が張りはじめたマスクからひしひしと伝うだけだ。降下速度も増す一方――時速一三〇マイルにいたっていた。高度はおよそ千フィート。純粋な降下にパラシュートの終止符はない。ぼけっとしていれば大地に叩きつけられ、目も当てられない肉片となってゾンビの腹に収まるだけだ。
 目をこらすと、眼球に貼った増覚パネルが光量補正をかけ、地上を詳らかにしてくれた。パネル上に投影される拡張現実が、緑がかった低彩度色で、八百フィートに到達する旨を告げていた。ヘルハは手足を広げた安定姿勢で速度をゆるめながら、風圧にあらがって揚力を得る用意を欠かさない。視線を、マスクのグラス上に擬似投影された表示系のメニューへと送った。そしてステータス上から鳥を模したアイコンを選び、自動で展張させた。にわかに脈動が背を伝い、スライダーの激しい羽ばたきが、音をたてながら左右に拡がる翼で風を掴む感触となった。シルエットは大鷲そのもの。無人航空爆撃機をベースに、通常落下傘と異なる自律的行動を併せた機能群がはばたく。
 これが軍事活動ならジェット推進機つきのスライダーパックも手段のひとつとなるが、目的はあくまで潜入で、だから静粛性を追求して、使い捨ての生体素材と高分子素材からなる翼が設定された。ジェットスライダーほど騒がしくなく、ウィングスーツほど受動的でもない。ポリマー膜の張られた翼が空を泳ぎ、GPSの拾いあげた誘導ライナー軌道へ、ヘルガを導いていく。
 数分のフライトのすえ、闇で潰れた地形を表示系のフレームが補った。
 中規模クレーターに降下ポイントを見出したのだ。ミサイルでえぐられた大地の底には草むらが生命力を誇示して、その茂り具合ときたら、昼ならともかく、夜間とあっては転がりこんでも目にはつかない様相だ。まわりにはもちろん目印などあるはずもない。拡張現実の格子表示(グリッド)が三次元的に補っていなければ見落としていたかもしれない。
 終端にむけてスライダーが速度をさだめ、ぐんぐんと減速していく。着地直前になると翼がより大きくはためき、引力の支配に逆らった。
 次の瞬間には、草叢の海に飛びこんでいた。着地の瞬間、乾いた砂埃がふわりと舞った。全身を走り抜けていく衝撃はスマートスーツに仕込まれた保護骨格があらかた分散して、ヘルガの想定よりもずっと弱い。それにしても深く打ちつけられた犬釘の気分は決して抜けることなく、節々がひどく痛んだ。
 スライダーのハーネスをはずしてマスクを脱ぎ捨てると、跳ねる髪の奥から灰色の瞳で見渡した。その間にもヘルガの姿は、じわり、と草むらを混じりはじめ、その効果の根源、大小の四角形からなるデジタル迷彩は領域適応カモのリアルタイム色相検出の反映で、じきに赤毛の先へも適用された。髪のぱさつきは彩色ナノマシン埋設のために避けがたいが、見合うだけの効果は充分にあった。ヘルガは浅く息を吐くと屈みこんだ姿勢からゆっくりと身を起こした。手はほとんど意識せずに腿のホルスタからP30自動拳銃(オートマチック)を抜き、減 音 器(サプレッサ)を銃口にあてた。田舎でも露払いは避けられんか、とヘルガは言いざまに刃のような眦をめぐらせて全周囲を確認し、安全装置(セイフティ)をはずした。
 死者なりの五官で探りあて、歩を進めてきたのだろう。人影がすでに四方にあり、抱いた殺意を肯定するようにして空間にかかる目の細かい格子表示(グリッド)が、ぎくしゃくと闇の浅瀬に降りてくる六体を浮かせた。距離感から対応順序を即決――まずは三時の方向からくる駈け足(ギャロップ)だ。肘を曲げ、両手で覆うように保持した銃を傾け、右目をなかばふさぐ形で顔に寄せたハイポジションをもって左目の照準線を結ぶ。狙うはカラシニコフを吊る傭兵風情だ。俊敏さは屍への侮りを許さない。意表をつく直進性に新兵が食われる、あの忌まわしく一般化した不慮の事故(カジュアリティーズ)は、軍を除隊しても、ヘルガの脳裡にずっとへばりついたままだ。
 ためらいなく銃爪を招き、機械的な二度撃ち(ダブルタップ)を放った。減 音 器(サプレッサ)の退屈そうな囁き。砲台さながらに左右へ行き来する照準が、適確に描く亜音速軟弾頭の飛翔経路で額、眼窩をとらえて撃ち倒す。訓練の一端で馴染ませた、近距離戦闘のため単純化しつくすCARスタイルで演じる据銃、射撃の連なりは、個人単位での完璧な打撃力を実現していた。
 こうやって技術を操り、捨て鉢にも近い突進で査察をこなし、ポスト死というべき時代の大半を過ごしてきた。
 死体がひとつ、死体がふたつ、死体がみっつ、と数えながら。
 揺らぐことはなかった。
 繰りだされた有用性は一人につき一秒、二発ずつ、撃ち損じても三発どまりできっちり十四発を命中させ、周囲十メートルには腐った血と、硝煙の悪臭をじっとりと残した。スーツが窮屈にフォローする胸の下、チェストリグの前で、発砲で熱っぽい銃をささえた。即応できる姿勢だ。再装填を意識して一歩を踏みだした刹那、武 装 対 応(アームド・レスポンス)を締めくくる静けさが裏切られた。人間性の残骸が、草叢をかいて横ざまから駆け寄る。ヘルガはふっとため息をついた。こういうこともある、と思い眉根を渋らせるだけだ。
 上半身のわずかな傾きで胸に引きつけた銃口に仰角をつけた。間断ない速射で肩と胸への速射で足止め、よろめく姿へ腕を伸ばすと、精密な三発目で頭蓋から腐肉を吹き飛ばした。この手の職務は流れを読むだけでなく非常事態を蹴とばす平静さがものを言う。実戦を重ねつづけない限りは得られない、諦念に接した心理安定だ。
