わりと健全系人外短編。
ユメクイ少女と車椅子
魔物娼館に泊まったー曰くして、jungedohにあてがわれたのは空色の髪をした手も足もない少女でした。年の頃は11、身の丈はあなたの腰程度です。「い、いらっしゃいませ…」


 足が重く、憂鬱さが膝下をじっとりと固めてしまっていた。
 泥のような歩み。
 この憂鬱は少なくとも悪い事柄が理由ではなかったけど、でも自分がその目と脳みそでもって選んだ「不安」が、その理由であることは確かだった。ボクはすこし前まで降っていた霧雨でじっとりとした路地を踏んで、ときおり溜め息を吐きながらビルの壁に寄り掛かる。
 濡れた土の匂い。心地よさすらあるその匂いに、路地裏らしいかび臭さと、ドブの臭いが層をかけた。壁にピン留めされたランプが、しめった白光を落として辛気臭かった。
 一歩進むたびに胃がグラインドする。緊張。久しぶりの緊張――その上に乗っかって圧迫する眠気。考えるだけでやってくる鳩尾の重量感。
 雑然とした背の低いビルを見上げると、押し潰されそうな気がした。
 夜の気配がずっしりと寒気を帯びて、ボクはぶるりと震える。見上げたビルの直上では背の低い星空を遮って、サーチライトが吐き出す黄味を帯びた太い光が横断する。
 世界を覆う蓋に空と雲の絵を書いて、それをサーチライトでぴかぴかと照らしている。そんな色彩がボクを圧迫していた。この緊張はなにかに似ている。
 なにに似てるのだろう、と考えるとスーパーカミオカンデが思い浮かんだ。黒部ダム。オメガ塔。母なる祖国の像。途方もなく巨大なモノを目前にしたみたいだ。
 背筋がまたぶるりとして、家に帰りたいと思った。考えを胸に抱いて、くったりとするだけじゃなく、呟いた。無意識にブーツの踵を鳴らして、ああ、帰りたいと。
「でも、行かなかったら行かなかったで後悔するもんな」
 気を落ち着かせようとバッグから出した紅茶を一気飲みした。
「意気地なしめ。世界一の不感症になれ、ドブ人間としての感覚を啓発しろ」
 ぶつぶつと呟くボクの横を人がすり抜けていく。
 ハンチング帽を目深に被った男――道ばたに転がる猫の轢死体でも眺めるような、冷たい視線だ。そらボクだって、道の隅で壁にしゃべりかける人には、そうした白眼を送るだろう。
 いつまでもそうしていられない。
 ボクは手にした携帯端末の画面を眺めながら歩き出した。ナビゲーションソフトはボクが目指す路地の奥深くまで導いてくれた。GPSバンザイ、という具合だ。
 トマソンの風情でビルの壁に取り付いた、手すりのない階段を上がる。不意に吹いた風が首筋を撫でた。つまずいてふちを踏み外せば、重力の抱擁で死んでしまうであろう、危なげの塊みたいな階段。二〇メートルの位置まで上がっていくと段差が途切れ、また新しい路地に繋がる。この辺りは地理に明るくないとすぐ迷子になる。キャピタルゴシックとも言うべき四角い建築様式に囲まれた領域。そこに違法建築スレスレ、というかそのまんまの構造物を重ねあわせたことで政府登録外の迷宮と化した道筋を、左から右、右から左と折れては折れていく。
 すれ違うのはボクと同じように生気のない歩みの男や、影のように染みついた等身大の残留思念。ここは人が制することなどできない領域だ。お隣りの世界からやってきた、凶つ人々が住まい、その世界観に寄り添う人間がいつく、やさぐれた街だった。
 方向感覚が狂う寸前になってようやく道が終わった。
 今まで鼻に詰まっていた忌々しい臭いは鳴りを潜め、大気は麝香の甘ったるい香りを帯びていた。開けた土地にあるのは、日本家屋を思わせるスタイル。
 正面には「MARINERA」と記された提灯が掲げられ、同じ表記の看板が入り口の上に乗っかっていた。
 なんぞこれ。そう思わざるをえない景色。口をあんぐりと開かざるを得ない。
