駄目人間と祟り神短編。
Blues Drive Monster
「右も左も世知辛いもんだ」
 屋根に座った女は尊大ぶって言い、ぼくが出した紅茶を啜る。鼻息に合わせてマグカップから湯気が逃げ、ふわりと秋の夜長に溶けていった。息を吹きかける元気なさげな調子ときたら、伝説的存在を自称するには頼りないものだった。窓枠に寄りかかって、色の白い瓜実顔を斜め下から見る限りでは、ただの疲れたお姉さんとしか表現のしようがない。
「またはじまったよ。いい加減にしてくださいって、気が滅入るから」
 なんの話だったっけ。曇った頭からは、文脈が途切れていた。
「でも滅入らせるのも吾の業であるぞ」
「昔の話なんでしょ」
「ふむぅ、否定はしかねる。最初にそう言ったの吾じゃしのう」
 と、女はしょんぼりとする。白い山高帽がズレて目許を隠した。
「まあいいっすわ。わりと慣れてきてはいるから」
「文句を言いながら耳を傾けおるのが蜷江(になえ)の善いところだ」
 山高帽の位置を直しながら、女はわずかに屈み、目を細めて「ぽぽぽっ」と奇矯な笑い声をあげた。猫背が少し窮屈そうだ。八尺ある身の丈をふにゃりとさげているのだから当然といえば当然か。この圧迫感ときたら相当のもんであり、伝説級だったんだなと実感する数少ない時間だった。
 なにせ八尺、巨大感には圧倒される。八尺。メートル法に直せば二メートルと四十二センチじゃないか。インチ法にすると九十五インチ。いやこの数字の半端さからしてむしろよくわからないか。
 肌寒い季節なんだからできれば部屋に入れてやりたいが、図体のせいでそれもできない。うちの低天井では蛍光灯に頭が引っかかってしまうのだ。ちょっとしたトーテムポールを持ちこむようなものだから仕方ない。ちなみにトーテムポールという喩えをするとこの女はえらく傷ついた面持ちをするのであまり口には出せない。しかし立派に突き出たお乳と、お乳を支えるとは思えない狭めの肩幅のバランスは悪く、時折ほんとうにそう見えるから困る。
 ぼくがぼんやりしていると、女はマグカップの底をじっと覗きこんだ。サッシに腰掛けて見てみると、浅い水底に、綺麗な月がぽっかりと浮かんでいた。満月に至った鈍色の円鏡を、女は一気に飲み干す。ひょろ長い腕を口元に運んでいく姿はかまきりのようだが、いかにものそのそとしたしぐさに捕食者としての誇りなんぞは微塵もない。空いたカップに、ぼくはすかさずティーパックを投入してまだ熱い薬缶から湯を注いだ。体がだるくて言うことを聞かないから、ひとつひとつの動きを丁寧にやる。
 湯がこぽこぽいう音に、女が小さく頷く。
「うむ、善き計らい。それにしても、今日はお星様が綺麗だな」
「ですなぁ。虫取り網もってきてブンブカ振り回せば星が入れ食いですよ」
「そんなことをしたらお空が暗くなってしまうではないか」
「いいじゃないすか。そのほうが悪いことしやすいでしょ。あー、でも月があるか。いや、月が翳った日に星をすくいとればどうとでも」
「お主、無茶苦茶を言うのう」
「人をとり殺してたあんたに言われたかないわ」
「そんなん遠い昔の話だもん」
 女は口調を崩して言い、紅茶をまた一口飲んだ。
 ぼくは右肩をすくめる。窓から見下ろす電灯の渇いた街灯の光はいかにも退屈を知る色彩で、ぼくの心情を切り取って電球と交換したみたいだ。電柱に照る広告データのまばらさにも通ずるものがある。この時間帯はぼくが吸うべき空気をくれた――かと思えば想像の中で切除した心の欠片をどこにおいたか思い出せなくなり、思考をどこ定めればいいかわからなくなる。虚ろな眠気が迫ってきた。寒さが身に堪えた。
「しかし、こうしているだけでも案外、楽しいものだな。昔はよく若造どもを追いかけたものだが、こうして迎えてもらうことはなかったから」
 と、寂しそうな顔に微笑みがさす。乙女ぶってるな、なんて思いながら胸に抱えたギターをさすり、弦に指をかけてみる。