 空っぽの弾倉が空虚重量を指にかけた。ヘルガは拇指の腹で弾倉留め(マグキャッチ)をなで、予備弾倉を押しこみ、開放されたスライドを閉鎖する。
「発砲は慎むべき、なんだがね」
 ヘルガはとひとりごちた。派手な無力化処置は、その無謀さにおいて、槍を手に津波へ立ち塞がるのと大差がない。都市単位の食指を相手どってしまえば数分で撒き餌と化すのがおちだ。静々と動くにかぎる。子どもでも知る、この時代の常 識(コモン・センス)
「HQ、こちらバイパー1」
 とヘルガは草のさざめきに身を落とし、
侵入地点到着(イントルード・チェック)。プログラム開始。これより査察目標への移動する」

 ブリーフィングは遡ること二日前、マンハッタン島北部におかれたオフィスビルの八階でとりおこなわれた。ビルの所有者はウォッチメンプロジェクト――ヘルガも籍をおく、国連安保理下の民間軍事企業(PMSCs)監査機関だ。
 主業務は、PMSCsの活動内容が正当であるかの調査だ。911を特別な意味合いに変えたあの本土爆撃をはじまりとした世界紛争で、動きの幅を大いに拡大し、軍民を複雑にクロスオーバーさせたPMSCsという一大産業形態。このシステムは、突如として発生した世界単位のゾンビ禍において、無秩序を沈静化させ、生活の基盤を保護することをビジネスチャンスとして台頭していくうちに、抑制しがたい経済形態となってしまった。第二次湾岸戦争とは比較にならないくらいに、だ。今ではかつてアイゼンハワーが警告した通りの不穏当な影響力を持ち、軍産複合体とつながり、国軍の補助から民間防衛まで裾野を広げる企業も少なくはない。端末ともなる企業群まで引っくるめると、そこには一匹の巨大な獣が現れる。ウォッチメンプロジェクトは、その猛獣の見張り番(ウォッチメン)というわけだ。
 プロジェクトに籍をおく以前のヘルガは、ひたすらゾンビを殺していた。フィンランド国防軍緊急展開部隊――首切り隊とまで呼ばれた掃討部隊の長。その職を上官の勧めで辞したあとには、同じような理由でやめた同僚のつてで、PMSCsへと入社した。事務職へとついたが、一月と働かないうちに問題を起こし、そこをウォッチメンプロジェクトにヘッドハントされた。
 ウォッチメンプロジェクトから与えられた仕事は、企業が手をつける黒い仕事(ダーティワーク)の調査から、あらくれによる民間人への暴力、略奪行為の調査、各種の証拠集め、果ては行方不明になった調査員の捜索まで、とバリエーション豊かだ。ときには実力行使として、実際に活動しているPMSCsを潰すこともある。当然、最後の一手はあまりに極端な例ではあるが。
 それらは査察目標への潜入をもって、隠密裡に遂げられることも少なくはない。活動する企業の正当性が疑われるというのは、企業を選定した軍事なり政治なりの現場の誰かさん、ひいてはその誰かが属する派閥にまで嫌疑がかかるということだ。疑義が後ろ暗さをえぐる刃先となることを阻止するためなら、企業は平気で嘘をつき、とんでもない邪魔を挟んでくることも厭わない。それが起きるような剣呑さが見出されたとき、監査オペレーターはごく能動的に動く。ヘルガ・クロエネンは「能動的対応(アクティビティ)」を得意とする要員の一人として重宝されてきた。
 国連前に建つコンドミニアムから愛用のクロスバイクを飛ばして、当の国連とは縁もゆかりもなさそうな、おそろしく素っ気ないビルにつくまでは二十分ほどだ。そのときのヘルガはとにかく無表情だった。もはや休暇の約束を破られることには怒りを抱きもしない。今年二度目ともなればなおさらだ。
「この鬼畜王め、せっかくの休みをブッチしてくれやがって」
 椅子にどっかと腰を下ろしたヘルガは、両腕を組んだ黒人の大男を見上げた。
「おれが好きでお前を呼び出すと思うか……」
 とテーブルに書類の束を滑らせる壮年の黒人――ランス・ウィテカーはヘルガ直属の上司であり、作戦担当官(オフィサー)だ。スーツをホワイトワーカーらしく着こなしてはいるものの、大柄な体と創傷の縫い跡が走った頬は堅気と程遠い。ヘルガの吊り目にひるむふりでおどけて見せ、テーブルに掛けた。
「いいや思わんね。今度はカザフだって……」
 ヘルガは言い、テーブルに頬杖ついた。
「作戦活動の詳細はその書類に。ただいつもの違うのは、この作戦行動がわれわれ、ウォッチメンプロジェクトによる政治的活動の一環でなく、ホワイトグレイブから依頼されたものということだ」
「なんでまた、あいつらが仕事を……」
「さあ、それはお話を聞いてからお考えください、お嬢さま。今作戦の目標は首都アスタナで復興作業に携わっていたPMSCs、ナシ・モロトカ・クロリカ社の業務内容確認だ。アスタナを中心とした周辺の町村で、大規模なゾンビの集団移動が発生しているというのは聞いてるな。その事態にあたって、ナシ・モロトカ・クロリカが活動しているらしい――というのも、当該地域での事態発生直後、モスクワでアスタナ当局の人間と会社側のエージェントが契約のために接触していたらしい。混乱がカザフスタン中に広がってるから、収拾をつけるために手を貸してくれ、というわけだな。それとともにホワイトグレイブのロシア管轄部署が、何かを嗅ぎつけたんだ。現地でなんらかの不適当な活動が行われている可能性。お前を投入するのに充分な理由だと、思わんか……」