 なんぞこれ。我に問う言葉に我答えけり。娼館マリネラ。
 そう、亜人/人外さんの娼婦たちがその体で男を楽しませる御ピンク色彩の館だ。
 ここはただの亜人さんによる娼館ではない。特殊な属性をもった亜人さんの女性たちに胸ときめかせる、ダメな人々のための、閉ざされた世界なのだ。
 予約をとった時間までは、まだ十分ほどある。なんという微妙な時間。
 ボクはここにきて、またしても憂鬱な気分に囚われていた。恋する乙女の十分が美しき永遠ならボンクラ二十代の十分は辛苦に満ちた永劫だろう。ああ、帰りたい。ぶり返してきた遅効性思春期心因性帰宅部症候群。親戚の集まりに呼ばれても居場所がない子供のような、複雑な気持ちに揺られてむやみに踵を鳴らそうとしたそのとき、背後からからんころんと下駄履きの足音が聞こえた。
「あらあらあら、お客さんデスカ」
「あ、いえ、あの、はい」
 びっくりしたあまり心臓が跳ねて、肋骨を破り逃げて行きそうになるのを封印に導いた自分の魔力は褒めてやらねばならない。
 おそるおそる振り向くと、背の高い女性がいた。
 着崩した着物と銀色の髪が視界で揺れた。湿った冷気も気にせず、すらりとした素足が裾から膚をのぞかせていた。
 驚くほどの白皙にすっきりと通った面差し、尖った耳――エルフの系譜。ただ、眼がボクの知るエルフと違っていた。瞳のなかの瞳。大きな黒目のうちにぎっちりと九つの瞳があった。まるで、人間の眼球で複眼を再現したような。
「なにかお困りデスカ」
「いえ、そうでもなくて。なんと言うかこう」
 ボクがしどろもどろになって手をこまねいていると、
「もしかして入るときの作法とか気にしてるデスカ。そんなもんないデスかラダイジョブでスよ」女性は変な抑揚で言い、顔を寄せてにこりとした。
「あば、あばば、アバン先生!」
「そんなにびっくりしなくてもイイノニ」
「すみませんその人とこういう距離になるの慣れてなくて」
 ボクは考えなしに小声で悲鳴を上げたのを後悔し、言い訳を継いだ。
 なんていい笑顔だろう。心にあるのはその思案だけだ。くらべてボクときたら暗い表情が頬でしこりとなっていて、表情が不全を起こしていた。
「こんなトコでぼんやりしてても寒いだけデスヨ。中入りマショ」
 エルフさんがボクの腕を引き寄せて、店のなかへと導く。さあさおいで、恐れることはないよ。サーカスのテントへと誘う看板持ちのような印象がある。怯えで心臓が跳ねる。そして、も一度大きく跳ねる。店から漂う雰囲気よりなによりも、手の柔らかさがボクをドキドキとさせるのだ。それどころかお乳を押し付けられてその恐ろしく肉感的な重圧が、肘にぐいぐいときて具合が悪い。ボクのサニティ値が音を立てて降下していく。
 もう一人のボクが後ろから肩を掴んで、平常心だぜクリミナルボーイ、と囁きかけてきた。わかってるさリトルジョニー。でもお前に舵は任せないよ。それでこそオレだよ。顔の横で見えざる右手が親指を立てるのが見えたような気がする。
 さあ勇気を出し、いざいかん、性器末英雄伝説。揚げたらコロッケ、揚げ焦がしたら野となれ山となれである。大炎上しなければ重畳である。
 扉をくぐると、そこではめくるめく想像に反して不可思議な光景が待っていた。ぺちぺちと音を立ててロビーを走り回る、ペンギンの群れだ。
 それもボクがよく知る皇帝ペンギンとか、そういう本物らしいペンギンではない。青っぽい羽根の、間が抜けた顔立ちをしたペンギンたち。デフォルメされた連中はボクの腰辺りまでの背丈で、燕尾服を着ていた。ペンギンなのに燕尾とは――恐らくはボーイなのだろう。
 そのうちの一人(あるいは一匹だろうか)が駆け寄ってきて、太ももを翼(フリッパー)でばしばしと叩いた。丈夫な上腕骨に支えられているはずのフリッパーだけど、なぜか痛くなく、むしろ気持ちいい。