 この女、元伝説級のどん底的に神憑り的な祟り神――これは女のことばを丸々引用したものでありぼくの言ではないっつうかぼくはこんな恥ずかしい言い回しをしない――八尺様が初めていらっしゃったのは、この家賃がクソ安い一軒家を借りてから三ヶ月。いまから遡って三週間ほど前のこと。
 カーテンを締め切り豆電球まで消して、パールジャムの曲に身を委ねながらエアギターに浸ったあの夜だ。まっ暗な部屋の壁に反映させた、ネットから落とした過激なイコライザー反映レイヤーデータ。ヘッドホンには耳を聾する大音響。音色が終端に達した瞬間、ふと街灯の光を遮って窓の外を何かが通る気配があった。それはもう狂い咲きとばかりに暴れてたぼくでも気付けるくらいの奇妙さの気配に肌が粟立った。けどちょうど激しいリフと鼻歌で高揚が最高潮に達したところだった、一曲を奏で終えた頭は沸騰しきっていた。
 もうなにも怖くない。そういう状態。
 蛮勇とはまさにあれだ。恐らくカート・コバーンの亡霊が頭蓋骨を爆裂させた状態で現れても、泣きついてサインを求めるくらいの元気があった。
 なにかなにかと熱狂に踊るまま、意味もなく、いま思えば魅了に誘われたのかもしれないが、とにかくカーテンの光透過効率をさげた。よく見えないからためらいなく窓を開けた。
 そこにいたのが、白ずくめのデカ女だった。
 うちの塀の上を歩いてた約二メートル四十センチのデカ女と目があった。「ぽ」という音だけで再現したパールジャムのライフウェイステッドを器用に口ずさむ、白いワンピースを着たデカ女。調子はずれの音と目の前の超常現象に、ぼくは鼻水を吹いた。
 ぼくの「何者だテメェ」ということばから始まる暴言。
 昔、試しに作った暴力的容貌極まる釘バットを掴む。
 近所の犬が吠え立てるやたらとうっせぇ連鎖反応。
 塀から転げ落ちかけた、自称神様の必死な説得。
 深夜の丁々発止に頭が沸騰して、もう見当識が狂いに狂って頭がグルグルした。だからかな、軸というものを感じさせない妖しげな挙動、無風に靡くワンピースの風合いに目を奪われた。心を一度落ち着けようと思ったら、うっかり説得を聞き入れ、あの女を招き入れてしまった。
 距離が縮まるまでの一瞬に気を取り直し、試しに撲殺のモーションをとろうかとも思った――のだが、もしこの女が、ただタッパがあるだけの奇人であったりした日には、それこそ御ロープ頂戴は確実じゃないか。全然気を取り直せてない。しかも凶器はご丁寧にも釘バット。単にバットではなく一工夫で殺傷力を高めてある。こんなもんおまわりさんに計画的殺意を疑われるどころの話じゃない。
 釘バットにしても、以前憂鬱をこじらせた際にこしらえたもので、釘の尻をこんこんと打つ際にはたっぷりの怨念と丹精をこめたから、霊的なアレを相手どってなお、痛恨の一撃を振るえる霊験のあらたかさを宿しているかもしれない。仮にお祓ってしまったら人間であるか超常現象であるかの違いすらもわからない。意味不明の問答を頭蓋骨という迷宮のなかで悶々とこねてると眼の奥がちかちかし、立ちくらみに負けて膝をついてしまった。
 ひと暴れするにしても、他人様に祟り神に憑かれた告白してみるにしても、同じくらい後戻りがきかない。どうあがいても絶望。やれやれ、とぼくは諦めた。
「まあ、そこらに座ったらどうすか」
 なんて。
 幸いにしてこの借家はのび太くんの家に似て二階の窓のすぐ前が屋根になっているから、腰掛けて話す場所には困らなかった。屋根にのっぽな女がちょこんと座る光景は異様であり、滔々と自らが神だと説くとよりその様相が強まった。
 八尺様、と自らを様付けして自己紹介した。
 細かい話を聞けば、なんでもノリの良い音楽と、心に隙間がガラ空きな男の気配に誘われてきてみたら我が家の前だったそうだ。そしてぼくは適当にうろついてた奴が適当に放った、神特有の「魅了」に惹かれてカーテンを開けた大莫迦だった。