「さあて、そいつはどうだかわからんね。根拠の諸元は」
「ひとつはロシア南部の都市周辺におけるゾンビの大量消失。もうひとつはその現象の中心となってる街から軍によって持ち出され、ナシ・モロトカ・クロリカの運送部門によってアスタナに持ちこまれたらしい荷物だ。うちの情報担当いわく、兵器である可能性が多大。出元の街も、冷戦時代にはなんらかの兵器の実験に使われていた秘密都市らしい。これらをロシア軍事観測局がリンクさせた、というのが根拠だそうだ」
「らしい、らしい、らしいと。いつものとおり、なんでもかんでも細かいことがぼやけてやがんね。中身について特に情報がないってことは、実際にわたしの目ん玉でしっかりと拝んでこいってことでしょう……」
 とヘルガは、写真を撮る身 振 り(ジェスチャ)に苦笑を混ぜた。
 ランスはお手上げのポーズをとり、
「そう。ホワイトグレイブの委託項目によると、可能なら破壊しろとのことだ」
「あはん、そうまでしろってのは珍しいね。よっぽどな代物じゃないと道理が通らん」
 ヘルガは呆れ気味に背もたれへ寄りかかり、手の甲を額に当てた。ホワイトグレイブだけで縁起が悪いというのに、破壊工作までとは。嫌な印象を持たずにいられない。
 書類を見れば、『極秘:第四次目標事項機密書類』と記された表紙の片隅に白い墓石が記されていた。墓碑銘代わりに、聖書の引用が乗ったエンブレム。頸部切断蘇生予防措置(ネックカット・トリートメント)を施して死者を墓に縛りつける、蘇りなき、健全な死の普及がその意義だ。
 そもそも、ホワイトグレイブとは国連蘇生者監察委員会附属復興対策機構の通称であり、その実態は、いまだにだ原因が判然としないゾンビ禍の原因を探しつづける機関だ。世界各国の疾病対策機関や世界保健機構(WHO)と馴れ合い、ここ十年以上、ウィルスや汚染の可能性を求めてきた。予算の食いかたが貪欲なわりに、実のある効は奏さず、率先してかかわりたくはない連中といえたし、不用意にゾンビたちに飛びかかっていく態度も評判が悪い。それが仕事を持ってくる事態を案じれば案じるだけ、ヘルガの腹に疑念が湧いてつきなかった。
「現地への潜入行路は空挺だ。空路輸送後、首都アスタナの四〇キロ手前で降下、徒歩で作戦地域に入る。目標地点への侵入後、目標が確認でき次第」
 と、ランスは自分の掌に拳を打ちつけ、
「ブチ壊しにする」
 言い終わると、ランスはコーヒーサーバーから汲み出した、苦いだけの代用品を供した。砂糖と植物性ミルクもおかれたが、どれを足せど不味さに変わりはなく舌を湿らせるのがせいぜいだ。ご意見がありましたら喉でも潤しながらどうぞ、とのメッセージだろう。
 ヘルガは一口飲んで眉をしかめ、
「破壊目標は」
「さあな。輸送された物資から推定するにそれほど大きいものではないらしい」
「曖昧ね」
「まったくだ。呆れて声が出ない」
「退屈な話題を受け取る側って往々にして無口になるもんね」
 とヘルガは書類の束をめくり、行動補助項目で指をとめ、
「増覚パネルに指示を出してくれるならまだましか。航空写真とかは」
 ヘルガが尋ねるとランスは気まずげに頷き、ホワイトボードに開かれたナノレイヤーの情報タブを操作した。武 装 対 応(アームド・レスポンス)の装備規定や、ロシア軍軍事測量局が送ってきた作戦地域の地図が映しだされる。ただ、それが納得のいく内容かと問われたら、いいや、としか言いようがない。ヘルガは思いがけぬ濁りに唸り声をあげ、
なんぞこれは(ミタ・ヴィットゥア)、役に立たねぇじゃねぇいの」
「詫びようと思ってるところにブー垂れるな。これでもまだマシなデータだ」
「どこがマシだってのよ」
 とヘルガは思い切り指さし、
「こんな何世代も前のビット絵を拡大したみたいなのが……」
「それは同感だが」
 ランスは傷ついたような顔をして頭をかいた。地図に映るアスタナ周辺十キロはモザイク様のノイズに覆われ、視認性をいちじるしく欠いていた。それが周辺へと広がり、四〇キロ以降で初めて、通常の航空写真と違わないものに落ち着いていた。
「こんなの資料として有用なわけないじゃん。いったい全体なにを考えてるんだか、あっちの連中ときたら。常識ないよ」
 とはいえ、未提出なら未提出で角が立つばかりだ。この手の統合情報とは誰かが読むためでなく、およそ場の空気を整えるためのものでしかない。ヘルガはそう思っては自分をなだめすかし、
「対視覚妨害が確認されたのはいつからなの」
「濃度や周辺での動向からするに、二週間ほど前からじゃないかってことだ。最初に確認したのは上空を通過した商用衛星が撮影したデータでな」
「なるほどね。そうだ、現地には浸透者(アセット)とかいないの……」
「そのたぐいの観測ユニット(サブスタンス)があれば誰も苦労はしないさ。残念ながらことにビビって逃げ出してきた人間はいないし、現地情報はいまのところ、未詳。軍事測量局の「目玉」も陸上観測モードで周辺を監視してるが、目標地点を中心とした半径二〇キロ圏内は忌々しいナノマシンの相互干渉(フリッカー)だらけで、こっぴどい妨害を食らってる。地面に黒いビットが貼られた衛星画像を受像しても、それが人の影か羊の尻の穴か砲弾が開けた痕跡か、区別もつかない。わかっているのは灯りの量が以前と以降で急激に減っている、ということくらいだ。それから、街への出入りというのも大幅に、な」