 きゅー、と鳴いてペンギンが問うと、ボクの手を握った女性が、
「ハイー、お客さんデスヨー。ご案内してクーダサイ」
 またしてもきゅーと鳴いたペンギンが挙手した。ボクが硬直して眺めていると、フリッパーをばたばた振った。お掴みなさい、ということなのか。
「まだ予約した時間までいくらかあるんですが」
 ボクの顔を見て沈黙し、ややあって首をかしげた。いきなり高速で何度となく頭を振り、フリッパーをソファーに向けた。「あそこで待っていれば……」と訊くと、また首を振った。どうやらそういうことらしい。大人しく従って小じんまりと腰を落ち着かせると、ボーイが奥の暖簾の先に必死の足取りで走っていくのが見えた。何分もせず帰ってきたボーイはティーカップを持って、茶卓に置いた。
「ありがとう」
 ペンギンはお辞儀をして、すぐに他のペンギンに紛れた。紅茶は大変な美味だった。
 ボクはソファーに深く座ると共に、出口がなければ入り口もない自分の殻という看板が掲げられた迷宮の真ん中に座っていた。畳が敷かれたそこは迷宮と言いながらも六畳ほどの広さであり、過ごすには適度であるがこもるにはやや難儀する箱庭でもあった。果てが見えず複雑に入り組んだ迷宮が知的だとすれば、この単純明快にして薄っぺらな構造はいかんともしがたく、悲しい。だが抜け出せない迷路と異なるこの六畳間はいつでも出入できる。出入口などいらない。窓さえあれば足りる。
 ここにいると思案が一から十まで、さざ波と大波を起こして波紋を作る。
 まるで王朝の勃興から革命闘争の始まり、そして崩壊までを述懐するかのようでもある。だがその内実が、料金を上乗せして別口コースにすれば、いやそんなことしたら無言で家に帰るのが現実となってしまう、というぼやきであるとわかると、述懐などという言葉の上っ面は撥ねられてしまうだろう。
 はたから見れば人間の内実などその程度に違いない。ボクだけとすれば救いはない。迷宮の窓を開いて別れを告げると、ボクは紅茶を飲み干す。
 と、隣にペンギンが座っていた。つぶらな瞳がボクをじっと見る。
「なんでしょうか」
「きゅー」
 ボクはペンギン語を解せない自分の不出来さを呪った。燕尾服を見るにつけ、このペンギンもまたボーイの一人なのであろう。懐中時計をボクに差し出した。盤面でひた走る秒針は美しくきらめいた。長針を見てはたと気づく。
 時間は差し迫っていた。このボーイはボクを呼びに来てくれたのだ。ぴょんとソファーから小さな尻を下ろしたペンギンは、受け付けへとくちばしをしゃくった。小さいながらにしっかりとしたフリッパーを握り、歩調に合わせて受付に行く。受付カウンターには台帳を眺める眼帯姿の女性がいて、茫々とボクを見上げた。立ち止まってフリッパーを放すと、ペンギンボーイはうやうやしく頭を下げて、尻を振りながらぺちぺちと去っていった。
 女性は莞爾として、顔にかかる白髪をかき上げた。
 髪には一房の黒髪が混じり、ペンギンの群れほどじゃないにしろ、言い表しがたい雰囲気を醸し出していた。そしてその面差しは妙齢ながら、どこか老いた狼を思わせるものを視線に秘めていらっしゃる。
「あら、いらっしゃいませ」顔の前で両手を組み、「■■さんね。お待ちしておりましたわ。この度はご利用ありがとうございます」
「はい。あのいやちょっと、なんで名前を。まだなにも言ってないのに」
「目を見ればわかるわ」
「目ですか」
「目よ」
 女性は頷いた。
 ボクが不精髭の生えた顎に手を当てて考え込みそうになると、「あなたのお気に召すよう、ご用意は済んでますわ。奥へどうぞ」と促す。
「でもまだどの子と、その、するかを決めてないんですけど、奥にどういう……」