 祟り神とは洒落にならぬと釘バットのグリップを掴むが、すぐさまその心配はないとわかった。祟り殺す力なんぞ、もう持っちゃいないとぼやいたんだから。
 それでも女はすこし自慢げに口を開いた。
「でもでも待て待て、魅了は昔から大の得意なのだぞ。それだけはまぐれじゃないもん。お主をフィッシングしたんは意図的だもん」
「まあ、窓開けたんは事実だからそれは否定しませんが」
 ぼくはちょっと馬鹿にするように笑う。
 自称祟り神は咳払いし、尊大さを装いなおして、
「吾はこう見えても、しれっと人を騙くらかすのも得意なん――得意だったのだ。声真似とか凄かったのだぞ」
 と、ほうじ茶ラテを舐める。
「さりげなく過去形に言い換えたな」
「細かいことは気にしなさるな。それにだね、男の子を家から出られなくし、一度現れたならば泣く子の心臓は止まり、ご老体の互助会を騒がせ、霊能者を呼ぶわ高僧を呼ぶわの大わらわだったのだ。多角的大ダメージを世間様に撒き散らしていたぞ。すごいと思わんか。まあ昨今は綻びも出て、モノの見事にこのザマだけれども」
「そのザマですか」
「このザマだ。左も右も世知辛い」
「細かいこと聞いてると、よほど昔のことっぽい感じが。あ、じゃおたくさん、相当なババアってこと……」
「歳もなにもあるものか、バカモノ。吾は永遠のテヰンエヰジアだ」
 ティーンエイジャーとでも言ったつもりだろうが、残念ながら呂律が回ってない。
 とまあ、こんな調子で話していたら一日が二日になり、一週間、二週間と日が伸びてすっかり窓辺にいついてしまった。女は日付が変わる頃に現れて、夜明け前に帰っていく。口で迷惑だ云々と告げてもなんだかんだでじゃれついて居座り、毎夜毎夜、四方山話をしていく。近所にうまそうなラーメン屋ができてた、パンツ泥棒を見かけたので驚かしてやった、高校生を追いかけてみたけど全く気づかれなかった、ここらへんも昔はもっと田んぼがいっぱいあった、などなど。
 といってもそういう話になる前――最初の一週間だけは、四方山話は遠い過去の話に及び、かなりグチグチしていた。
 やれ「なんだか地力というやつだろうかのう、そういうものが薄れてしまって」とか、「せっかくこの地に住み着いたのに、あとからお寺生まれの丁さんなる輩が結界を仕掛けなすった」とか、「それを破れないのも大きな建物をぽんぽん作って地脈を絶つからだ、あれはいかん」とか、愚痴っぽく言い訳を積み重ねた。あんがい俗っぽい神様だ。
「こんなに人間みたいになっちゃってもう」
 と女は悔しげに言う。
「タッパがあるから、そこだけ見れば異物感濃厚っすけどね。つうか恥ずかしげに言うことなんすか」
「それはもう。零落というのはつらい。ほら字からして」
「ああー、零れて落ちるってアレっすからね」
「じゃろう。おかげで人様の頭の垣根を乗り越えて、お脳を覗くこともままならん。ここにこれたのも蜷江が怪電波を出していたからだぞ」
 さらっと人を電波呼ばわりしやがって。そう突っこんでやろうと思ったけど、淋しげな目は夜景に視線を這わせていた。なにも言えるはずがない。
 女は遠くの駅向こうにそびえ立つ黒壁を見つめていた 昔あった大きな河を断ち切り、ぼくが引っ越してくる前からこの街の景色に割りこんでいた超構造体。凄まじい量のインフラデータやらを集積した、国有のなにか。地元の人間すら得体を知らないデカブツ。人間味のある景色をぶち抜き、炊飯器みたいなシルエットで横たわるそれは、横幅数キロ単位で徹底的に土地を占有していた。目の前の女より、鉄塔より、ビルより、ずっとずっと巨大な影。航空警告灯の赤い輝きが異様なくらいの高度でぴかぴかしてる。
 地脈が絶たれた。もっともらしい話だ。数十年前まではど田舎だったこの街が、あの超炊飯器が来たことで元来の姿形をほとんど失っているのはほんとうのことだ。グーグル先生のウェブサービスで旧地形マッピングを呼び出してみればよくわかる。土地の起伏は大きく変わり果て、デカブツにしたってランドマークとするには原風景を荒立てすぎる。