「盲目ですか、めくらですか。ったくよう」
 ランスは困ったように顎に手をやって、
「たまに見えたってしょうもない断片だ」
「しょうもないって……」
 ランスは顔をしかめ、穴を掘る身振り手振りを交え、死体をぶっこむデカい墓穴だ、と告げた。まるで夜と霧。ヘルガは漠然とした、でも細部は鮮明な想像を思い浮かべた。
「ショベルカーでごっそり路面を掘り起こしたやつだよ」
「大事になりそうな予感がする」
 ランスはテーブルに腰掛けると水でも飲むようにコーヒーカップを空にし、
「暴力の予感かい……」
 ヘルガはそっぽをむいて、
「肩がこる予感。請 負 人(コントラクタ)を叱りつけて、銃口を首にくっつけるだけであっさりと武器を捨ててくれるんなら、この仕事も楽なのにねぇ」
「連中ときたら銃のいかめしいスタイルの持つ意味だけじゃなく、効果も、無効化の仕方も重々承知だ。困ったもんだ、しつけがよすぎるってのも。まあ、困った状況に足を突っこむのも仕事のうち。口で言って手ぶらになるのを拒否するなら、力でもって牙を抜くのが見張り番としての責務だろ」
「スターリン式の大事なお仕事だわね」
「ご理解いただけたようでなによりです、お嬢さん」
「そいで作戦決行はいつになるのかしら」
「明後日だ」
「こりゃあまた早急な」
 こうしてヘルガは、一ヶ月の休暇を三分の一で断たれ、現地投入されることとなった。

 スライダーの死は生々しいものだ。腐食溶液を流されたスライダーは引きつり、死にいたる動物の断末魔に似て、生体素材をこわばらせてから、ようやく動くのをやめた。この生き物っぽさこそこの手の材質の難点だ。ヘルガに嫌悪感を抱かせてやまない。最後には素材とあわせて萎縮した外装が、抜け殻めいて硬化し、生体部分は完全な残骸となる。最後に精密機器を物理リセットの通電で焼き払って再利用できない状態にし、降下後の一手間をすべて終えるのには二分とかからなかった。
 ハーネスで固定した、H&K製を切り詰めた短銃身小銃(SBR)を始めとして、最低限の装備品を担ぐと、ヘルガはひたすらに走りつづけた。明らかに車両が通りそうな、ならされた道を避けた。事前調査でルート設定された道なき道を進んでいく。ただそれだけの行程だ。息があがらないほどの歩速を保って休まず走るが、持久力が要求されるこういった単純作業は軍に入りたての頃に順応しきっていた。それどころか、スマートスーツにはサポートマッスルまで備わっているのだ。抱えた銃も交叉させる脚も軽い。
 雲が広がった空には、低空域を満たす人工的色彩のカーテンがかかっていた。フルートを思わせる音階。草原に敷かれた静けさの最上層に乗った音色に、世界が終わってしまうのを惜しむ鎮魂歌みたい、とヘルガは思った。漁師を誘うセイレーンが歌うかのようでもあるそれは、決してやまない。それは戦争の角膜となり、平和を維持した僻地と、大量死が足を生やしてうろつく戦地を結ぶ、大規模偵察観測網を形にするナノマシン集合体(クラスタ)の相互作用が奏でる歌なのだ。ヘルガはふと、一枚の絵画を連想した。オディロン・ルドンが描いた、目は奇妙な気球のように無限にむかう。瞳を有する真っ黒な気球が空を目指す、不気味な絵だ。ルドンにとっての意識の意匠が空一面へとなり代わり、地上を見下すような奇妙さ。戦場と安全圏とをつないでいるシステムが実体として感じられた。
 これだけの規模をもってしても、観測しえない領域はいくらでも生まれる。ナノ単位のミクロな世界の化かしあいで、透明な戦場は霞に消えてしまうのだ。戦場を覆っていた闇を払うにたりるテクノロジーの光を世界に披露した、あの湾岸戦争で産ぶ声を上げ、無数の衛星とネットで演出するようになった、戦場と司令部が隣り合わせになる感覚。この情報の即時性は、数年前に失われていた。ナノテクの爆発的進化を推し進めたシステムが導いたのは、次世代的戦場観測ではなく、旧式戦場の復古だ。
 ナノマシン同士の反応によって生まれた戦場観測(ピーピング)は、それまでの衛星などによる戦場の観測の上をゆく透視力を秘めていた。だが覗き見としては長続きしなかった。
 ジャミングは、気温や湿度といった戦闘に使う環境データ観測の採取を邪魔することからはじまった。これを最初にやらかしたのは、米軍の公式見解によれば中国だという。細かい政治的理由からなる中印国境地帯での妨害は強烈な効果を教えた。煙幕じみた化学的エフェクト。これは特定目標上空を通る衛星の解像度どころか、高高度から見下ろす航空機の視認性にまで深刻な影響をおよぼした。
 そうして、クラウゼヴィッツが恐れた不確定性(フォッグ・オブ・ウォー)が再現された。
 ヘルガは、増覚パネルが視界に展開したインタフェイスから、遠距離から容易に世界を見下せたはずの機械仕掛けの神様へ問いかける。このわたしが見えるかい、と。返ってきたのはエラー通知。それから透過解像度十パーセント以下という表示。どうやっても見えませんよ、と言わんばかりの諦観だった。
「なにがなんだか。ク ソ 地 獄 め(ヴィトゥン・ヘルヴェッティ)
 ヘルガは短銃身小銃(SBR)を抱え直した。
「バイパー1、あんまり愚痴るなよ」
 骨伝導がランスの声を響かせた。スーツの咽頭部に仕込まれたマイクが、俗っぽい言い回しをしっかり拾っていたようだ。