 受け付けの女性は一語一句に頷きながら話を聞き、ボクが言葉に詰まると、指をメトロノームみたいに何度か振った。本当はわかってるんでしょ、坊や、と囁かれた。それがきっかけかのようにハッとして、料金の凄まじい安さに心の隅が怯えたことを思い出し、ついでに昨日寝る前に予約したときのことを連想して瞼の裏側を満たした。
 サイトの予約フォームに入力して、その後に心理テストみたいなものを通過したのだ。そこから好みを割り出したのか。そのことを突如として認識させられたことに愕然とし、この人は魔術使いではないか怯えに濡れたまま閉口した。
「どうぞ、安らかな時間を。あなたの心に安寧が訪れんことを」
 心を見透かされたようで、ボクは相槌をうつことすらできなかった。
 足音を立ててやってきたペンギンボーイのフリッパーが、ボクを叩いた。くちばしを半開きにして見上げる面差しは脱力を誘って、さきほどのボーイとは別ペンギンだとわかった。ついて来いとばかりに短い足で奥へ走っていく。ボクは慌てて受け付けの方に会釈すると、他のペンギンたちの間をすり抜けながら追いかけた。
 ロビーの左翼にある観音開きの扉を、小さなフリッパーが押し開ける。
 今度こそ、ボクが想像していた世界が現れた。髪の房が戯画化したような丸っこい蛇でできた幼女がボクの横をすれ違い、十字となった廊下を横切るカニ脚やタコの触手をスカートのなかからわんさかとのたくらせて歩く黒髪の深海系女史、眼がロンパリなことになり顔面にばってんの縫合痕が走り右腕が白骨化している屍霊お姉さん、顔を真赤にした少年(君はこんなところにいていい年なのか)の手を引いて宙を舞う妖精さん、その他大勢の、亜人さんや人外さんのなかでもキワモノ的な印象と美しさを両立させた人々が行き来していた。忙しい時間帯なのだろうか。
 とんでもないところに来てしまった。
 今になって恐ろしい気分になっていると、ペンギンを見失いそうになる。ボクは他のペンギンの背中と見分ける自信がないから、気ぜわしい足取り走って追いかける。
 立ち止まったペンギンがこちらに向き直り、扉にくちばしをしゃくった。この部屋だからはよ入りなせぇとでも言うような仕草だ。扉に手をかけて固唾を飲む。そのとき、ペンギンが鳴いた。ボクが驚いてかたわらをみると、黒い瞳はなにを言うでもなく、ただフリッパーを突き出す。
「なんでしょうか」
 ボクが言うと、フリッパーがふるふると上下した。
「あ、もしかしてチップとか、そういうのかな」
 ペンギンがかぶりを振った。財布の中身はここに立ち入るための料金を銀行に振り込んだため心もとない。とはいえ話をこじらせるのも悪い。財布を開き、五百円玉を指先で挟んだ。
「だめだよ、アンジェイ」
 扉の隙間から少女の声が聞こえた。ボクは飛び上がり、叫びたくなる自分を押さえた。
「お客さんからチップをもらっていいなんて、契約書には入っていないでしょう。ゾンゲリアさんに言いつけちゃうぞ。じっくりコトコト煮込まれて、ペンギンシチューにされちゃっても知らないんだから」
 ボクと違って本当に飛び上がったペンギンは慌てて逃げていった。それこそ土煙でも巻き上げながら逃げていくような、漫画的なダッシュだった。ボクは扉の間から届く視線に向く。
 この子がボクにあてがわれた――短い沈黙のさなか、心臓が鼓動を早めた。
「い、いらっしゃいませ……ようこそ。あの、お入りください」
 と言って、少女の気配が扉の奥へ消えた。足音も立てず、ただ静かに。
 ボクは、声が震えていたな、なんて漠然とした第一印象を小脇に抱えて、扉を押し開けた。薄暗い部屋にそろりそろりと脚を踏み入れる。膚に染みついた寒気が削り落とされるていどには暖かく、けど粘膜が痛むような乾燥はない、自然な「冷ややかさ」が漂った。不思議な空気だ。
 ベッドの前に小さな影が佇んでいた。直感的にそれが車椅子であることがわかる。暗順応した目は、その全体像を得るまでは動かないとでもいうように釘付けになった。