 しかも路傍を見れば、照明の色とデータインフラが供給する、鮮やかな膜が夜の色を遮っていた。データの群れにしたって超炊飯器から来たもんだろう。あいつは、見えない部分から見える部分まで科学の力で補填していた。一流の地方都市として。
 じっと見ていると、おびただしい水蒸気が、シルエットの上部から吐き出された。空に向ってごうごうと向かってくわざとらしい分厚さのそれは、ほうじ茶ラテなんて俗っぽい甘味を舐めるこの女より、よほどオカルトっぽい。
 妖しげなものの居場所は奪われ、居心地が悪いところに閉じこめられていた。
 寂しそうな顔をして当然だ――と思うと同時に、ぼくが付け入られるのも当然だなぁ、との考えも浮かんできた。リスカ痕を見たあの女が「……お主、痛くないのか」と、なんとなしを気取りつつ直截に訊いてきたからだ。
 そっかそっか思えば隙だらけだ。医者に処方された薬を咀嚼して舌をびりびり痺れさせながらぼくは納得した。生っぽい瘡蓋が這った手首をさすり、首を左右に振って否定する。
「うんにゃ、そんなでもないです。慣れですわ」
「そうか」
「やだな、変な顔せんでくださいよ悪者のくせに。昔からなんですよ、これ」
 ただ心と体のバイオリズムがブッ壊れてるだけの話だ。それに、あんたさんが来てからは一回もやってない。そう言おうと思い顔を向けたけど、口をへの字に曲げた女はぼくのことなんて意中になく、無口に夜空を見ていた。


 ぼくの心が折れたのは遥か八年前、中学卒業以前のことであり、当時の気持ちも事細かには思い出せない。ただその影響として洞察力はいつも不足してる。耐久力もいまいちだ。しまいには誰の真似もしたくないと気取ってみたり、憂鬱をこじらせてみたりと我がことながらせわしがない。そんなんだから満員電車や早寝早起きにも不適応のまま、しょーもない生活をしている。あの女と出会った日だって、バイトを馘首になって墜落の一途だった。それで悪い癖が発動してスパっとやり、誤魔化すようにエアギターで身を躍らせ、祟り神に釣られた。
 心のエンジンがブッ壊れてるんだから挙動だっておかしい。
 思春期からこっち、まともに舵を切れたことなんぞないんだ。
 舵を切り損なって曲がる一方なんだから、普通は惹かれないものにだって惹かれる。
 魅入られてか、同情してか、それともわりとフツーに琴線に触れられてか。ぼくはいつの間にやら、落ちこぼれた祟り神に惚れてしまっていた。だいたい淋しげな顔という要素一つとっても弱いのだ。見ているだけでそばに寄り添いたくなる。何者かに寄り添われるべきは自分であり、誰を支える余力などないというのに、不相応な心持ちになるんだからもう。
 ぼくはいつだって分不相応だった。丈に合わない考え方と願望。そういうのを変にこじらせて、ひと昔前に苦々しい失恋をしたじゃないか。愚かなことを繰り返すのもまたぼくらしさだ。そんならしさはいらないけれど。
 ぼくは数日前、ぼんやりと訊いた。
「あんたさんが元の力を取り戻すにゃ、どうすればええもんなんすか」
 答えが返ってくるまではすこし間があった。
 曰く、人一人にでも憑いて上手く落とせば念力なり悪意なりも少なからず取り戻せるかもしれない、とのことだったが、なんでも悪さをするうまい手管と勘をすっかり忘れてしまったそうだ。難儀だ。神様って人間レベルの適当さなんだなぁ、なんてバチ当たりにもほどがあることを思った。まあ祟り神相手にバチもクソもないんだけど。


 ぼくが三週間分の記憶をたどってぼんやりしていると、女はちらりと見下ろしてきた。
「顔色が悪いのう。大丈夫か」
「まあ、なんだ、もうすぐ死にますからね」
 用意していた文章を口に出すと、もう白々しいったらなかった。薬を一気飲みしたときにはシンプルでいいと思ったのだが、こりゃだめだ。もしかしたら死という単語自体が陳腐なのかもしれない。だって祟り神相手じゃん。
「気づかなかったすか……」