「無理があるね。ここまで不満をためこめる状況に尻を突っこんで、文句のひとつも言わないほうがオカシイってもんよ。マゾヒストじゃないんだから」
 声を潜めたヘルガは周囲を見回しながら考える。そういえば、装備の現地調達を前提にして現地潜入する、マゾっぽいオペレーターもいたっけ、と。
「でも隠し立てするだけ裏に隠れてるもののサイズも分かりやすいだろ」
「大物を見に行くのがそう楽しいと思う……」
「捉えかた次第だ」
 よくいうわ、とヘルガは胸のうちで呟いた。捉えかたを変えればあんたがたホワイトワーカーも忙しいかもしれないけど、現場で鉄砲を抱えるグリーンワーカーは捉え方を変えなくてもよほど大変だ、と。もっとも、ランスだって元々は米陸軍デルタ分遣隊で戦っていたのだから、そんなことは百も承知二百も合点のはずだ。
 たまに脇目をふればゾンビがとんでもない場所に転がり、あるいはうずくまっていた。ヘルガは舌打ちをこらえてそばをすり抜けていく。たまにカモフラを見抜かれても減 音 器(サプレッサ)で銃音を殺す銃弾で、適宜、頭を潰すまでだ。とはいえ一度見つかったきり静かなものだ。ヘルガは身動きからにじむ気配を削り、世界に溶けこみ、足音を気取らせない方法をよく心得ていた。行軍中、銃に頼ることもほとんどない。初歩的な危険性であるゾンビ、付近を走っているだろうPMSCsの警備車両、といくつもの接敵の兆候を見逃すことなく、ペースを保ったまま行軍を進めていった。
 あからさまによどんだ歩法の足どりは、アスタナへ近づくにつれて増え、まっ平らで起伏のない草原のランドスケープに死のパノラマを加味した。それでも混沌の中にある南米やアフリカの都市部ほどはひどくない。この国は人口密度が低いことが幸いしていた。個体間には大きく隙間があいている。
 ふらふら、ふらふら、ふらふら。生ける屍たちは煮えきらない踊りに身を任せ、夜の帳にインクの染みのように浮かんでいた。痛ましさすら放棄した偽ものの生――それはどこか、骸骨たちが手に手をとって死の舞踏を踏む、ヴォルゲムートの描いた木版画を思わせた。ヘルガは、増覚パネルのデジタル様式で再解釈されたダンスに目を細めた。こうなると本当に誰が誰かの区別はつかない。それこそ死の舞踏と同じだ。擬人化された死が身分を問わずして舞うように、どの人種だろうと、肌の色が違っても、感覚は同じだった。ゾンビという印象のレイヤーをかけられると個々の差異は奪われ、その顔には、死肉のうごめき、低い唸り声だけが残るのだ。境いめが失せ、そこでは生命という形も輪郭を喪い、見かけるゾンビの何割かはなりを崩してより曖昧だ。腐乱しきって肉が落ち、骨がむき出しの四肢、露呈した肋骨、中身がまるきり空っぽな腹部を、薄ぼんやりとした月明かりが照らす。ちぎれた腕を握る、これもまたちぎれた子供の腕などの断片がいやに目についた。屍肉の築く道筋や、歩み方角は、おおむねヘルガの行き先と一致し、遠く、アスタナの超高層建築に灯されたささやかな光を追うようにして虚ろな脚が動いていた。
 ヘルガは不随意的な身のこなしで薄い草むらに伏せ、迷彩で身を溶かした。不意にエンジンの騒音が耳に届いたのだ。大型装甲車が、サスペンションを軋らせ大急ぎであぜ道を駆け抜け、側面にステンシルで描かれた4423の大字が闇に軌跡を描いた。何を思ってか、車上のポートにかけた若い請 負 人(コントラクタ)は車載機関銃で五〇口径を気前よくまき散らし、手近なゾンビを蹴散らす大仰な銃声をたなびかせた。
 見慣れた景色だ。血まみれの武 装 対 応(アームド・レスポンス)欲しさに入社する若造は大勢いる。ウォッチメンプロジェクトの調べによれば、G8下PMSCsが擁する請 負 人(コントラクタ)の三割が該当した。かつてプロジェクトの一環で実地されたアンケート結果を読んだヘルガは、その大部分は、再殺の事後処理がいかに大変かを知らぬまま、ゾンビ狩りや警備活動を担当したがっていると知り、呆れたものだ。
 業務に好意的な反応が寄せられるのはメディアの影響だ。ヘルガはこの考えを疑ったことはない。報道をプロパガンダ兵器だと言いきったのは旧ソ連の指導者、フルシチョフだが、PMSCsもまた、広告代理店を武器にテレビネットワーク進出を果たしていた。好印象をうなすコマーシャルを流し、なかには民間防衛のためのレクチャー番組や、特製の通販商材番組を流す会社も、と多種多様だ。そこで体力をあまらせた青年が購読層となる雑誌やユーチューブに武勇伝でも流せば、批判こそあれ、かけた金の分だけ気を惹ける。ほとんどの中小企業は、そういったメディア影響のおこぼれに預かっていた。訓練された人々は上を目指して大手に渡り、手数が足りない会社も少なくないのだから。
 ナシ・モロトカ・クロリカも、そんな中小企業のリストに名を連ねていた。ロシア語でうさぎたちの鉄槌と名乗るこの会社は、ウォッチメンプロジェクトに提出された公式情報にいわく、五年前に元ロシア陸軍特殊空挺部隊(レイドヴィキ)の隊員の手で創設されたという。基本業務はシベリア鉄道一部管区通過時の警備活動や、中規模都市でのパトロールだそうだ。