 格子柄の背もたれに突き刺さったスタンドに吊るされた、濃い赤褐色のパック。
 パックの下端から伸びて背もたれの中央へと這うカテーテル。
 ホイールを支える真鍮色の、太いシャフト。
 細身だけど地面を捉える役目を果たすに足りるホイール。
 パーツから漏れる、無機的な生々しさという矛盾した風情が胃を締め上げた。
 そして椅子に腰を据えた、小さな体。黒と朱。色彩が絡み合うドレスで着飾った小さな体だ。空色の髪の毛がその娘の顔の右半分を隠して、開かれた左半分からはジト目が覗いた。桃色の薄い唇が歪んで、酷薄そうな無表情が、不器用な笑みに移り変わる。
 鼻の奥がツンとして息が詰まった。魂が頭蓋骨という牢獄を破って外に逃げ出しそうになり、足元がぐんにゃりとして、耐えきれず壁に寄りかかった。
 少女性。たったひとつの言葉がボクの鳩尾からこぼれ落ちていった。空想でしかなかった領域が出来した今となっては、その言葉に居場所なんてなかった。
 幻想に染められた現実がボクを埋める瞬間。
「私はクラウディア、です。あなたのことは、なんとお呼びすればいいかしら……」
 透き通った声。透き通った発音。まるで水晶のようだ。胸の奥がぐらぐらと沸騰する。
 その透明度に気持ちを委ねてしまったせいで、かけられた言葉を理解するまでに数秒が要された。ボクは舌が回らず「■と、■と呼んでください」と不明瞭な発音で漏らした。
「■、くん……」
 ためらいがちに、疑問符を唇に当てたつぶやきが、ボクの耳朶を打つ。
 ボクは、咽喉に栓でもされてしまったように声が出せなかった。
 壁伝いに、脱力した体を引きずって歩み寄っていく。
 クラウディアは不安そうな瞳で、こわごわと見ている。わずかな一挙一動だけで心は満たされる。訪れる夜伽の気配。でもボクはそんなもの、求めてはいない。バッグを床に落として、少女のもとにひざまずいた。
 困ったように笑うクラウディアが、横目でちらりと部屋の隅を見た。ボクがこめかみを揉んでいると椅子が滑ってくる。ほの暗い床でなにかが蠢いていた。椅子の背もたれを掴んで立ち上がると、なんとか腰を落ち着かせた。
「どうすればいいのかわからないんです。こういう場所で、こういうときに」
 ボクはこの言葉選びが適切なのかを判断する力はなく、ぼそぼそと続けた。
「うん……」
「その、こういう場所なんだからすることはそう多くないとは思うんだけど」
「うん。なんというか、そうですよね」
「だからって顔を合わせて何分間かで性的な感情になるはずもなく」
「気持ちはなんとなく分かります」
「ああ、そういうものですか……というかボクはその、粛々と性的な遊びができる性格でもなくてですね。だからむしろ話がしたいというか、それも違うな。もちろんダメな親爺みたいに説教したいわけでもないのです。あ、こういうの鬱陶しくないでしょうか」
「ううん、そんなことないです」
 本当にそうなのかしらん。ウィンストン・チャーチルがごとき弁論技能など持たないボクは不安だけが背中に乗っていた。否、否だよオレ。近年稀に見るトーク力ではないか。女の子を相手取って良く喋るものさ。本当かいジョニー。本当だとも。オレが嘘を吐いたことなどあったかい。そこに関しては肯定しかねるが心強い言葉はありがたい。背中で子泣きじじいのように重みを増すばかりの不安を、リトルジョニーが払いのけてくれた。
 ボクはうなだれた状態から見上げた。自然に笑んだつもりだったけど、我ながら卑屈さを自覚した。向き合ったボクたちは緩やかな会話を続けた。ボクがリュックからお菓子を取り出すと、クラウディアは「お飲み物を用意しますね」と言い、目を細めると音もなく滑る車椅子の背後で細く長い影がじたばたしてマグカップが持ち出された。