「勘所が鈍っておるからの。ここで茶を喫するのも、今日が最後となるか」
「いやほら、すまし顔をしてないでこの隙をがっつり突いて憑いてくださいよ。弱ってるし余裕っすよ、たぶん」
 ぼくはウェヒヒと笑って女を見上げる。
 女は阿呆を眺める顔をしていた。返すことばもなく、ギターを抱え直して弦を跳ねる。ペケランとだらしなく鳴った。もう一年以上弾いてないんだよな。脱力して手もうまく動かないから、曲を弾くための指運びもできやしない。
「なんでいきなりそんなことを。ちょっと前までは迷惑がっておったでは」
 ぼくが唸って遮ると、女は露骨に不機嫌な顔をして口をとがらせた。
「なんつうんでしょうね。魔が差したってやつ……。なにより魔が目と鼻の先でお茶してるし」
「笑い話にもならんぞ」
「ウェヒヒ、すみゃあせん。あとはその」
 そこまで言いかけて口を噤んだ。死んでも悲しむ人間などおりゃせんので、の一言は腹に留めよう。いっそ悽絶なくらい格好悪い。せめて、私が死んでも代わりはいるもの、とでも言えればまた別だろうが、そんな大昔のアニメみたいな気の利いた台詞を言う余地はない。それに、ガキの頃はおばあちゃん子だった――存命中のばあちゃんはいくらか悲しむだろう。しかし恋路は悲哀より優先しなきゃならない。命も惜しむまい。
 果たせるかなこの恋路が魅了によって騙くらかされてただけだとしても、それもまた一興だ。邪魔をするなら寺生まれの丁さんだろうと超炊飯器だろうと馬に蹴飛ばされて成層圏のそのまた向こうまで飛ばされてしまえばいいのだ。
「ねえ、ぼくの頭んなか読めます……」
「気合を入れればどうにかな。お主の頭はユルユルガバガバじゃ」
「なんか卑猥だな。まあいいや、じゃあ、そういうことで」
 と、ぼくは好き好き大好き愛してるって言わなきゃ云々と思案する。力むと意識がうんにゃりと歪んでくから気分が悪い。
「恋だのなんだのというのの要点をこっちに放り投げてくるとは何事だキサマッ」
 目を見開き、プンスカピンと軽い怒声が飛んできた。そうは言ってもしかたない。
「だってもうことばを探すのも辛くて。じゃああれ、夏目漱石からの引用になっちゃうけども、月が綺麗ですねみたいな。二葉亭四迷的にいうと死んでもいい、みたいな」
 薬の影響がきっちりと出ていた。目の前が淡くなる。嘆息する声。重い瞼をこじ開けて見上げると、唇をとんがらせていた。
「蜷江は、吾のことをどれくらいに思っているのだ」
「ええと、コーンポタージュに浸したパンの耳とか、寝る前に茶を飲んでみたりとか、バイトをサボって寝る日とか、音質の悪いライブアルバムとか、そういうの好きなんですけど、それよりずっと好きです」
 抽象的なイメージはいろいろ浮かんだ。空気がふにゃりと抜けるようなため息と、くすくす笑い。髪の毛を分けて長い指が頭皮を撫ぜる。くしゃり撫でられて、胸が鳴る。
「しょぉぉぉぉぉもない。計算高いつもりか」
「むしろ計算低いというかなんというか。親元で暮らしてた頃は、よくしょーもない子だと言われたもんすから。いまさらだお利口さんなことはできやしません」
「行き当たりばったりもいいところじゃないかの」
「どうせいっつも薬で頭がぼんやりしてるんです。益々もって比類なきボケをかましたところで損はないと思ったんすよ」
「祟り相手にしょーもない無茶をする人間、そうおりゃせんぞ」
「いかにも阿呆でしょう」
「土台から阿呆だ」
 ぽぽぽぽぽ。ウェヒヒヒ。変な笑い声がハミングする。
 女――もうこうなった以上、敬意を払ってきちんと八尺様と呼ぶべきだな。八尺様はお茶を飲み切ると、窓辺にマグカップをおいた。丁寧な手つき。虚脱したぼくの腕から滑り落ちたギターが、畳敷きを打ちつけてペケランと嘆く。
 瞼が落ちる。浮遊感があって、ぼくは抱きかかえられたんだとわかった。
「こんな悪いことを考えているなんて想像してもみなんだ」
 諌める声だ。人間誰しもがまともだと思ったら大間違いですってば。