 ヘルガはブリーフィング終了後、ウォッチメンプロジェクトのデータバンクから、この企業にまつわるいくつかの情報を抽出していた。たっぷりと疑念を包みこんで得られたのはロシア連邦内の秘密結社、NKGBとの接近。共産主義体制下のソビエトで牙を振るった、かの国家保安委員会(KGB)の暴虐を蘇らせるコミュニティとのつながりだった。これを構成しているとされるのは、おおむねロシア軍の地方管区や連邦捜査庁、その他はさまざまな情報・治安機関の人員だ。かんばしい事実とは言いがたい。
 ヘルガ自身、NKGBの関与を疑われた部隊や機関との癒着が見られる企業をいくつか査察してきたが、結果といえばいつも黒だった。カラシニコフを筆頭に、対人クラスタ爆弾散布用の自走式ロケットランチャーや、武装ヘリの大量横流しはお決まりのコース。対ゾンビ目的に運用される試作品の不正なテストなどもあった。健全なPMSCs経営を妨げる、ロシア連邦政府にはびこる密かな病だ。
 今作戦の最も重要な要素となるのはあくまでロシアから運びだされたなにかだ。ナシ・モロトカ・クロリカがそれを手にするなら、黒である可能性は非常に高い。だがヘルガの胸には、それだけではすまない、おかしな予感がわだかまっていた。
 二時間の道のりで小休止を挟んだ。草むらの陰に潜み、小型バックパックに入れておいた高カロリーのエネルギーバーを口に含む。一本で相当量のカロリーを摂取させてくれる戦闘糧食は、パクついていればすぐに肝臓を駄目にするほどの栄養価なくせに、食感ときたらスナック菓子と大差ない。危ういバランスだ。世界と同じ、危うい偏り。甘ったるいバナナ風味を嚥下しながら耳を澄ませていると、自分の咀嚼音に、妙な音が重なった。なんだろう、とヘルガは思わず、舌の根が擦れるていどの声量でつぶやいていた。輝く空の歌のもっと奥の方に、低く、ぞっとするほど底知れない層が隠れていた。
 ヘルガは、それどころかこの世に生きる人間は、この音に似た忌まわしさをよく知っている。ゾンビのうめき声だ。永遠におさまりはしない渇望によって、かすれた声を苦痛に染めたそれを数倍に引き伸ばしきり、平坦にして重ねたような音が感じられる。
 連なりは必ずしも現実味をおびてはいない。周囲にゾンビはおらず、だいたい、いたとしてもそう遠くまで声が届くことはそうなかった。
 ヘルガの胸に潜む虚構であると告げるように、耳鳴りの明瞭さにも似た、奇妙な不確かさをはらんでいた。脳裏には、軍にいた頃の記憶の低層で礎となる意匠が浮かびあがった。肉と骨が銃弾や手榴弾で原型がわからないくらいの細切れになり、装甲車に踏みしだかれてアスファルト舗装の隙間に詰めこまれ、どろりとした鮮血で凝固させられていく景色。
 紅の地平に、屍が隙間なく敷きつめられた、腐敗を待つ湿気を帯びた肉の赤と黒、粒となりうごめく蛆虫のつやつやした白だ。
 転がる頭はひとつひとつが皆、同じような顔だ。
 作戦終了とともに訪れるおぞましい光景。
 折り重なる屍の顔は、どれも怒りと、うつろな暴食を貼りつけている。
 この世の境界線にあるような奇っ怪な色彩をなすゾンビたちが、口々に飢えを叫び、絶え間なく重なりあう、気が滅入るイメージが頭の内側に膨れていった。心的効果は底知れない。テレビで死を眺めるぶんには落ち着いていられるが、ゾンビが歩む土地で一四〇グラムのエネルギーバーを嗜んでいるときに想像が膨れると、胃の底に害を沈めるばかりだ。ヘルガはエネルギーバーの欠片を口につめ、奥歯で噛み締めると腰をあげた。喉の奥に押し入れた強い甘みに吐き気をもよおしながらも、銃口を持ちあげて周辺を警戒した。
 死が染みた大地が歌を叫び、呪詛が足を這う。そんな気がしてしかたがなかった。死者の叫びが激しい歌となる――忌まわしい想像が膨れた。想像力の中に居座る地獄が、主観をねじ曲げているんじゃないか、とヘルガは思う。
 歩速をあげて、ヘルガは心に忍びこんでくる音から逃げようと休まずに進んていく。ときどき足をとめてホロサイトをのぞく瞳は、無意識に「歌」の主を求めていた。目に見えるものなら殺せる。気も晴らせる。ペースを速めすぎて息があがり、肺がにわかにぎしりと痛んだ。ちょっとした自傷行為だ。拍動する心臓のどよめきや、肺に刺す静かな痛みによって初めて落ち着かせることができるという幻想によって、ヘルガは心を宥める。
「どうした、心理パターンが妙だが。お化けでも見かけたか」
 とランス。
「こんなご時世にお化けなんて不謹慎だわね……。どうってことないわ。ちょっとヤな予感がしてさ、ドキドキしちゃっただけ」
「タイムロスは出ちゃいない。あんまり無理をするなよ」
「わかってらい」
 ヘルガは笑いそうになった。あの大男が人を気遣うような言い回しを持ってくるなんて余程のことだ。そう、余程な心配事がある場合だけだ。
 ヘルガは規定ルートをたどって、さっさとアスタナの外縁に侵入した。
 郊外には住宅地のラインに沿い、初期防衛線としてのフェンスがびっしり張られ、そこから数百メートルほど離れたところではゾンビの群れが流動し、南下していた。各所には最低限の監視カメラ。浅く埋設された地雷も少々。ゲーテッドコミュニティの外縁を形成するための処方箋に依存した、ごくわかりやすい方法論の数々だ。街を一個の共同体としてこり固める様相は、外壁を築かなければ外敵から民を守り得なかった旧い時代を思わせた。もっともフェンスは城砦よりかよほど素っ気なく、巡回する警備請 負 人(コントラクタ)もおらず、ただお手本通りとの印象しかよこさず、だからカメラをごまかせるアングルを選び、内側の土を踏むのは容易だった。これがパトロールを置いていないゲーテッドコミュニティの限界だ。