 紅茶が注がれていた。香りからして、先のロビーで頂いたものと違う茶葉らしい。いい香りが鼻に抜けた。ゆっくりと口に含んで、時々マカロンをはむ。
 背中から出ていたのは、蛇の腹を思わせる質感のポリマー外皮で覆われた、複数の触手だった。そいつの先端がカップを握り、口元に運んでいた。
 マカロンに目がいっているのに気付いて口元にもっていくと頬を赤くして、少し戸惑いを浮かべたのちに小さな口で半分ほどを噛み切った。美味しい、という言葉を聞けてなんとなく嬉しかった。安物だけど、誰かと食べると違う感慨がある。どことなくステキだ。薄暗い中で交わされる小さな音は娼館は思えないささやかさ。求めていたものの半分は満たされていた。
 こうぼんやりしても焦ることはない。時間だけは充分。夕暮れから翌日の朝まで。
 本来の望みに身を委ねるのは難しくなかった。
 クラウディアの前にひざまずいて、柔らかなお腹に額を預けるだけである。心が通じそうな距離だけど決して芯にあるものが触れ合わない絶対的なリーチだった。例外はあれど、こうした関係性が長続きすることはない。すがる一方で自閉的な彼我の距離は言葉を交わす距離の数倍に当たり、映画の銀幕を隔てた、指先すら触れられないどうしようもなさへと邁進するだけだった。当たり前である。自分の気持を満たすだけなのだから。
 とはいえ、それが必要とされるときもある。ハリボテじみた温かい誰かとの繋がりを求めて、足りない心のピースにはめるときだ。
 そして今がそのときである。
 無様な姿勢ながら安らかさたるや天女に抱かれたような風情すらあり、底が見えないどろりとした倦怠の香りが尾を引く。ドブ濁りしていた心にろ過剤を入れられた気分。
「その、しばらくこうしていさせてほしいのだけど」
「■くんがしたいようにしてください。わたしには、それしかできないから」
 一語一語を区切って、意味を確かめながらしゃべるようなたどたどしい口調。ボクの望みを理解しきれなく、その不可知の暗渠にあるなにかを恐れているような。
「ごめんね、こんなんじゃまるでクルクル◯ーみたいだ」
「そんなことないよ」
「そう言ってもらえると安心します」
 どうしてか、胸がぐっと苦しくなった。
 ボクは温かく細い腹に額を預け、呼吸で上下する柔らかな感触に心を浸す。
 ボクはクラウディアの微熱を感じながら、ごそりと頷いた。
 でも、本当にクルクル◯ーみたいだった。初めて出逢った女の子――少し親しげな関係を形づくれたとはいえ不埒千万。破廉恥な下心はないと思ってはいるけど、誤解されていないだろうか。胸にいだいていた考えは溶ける。眠気がコーヒーのように頭蓋骨へ充填され、脳みそは角砂糖と大差ない強度に成り果てる。今やぼろぼろでかけらもない。
 あなたのお気に召すよう。受け付けで言われたことばを反芻すると、どうでもよくなる。そうだ。こうするために、この子は心構えをしてくれていたんじゃないか。
 自分の頭にご都合主義を注ぐ。ご都合結構、ダメ人間結構。
 他人のにおい、少女のにおいが肺で渦を巻いて、この瞬間だけでもひとりでないという実感を得られるだけで幸福に満たされた。誰か。ともにいてくれる誰かを得る束の間。それが欲しかったのだ。手を伸ばす。ふはふはとして羽毛のようなドレスを、力を注がぬようゆっくり抱きしめると、骨張っているのに、柔らかな手触りが腕にあたった。体温が伝わる。吐息がボクのうなじを撫でて背に下り、見上げると優しげな瞳が届いた。
 休息の気配。独りじゃないという安心。かすかな望み。
 真っ白な影がボクを撫で、同じ色をした闇に溶かしていく。
「もしもボクがおままごとの人形みたいな、不躾な役割を君に望んでたとしても、君は許してくれるだろうか」
「なんということもありませんわ。お人形を優しく扱ってくれるのが、わかるもの」
 やさしい言葉だ。
「おやすみなさい。■くん」