「ずいぶん高いところから物を言いおるわい。まったく、祟る力が一遍たりとも残っていなかったらどーするつもりだ。吾が大暴れをしてたのは昔のことなんだろうって、蜷江も茶化したではないか」
 それはそれでありこれはこれだ。信じる気持ちがあればどうとでもなりそうじゃないですか。ぼくは何も答えず、八尺様のことばを待った。
「でも、これならどこへでも行けそうな気もするな」
 どこまでも行きましょう。ほら、ピロウズの歌みたいな感じが良いな。使い魔みたいにして八尺様の肩に座ってさ、夜が明けるまで人を威して走るとか。ぼくときたらまともに社会に出られなかった人間だもんで、胸に浮かぶのは恨みを晴らすみたいな事物ばっかだ。妄言が膨れる。正気な世界をなぶって廻ろう。この世は安心安全だって共同幻想を蹴っ飛ばしてやろう。誰もが眉間にシワを寄せるような笑い声をあげよう。
 少しだけ怖い目に遭ってもらうぞ。耳の裏で、声ならぬ声が聞こえる。おっしゃるとおり、感覚のほつれゆく背筋に、ぞわりとして痛みにも似た怖気が立つ。どこか知らぬ場所へ連れて行かれる予感。未知への恐れ。
 この世からぼくが引き剥がされていくんだ。この腑が抜ける感じときたら。
 でも長続きはしない。恐れはやがて無となる。ぼくはウェヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒと最後の笑い声をあげた。
「ほいだら、ひと歩きするかのう」


 ワン、ツー、サン、シーとカウントを数える。
 もう遅い時間だけど、まあ一度くらいいいじゃないか。ぼくはギターをかき鳴らした。ペケランなんてだらしない音じゃない。アンプを通し、ストンプボックスも通し、ディストーションを効かせた音だ。大まじめに指をかけるには久々すぎる。致命的なブランクは埋めようがなくコード進行だって鈍いけれど、それでも弾きだせば滑らかに心が乗っかってくれた。
 結局のところ、あの日、ぼくは死ねなかった。死に損なった。
 命が剥離する感じが死を真実めかしていたくせに、昼頃には嘘みたいにはぱっちり目が醒めてしまった。薬物が勢いよく脳みそを揺さぶったわりに副作用もなく、姿見に映るぼくの面がいつもより血色悪いだけ。八尺様はあの日以来、うちに来ていない。
 ただあの夜、一緒に見た景色はよく覚えてる。町を練り歩き、夜道を跳梁跋扈し、家々の窓をこすって廻ったんだ。出歩いていた若い男を追いかけては恐怖を振りまいた。ぼくたちは幻の壁を突き破ったんだ。町では噂話が跳ねてる。それだけじゃない。丁さんとやらが残した結界の楔だとかいうお地蔵さんの首がもげて、物理的な証拠をきっちり見せつけていた。ぼくたちはたしかにあの夜、魔となって夜を駆け巡った。超炊飯器のてっぺんにのぼって、ずらりと微光がならんだこの町の夜景を見下ろして大いに笑った。
 大上段から見下ろして世界に声を突き立てた。
 でもそれだけ。八尺様はここから抜けだして、ぼくはおいてかれた。
 なのにフラれたという実感もそれほどない。目醒めたあと、ぼくは茫洋と晴れた空を見上げ、夜になると八尺様が使ったマグカップに茶をいれて静々と舐めた。それを何日か続けてから、なんとなくギターをとった。機材もセッティングしてみようと思ったら、気が乗った。ちゃんと弾いてみようかなと思ったのは実に二年ぶり。
 始終を覚えているコード――ブルース・ドライブ・モンスターを奏でる。憂鬱な世界を踏みつぶした夜を思い出しながら、弦に指を這わせていく。
 八尺様はいつか迎えに来てくれるんじゃないか。もっと大変なことをして帰ってくるんじゃないか。ぼくは漠然とそう思う。心に隙間を開いたまま待っていよう。ひどい憂鬱も襲ってくるが、あの祟り神を待つための大事な断片だ。
 再会はそう遠くない気がする。
 ぼくは夜の手触りを思い出しながら、音を重ねた。
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