 ヘルガはすんなりとフェンスを乗り越え、乾いた砂利に音もなく着地した。中に入ればパトロール導線がみっちり敷かれてもおかしくないはずなのに、静かすぎた。足音が壁一枚を隔てて聞こえるような、針山を歩く感覚を想像していたのに拍子抜けさせられた。人が息づく様子はなく、どこかで唸る機械の低音だけが響く。警戒をゆるめるわけにもいかず、唇のはしを舐めると慎重に足を運ぶ。
 歩哨が通る空間をさらに隔てた、第二のフェンスを越えた先、空き地だっただろう空間にはコンテナが山積みだ。さながら迷路のようになった小道を抜けると、開けた場所で無数のテントが設営されていた。コンテナにせよテントにせよ、いちいち手榴弾を携えたうさぎが刻印されていた。どれもひと目でナシ・モロトカ・クロリカ社の所 有 物(サブジェクト)と判別できる。スポットライトや電灯が灯された区画内には、やはりというべきか誰もいない。空虚な風に乗ってどこかから乾いたアナウンスが繰り返し流れてくるだけだ。
 テントを覗いていくうち、得体の知れない異常に見まわれたのでは、との想像が膨れていく。食べかけの食事に倒れた椅子、それに乱雑に指示が書かれたホワイトボード。乗客が消え去ったマリーセレスト号めかして、音のない世界がテントに居座っていた。そのうちにホワイトボードの殴り書きが、ヘルガの目にとまった。
 臨 界 量(クリティカルマス)は四万二千。
 可読性ぎりぎりの尖った書体によるロシア語が、照明の白けた光に抜かれ、ぽっかり浮かんでいた。その下にマジックペンで、暗示的な文が小さく足されていた――表層を剥がすまで誰も気づかんなんてのは、とんだ思い上がりだろう、と。肩から吊った短銃身小銃(SBR)に腕を乗せたヘルガは、なんのこっちゃ、と思うばかりだ。
 テントからでると小型コンテナの影にしゃがみ、
「バイパー1からHQ、査察目標に進入。異常事態よ。居残りの請 負 人(コントラクタ)どころか、人っ子一人いやしない」
「どういうことだ」
 すぐにランスが嫌そうに応じた。
「見たままを言ったまで。ここらへんを見た限りだと、まだ査察に値するリスキーな問題は起きてなさげね。というかむしろこの誰もいない状態がリスキーと言い換えられるかもしれんけど。市街地に入るわ。問題が起きそうだったら連絡する」
 一方的に通信を切り、小走りにテントの群れを越えた。請 負 人(コントラクタ)用仮設住宅で固められた区画の裏を抜けても、明かりが点った家屋はない。
 道には皓々と光が灯っていた。空に紗幕をかけている光のカーテンは、鈍い色彩で市街を照らすことも叶わず、平べったい形の街灯がまるでペンキでも塗ったような、白々しいライティングをするだけだ。その光も安全な夜景を約束せず、警備をする際の対応目標視認性を高めるためのものだ。住宅地に入ってすぐの通りに停車された装甲車にはスピーカーが積まれ、夜間外出禁止令を意味する文言が垂れ流されていた。ノイズですこし濁ったアナウンスと偵察観測網の歌に隠れた、人の吐息を探す。ヘルガは間延びした静寂に溶けこんで、幽霊に等しい静けさで街並みを抜けていった。慣れたものだ。
 都市、それも封鎖された都市への潜入査察は二十回にも渡り成功させてきた。こと食糧事情から雇用まで幅広い利権を握って、ヨハネスブルグを牛耳っていたNMU社の活動査察などは、最高にスリリングだった。すさまじい密度で展開された警備請 負 人(コントラクタ)とUAVの網をくぐり抜けて、こっそりと忍びこんだのだ。非人道的な域に達した圧力を暴露したあの事件こそ、ヘルガが参加したもっとも大きな仕事だった。
 比べてこの作戦地域ときたら、都市の免疫機能となるパトロール要員がおらず、手応えのない、不気味な軽さだけがあった。歩く。睨む。写真を撮る。基本事項の繰り返しだ。道幅の広い辻では重機を見かけ、掘るだけ掘ってなにも入ってない大穴を覗きもした。死体がありそうなのに死体がないから怪しいぞ、写真をとっておこう、なんて按配――ウォッチメンプロジェクトとホワイトグレイブの共同で作成した書類にある、問題点確認ポイントを回っているのにこのざまだ。各所で撮影する写真にしても撮れるのは虚ろな街角だけで、まるで仕事にならない。増覚パネルに提示される、精度が高いとは言いがたい座標を参照し、パトロール導線が薄そうな道を通って、ひたすら怪しい箇所に行くだけだった。
 気が乗らないまま来た旅行みたいだが、ここまで気がめいる旅行もあったものではない。建材を削りとった弾痕、爆発物によるものだろう煤がついた建物ときたら、とても陰鬱だ。社会主義リアリズムの影響を受け継いだ巨大建築との相性は群を抜いていて、数十年前に打倒された共産主義の亡霊が苛立ちをぶり返しているかのようだった。
 現代的で小ぶりなビルで挟まれた車道には、うさぎ印の装甲車が雑然と放置されていて遮蔽物に事欠かず、開けた場所であっても移動は難しくない。中心部に近づくにつれて、舗道には通行には問題がないていどの細かな亀裂が目立つようになってきた。止めどなく走ったひび。神経が枝葉を伸ばすように細々と走り、まるでそこらじゅうの高層建築物が根を張っているかのようだ。南の夜空にはいくつかのせいたかのっぽなビルの影が観測網の光に映え、群を抜いて目をひくのが、教会の尖塔をも思わせる、彼岸に立つひょろ長い超高層建築だった。もっとも夜空に浮かんだシルエットは、荘厳さというよりも、悪魔がいだく三又槍のようにいびつな印象を秘めた直線なので、教会とはまた違うかもしれない。ヘルガはそう納得し、声にださぬよう笑った。