 ボクはおやすみと返せたのだろうか。微睡みが深まるにつれてあやふやになるなかで、それを判ずるのは難しかった。神経のひとつひとつを吸い上げるような膚触りが頚椎を登って、毛羽立った先端から誰かの五官が流し込まれていく。
 眠りのなか、自意識という瞼すら落ちていった。泥へと沈んでいくかのようだ。
 とぷとぷと水をたたえたような不思議な眠りのなか、久しぶりに夢をみた。
 藍色に白と黄色の中間にある曖昧な陽がにじみ、鉄塔に通った高圧線が区切った空。夜明けの坂道を下り、レゴブロックの小さな破片を突き刺したみたいなベッドタウンの隙間をすーっと降りていく。妙な郷愁を覚える、傾斜した世界だった。
 街の遠くを見通そうとしても、湿気をのんだ分厚い空気の層によって霞んでいて、うっすらとした輪郭が目に入るだけだ。夜の厚みがここにはあった。
 街に人はおらず、自分の居場所もない。それが感じられる音のない景色。
 低い山の稜線に、団地の四角い頭に、電柱の柱上変圧器に、誰もいない歩道橋に、ゆっくりと雲の隙間から上る陽の光が拡散していった。ボクは歩道と車道を区切る段差に腰を下ろした。バス停の看板に手をついたそのとき、声が聞こえた。
「これが■くんの原風景……」
 夢独特の何気なさ――唐突でありながら、さも最初からそうだったかのように。か細く長い手足を有することも当たり前のように、不思議ではなかった。
「そうかもしれないです。でもどうなんだろう、あんまりいい感じはしない」
「そう、なの」
「人がいない景色ってあんまり好きじゃなくて。自分以外、もう誰もが死滅してしまったんじゃないかとか思えてくるんです」
「誰もいないところで、たったひとり」
「寂しいじゃないですか。なんとなくだけれど」
「ちょっぴり不安になりますね」
「声が返ってこなかったりするのを想像するだけで怖くなるっていうか」
「それならこんな夢はもうお終いにしましょう。寂しい景色なんて消してしまいましょう」
 どういう意味、と尋ねるよりも早く世界がくすんでいった。空がどこかの一点を芯に吸われているように、ゆっくりと伸びて、見る見るうちに鉄塔までも頂上をぐにゃりと形を変え、現実的なテクスチャを失っていった。
 アスファルト舗装も消失して、だだっ広い暗幕が落とし込まれることにより、レム睡眠とノンレム睡眠がくんづほぐれつの邂逅を遂げていた。まるで大いなるポンプで世界をまるごと吸い出しているような、誇大妄想狂の幻覚みたいな気配があった。どう呼べば正しいか困る。一面の黒なのやら、黒なるクオリアすら失われた世界なのやら。
 なにもかもを剥がされた場所で、ただ座っているという、自分がそうあるとの規定がふわふわした危うさ。地もなく空もない。線引きが失せていた。かつて天だったはずの方向へ見上げると、全貌が目に見える範囲に収まりきらないほどの、巨大なバクが見えた。紫色の福々しい体つきはどこかヌイグルミらしく、眼は赤いボタンだ。鼻の先をふにゃりふにゃりとさせながら、細くよりあわされた世界の色を口に収めていく。
「でかいなぁ」
 口をぽかんと開けてひとりごちると手の甲にふわりと温かさが重なった。
「あれがなにもかも食べてくれるんです」
「マレーバクは不思議ですね。白と黒の分かれ方がどうにも。いや、あれっていうのはもしかすると黒じゃなくて紫なのかもしれないけど」
 ボクは漠然と呟いた。クラウディアの指先が手の甲をさすり、語尾が上擦った。
「それにしてもよく食べるな」
「ひとたび食べるとしばらくはお腹いっぱいのままでいてくれるのです」
「立ち会うと距離感も大小規模もよくわからなくなりますね」
「本当にね」
 強い眠気を覚えて額を抑えると、小さく漏れるうめき声が歯の隙間からこぼれおちた。やがてクラウディアがかすみ、見つめた手も薄れてがくりと崩れ落ちた。

 はたと目が覚めたときには天窓から陽がさしていた。
 ボクはがらんとして寒気がするほど空虚なベッドで大の字になっており、傍らには幼い体に特有の高い体温の欠片と、甘酸っぱい汗の残り香が鼻に通った。取り残された男につきものの無音があった。だがそれは、夢に浸る一寸前が虚無だという、自分に虚無を振りかけて自虐的なナルシシズムに酔いたい馬鹿野郎の妄想であった。バスルームへ足を運ぶと滴がバスタブを打つ音と鼻歌が聞こえ、ボクとジョニーが色めきだった。
 おいオレ、オレよ。これは是非とも是非ともじゃないか。
 言っている意味を理解できないな。ちょっと紅茶でも飲んで落ち着こうじゃないか。
 何をカマトトぶってるんだ馬鹿者め。そんなだからドブに足を踏み入れるんだ。
 失敬だなきみは。よくよく失敬だよ。ぶらさがってるだけの付随物のくせに。
 言いたい放題言いやがって。
 こっちの台詞だ。そもそも頭の中身が軽くなっただけで僥倖であろうよ。
 ご都合主義め、どういう手法で抜き取られたのかもわかってないくせに。
 分かってなくてもすっきりはすっきりであろうて。そこで風呂など覗こうものなら煩悩がまたしても突っこまれてしまうだろう。気持ちはわかるがな。
 わかるならよ、な……。
 な、じゃない。駄目は駄目だ。お黙りなさい。
 頭脳対局所という非常にミニマムかつ荒れ果てた領域で竜虎相搏つボクとジョニーの睨み合いをしているうちに、バスルームの扉は開いた。しっとりした体にバスタオル一枚。頬を紅潮させたたクラウディアから、「おはようございます」という上品に澄んだ声が飛んできた。ボクは小さく頷く。ベッドに腰掛け手を組んで眼を閉じるふりをして薄めを開けた我が横顔は、さながら瞑想に耽る僧侶のような堅さに満ちていたはずだ。もしも内心を見透かされていたなら血涙を流し咽ぶほど怖いことに違いない。
 しっとりと濡れた青空のような髪を乾かし、うっすらと朱に染まる体にドレスをまとわせる。照れ気味の幼い体を扱うのは紳士的愉快さがある。不埒さなど一つ欠片とてない至福を過ごして刻は終わりを告げた。見送ってくれるというクラウディアに感謝の意を示し、か弱い肩を抱いた。「よかったら、またきてください、眠れないときには」と頬を赤めていたのが微笑ましく、ボクは力強く何度もかぶりを振った。
 マリネラを出ると空を見上げた。もちろんマレーバクの幻影が見えることはない。ボクは家路をゆったりと歩き続けた。

 帰り道、ビートルに跳ねられてマリネラがちと遠のいたのは誰にも語ることのない話である。後に諸処の問題を起こし騒乱を起こしクラウディアを連れ帰ることになるのも右に同じく、メロドラマじみた話ほど面白みを欠いた物はないはずだ。でれでれとした心情を語るに落ちるのは明白であり、安易に愚昧な発言をする人間だと思われるのは心外であるから、ボクは黙るほかない。
 とまれ、善良な夢魔というのは思いのほか愛らしいものである。ボクは救急車で運ばれるあいだにも、鮮明な頭の中でそんなことを考え続けていた。


 ブログに載せたのを再掲するにあたってかなり加筆(さらに脱字脱文が多かったので2011・10・22に大修正)。
 ■には潤というワードが入るのだけど、なんかそれだと自分で読んでて微妙な気分になるし、いっそ夢小説みたいにしようかと思った。けど断念。そういう機能をどうこうするのがめんどそうなので断念。しゃーない。あと小ネタは道満晴明先生の単行本「最後の性本能と水爆戦」に収録されている短編漫画「マリネラ」のものをいくつか拝借参考にしたと、ここに明記いたす。たぶんコレ読んでちょっとでも面白いと思った人はあっちをすごい面白く感じる。本当にいい本でありんす(宣伝)。
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