「ここまで来たのに誰も歓迎してくれないっていうのもそれはそれで萎えるわ。失礼な奴らだ。もしかして皆おうちに帰って、ママやパパと一緒に寝息のひとつも立ててるのかね」
 ヘルガが退屈げに言うと、ランスは短く唸った。ブルドックさながらだ。
「だといいがな。仕事をほっぽってどこかへ行けるほど無責任でもあるまいに。警備のモーションをどこかに固めてるのかもしれないだろう」
「まさか、城塞都市の防御体制なんて、しっかり全面を覆って盾を敷きつめるから崇高なのよ。仮にやるにしても、脇腹をガラ空きにする馬鹿野郎はそうそういないでしょ。頭を噛みちぎられんよう両手で守って隙を作るなんぞ――ガキじゃないんだから。まあガキみたいな請 負 人(コントラクタ)だっていくらでもいるでしょうけど」
「文句をどれだけ言っても仕方ないだろ、実際に誰もおりゃんせんのだから」
「これなら分隊を投入して調べたほうが早かったんじゃない……」
「文句が出てくるのは実際に足を踏み入れてからだ。わかってれば喜んでそうしているさ。最初から、きっちり、たくさん送りこんでな」
「そうね、最初からね、いつものこったね。ちくしょう」
 そうこうと話すうちに、近場にまとまった巡視ポイントは巡り終えた。次に増覚パネルに映しだされたのは地下鉄の駅だ。数十メートル先に通り沿いの入り口を見つけ、短銃身小銃(SBR)をいつでも撃てる体勢にしたまま、小走りに渡った。
 地下に導く暗い階段を下るたび、空気が重みを含んだ。とっくに終電時間を過ぎていてもおかしくないというのに、構内の通路は、ほの明かりで照らされていた。ひとつ灯されひとつ消え、と間隔をあけて輝く蛍光灯が、文化的な由緒という歴史的な一連の思考と無縁の、未来的で金属の質感をたたえた構内に心もとない光の膜をはりつかせていた。光の強弱で、ひんやりと静まりかえった世界の奥行きがあやふやになっていく。淡い白で塗られた壁に注意を転じたヘルガは、地上と同じようにひび割れが走っているのに気づいた。
 まあたらしい塗料のにおいをわずかに残したひびの内側から、草原で聞いた歌が聞こえるような気がし、ヘルガを惑わせる。
 足を止めると、耳の奥で鳴る幻聴を払うように目をぎゅっとつぶって息を喘がせた。額の内側でエコーを絡めた幻聴が膨れて血管を圧迫し、鈍い痛みになる。ひび割れが赤い光を帯びて、充血した獣の目玉のようだ。
 拡大する魔の色彩。からみあう真っ赤な静脈の色が拡大されていき、それがやせ細った手と手で互いをつかみ合う、紅の筋肉をむき出しにした屍の回路だと気づくのに時間という軸は要らない――かつて緊急展開部隊に属していた頃の、ゾンビに食い殺された部下の顔がコラージュされ、風化することもなく血を巡らせ、死に支度なきままに生をさまよい死をたゆたう。順列化され、永遠を超えて(アブ・アエテルノ)固まっていた。そして気づくまでもなく知り、かつてより本質として居座っていた概念だと思い知らされた。
 地獄。
 頭につまった想像力という地獄がイメージを拾い集めて作りあげる、赤の底。
 インカムが、激しいノイズに割れ、潰れた声をささやく。
 熱い血と肉を欲する。
 飢え。
 冷たい肉体が崩れる。
 痛み。
 吠える熱量が頭に注がれて、深いところから飛び出して、こみ上げてくる暴力的食欲の波を覗きこみたい欲求が、ヘルガの胸の奥の柔らかい部分をじっとりしめらせた。声がした。誰の声かを考え直すと、こみ入って圧縮された音はランスの声にさだまり、濁りを重ねた叫びは薄れ、消えた。
 息をしろ、とランスが叫んでいた。目を覆った赤い幻覚のディテールがかすんでいくほどの苦痛の波は、しかし短く、拍動にあわせて薄れた。息を思い切り吸いこむと、胸の奥にたまった重いなにかが流れ落ちて目の前が晴れて、無音が帰ってくる。寒気がするほどの無音と、苦痛のかけらも残らない、ただ激しくなるだけの拍動。
「なにがあったんだ、心拍と脳波が乱れてるぞ。クソったれが、データ採取が解除されてやがる。ヘルガ、さっきからどうした。ログの過負荷解除なんて初めてだぞ」
 ヘルガは肺が訴える息苦しさをこらえて、
「休暇をブチ切られたストレスがここにきて爆発したのかも」
「言ってる場合か。この仕事が終わったら本部の方でカウンセリングなりを受けろよ」
 少し間をおいたヘルガは、
「ご心配ありがたいこって。このタイミングの気休めなんて腹も膨れないんだがね」
 軽く笑ってごまかし、ため息を漏らした。深呼吸をするとつかの間の和やかな気分が訪れたが、胸にはわだかまりが残っていた。こんな不調をきたしたのは初めてなのだ。どれだけ過酷な状況にあれど頭はしっかりしていたのに――地下空間とこもった空気がそうさせたのかもしれない。そう決めこみ、ひび割れた壁際を伝っていく。
 しんと静まり返る構内を男の声が貫いたのは、ホームへの階段に足をかけたときだった。ようやく生きた人間とご対面ってわけだ。ヘルガは、銃把を強く握りしめた。
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